第5話「劇的変化」
淡い若草色と柔らかな生成りの布地が、初夏の光を受けて穏やかに波打っていた。
かつて重苦しい遮光カーテンで閉ざされていた大サロンは、いまや息を吹き返したように澄んだ空気に満ちている。
天井近くの小窓から取り込まれた微風が、床に敷かれた短毛の絨毯の上を滑り抜けていく。
壁面には過度な装飾を排し、人の視線を落ち着かせるセージグリーンのタペストリー。
家具の配置はすべて、視界を遮らないよう低めの重心で統一され、広間全体がひとつの呼吸をしているかのような調和を見せていた。
陰鬱な幽霊屋敷と呼ばれていた面影は、もはやどこにも残っていない。
「エレナ様、本館東翼の廊下に敷く麻のマット、ご指示通りの寸法で仕上がってまいりました!」
「厨房からの配膳動線、以前の半分以下の歩数で行き来できるようになりました。料理が冷めずに運べると、料理長も涙を流して喜んでおります!」
図面を手に指示を出していた私のもとへ、侍女や従僕たちが次々と駆け寄ってくる。
数日前まで私に向けられていた疑念と警戒は完全に消え去り、その瞳には熱烈な敬意と崇拝の色が宿っていた。
光を遮るのではなく、風とともに受け流す。 動線を塞ぐ障害物を取り払い、人の自然な歩幅に合わせた通路を確保する。
色彩心理に基づき、神経を休める寒色系の淡色と、温もりを感じさせる生成りを基調とした空間構成。
私が前世で培った知識と技術は、使用人たちの長年の苦労を一気に解消し、屋敷の空気を根底から変えていた。
「――お、お見事としか……言いようがございません」
サロンの入り口で、納品に訪れていた王都筆頭の高級家具商が、床に膝をつかんばかりにして息を呑んでいた。
王宮をはじめ、名だたる大貴族の邸宅を渡り歩いてきた老舗商会の主である。
「名画や金箔の豪奢さで押し通す屋敷は数あれど、ここまで人の心と身体を安らぎへと導く設計は見たことがございません。光と風の巡り、調度品の完璧な配置……まさに宮殿すら凌駕する美と機能の極致でございます」
家具商は震える手で眼鏡を直すと、私に向かって深々と頭を下げた。
「あのヴァレンタイン侯爵令息が、エレナ様のこの卓越した才覚を『出しゃばり』などと呼んでいたとは……。なんと節穴なお方か。このお屋敷の奇跡、商工会の者たちにも語り聞かせねばなりませんな」
職人として正当に評価される言葉に、私の頬が自然と緩んだ。 誰かの虚栄心を満たすためではなく、そこに住まう者の命を養うための空間。
それを作り上げられた達成感が、胸の奥を満たしていく。
◇
その頃、ヴァレンタイン侯爵邸の二階廊下では、怒号と物が激しく割れる甲高い音が響き渡っていた。
「うわっ……! な、何だこれは!」
ドスン、と重い音を立ててジュリアンが床に倒れ込んだ。 彼の手から零れ落ちた家宝の陶磁器の花瓶が、大理石の床に激突して粉々に砕け散る。
「ジュリアン様、大丈夫ですかぁ? そんなところで転ぶなんて、ドジですわねぇ」
部屋から顔を出したマリアが、けらけらと笑った。
ジュリアンが足を取られた原因は、廊下の真ん中に脱ぎ捨てられていたマリアのフリル付きドレスと、散乱した靴の山だった。
クローゼットに収まりきらない衣服が廊下まで溢れ出し、人の歩くべき動線を完全に塞いでいたのだ。
「ドジだと……!? お前がこんなところに服を脱ぎ捨てるからだろうが! 片付けろとあれほど言ったはずだ!」
「ひどい! マリアを怒鳴るなんて! 片付けるのは使用人の仕事ですわ! マリアは男爵令嬢ですもの、下女のような真似ができるわけありません!」
マリアは泣き真似をしながら甲高い声で叫び返した。
かつてエレナが整然と管理していた収納の仕組みは完全に破壊され、使用人たちもどこに何を戻せばいいのか分からず職務を放棄しかけていた。
