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水の守護者は光の犠牲を選ばない ~前世、世界を救った光は「嫌」を、光を失った水は「選ぶ」を覚える〜  作者: 水音乃碧
第2章 ラグナ 〜繋ぎ止める者たち〜

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第1話 止められない

ラグナ外縁部。


村ひとつを呑み込む歪みが、そこにあった。

ただの魔力の異常ではない。世界が本来の流れから外れ、空間も、精霊も、土地も、そこに生きる者の命までも巻き込みながら、少しずつずれていく。放置すれば広がり、村ひとつ、やがて国ひとつを呑み込んでいく。


数日前に発生したその歪みについて、再度の報告が入った。

現地の結界は限界に近く、維持するだけで精一杯。もはや“対応が必要”という段階ではなく、“対応が遅れている”段階だった。


本来なら、守護者による合同対応が要る規模だ。魔術機関にも神殿にも、緊急対応の要請が飛んでいる。依頼を受けた者たちが、それぞれ予定を調整するなか、最初に現地へ着いたのは、シルヴィーンだった。


―――


光の膜は薄く震え、内側から押し出される力が脈打つたびに、収まりきらない圧が外へ滲み出している。鋭い刃が外縁を走り、結界へ叩きつけられ、その表層を少しずつ削り取っていく。


その前に、シルヴィーンは立っていた。仮面の奥の青い瞳が、揺れる光の膜を静かに見据えている。


世界が、そこにあるものを受け入れていない。


土地も、空気も、精霊も、押し戻そうとして押し戻しきれず、拒みきれないまま軋んでいる。誰かが無理に押し込めたものが、行き場を失って膨らんでいく。


「……想定より、ずいぶん早いわね」


静かな声。だが、その視線は歪みの“外”ではなく、さらに奥――“中心”へと向けられていた。現地の魔術士が、報告のために駆け寄ってくる。


「村は封鎖済みです。住民は全員、避難を――」

「……違うわ」


シルヴィーンが魔術師の報告を遮る。その視線は、歪みのさらに奥へ向いたまま動かない。


「二人、残ってる」


魔術士の顔が、さっと強張った。


「っ、救出の準備を――!」


誰かが叫び、周囲が一斉に動き出すが、シルヴィーンは静かに首を振る。

中の二人は、もう保たない。

結界は、外へ漏れ出すものを抑えているだけだ。内側にいる者を守ってはいない。今この瞬間も、二人は歪みに曝され続けている。


装備を整え、隊列を組み、中心まで踏み込んで、二人を担いで戻る。どう考えても、届かない。


救出隊を出せば、結界を支える手が減る。手が減れば、結界はそれだけ早く落ちる。落ちれば、村ひとつでは済まない。歪みを消せば、二人は助かる。結界も、要らなくなる。


答えは、初めから出ていた。


「それでは……間に合わないわ」


視線は、歪みから外れない。


「私が浄化する」


告げられたその言葉に、空気が凍りついた。誰も、すぐには言葉を返せない。


現地の魔術士たちが、互いに顔を見合わせる。この規模の歪みを、たった一人で浄化するなど、通常ではあり得ないことだ。


「……お待ちください!」


ようやく、一人の魔術士が声を上げる。


「無茶です!」

「浄化など、不可能です!」

「こんな状態で浄化すれば、負荷がすべて姫君に――」


張り詰めた声が、次々と重なっていく。だが、シルヴィーンはわずかに首を振るだけだった。


「浄化なら、できるわ」


静かな声だった。


「全員、外で結界の強化を」

「姫君お一人では、危険です!」


再び上がった反対の声に、シルヴィーンは一瞬だけ、目を伏せる。危険という言葉が自分に向けられたものだと気づくまでに、わずかな間があった。


「……邪魔よ。出ていって」


強い声ではない。だが、逆らう余地のない響きだった。魔術士たちは動きを止め、一人、また一人と、結界の外へ退いていく。最後まで残ったのは、サイラスだけだった。


整えられた金の髪の下で、その目だけが、彼女の肩から歪みへ、歪みから肩へと、忙しなく往復している。言いたいことは山ほどある。それが伝わる沈黙だった。


「サイラス」

「……はい」

「あなたも、結界を強化して」


サイラスは、すぐには答えない。シルヴィーンの横顔と、目の前で脈打つ歪みとを、もう一度だけ見比べる。外側の結界を支える者がいなければ、ここに残ること自体が、彼女の邪魔になる。


サイラスは苦い息を、ひとつ吐き出し、


「……承知しました」


短く答え、結界の外へ下がっていく。その一歩は、従ったというより、“押し出された”に近いものだった。


シルヴィーンはその背を見ることもなく、歪みへと向き直る。仮面の奥で青い瞳が細められ、指先に光が滲む。


どこからともなく精霊たちが集まり、嬉しげに彼女の腕へ、肩へ、髪へと絡んでいく。


世界が受け入れられる形に戻す。それだけのことだ。戻しきれない分は、こちらで引き受ければいい。どこへ引き受けるのか、その先を、シルヴィーンは考えない。考える必要が、そもそもなかった。


指先が、歪みへ触れようとした、その瞬間――


水が、走る。


歪みの縁が鋭く裂け、誰かが迷いなく内部へ踏み込んでいく。緑の髪が、揺れる光の膜の向こうへ消えた。


「……え?」


集めかけた光が、行き場を失って指先で揺れる。シルヴィーンが気づくより早く、さらに別の気配が、その横を抜けた。


「……待って」


風の守護者が、当然のように歪みの前に立っていた。


明るい銀灰の髪を、束ねずゆるく流した細身の男。前髪が、細い金縁の眼鏡へわずかにかかっている。青灰の瞳だけが、油断なく場をなぞっていた。


「水の守護者なら、問題ありません」


穏やかな声だった。


「少なくとも、救出は失敗しませんよ」


口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。だが、その目だけは、笑っていない。


「それより、姫君」


涼しげな視線が、まっすぐにシルヴィーンへ向けられる。


「それを実行した場合の危険性は、ご理解されていますか?」


シルヴィーンは、わずかに首を傾げた。


「危険? 一番安全で確実よ。魔術士も、中にいる人も、危険じゃないわ」


その答えに、風の守護者はわずかに目を細め、息をひとつ吐き出す。


「……では、ご自身は? 無事で済むと?」

「……私?」


シルヴィーンが、小さく瞬いた。問いの意味が、本当に分からない、というふうに。


「浄化は、できるわ」

「……なるほど。そうなりますか」


小さなため息が、ひとつ。


「できるかどうかを、聞いたわけではないんですがね」


その吐息には、咎めるよりも、半ば諦めに近い響きがあった。シルヴィーンは、まだ指先の光を消していない。


二人が助かるのなら、急ぐ理由はひとつ減る。だが、歪みそのものは残る。ならば、結局は同じことだ。その思考を読んだように、風の守護者が先に口を開いた。


「ええ。歪みは残ります」


笑みは、崩れない。


「ですが中の二人を救出すれば、切り離しが可能ですよね」


そう言い残し、風の守護者は、歪みの中へと踏み込んでいった。


残されたシルヴィーンの指先で、行き場を失った光が、まだ静かに滲んでいる。


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