第4話「極上の安眠」
まだ夜明けの青さが残る回廊を、私は足音を忍ばせて歩いた。
昨晩あてがわれた客室で身支度を整えた私は、主寝室の様子を確かめるため、早朝の静寂の中を進んでいた。 本館の奥、昨夜整えた主寝室の扉の前に立つ。
扉の脇には、青い顔をした老家令のエドワードと侍女長が、まるで重大な罪の宣告を待つ罪人のように直立していた。
「……おはようございます、エドワード。閣下のお目覚めは?」 「あ、エレナ様……」
エドワードは喉を詰まらせ、困惑に満ちた小声で答えた。
「それが……まだお声が掛からないのです。閣下は毎朝、夜が明けるずっと前、五時には激しい頭痛と苛立ちの中で目を覚まされます。ベルが鳴らされないままこの刻限を迎えるなど、ここ数年一度たりともございませんでした」
「もしや、中で倒れておられるのでは……!」
青ざめる侍女長を制し、私は分厚い扉にそっと手を触れた。 内側から伝わってくるのは、荒々しい物音でも苦悶の声でもない。
ただ、驚くほど深奥で、穏やかな静寂だった。
「扉を開けます。静かに」
私が真鍮の取っ手を慎重に回し、数寸だけ扉を押し開けた。 三人で息を潜めて足を踏み入れる。
寝室内には、昨夜調整した二重カーテンの隙間から、計算通りの柔らかな黎明の光が床の一部にだけ落ちていた。
開口部からかすかに吹き込む清涼な朝気が、澱みのない室内の空気を緩やかに循環させている。肌に触れる温度は決して冷えすぎず、心地よい湿度を保っていた。
そして――天蓋付きの広いベッドの上。
ヴィンセント様は、シーツに深く身を沈め、規則正しい寝息を立てていた。
眉間にいつも刻まれていた深い縦皺は跡形もなく消え去り、睫毛が穏やかに頬へ影を落としている。
数年もの間、彼を苛み続けていた過敏な神経が、完全に休息の底へと沈んでいた。
「あ……」
侍女長が両手で口元を覆い、息を呑んだ。 エドワードの目にも、信じられないものを見るような驚愕の色が浮かんでいる。
私の胸に、じわりと温かな高揚感が広がっていった。
光の制御、空気の抜け道、視覚のノイズの遮断。物理と環境を正しく整えれば、人の身体は自然と回復へと向かう。私の信じてきた技術は、間違いではなかったのだ。
カーテンの揺れを確かめるため、私がベッドの脇へと歩み寄ったその時だった。
「ん……」
微かな衣擦れの音とともに、ヴィンセント様が身じろぎをした。 長い睫毛が震え、氷灰色の瞳がゆっくりと持ち上がる。
覚醒の直後特有の、深く濁った瞳光。普段の彼なら決して見せない、隙だらけの表情だった。
ぼんやりとした視線が、ベッド脇に立つ私を捉える。
「……エレナ、嬢……?」
低く掠れた声。 ヴィンセント様は寝台からゆっくりと腕を持ち上げると、躊躇うことなく手を伸ばした。
きゅっ、と。 私のドレスの袖口が、彼の細く長い指先によって強く握りしめられた。
「閣下……?」
驚いて見つめ返すが、彼は手を放そうとしない。 ぎゅっと、まるで失ってはならない大切なものを手繰り寄せるように、子供のような力配分で私の布地を掴み続けている。
その瞳は潤みを帯びたままで、夢と現の境界を彷徨っているようだった。
数秒間、時が止まったような沈黙が流れた。 やがて、部屋を満たす清らかな朝の光と、私の冷えた指先の気配に、ヴィンセント様の焦点がはっきりと結ばれた。
「――っ!」
カッと音を立てるように、彼の白い肌が一気に赤く染まった。
自らの行動を理解したヴィンセント様は、弾かれたように私の袖口から手を離し、掛け布団を引き上げて顔の半分を覆い隠した。
耳朶が、見事なまでに真っ赤に染まっている。
「……す、すまない。取り乱した」
布団の奥から漏れ出たのは、いつもの冷徹な響きとは程遠い、酷く狼狽した声音だった。
◇
その頃、ヴァレンタイン侯爵邸の主寝室は、息が詰まるほどの悪臭と熱気に包まれていた。
「うっ……頭が、割れるように痛い……」
ジュリアンは額を押さえ、脂汗を流しながらベッドから這い出た。
部屋中の窓は締め切られ、昨日から換気が行われていない空気は重く淀み、呼吸をするだけで胸が圧迫される。
さらに彼を苦しめていたのは、部屋中に充満するどぎつい匂いだった。
「マリア……! この匂いは何だ!」 「ふぇ? 何って、マリアのお気に入りの香水ですけどぉ……? 王都で流行りの、薔薇と麝香の香りですわ」
