第4話 触れた光
ぽたり、と血が石畳へ落ちた。
シルヴィーンの左肩から二の腕にかけて、深い傷が走っており、傷口から流れた血が腕を伝い、指先から滴っていた。
「シルヴィーン様」
サイラスの声だった。視線が肩の傷を捉えている。
「その腕……」
「サイラス……」
静かに名を呼ばれ、サイラスは一瞬、口を閉ざす。だが、そこで呑み込むはずだった言葉が、口を衝いて出る。
「左腕を、犠牲にしてまで」
「サイラス」
二度目の声は、はっきりと強かった。シルヴィーンの青い瞳がサイラスを捉え、わずかに首を振る。その動きに、サイラスは息を一つ吐き出し、ようやく口を閉ざした。
シルヴィーンはサイラスが平静を取り戻したことを確かめ、その後方で立ち尽くす魔術士へ視線を移す。
「申し訳ございません。自分の、不注意で……」
「あなたのせいではないわ」
間を置かずに、シルヴィーンが答える。
「事故よ。誰も予測していなかった。だから、次に対策を取ればいい。それだけのことよ」
軽い口調だが、それ以上は言わせないという響きが滲んでいる。
「しかし、お怪我を……」
「私は大丈夫。それより、守護者が救出した人を診てあげて」
「……」
その言葉に、魔術士は唇を引き結び、深く頭を下げて去っていく。その背が見えなくなるまで見送って、シルヴィーンはようやくひとつ息をついた。張り詰めていたものが、わずかにほどける。
少し離れた場所で、レヴィンが足を止めていた。その視線が、不自然に抉れた石畳をゆっくりとなぞり、それからシルヴィーンの肩口へと移る。
「……どうしたら、こうなる」
責める声ではなかった。ただ、目の前の事実を拾い上げるだけの声だった。
「別に――」
シルヴィーンが言い返すより早く、レヴィンの手が静かに肩の傷へ触れた。
「大丈夫、だから」
反射のようにそう言って、シルヴィーンは腕を引こうとする。
「……動かすな」
低く、静かな制止だった。
かすかな花の香りが、シルヴィーンの動きに合わせるように立ち上がり、レヴィンの手が一瞬、止まる。
だが、すぐに指先へ淡い光を纏った水が滲み、治癒が始まった。
その横で、風の守護者が小さく息を吐く。
「姫君、その傷……大丈夫じゃないですよ」
柔らかい口調だが、目は笑っていない。
「……即死寄りの、やつです。神官服でなければ、腕ごと持っていかれてましたよ」
言われて、シルヴィーンが眉を寄せた。
「あなたたちこそ――準備もなしに、暴走した歪みへ踏み込むなんて。どういう了見?」
強い声ではないが、逃がさない響きを含んでいる。
「危険だと、分かっていたでしょう」
風の守護者は、当然のように頷いた。
「もちろんです」
「分かっているなら、次は、やめて――」
シルヴィーンの青い瞳が、まっすぐに風の守護者を捉える。
「今回は、結果的に無事だっただけ。次も同じとは限らないわ」
風の守護者は笑みを崩さない。柔らかな口調のまま、決して揺らがない声で答える。
「約束は、できかねます」
その言葉にシルヴィーンは小さく息をついて、レヴィンへと向き直る。
「……あなたもよ。準備もなしに踏み込むなんて、次は許さないわ」
傷からの出血がおさまったことを確認し、治癒を止めようとするシルヴィーンの手首を、レヴィンが軽く掴んだ。逃がさないためではなく、治癒を続けさせるための力だった。
「それが最適なら、何度でも踏み込む」
寸分の迷いもないレヴィンの言葉に、シルヴィーンは、今度こそはっきりとため息をつく。
「守護者が崩れれば、五大国が揺れる。世界のためにも、もう少し慎重に行動して」
わずかな沈黙が落ちる。
「崩れない」
「崩れませんよ」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。わずかにずれているのに、意味だけはぴたりと一致している二人の言葉に、シルヴィーンがあきれたような笑みを浮かべる。
「……それでも、私の前では認めないわ」
