第1話「単独の扉」
王宮夜会の大広間を前にして、私は手にした羊皮紙を無造作に引き裂いた。
びり、と乾いた音が車寄せの冷たい夜気に響く。 二つに裂き、重ねて四つに裂き、さらに指先で細かく千切った。紙片が石畳の上へひらひらと舞い落ちていく。
「エレナ様、あの……」
馬車の脇で縮こまっていたヴァレンタイン侯爵家の従僕が、青ざめた顔で私を見ていた。主からの言付けを届けただけの彼に罪はない。だが、その手紙に殴り書きされていた文面は、およそ正気の沙汰ではなかった。
『マリアが急に熱を出した。健気な彼女を置いて夜会など行けるはずがない。今夜は僕が付き添って看病する。夜会にはお前一人で入れ。近衛文官補佐たる僕の婚約者なのだから、その程度の粗相は見逃されるはずだ。出しゃばりの悪女らしく、大人しくしていろ』
文字の乱雑さからも、彼がどれほど浮気相手の男爵令嬢に夢中になっているかが透けて見えた。 私の婚約者――ヴァレンタイン侯爵家の嫡男、ジュリアン。
彼は貴族院法務局が管理する公式契約の重みを、何一つ理解していない。
国王主催の公式夜会における、事前の正当な通告なきエスコートの放棄。 それは単なる不作法ではない。貴族院の法規に定められた、明確な「重大な契約不履行」だ。
しかも、その理由が未婚の男爵令嬢の私室への滞在など、家門の品位を汚す背信行為以外の何物でもない。
「伝言の役目、ご苦労様でした。あなたは侯爵邸へ戻って結構です」 「し、しかし……」 「戻りなさい。主の愚行に巻き込まれたくなければ、余計な口を開かないことです」
静かに言い含めると、従僕はおびえたように一礼し、夜の闇へと逃げていった。
足元に散らばった紙屑を見下ろしながら、私は小さく息を整える。
前世で空間コーディネーターとして過労死した記憶を持つ私は、この世界に生まれ落ちてからも、人が心身ともに健やかに過ごせる空間を整えることだけに心血を注いできた。
婚約を結んだ後、荒れ放題だったジュリアンの侯爵邸を徹底的に見直し、光の採り入れ方、風の抜ける換気路、無駄のない家事動線、心を落ち着かせる色彩設計を施して、誰もが羨む名邸へと生まれ変わらせた。
だが、ジュリアンが私に返したのは感謝ではなかった。
『男の領域に口を出す出しゃばり悪女め』 『この屋敷が素晴らしいのは僕の血筋と使用人が優秀だからだ。お前の小細工など関係ない』
そう罵り、私の努力と成果をすべて踏みにじった。
そして最近屋敷に入り浸るようになった男爵令嬢のマリアの、あざとい猫なで声と偽りの病弱アピールに溺れ、今夜この暴挙に出たのだ。
――一人で入れ、ですって?
ふざけないで。 逃げ帰るなど論外だ。ここで私が会場に入らなければ、敵前逃亡としてランカスター伯爵家の名に泥を塗ることになる。
エスコートを破棄された哀れな女としてではなく、理不尽に決して屈しない一人の専門家として、私は堂々と前を向く。
私は裾を払うと、大広間の大扉を守る近衛兵へ向かって、一切の乱れのない足取りで進み出た。
手入れの行き届いた上質な絹のドレスの擦れる音だけが、静寂を裂いていく。
「ランカスター伯爵家が長女、エレナ・ランカスターです。通してください」
近衛兵は私の顔と、背後に控えるべき男性の姿がないことを確認し、一瞬だけ目を見張った。だが、私の隙のない立ち振る舞いと冷徹な声音に気圧されたように、無言で分厚い扉を押し開けた。
まばゆいシャンデリアの光が視界を灼く。 オーケストラの華やかな調べと、甘ったるい香水の匂いが混ざり合った空間。
そして――扉が開いた瞬間に生まれた、異様な静寂。
婚約者である侯爵令息を伴わず、単身で大広間に足を踏み入れた令嬢。 その光景が何を意味するか、広間に集う貴族たちが理解できないはずがなかった。
「……見ろ、ランカスター伯爵令嬢だ」 「一人で来たのか? ヴァレンタイン侯爵令息はどうされた」
「知らないのか? あの出しゃばり悪女、とうとうジュリアン様に愛想を尽かされたそうだよ」
「男の仕事に口を挟むような女だもの、捨てられて当然ね」
さざ波のような嘲笑と、突き刺さるような冷たい視線が四方から私を包囲する。 扇の陰から向けられる嘲りの笑み。値踏みするような蔑み。
音の反響から計算すれば、この広間にいる半数以上が私をあざ笑っている。
だが、私の背筋は一寸たりとも曲がらない。 侮辱に耐えるためではない。非があるのは私ではなく、契約を破ったあの男だからだ。
胸を張り、踵を鳴らして中央の通路を進む。視線は常に水平を保ち、誰とも無駄に目を合わせない。
◇
その頃、王都の外れにあるヴァレンタイン侯爵邸の客間では、重苦しい甘さが部屋の隅に淀んでいた。
窓は固く閉ざされ、換気の滞った空気の中、ジュリアンはベッドサイドの安楽椅子に深く腰掛けていた。
「ジュリアン様ぁ……頭が痛くて、マリア、もう起き上がれません……」 「可哀想に、マリア。今夜は僕がずっとそばにいてあげるからね」
