第2話「公爵の求婚」
「私の妻となり、あの淀んだ男の手から離れていただきたい」
ヴィンセント様の低く透き通った声が、静まり返った大広間に落ちた。
大広間の空気が、一瞬で凍りつく。 跪く公爵と、その前に立つ私。
周囲を取り囲む貴族たちは、誰一人として言葉を発することができない。ただ信じられない思いで、目を丸くして私たちを見つめていた。
――カーライル公爵が、私に求婚している?
思考が追いつかない。 この御方は、現国王の従兄弟にして最高位の権力者だ。
神経過敏で極度の人嫌いと噂され、どれほど家柄の良い令嬢であっても視線すら合わせないと恐れられている。
その彼が、なぜ婚約者に置き去りにされた一介の伯爵令嬢の前に跪いているのか。
「閣下……私には、すでにヴァレンタイン侯爵嫡男との婚約契約がございます」
私は喉の渇きを悟られぬよう、冷静に言葉を紡いだ。 だが、ヴィンセント様はわずかに眉を動かしただけだった。
「その契約であれば、すでに無効です」
ヴィンセント様が立ち上がり、軽く手を上げる。 すると、大広間の扉の脇に控えていた数人の男たちが、無言で進み出てきた。
身につけているのは、貴族院法務局の正装だ。胸元には、国家の契約を司る監察官の銀章が鋭く輝いている。
「法務局監察官より、公式の通達を申し上げます」
筆頭監察官が羊皮紙を広げ、朗々とした声で読み上げた。
「本日、王宮主催夜会において、ヴァレンタイン侯爵家嫡男ジュリアン殿による正当な通告なき公式エスコートの放棄を確認いたしました。さらに現在、同殿が下位身分である男爵令嬢の私室に滞在している事実も、公認伝令により確認済みであります」
広間がざわりと揺れた。
「貴族院法務局令第十四条に基づき、本件は婚約契約における『重大な債務不履行』に該当。被害者であるランカスター伯爵令嬢の保護、および国王代理特命権を持つカーライル公爵閣下の承認により、両名の婚約契約は即時破棄・解消されたことをここに布告いたします」
監察官の厳格な声が響き渡った瞬間、周囲の貴族たちの顔色がさっと変わった。
特に、ジュリアンと親しく付き合っていた数人の令息たちが、持っていたグラスを震わせ、蒼白になって後退るのが見えた。
「そ、そんな……公式記録に……?」 「ジュリアンはただ、男爵令嬢の看病をしていただけだと……」
震える声で囁き合う彼らを、ヴィンセント様が氷のように冷徹な瞳で見据えた。
ただ視線を向けられただけで、令息たちは喉を詰まらせ、それ以上の言葉を飲み込んだ。上位貴族への不敬を恐れ、床に頭を擦り付けるようにして沈黙する。
悪役令嬢として捨てられたはずの私が、貴族院の公的執行により、完全な被害者として扱われている。
先ほどまで私を嘲笑していた貴族たちは、恥じ入るように視線を逸らし、誰一人として私を直視できなくなっていた。
「エレナ嬢」
ヴィンセント様が、再び私に向き直る。 その声音には、他者を退ける冷たさは微塵もなかった。
「彼が貴女の価値を理解せず、その誇りを傷つけたことは万死に値する。……私と共に来ていただけますか。貴女の才を、私の屋敷で振るってほしいのです」
胸が激しく脈打つ。 最高位の公爵家という高すぎる身分。 冷徹と恐れられる彼が、なぜ見ず知らずの私にそこまでの言葉を向けるのかという拭いきれない疑念。
だが、私を道具のように扱い、技術を蔑んだジュリアンへの未練など欠片もない。
私の空間を、私の誇りを、この人は必要としてくれている。 その瞳の奥にある真剣な光に、嘘はないように思えた。
「……謹んで、お受けいたします。カーライル公爵閣下」
私がカーテシーを深く捧げると、ヴィンセント様の張り詰めていた表情が、微かに緩んだ。 彼の手が差し伸べられる。
私がその革手袋の上に指先を重ねると、彼は私の手を壊れ物でも扱うかのようにそっと包み込み、大広間の出口へとエスコートした。
誰一人として、私たちを遮る者はいなかった。 残された貴族たちが呆然と立ち尽くす中、私たちは静まり返った広間を後にした。
◇
その頃、ヴァレンタイン侯爵邸の客間には、果物の饐えたような甘い悪臭が立ち込め始めていた。
「ジュリアン様ぁ、もっと甘い葡萄が食べたいです。あのお高い、南方の温室で採れたやつ……」
「よしよし、すぐに用意させよう。マリアの頼みなら何だって叶えてあげるよ」
マリアは甘ったるい声を上げながら、皿の上に残った果物の皮を絨毯の上へ払い落とした。 薄い絨毯に果汁が染み込み、濃い染みを作っていく。
