第3話 繋ぎ止めた先
風の守護者の背が、歪みの向こうへ消えていく。
「……勝手ね」
小さく呟きながら、シルヴィーンは歪みへと視線を戻した。
守護者が中へ入った今、無理に浄化を進めれば、救出を妨げる。シルヴィーンは指先に光を纏ったまま、歪みの内側へ意識を向けた。
流れが、崩れている。
世界と歪みの境界が曖昧になり、周囲の流れが歪みの内側へ引き込まれていた。引き込まれるたびに、その崩れは境界の外側へ広がり、周囲の世界まで巻き込みはじめている。
『……戻れなくなる』
中の二人と合流できても、境界が崩れたら、外へは出られない。
シルヴィーンは歪みへ両手を伸ばす。指先に留めていた光が、引き込まれた流れを元の位置へ戻し、曖昧になった境界線を引き直していく。
だが、引き直したそばから、また崩れる。
崩れるたびに、シルヴィーンは光を重ねる。境界が戻る。戻った瞬間、また崩れる。重ねては戻し、戻しては崩され――追いつくことのない繰り返しの中で、彼女の魔力は凄まじい速さで消費されていく。
結界を支える魔術士たちの間に、ざわめきが走った。
「あの魔力の消費量、上級魔術士でも一分と保たないぞ」
「光をあれほど使えば、身が耐えられないはずだ……」
「光の姫……何者なんだ」
魔術士たちの言葉に、シルヴィーンは反応しなかった。ただ、歪みをみつめ、崩れる境界へ光を重ね続けている。
* * *
レヴィンは、腕の中の二人を抱え直した。
背後では、先ほど形を得た黒い揺らぎが、こちらを追ってくる。形を変え、崩れながら、それでも距離を詰めていた。
「後ろは、私が――」
風の守護者が言い終えるより先に、水が走った。
黒い揺らぎが、輪郭を保てないまま、内側から断たれる。散った先から、また形になろうとして、そのたびに崩れていく。
「……ああ、そうでした」
風の守護者が、小さく息を吐く。
「あなた、手など要りませんでしたね」
返事はない。
「では、道は私が」
風が、前方へ抜けていく。
歪みかけた空間の縁を撫で、崩れかけた足場を、かろうじて通れる幅に整えていく。
「姫とは反対の方へ」
「承知しております」
風の守護者が頷く。声にはいつもの軽さがない。
「境界線が最も安定している……姫への負担が少ない場所から脱出します」
その言葉に頷いたレヴィンは、風の指し示す方向へ進路を変えた。足元の道は、少しずつ、細くなっていく。
『……保たない』
境界線を維持しようとする限り、魔力消費と術の負荷は止まらない。
レヴィンは歩みを早める。急げば、彼女の消耗が少なくなる。ただ、それだけの理由だった。
腕の中の二人が、重い。だが、これとは比べものにならない負荷が彼女にかかっている。
『……なぜ、そんなに』
問いは、行き場を失って胸の奥へ落ちた。
道の先で、光が滲む。
歪みの縁が見えた瞬間、黒い揺らぎが刃となり、レヴィンの腕を浅く裂いた。道を支える風の守護者の肩にも、空間の亀裂が掠める。
一瞬、風が揺らぐ。だが、すぐに風が縁を裂いた。開いた光へ、レヴィンは二人を抱えたまま踏み出す。
レヴィンが腕の中の二人を、駆け寄ってきた魔術士たちへ預けた時、結界の外で声が上がった。
「――ティム! リリィ!」
女が人垣を押し分けて駆け寄り、膝から崩れ落ちる。二人の子供を抱きしめて、名前を何度も呼んだ。
レヴィンは、その顔に見覚えがあった。
つい先ほどまで、この母親は、避難した村人の中に立っていた。誰も探していなかった。誰も、二人がいないことに気づいていなかった。
「……ああ、そういうことですか」
風の守護者が、眼鏡を押し上げる。
「世界が、忘れていたんですね。子供ごと」
歪みの中は、世界の外だ。そこにいる限り、“いた”という事実そのものが、世界から抜け落ちていく。だから誰も、探さなかった。外へ出た瞬間、世界が二人を思い出した。
レヴィンは、母親の腕の中で泣きじゃくる小さな身体を、しばらく見ていた。歪みの中でも離さなかったぬいぐるみを、その手はまだ握りしめている。あと少し遅ければ、この母親は、失ったことにすら、気づかないままだった。
「……ひどい場所でしたね」
風の守護者が息を吐き、風へ声を乗せた。
「救出完了です」
風の守護者の声が、精霊を介して届く。
その声に、シルヴィーンは、ようやく指の力を緩めた。張り詰めていた接続が、静かに手を離れていく。
「終わったわね」
小さく呟き、シルヴィーンは再び、歪みへと両手を伸ばす。触れた箇所から、脈動が手のひらへ伝わってくる。内側で膨らもうとする力を、押さえ込むように指を沈める。
その時だった。背後で、何かが転がる音がした。軽く、乾いた音。石畳の上を跳ねながら、遠ざかっていく。
「――こら! 戻りなさい!」
遠くで、誰かが叫んでいる。その声が、なぜこんなに近いのか。
考えるより先に――
“ぱき”、と。
乾いた音が、すぐ近くで弾けた。意味を捉えるより先に、歪みの奥が裂ける。
刃。
一筋の力が、まっすぐに伸びてくる。退く間はない。その瞬間、盾になるように精霊がシルヴィーンの前に滑り込んでくる。
同時に、少し離れた場所で、悲鳴があがる。
振り向いたシルヴィーンの目に、もう一筋の刃が映る。
その先では、転がるボールを追って結界の内側へ入り込んだ幼い子供を、追いついた母親が覆いかぶさるように抱き込み、さらにその二人を庇うように魔術士が前へ出ていた。
「……」
仮面の下で、青い瞳がわずかに揺れる。
「向こうへ」
精霊へ短く命じる。だが精霊は動かない。庇うように、シルヴィーンの前から退かない。
「……なら」
左手が、静かに上がる。掌へ風が集まり、密度を増していく。
「こちらは、私が逸らす」
自分の身は自分で守る。そう示されて、精霊はようやくシルヴィーンのそばを離れた。魔術士と刃の間へ、滑り込もうとする。だが、歪みの奥から、さらにもう一筋。三人へ向かう刃に追いつき、ひとつの流れとなって加速する。
間に合わない。
「……っ」
シルヴィーンは、自分へ迫りくる刃に向けて放とうとしていた力を、そのまま反転させた。
三人へ向かう刃の進路を、無理やりねじ曲げる。力と力がぶつかり、空気が軋む。逸れた刃を、精霊が受け止める。
衝撃が空間を裂く。行き場を失った力が、石畳へ叩きつけられた。石畳が抉れ、破片が跳ねる。
そして、無防備になったシルヴィーンの左肩に、遅れて熱が走った。
布の裂ける感触。シルヴィーンは一瞬だけ、左肩へ視線を向けるが、すぐに視線を戻し、歪みへ手を伸ばす。
指先へ、力を集めていく。内側で膨れ続けた力を押さえ込みながら、歪みと世界を結ぶ接続を、ひとつずつ拾い上げる。
閉じるのではない。
こちら側へ食い込んだ歪みだけを、世界の流れから断ち切る。光が、歪みと世界を結ぶ接続を一本ずつ断ち切っていく。歪んだ空間が、別の層へ沈むように薄れていく。
最後の一本が断ち切られる。
その瞬間、村を覆っていた歪みは、音もなく世界から切り離され、張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていった。