薄絹の寝間着をまとったマリアの額を、ジュリアンは満足げに撫でた。
ベッドの周囲には、マリアが散らかした果物の皮や、使い捨てられたレースのハンカチが無造作に落ちている。
「でも、いいのですか? 今夜は王宮の夜会だったはずでは……エレナ様がお怒りになるのではなくて?」
「あんな可愛げのない出しゃばり女のことなど気にするな。今頃、会場に一人で乗り込んで、皆の前で大恥を晒しているはずさ」
ジュリアンは下品な笑みを唇に浮かべた。
いつも澄ました顔で屋敷の動線だの採光だのと能書きを垂れていたエレナが、周囲の貴族たちから嘲笑を浴び、惨めに涙を流して立ち尽くす姿。それを想像するだけで、歪んだ優越感が彼の胸を甘く満たした。
「僕という後ろ盾を失ったあの女が、どれほど無力か思い知るがいい。泣きついて謝罪してきたら、僕の足元に跪かせてやるよ」
部屋の空気がどれほど腐り始めているかも気づかず、ジュリアンは嘲笑の声を低く喉から漏らしていた。
◇
大広間の空気は、私を中心に凍りついていた。 私は壁際の柱のそばに立ち、差し出されたグラスに口をつけず、ただ静かに呼吸を整えていた。
周囲の貴族たちは、私を遠巻きに囲みながら、いまだに下世話な囁きを交わし合っている。まるで檻の中の珍獣を見るような視線。
怒りと屈辱が、胃の底で冷たく固まっていく。 だが、それを表に出すつもりは毛頭ない。私の誇りは、こんな無責任な連中の軽薄な言葉で損なわれるほど安くはない。
その時だった。
大広間の入り口から、まるで冷気が吹き込んできたかのように、ざわめきが急速に引いていった。 楽団の演奏がぎこちなく乱れ、やがて完全に停止する。
――何が起きたの?
貴族たちが一斉に左右へ割れ、広い道が開かれた。 その中央を、静寂を纏った一人の男が歩いてくる。
漆黒の夜会服に身を包んだ、長身の美男子。 夜の帳をそのまま溶かしたような深い黒髪と、すべてを射抜くような氷灰色の瞳。
近寄る者すべてを拒絶するような、絶対的な威圧感。
――カーライル公爵、ヴィンセント様。
現国王の従兄弟にして、軍務と政務の頂点に君臨するこの国の最高権力者。
極度の人嫌いとして知られ、公式の場であっても他者を一切寄せ付けず、視線を合わせることすら許さないと恐れられている御方だ。
半年前、公務でジュリアンの屋敷に逗留された際、遠目にお見かけして以来の姿だった。
なぜ、この広間に。 ヴィンセント様は夜会に顔を出しても、奥の貴賓室に直行するのが通例のはずだ。
公爵の冷徹な視線が広間を一瞥すると、先ほどまで私を嘲笑していた貴族たちが、恐怖に顔を引きつらせて一斉に首を垂れた。誰一人として息をすることすら許されないような、圧倒的な階位の差。
だが、その冷徹な足取りは迷うことなく、真っ直ぐにこちらへ向かっていた。
周囲の貴族たちが慌てて後退り、私の周囲から人が消える。 やがて、彼は私のわずか数歩手前で足を止めた。
至近距離で見るその容貌は、息を呑むほどに鋭く、そして苛烈に美しい。 射抜くような氷灰色の瞳が、真っ直ぐに私の瞳を捉えた。
「――エレナ・ランカスター伯爵令嬢ですね」
低く、耳の奥に心地よく響く声音。 他者を凍てつかせるはずのその声に、なぜか微かな熱が含まれているように感じられたのは、私の錯覚だろうか。
「はい、公爵閣下。お初にお目にかかります」
私は臣下としての礼節を保ち、完璧なカーテシーを返した。 感情を一切表に出さず、ただ背筋を伸ばしてその視線を受け止める。
冷たい緊張が広間全体を支配していた。誰もが息を潜め、冷酷無比な公爵が、婚約者に捨てられた悪役令嬢をどのように処断するのかを見守っている。
次の瞬間。
ヴィンセント様は音もなく身を沈め、床に片膝を突いた。
「……え?」
思わず、私の唇から声が漏れた。 あり得ない光景だった。 最高位の公爵であり、準王族たる彼が、一介の伯爵令嬢である私の前に跪いている。
ヴィンセント様が右手を差し伸べる。 その長い指先が一瞬、かすかに震えているのが見えた。 私を見上げるその氷灰色の瞳に、揺らめくような光が宿る。
視線が交錯した刹那、彼は喉を微かに上下させ、息を呑んだ。まるで、砂漠の中でようやく見つけた水を前にして、触れることすら躊躇う旅人のように。
「ひっ……!」
周囲から、短い悲鳴のような息の音が漏れた。
さっきまで私を嘲笑していた令嬢が、持っていたシャンパングラスを取り落としそうになり、慌てて両手で押さえている。貴族たちの顔から一斉に血の気が引き、信じられないものを見る目で硬直していた。
静寂に包まれた大広間に、ヴィンセント様の低く透き通った声が、隅々まで響き渡った。
「貴女をお迎えに上がりました、エレナ嬢。――私と婚姻契約を結び、カーライル公爵邸のすべてを、貴女の望むままに整えてはいただけませんか」




