第2話 歪みの中へ
ラグナの歪みの内部は、外から見えていた光の揺らぎとは、まるで違っていた。
静かだった。
耳が痛くなるほどの静寂ではない。音そのものが、世界へ届いていないのだ。
足を踏み入れた瞬間、レヴィンはわずかに眉を寄せた。
水の流れが、掴めない。
存在しないわけではない。だが、どこにも繋がっていなかった。水脈へ落ちない。地脈へも届かない。世界へ流れない。行き場を失った流れが、ただこの空間の内側だけを、ぐるりと巡っている。まるで、ここだけが“受け皿”のように、閉じていた。
『……繋がっていない』
そこまで考えたところで、背後で風が、ふわりと揺れた。
「見たことのない構造ですね」
軽い声だった。風の守護者が、周囲へ視線を巡らせている。眼鏡の奥の青灰の瞳だけが、油断なく空間の輪郭をなぞっていた。
「境界面だけが不安定だ。内部は、むしろ固定されている」
レヴィンが低く返す。その言葉に、風の守護者がわずかに目を細めた。
「なるほど。だから外側だけが、崩れて見える」
指先で、軽く眼鏡の縁に触れる。
「……溜まっていますね、これは。出口がない」
光が揺らぎ、裂け目が波打っていた外部とは違う。内部は、異様なほど静かだった。
「姫君は」
「外です」
風の守護者が、軽く肩をすくめる。
「浄化を始める気でしたので、止めてきました」
「……そうか」
「一人でやることではありませんからね」
レヴィンは、答えない。ただ、そのまま前へ進む。
空気は薄いが、呼吸はできる。ただ、肺へ入った感覚が、遅れて返ってくる。進むたびに、世界との距離だけが、少しずつ曖昧になっていく。
足音が、沈む。地面へ触れた瞬間、音が消えるのではない。広がらないのだ。生まれたそばから、その場へ吸い込まれていく。
「中に残った二人は」
「中心付近です」
風の守護者が、前方を見据える。
「近づくほど薄くなりますね。……帰り道が、固定できません」
レヴィンは、歩みを止めない。
温度がずれる。距離が揺れる。光だけが、わずかに遅れて見える。一歩進むたびに、感覚と現実の間へ、薄い膜が一枚ずつ挟まっていくようだった。
『……世界側の固定が、弱い』
だから、水も繋がらない。精霊の気配も薄い。完全に切り離されているわけではない。だが、正常な循環へは届かない。誰かが操作している気配ではなかった。ただ、流れが、ことごとくずれている。
「レヴィン」
後ろから、風の守護者の声が落ちる。先ほどまでの軽さが、わずかに薄れていた。
「長居する場所じゃありませんね。負荷の向きが、安定していない」
レヴィンは振り返らない。
「分かっている」
短い返答。だが、歩みは変わらなかった。その時だった。
歪みの奥で、光が脈打つ。
その向こうに、二つの人影があった。小さい。重なるように倒れている。片方が、もう片方を庇う姿勢のまま、動かない。
レヴィンは、迷わず踏み出した。
一歩。
世界が、薄くなる。
足音が返らない。踏み出した感覚だけがあって、地面が答えない。
二歩。
呼吸の輪郭が、曖昧になる。吸った空気が、どこへ行ったのか分からない。
三歩。
伸ばした自分の手が、他人のもののように遠く見えた。
『……近い』
中心が、近い。精霊の気配が、完全に消えた。呼んでも、応えるものがない。
水の感覚が遠のく。
常に近くにあるはずの、水の精霊たちの存在を感じない。ここでは、水と世界を繋ぐものが、そもそも存在していない。
『……ここは、もう世界の内側じゃない』
背後で、風が軋む音がした。風の守護者が、外との線を保っている。それだけが、この場所と世界を繋ぐ、たった一本の道だった。
「レヴィン」
声が、遠い。
「――そこまでです。それ以上は、私の風が届きません」
レヴィンは、答えない。あと数歩。
二人の輪郭が、すでに薄い。ここにいるのに、ここにない。世界がその存在を、少しずつ手放し始めている。
『間に合わなければ、消える』
「死」ではない。消える。“ここにいた”という事実ごと、世界から抜け落ちていく。
同じことは、自身にも起こりうる。それを理解したまま、レヴィンは残る数歩を進み、二人の傍らへ膝をついた。伸ばした指先が、首筋へ触れる。
脈はある。だが、遅い。世界との接続が薄れたこの場所では、生きている輪郭そのものが、ゆっくりと曖昧になっていく。
もう一人も同じだ。呼吸は浅く、瞼がわずかに開いているのに、視線がどこにも結ばれていない。それでも、小さな手だけが、何かを固く握っている。あと少し遅ければ、この二人は“ここにいた”という事実ごと、世界から抜け落ちていた。
レヴィンは指先を浅く裂いた。
滲んだ血に意識を集中させる。外から水を呼べないのなら、自分の内側にあるものを使うしかない。
血の表面に、細い水が形を結ぶ。その一滴を起点に生まれた流れを、二人の身体へ纏わせた。
世界から剥がれかけた輪郭を、水が外側から包み、押し留めていく。治すためではない。抜け落ちるのを、止めるためだ。
『――間に合ったな』
そう思った瞬間、音もなく空間が裂け、世界だけが歪んだ。裂け目の奥から、黒い揺らぎが溢れ出す。
魔獣ではない。誰かに召喚されたものでもない。
歪みそのものが、行き場を失った力で、形を作ろうとしていた。形を取っても、すぐに崩れる。輪郭そのものが、定まらない。
「……おや」
風の守護者が、小さく息を吐いた。
「逃げ場を探していますね、これは」
黒い影が軋む。輪郭が崩れ、また別の形へと変わる。この空間では、“存在”そのものが、安定しない。
風が揺れる。
「レヴィン、外へ」
レヴィンは二人を抱え上げ、一歩、踏み出す。踏み出した足へ、遅れて地面の感触が返ってきた。沈みかけていた世界を、外側から何かが引き戻したような、わずかな変化だった。
その瞬間、空気が変わる。崩れ続けていた境界が、一瞬だけ静止した。
「……」
レヴィンが、わずかに目を細める。
外側から、光が流れ込んでいる。押さえ込んでいるのではない。歪みの内側へ引き込まれていた流れを元の位置へ戻し、崩れかけた境界を外から繋ぎ止めている。
歪みを鎮めているのではない。周囲の世界を巻き込みながら広がる崩れを、そのたびに引き戻している。
消えかけていた足元が、確かな硬さを取り戻した。呼べば、水が応える。
帰り道が、できている。あるはずのないものが、確かにそこにある。
崩れるたびに、外から新たな光が重ねられている。その負荷のすべてが、繋いでいる側へ返っていく。そして今、彼女が繋ぎ止めているのは、村ひとつを囲む境界だった。
『……何をしている』
流れが、変わった。負荷の向きが、外へ向いていく。
その光に、覚えがあった。
光を纏ったこの魔力を、身体が知っていると答える。だが、記憶のどこを探しても、そんなものはない。その光に触れたのは、数日前が初めてのはずだった。
胸の奥で、小さな引っかかりが疼く。
空間の軋みが、わずかに遅れる。
レヴィンは振り返らず、腕の中の二人を抱え直し、前へ進んだ。
彼女の待つ外へ。