以前のエレナであれば、即座に換気を行い、染みを抜く指示を出していただろう。だが、今の部屋には窓を細く開ける者すらおらず、淀んだ湿気が壁紙にまとわりついていた。
「ふふ、エレナ様、今頃どんな顔をしているかしら。捨てられた惨めな女として、泣き崩れているに決まっていますわ」
「まったくだ。身の程知らずの出しゃばり女には、いい薬さ」
ジュリアンは下品な笑みを浮かべ、マリアの肩を抱き寄せた。
自らの愚行がすでに王宮の記録に刻まれ、破滅への階段を転がり落ち始めたことなど、二人は露ほども知らなかった。
◇
王宮を後にした公爵家の馬車は、夜の王都を滑るように走っていた。
車内は驚くほど揺れが少なく、敷き詰められた絨毯や壁の革張りが走行音を吸収している。贅を尽くした空間であることは一目で分かった。
向かいの座席には、ヴィンセント様が腰掛けている。
姿勢正しく座るその姿は彫像のように美しいが、先ほどまでの威厳ある空気とは異なり、どことなく張り詰めた沈黙が車内を満たしていた。
私は膝の上で指を組み、慎重に言葉を選んだ。
「閣下。先ほどは助けていただき、感謝の念に堪えません。ですが……お伺いしてもよろしいでしょうか」 「何でしょうか」
「なぜ、私だったのですか。閣下ほどの御方であれば、公爵夫人の座を望む令嬢は国中に数多おられるはずです。まして私は、今夜婚約破棄されたばかりの身です」
私の問いに、ヴィンセント様は氷灰色の瞳を微かに伏せた。 長い睫毛が影を落とす。 その指先が、自身の座る革張りのシートに伸びた。
すっ、と。 シートのわずかなシワを、無意識のように、そっと撫でる。 まるで、私から拒絶されることを恐れるかのように、その指先は小さく強張っていた。
「……半年前のことです」
静かな声音が、馬車の中に落ちる。
「公務でジュリアンの屋敷を訪れ、客間に一泊したことがありました。私は幼少の頃より神経が過敏で、深刻な不眠に苦しめられてきました。他人の気配や、わずかな光の乱れ、壁の隙間を抜ける風の音……それらすべてが私を苛み、どこへ行っても深く眠ることなどできなかった」
ヴィンセント様は視線を上げ、真っ直ぐに私を見た。
「だが、あの部屋だけは違った。窓から入る朝日の角度、カーテンの遮音、ベッドへの無駄のない動線、部屋を包む柔らかな色彩……そのすべてが完璧に調和していた。私は生涯で初めて、一度も目覚めることなく朝を迎えたのです」
心臓が跳ねた。 あの客間――確かに、私がジュリアンに懇願されて整えた部屋だった。
国を背負う高位貴族が滞在すると聞き、少しでも心身を休められるよう、光の入り方から家具の配置に至るまで徹底的に計算し尽くした空間。
「あの部屋を整えたのが誰なのか、私は調べさせました。そして、貴女の存在を知った。……ジュリアンがあの屋敷の快適さを自分の手柄とし、貴女を『出しゃばり』と貶めていることも」
ヴィンセント様の声に、抑えきれない怒りが滲む。
「私の命を救ったといっても過言ではない貴女の技術が、あのような男に踏みにじられていることが許せなかった。……私は貴女の力が欲しい。そして、貴女が正当に評価され、誰にも邪魔されずに力を発揮できる場所を提供したいのです」
飾りのない、剥き出しの言葉だった。 不眠に苦しむ一人の人間としての、切実な懇願。
利用するための契約ではない。私の技術を、私自身を、心の底から求めてくれているのだと分かった。
前世から今まで、私のこだわりを「無駄な手間」「男を立てない悪癖」と切り捨てられてきた痛みが、その言葉によって静かにほどけていくのを感じた。
「……私の知識がお役に立てるのであれば、全身全霊を尽くします」
私が微笑むと、ヴィンセント様は目を見張り、それから安堵したように深く息を吐き出した。
やがて、馬車が減速し、重厚な鉄の門をくぐる音が響いた。 車輪が石畳を噛み、完全に停止する。
「着きました」
ヴィンセント様が先に降り、私に手を差し伸べた。 エスコートを受けながら馬車を降り、夜気の中に立つ。
見上げた先にそびえ立っていたのは、広大で荘厳なカーライル公爵邸の本館だった。 しかし――。
「……これは」
私の唇から、思わず声が漏れた。 壮麗な建築であるはずの屋敷は、すべての窓が分厚い遮光カーテンで固く閉ざされ、外へ漏れる光が一切なかった。
風の気配はなく、重苦しい静寂が建物を幾重にも包み込んでいる。
まるで、外界を完全に遮断し、闇の中に閉じこもっているかのような――光の入らない、陰鬱な幽霊屋敷だった。