ベッドのシーツにくるまったマリアが、不満そうに唇を尖らせた。
化粧台の上には蓋の開いた香水瓶や油の染みた白粉の紙が散乱し、絨毯の上にはマリアが倒した化粧水が染みを作っている。
強い人工の香気と、滞留した部屋の湿気が混ざり合い、逃げ場のない毒素となって部屋を満たしていた。
「窓を……窓を開けろ……っ!」 「やですわ、ジュリアン様。風が入ったらお肌が乾燥してしまいますもの。それよりマリア、喉が渇きましたぁ」
甘えた声を出すマリアを怒鳴りつける気力すら湧かず、ジュリアンは強烈な吐き気に襲われ、口元を押さえて洗面所へと駆け込んだ。
かつてエレナが保っていた「無臭で澄んだ空気」が、どれほど貴重なものだったのか。
失って初めて突きつけられた現実に、ジュリアンは胃液を吐き戻しながら悶絶していた。
◇
朝食を終えた後、私は本館の小サロンへと招かれていた。 向かいのソファには、正装に着替えたヴィンセント様が座っている。
昨晩までの彼とは、明らかに違っていた。 目の下に張り付いていた青黒い隈は綺麗に引いており、青白かった肌には健康的な血色が戻っている。
張り詰めていた殺気のような気配は消え去り、静かで、凛とした威厳だけが彼を包んでいた。
「一度も、目覚めなかった」
ヴィンセント様が、手にした紅茶のカップを見つめながら呟いた。 その声音には、深い驚きと、信じ難い奇跡に直面したかのような困惑が混ざり合っていた。
「時計の針の音にも、外の風の擦れる音にも起こされず、泥のように眠った。……このような朝を迎えたのは、生まれて初めてだ」
彼はカップをソーサーに戻すと、氷灰色の瞳を真っ直ぐに私に向けた。 そこにあるのは、冷徹な統治者の目ではない。
自らの内側を暴かれた者が抱く、戸惑いと揺らぎだった。
「なぜ、貴女には分かるのですか」
低く、切実な問いが私に投げかけられる。
「この屋敷の者たちは、私のために最善を尽くしてきた。それでも私の苦痛を取り除くことはできなかったのだ。……貴女は私の身体に触れたわけでも、魔法を使ったわけでもない。ただ布を掛け替え、窓を開け、家具の位置を僅かにずらしただけだ。それだけで、なぜ私の過敏さを完璧に鎮めることができた?」
試すような響きはなかった。 彼は純粋に、私の真意と、その不可思議な技術の正体を求めていた。
私は背筋を正し、静かに視線を合わせた。
「魔法などではありません、閣下。空間の力です」 「空間の、力……」
「人は誰しも、無意識のうちに周囲の環境から莫大な情報を受け取っています。光の差し込む角度、空気の澱み、視界に入る物の配置、歩く際の動線……。閣下のように鋭敏な知覚をお持ちの方であれば、その些細な違和感は針のように神経を突き刺し続けるのです」
私は昨夜施した工夫を、言葉を尽くして説明した。 風を吸い込み吐き出す対角線の開口。 音を閉じ込めるのではなく、布の層で減衰させる吸音の構造。
入り口からの直視を避けるベッドの配置がもたらす、心理的な安心感。
「私はただ、閣下の鋭敏な感覚が『不要な情報』を処理しなくて済むよう、空間を整えただけに過ぎません。人が心身ともに健やかに生きるための場所を作ること――それが、私の仕事であり、誇りですから」
淀みなく語る私を、ヴィンセント様は息を呑んで見つめていた。
かつてジュリアンは、私のこの技術を「小賢しい出しゃばり」と嘲笑った。 だが、今目の前にいるこの人は違う。
私の言葉の一つひとつを、噛み締めるように受け止めている。
誰にも認められず、踏みにじられてきた私の情熱が、正当に理解されているのだという実感が、胸を熱く満たしていく。
「……素晴らしいな」
ヴィンセント様の唇から、感嘆の息が漏れた。 彼の表情から迷いが消え、代わりに宿ったのは、一点の曇りもない無防備な信頼だった。
スッと、彼が身を乗り出す。 テーブルを挟み、ヴィンセント様の大きな手が私の手の上に重ねられた。
昨晩のような躊躇いはそこにはない。温かく、力強い熱が、私の指先へと伝わってくる。
「エレナ嬢。貴女の才は、神の奇跡よりも尊い」
その氷灰色の瞳が、蕩けるように甘く細められた。 至近距離で囁かれるその声に、私の心臓が不規則に跳ねる。
「君が望むなら、この屋敷のすべてを変えてくれ。――私の世界のすべてを、君に委ねたい」




