第3.5話 風のひとりごと
精霊というものは、基本的に素直だ。心地よい流れへ寄り、濁った場所を避け、危険を察すれば離れる。
だからこそ分かる。今、この会議室に満ちている気配は異常だった。
散っていかない。逃げもしない。何かに引かれるように、ひとつの場所へ寄っていく。
中心は、光の姫。
仮面の奥の視線は揺れない。いや、正確には違う。揺れているものを、そのまま見ている。
普通は目を逸らす。違和感というものは、本能的に避けるものだから。だが、彼女は違う。歪みを見つけると、まるで、“そこへ行くこと”が最初から決まっているように、止まることなく近づいていく。
『危なっかしいですねぇ』
心の中だけで呟く。
――それにしても、この集まり方は何だ。
精霊が力ある術者へ寄ること自体は、それほど珍しくない。魔導士――五属性すべての精霊と契約を結んだ、数えるほどしかいない者たちの周りには、いつだって多かれ少なかれ集まっている。
だが、これは違う。守護とも加護とも違う。ただ、そばにあることを選ぶ、そこにいることが当然と思っているような集まり方だ。
『……面白い』
その時だった。視界の端で、水の守護者の視線が落ちた。何か、見つけた。そういう目だった。続くように、姫の視線も落ちる。互いに何も言わない。だが、見ている場所が同じだ。
『……なるほど』
厄介だ。こういうタイプが二人並ぶと、風向きが変わる。
床が揺れた。遅れて、空気が歪む。精霊たちがざわつき、流れが均衡を失っていく。
会議室の扉が勢いよく開いた。
「魔獣が出現しました!」
声が落ちた瞬間、空気が変わる。炎が動き、大地が立ち、魔術士たちが詠唱へ入る。全員の顔が扉へ向けられる。だが、姫だけが、まだ床を見ていた。
『いやいや』
普通は、先に退路を探すでしょう。
そこへ、水の守護者の腕が動いた。迷いがない。姫の肩を引き、その場から半歩ずらす。その直後、床に魔法陣が浮かび上がり、魔獣が現れる。
『速い』
判断ではない。もっと前の段階だ。“来る”ことを前提に動いている。
しかし、守るなら、後ろへ下げるのが筋だ。壁際でも、扉の外でも、危険から遠い場所へ。だが、水の守護者が姫を動かしたのは魔法陣の外へ半歩だけだった。姫が見ているものが見える位置、そこは変えていない。
『……ああ』
止める気が、最初からない。
危険から遠ざけるのではなく、彼女がやろうとしていることを続けられる位置へ置いた。危険の中でも、彼女が動けるように。
今日出会ったばかりだというのに、水の守護者は、姫をただ遠ざけようとはしなかった。
結果として、彼女が見ていたものが見える位置だけは、変えていない。そして姫は、助けられたことすら気にしていない。視線はまだ魔法陣へ向いたままだ。
『駄目ですねぇ、これは』
自らの危険より先に、魔法陣の方を気にしている。
聖獣が顕現した瞬間、会議室の空気が止まった。銀白の巨躯。魔獣たちが本能的に道を開けていく。
炎の守護者が何かを言っている。光の守護者は笑みを浮かべ、
「姫を止める気は、ないようじゃな」
としか答えない。聖獣の意思である以上、あれ以上は答えようがない問いだ。主の隣を離れた聖獣が、なぜ、真名も知らぬはずの姫を庇うのか。
いや、名は呼ばれていた。真名ではない。だが、姫が呼び、聖獣が応えた。
『……ふむ』
その中心へ、姫が迷いなく踏み込む。止まらない。危険が見えていないわけではないだろう。それでも、躊躇がない。
そして、水の守護者の足が、一瞬だけ止まった。
珍しい。水の守護者が足を止めるところなど、ほとんど見たことがない。
だが、その揺れは一瞬で消える。次の瞬間には、もう魔獣の群れへ踏み込んでいた。
『ああ』
あれは、“止められない”のではない。ただ、姫が向かった先へ、考えるより前に同じように踏み込んでいる。理屈ではない。もっと静かで、厄介な何かだ。
水の守護者は、判断してから動く。
損得を測り、優先順位を並べ、最も無駄のない一手を選ぶ。誰が傷つくのか、何を失うのか、水の守護者はいつもそれを先に拾う。そして、避けられない負担があるなら、まず自分の側へ引き寄せる。
その水の守護者の足が止まった。
光の姫が、危険を見ていなかったからではない。見たうえで、自分だけを数に入れていなかったからだ。
『――おやおや』
これは、少々まずいかもしれませんねぇ。
魔獣が跳ぶ。届く前に、水が軌道を削ぐ。
一歩。水の守護者が踏み込んだ瞬間、終わっていた。
普通なら、攻撃を避けて、返す。だが、水の守護者は攻撃になる前の動きだけを崩している。戦っているというより、最初からそこにあった危険だけを消している。
『……本人は、これを普通だと思っているんでしょうね』
ため息しか出ない。
姫は何事もないように魔法陣へ向かう。躊躇いなく伸ばされる指先に、炎の守護者が気づいた。
「――触れるな!」
だが、声が届くより早く――魔法陣が、消えた。
姫の指先は、何にも届いていない。なのに、血が滲んだ。
順序が、逆だ。
――いや、
見間違いか。あの速さでは、触れたかどうかなどわからない。
残った静寂の中で、水の守護者が姫の手を取る。何も言わず、傷だけを消す。
消えた魔法陣。塞がった傷。確かめるものは、もうどこにもない。
精霊たちがざわめいている。風が落ち着かない。
『……ああ、なるほど』
これは、そのうち噂になる。誰かが語り、誰かが誇張し、誰かが勝手に伝説へ変える。
だが、噂になる前から、もう十分にできすぎている。