レヴィンの手が肩を離れ、裂けた神官服へと移る。水がゆらりと揺らぎ、布に残った血の痕が消えていく。シルヴィーンはその布へ指先を添えると、静かな炎を灯した。炎が裂け目の縁をなぞり、ほつれた繊維を滑らかに焼き留めていく。
「……こんなものね」
小さく呟いたシルヴィーンの視線が、ふとレヴィンの腕で止まった。
「水の守護者、その傷」
「問題ない」
その答えを待たず、シルヴィーンは傷へ手をかざす。水を纏った光が傷口を辿る。レヴィンの指先に浅く裂けた痕を見つけたシルヴィーンは、一瞬手を止めるが、何も言わずに光が滲む指で触れる。
その指先へ、レヴィンの視線が落ちた。
白い。血の気が引いて、爪の先まで色を失っている。傷を癒すために触れた手が、癒される側より冷たかった。
歪みの中で見たものが、レヴィンの脳裏をよぎる。境界線の崩壊を止めていた光、歪みを切り離した光。
つい先ほど、指先を濡らした深紅の熱。
そして今、自分の傷を治癒している指先。
「――冷たい」
呟きは、ほとんど独り言だった。シルヴィーンが、何のことか分からないというように瞬く。
その肩へ、外套がふわりと掛けられた。
深い青の生地に、銀の縫い取り。何の変哲もない、ただの外套に見える。だが掛けられた瞬間、シルヴィーンの周囲に漂っていた精霊たちが、ざわりと揺れた。
「……必要ないわ」
反射のように、シルヴィーンは返そうとする。
「傷はもう塞がっているし、私は――」
「必要だ」
短い。だが、その三文字には、それ以上言わせない何かがあった。シルヴィーンの手が、外套の縁で止まる。
必要ない。そう言い切れる根拠は、いくらでもある。動ける。歩ける。次の場所へ行ける。それで十分なはずだった。
けれど、水の守護者は、その全部を最初から聞いていない。シルヴィーンは外套の縁に触れ、肩口の裂けた神官服へ視線を落とした。
「……借りておくわ」
そう答えながら、神官服が見えないように外套の前を合わせると、そのまま視線を風の守護者へ移す。
「……風の守護者、肩」
「大丈夫ですよ、この程度」
「駄目よ」
迷いはなかった。風を纏った治癒の光が、風の守護者の肩の傷をそっと辿っていく。
「……これはまた」
風の守護者が、小さく息を吐いた。
「お見事です。これほど完璧な属性の融合は、初めて見ました」
「私は神官。治癒は本業よ」
薄く笑って答えたシルヴィーンが、サイラスへ視線を向ける。
「サイラス。後は任せるわ」
説明はなかった。それでも、サイラスには十分だった。深く頭を下げる。
「……承知しました。この後の予定、三件は後日へ調整いたします」
シルヴィーンの眉が寄った。
「後日?」
「はい。本日はこのまま城へ戻り、お休みください」
「駄目よ。エルドの件は、これ以上放置できない」
「それでも、本日はお休みください」
「休む必要などないわ」
「ございます」
即答だった。
「肩の傷は綺麗に塞がっています。ですが、失われた血までは戻りません。どうか、ご無理をなさらず」
サイラスの真摯な口調に、シルヴィーンは小さく息を吐く。
「……エルドだけ。他は後日に」
わずかな沈黙のあと、シルヴィーンは踵を返す。
一歩踏み出したところで足が止まり、外套の前を押さえていた手に力が入る。
シルヴィーンは一瞬だけ瞳を伏せるが、すぐに顔を上げ、何事もなかったかのように歩き出した。
二人のやりとりを黙って見ていたレヴィンが、静かに口を開いた。
「セヴァン」
それだけで、風の守護者が頷く。
「以降の予定は、私一人で問題ございません。エルド地区は本日、姫君と光の守護者が対応予定でしたが――水の守護者が入る形で、調整しておきます」
「任せる」
「承知いたしました」
レヴィンが、シルヴィーンの後を追っていく。その背を見送るセヴァンの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「……風向きが変わりましたね」




