第3話「幽霊屋敷」
重厚な樫の扉を押し開けた瞬間、肌を撫でたのは冷たく湿った空気だった。
高い吹き抜けの天井からは豪奢な真鍮のシャンデリアが下がっているものの、灯されているのは必要最低限の蝋燭だけだ。
外光を取り込むはずのアーチ窓は、すべて床まで届く濃紺の遮光カーテンで何重にも閉ざされている。
空気がまったく流れていない。 微かな埃の匂いと、吸音のために敷き詰められた分厚い絨毯が放つ、古い羊毛の重苦しい気配が鼻腔をかすめた。
壮麗であるはずの公爵邸は、自らの内に光を閉ざし、静まり返る巨大な石の柩のようだった。
「お帰りなさいませ、閣下」
エントランスホールの奥から、白髪を撫で付けた老家令が無音の足取りで進み出てきた。
背後に並ぶ数名の従僕や侍女たちも、足音を立てないよう底の薄い革靴を履いている。屋敷全体が張り詰めた静寂を強いられていた。
老家令の視線が、ヴィンセント様の隣に立つ私へ向けられる。 その瞳の奥には、あからさまな困惑と警戒の色が浮かんでいた。
主が夜会から連れ帰ったのは、よりにもよって今夜婚約破棄されたばかりの伯爵令嬢だ。しかも、人嫌いで他者を寄せ付けないはずの主が、自ら手を取って屋敷に招き入れている。
「エドワード。今夜から、このエレナ嬢が私の婚約者としてこの屋敷に滞在する」
ヴィンセント様の冷徹な声がホールに響いた。
「明朝、貴族院法務局より正式な通達が届く。彼女の指示は、私の指示と同等と心得よ。屋敷の管理に関する全権を、すべて彼女に委ねる」
「は……? し、しかし閣下、屋敷の管理と申されましても……」 「言葉を重ねるな。決定事項だ」
絶対的な威厳に、エドワードと呼ばれた家令は息を呑み、深々と頭を下げた。だが、控えている侍女たちの視線には、若い娘に何ができるのかという不信感が露骨に滲んでいる。
ヴィンセント様が微かに眉根を寄せた。 眉間の皺。浅い呼吸。わずかな音や視線の交錯に対しても、彼の神経が過敏に反応し、痛みを覚えているのが見て取れた。
数年にも及ぶ深刻な不眠が、彼の精神と肉体を極限まで削り取っているのだ。
――この空間が、彼を追い詰めている。
見渡す限り、屋敷の造りそのものは非の打ち所がない。 だが、その運用が最悪だった。
光を嫌うからと窓を完全に塞ぎ、音を嫌うからと空気を閉じ込めている。その結果、屋敷の中に新鮮な風が通らず、湿気と重い空気が澱み、住まう者の生気を奪っているのだ。
さらに、廊下の角ごとに置かれた無駄に大きな衝立や重厚な飾り棚が、人の動線を著しく阻害していた。移動するたびに無意識のストレスがかかる構造になっている。
使用人たちが悪いわけではない。 彼らはただ、主の過敏な神経を刺激しないよう、手探りで「閉ざす」ことしかできなかったのだ。
逃げ出したいとは思わなかった。 身分違いの重圧や、使用人たちの冷ややかな視線など、私の足を止める理由にはならない。
前世で空間コーディネーターとして現場を駆け回り、人の生活を整えることに命を懸けていた魂が、ふつふつと熱を帯びていくのを感じていた。
「閣下。まずは、ご自身の執務室と主寝室を拝見してもよろしいでしょうか」
私が迷いのない声音で告げると、ヴィンセント様はわずかに目を見張り、それから静かに頷いた。
「……案内しよう」
◇
一方、翌朝のヴァレンタイン侯爵邸の玄関ホールには、怒声が響き渡っていた。
「おい! 僕の外出用の革靴はどこだ! 上着もいつもの場所に掛かっていないぞ!」
登庁を前に、ジュリアンは顔を真っ赤にして叫んでいた。
近衛文官補佐としての執務服に袖を通そうとしたものの、いつも玄関脇のクローゼットに完璧な手入れで揃えられていたはずの衣服が見当たらない。
「も、申し訳ございません、若様! これまで衣服の配置や手配は、すべてエレナ様が細かく指示を出されておりましたので……!」
「言い訳をするな、無能どもめ! 靴一つ定位置に置けないのか!」
ジュリアンは履き慣れない予備の靴を乱暴に足で蹴飛ばした。
玄関の棚の上には、昨夜マリアが脱ぎ捨てたストールや手袋が無造作に積まれ、本来あるべき鍵や手帳の置き場を塞いでいる。