「粉々になったこの花瓶、王室から下賜された逸品なんだぞ……! どう弁償する気だ!」 「知るもんですか! ジュリアン様の甲斐性なし!」
散らかった廊下に互いの罵声が反響し、部屋の空気はさらに険悪な澱みへと沈んでいった。
◇
夕暮れ時、公爵邸の図書室。 私は脚立の上に立ち、書架の配置換えの仕上げを行っていた。
読書や執務に没頭できるよう、西日を遮りつつ手元に安定した間接光が届く角度へと本棚の位置を微調整する。 測量用の紐を張り、寸法のズレがないかを確認していく。
作業に没頭するあまり、自分が朝からほとんど休憩を取っていないことすら忘れていた。
「……エレナ」
ふいに、すぐ下から低く優しい声がかけられた。 驚いて見下ろすと、いつの間にかヴィンセント様が脚立の脇に立っていた。
上着を脱ぎ、白いシャツの袖を腕まくりした姿。公爵としての威厳の中にも、どこか寛いだ色気が漂っている。
「か、閣下。執務はよろしかったのですか?」 「ああ、君のおかげで驚くほど早く片付いた。頭がこれほど冴え渡るなど、何年ぶりか分からない」
ヴィンセント様はそう言って、私を見上げて穏やかに微笑んだ。 その氷灰色の瞳には、かつての冷徹さは微塵もない。
ただ甘く、温かな熱を帯びた光が、真っ直ぐに私へと注がれている。
――だめ、胸が変に騒ぐ。
普段の私は空間の計算にしか意識が向かないはずなのに、彼が至近距離に来るたびに、脈拍が乱れ、思考が鈍ってしまう。
他者との間に厳格な境界を引いてきた私にとって、この無防備な距離感はあまりにも刺激が強すぎた。
「そろそろ降りますね。寸法は取れましたので……」
動揺を隠すように脚立から降りようとした時、ヴィンセント様が「待ってくれ」と低く制した。
「閣下……?」 「埃がついている」
彼の手がすっと伸びてきた。 ヴィンセント様の親指が、私の右の頬にそっと触れる。 硬質な革手袋ではなく、温もりのある素肌の指先だった。
すっ、と親指の腹で、埃を優しく拭うように撫でられる。
「あ……」
肌と肌が触れ合った瞬間、ヴィンセント様が無意識に小さく息を詰めた。 彼の瞳が大きく見開かれ、指先がぴたりと止まる。
触れ合っている箇所から、焼けるような熱がじわりと伝わってきた。
ヴィンセント様は、自らの指先の熱さと、私の肌の柔らかさに驚いたように、喉をかすかに上下させた。
「……すまない、私は……」
彼が珍しく言葉を詰まらせ、耳朶を微かに朱に染めながら手を引っ込めた。
私の方もまた、頬の触れられた場所が火がついたように熱く、心臓が耳元で激しく鐘を鳴らしていた。
「い、いえ……ありがとうございます……」
気まずさを紛らわせるように、私は脚立から急いで降りようと足を踏み出した。
だが、その瞬間。 一日中立ちっぱなしで作業を続けていた足が、微かにふらついた。 視界がふっと揺れ、バランスを崩す。
「エレナ!」
短い叫びとともに、強い力で視界が反転した。 硬い床に打ち付けられる代わりに、私の身体を受け止めたのは、逞しく温かな腕の中だった。
気がつけば、私はヴィンセント様に軽々と抱き上げられていた。 いわゆる、お姫様抱っこの格好で。
「か、閣下!? お、降ろしてくださいませ!」 「駄目だ」
私の抗議を、ヴィンセント様は低く、だが有無を言わせぬ声音で却下した。 彼の腕はびくともせず、しっかりと私の身体を胸元へと抱き寄せている。
彼の心臓の鼓動が、薄い布越しにトクトクと私の背中に伝わってくる。
「君は夢中になると、自分の限界すら忘れてしまう。……これ以上の無理は許さない」
窘めるような響きの中にある、深い愛情と切実な庇護欲。
ヴィンセント様は私を抱き抱えたまま大股で歩き出し、図書室を出て、自室のプライベートサロンへと向かっていった。