エレナがいなくなった初日から、屋敷の機能は音を立てて狂い始めていた。
「くそっ、エレナの奴め……つまらない小細工ばかり残していきおって……!」
苛立ちを隠せないまま、ジュリアンは歪んだ足取りで扉を乱暴に開け放ち、屋敷を飛び出していった。
◇
カーライル公爵邸の主寝室は、本館の最奥に位置していた。
天井が高く、広大すぎる部屋。だがここもまた、分厚い遮光布で外が完全に遮断され、まるで地下室のような陰鬱な気配が漂っている。
「……ここでは、眠れないのも無理はありません」
私が呟くと、部屋の隅に控えていた侍女長が不快そうに唇を尖らせた。
「滅相もないことを。閣下の安眠のため、光も音も一切入らぬよう、わたくしどもが万全の配慮をしておりますのに」 「配慮の方向が間違っています」
私は振り返り、侍女長の目を真っ直ぐに見据えた。
「完全に密閉された空間は、人の呼気による湿気と二酸化炭素を滞留させます。重くなった空気は脳の酸素供給を鈍らせ、頭痛や浅い眠りを引き起こす原因になるのです。遮音を意識するあまり、通気という生命線を塞いでしまっては本末転倒です」
理路整然とした私の指摘に、侍女長は息を呑み、言葉を失った。
「エドワード、人を集めてください。今すぐこの部屋の空気を入れ替えます」
家令が恐る恐るヴィンセント様を伺うと、公爵は微かに顎を引いて指示を肯定した。 主の絶対の許可を得て、私は次々と的確な指示を飛ばしていく。
「まず、部屋の対角線上にある二箇所の窓の遮光布を外し、窓を五寸だけ開けてください。風の入り口と出口を作ることで、淀んだ空気が一気に抜けます」
「しかし、外の明かりが入っては閣下が……」
「光の制御は布の重ね方で行います。外からの直射日光を遮りつつ、風だけを通す薄手の麻布を内側に、音を吸収する厚手の織物を外側に配置します。二重の空気層を作ることで、遮音と通気は両立できるのです」
私の淀みない指示に、従僕や侍女たちが半信半疑ながらも素早く動き出した。 埃を立てないよう静かにカーテンレールが外され、布地が掛け替えられていく。
窓がわずかに開け放たれた瞬間、初夏の澄んだ夜気が部屋の中へと滑り込んできた。
ふわりと、心地よい風が室内のカーテンを揺らす。 淀んでいた重苦しい空気が押し流され、清涼な気配が主寝室を満たしていく。
「あ……」
侍女の一人が小さく声を漏らした。 部屋の空気が明らかに軽くなったことを、その場にいる誰もが肌で感じ取っていた。
私は休むことなく、寝室内の家具配置に手を入れる。
ベッドの位置が部屋の入り口の正面にあり、無意識の防衛本能を刺激していたため、視線が直接通らない壁際へと少しだけ移動させた。
さらに、ベッドサイドに置かれていた無駄な金属製の置物を撤去させ、足元に吸音性の高い毛足の短いラグを敷き直す。
無駄な動線を削ぎ落とし、視覚的なノイズを徹底的に排除していく。 職人としての血が巡り、私の指先は迷いなく動いていた。
窓辺に立ち、新しく設置した吸音カーテンのドレープの重なり具合を指先で微調整する。 わずかな隙間からも不要な光が漏れぬよう、布地の重なりを丁寧に整えていく。
ふと、背中に刺さるような気配を感じた。
部屋の入り口近く、壁に背を預けたヴィンセント様が立っていた。 彼は腕を組み、微動だにせず、ただじっと私の背中を見つめていた。
一言も発しない。 瞬きをすることすら忘れたかのように、その氷灰色の瞳には、熱を帯びた深い光が宿っていた。
冷徹無比な公爵の仮面が剥がれ落ち、そこにあるのは、自らの暗闇に光と風を吹き込んでいく存在を、ただ一心に見つめ続ける男の視線だった。
視線の熱さに、私のうなじがわずかに粟立つ。 だが、私は作業の手を止めず、最後のドレープを美しく整え終えた。
深く吸い込んだ空気は、驚くほど清らかで、心地よい静寂に満ちていた。 これなら、過敏な彼の神経を苛むことはないはずだ。
私は振り返り、ヴィンセント様に向かって静かに一礼した。
「整いました、閣下。――今夜、ぜひお試しください」




