第3話 歪む流れ
会議が終わりへ向かう気配は、誰かの言葉より先に、空気が知らせていた。張り詰めていたものがほどけ、椅子が引かれ、足音がまばらに散っていく。
出口へ流れていく人の中で、レヴィンの足が止まった。床――そのさらに下層。水の流れでも、魔力でもない。もっと曖昧な気配が、わずかにずれている。揺れではない。ざわつく空気が先に肌へ触れ、遅れて、違和感が形を持つ。
『……空間が、歪んでいる』
視線を上げた先で、銀青の髪が、人の流れに逆らって動いていた。
シルヴィーンだ。
人の流れから外れ、部屋の奥へ、迷いのない足取りで進んでいく。彼女の視線もまた、床へ落ちていた。
二人とも同じものを見ている。だが、シルヴィーンが触れているのは、流れのずれではない。正常な流れの中で、何かが拒まれている。世界の側が、そこにあるものを受け入れていない。そういう気配だった。
ただ、同じ違和感を追ったまま、二人の視線が一瞬だけ触れ合った。
その直後、足裏に微かな振動が伝わり、床が低く揺れた。建物全体が軋むほどではない。だが、足元の一点から伝わる揺れだけが、不自然に強い。
精霊の気配が、乱れている。
逃げることも散ることもできず、均衡だけが急速に崩れていた。そのとき、扉が勢いよく開かれた。
「魔獣が出現しました!」
駆け込んできた魔術士の声が、室内を切り裂く。
「敷地内です、すでに複数――」
言い終わる前に、空気が変わった。
椅子が弾かれる音が重なり、守護者たちが一斉に振り返る。
炎の守護者が真っ先に前へ踏み出し、大地の守護者は無言で出口へ身体を向けた。その厚い体躯が動くだけで、周囲の空気がひとつ押される。風の守護者だけは、ゆっくりと腰を上げながら、視線だけを抜け目なく巡らせている。
全員の顔が、扉へ向く中で、シルヴィーンだけが、床を見ていた。
シルヴィーンの足元の空間が、沈む。その瞬間、レヴィンがシルヴィーンの肩を引き、その場から半歩、外へずらした。
「――下がれ」
短い声と同時に、空間が揺れ、魔法陣の輪郭が浮かび上がる。
音も、光もない。だが次の瞬間、その中心から魔獣が押し出されるように現れた。床、壁際、柱の影。空間が歪み、魔法陣が浮かび、逃げ場を塞ぐように、魔獣が次々と這い出してくる。
魔術士たちが応戦に動く。椅子が弾かれ、怒号と詠唱が重なり、会議室の空気が、一気に戦場へと変わった。
その中で、シルヴィーンの視線だけが、まだ足元の魔法陣へ向いている。
そこから滲んでいるものは、術式の輪郭ではない。何かが、拒まれている。円は閉じているのに、その内側だけが、受け入れられないまま軋んでいた。
「……おかしいわ」
魔獣を一体叩き伏せた炎の守護者が、その呟きへ一瞬だけ視線を向けた。赤い髪が、振り抜いた勢いのまま揺れる。勝気な目元に、わずかな怪訝が走った。だが次の瞬間には、もう別の魔獣へ向き直っている。
シルヴィーンは魔法陣から視線を上げ、室内をなぞる。その先には、先ほどサイラスへ預けたはずの銀色の猫が、座っていた。戦場と化した室内で、猫だけが、揺れていない。
「……ルナ」
シルヴィーンが名を呼ぶと、猫がわずかに耳を動かした。
魔獣を叩き伏せたばかりの炎の守護者の手が、止まる。ルナ。そんな名の聖獣を、彼女は知らなかった。
「中心まで行きたい。道をつくって」
その言葉の直後、猫の輪郭がほどけ、光が滲む。
内側から押し広がるように形が変わり、銀白の巨躯が立ち上がった。両の手のひらに収まるほどだった小さな身体が、今は人の背丈をゆうに越え、滑らかな銀の毛並みが淡い光をまとっている。獣でありながら、どこか神域の静けさを帯びた姿だった。
室内の空気が、一瞬、止まる。
炎の守護者は、その姿に見覚えがあった。何度も見ている。だが、いつもその傍に立つ老人は、今は部屋の奥にいる。炎の守護者が一歩、前へ出た。
「待ちな、嬢ちゃん。前に出るんじゃない!」
鋭い声が飛ぶ。だが次の瞬間、聖獣はシルヴィーンを庇うように、その前へ出た。炎の守護者の眉が、ぐっと寄る。
「……は?」
その視線は、魔獣でも、聖獣でもない。シルヴィーンへ向いていた。
「どうなってる、光の守護者。なぜ聖獣が嬢ちゃんに従うんだい」
問われたのは、部屋の奥に控えていた老人だった。
長い白髪を後ろへ撫でつけ、深い皺の刻まれた顔に、穏やかな眼差し。ハイランディアの守護者であり、精霊に選ばれし最強の五人の、最も年嵩の一人。その聖獣ルナの、本来の主でもある。
光の守護者は、戦場の只中で、静かに頷いた。
「姫を止める気は、ないようじゃな」
光の守護者は動かない。止めようともしない。ただ、その目だけが、一度も彼女から離れなかった。
シルヴィーンは、炎の守護者の制止を気にした様子もなく、前へ視線を向ける。
「ルナ、行くよ」
その言葉と共に、シルヴィーンは魔獣の群れの中へ、足を踏み入れた。そこにいる魔獣の数も、その爪の鋭さも、彼女は一切気に留めていない。ただ「中心へ行く」という一点のためだけに、無防備な一歩を、迷いなく踏み出していく。
その動きに、レヴィンの足が、一瞬止まった。
『――そこへ、行くのか』
中心。最も危険な場所へ、自分から向かう。そう理解した瞬間、レヴィンの呼吸が、かすかに乱れる。
止める理由を考えるより先に、レヴィンは魔獣の中へ踏み込んでいた。
レヴィンと同時に、聖獣が一歩、踏み出す。前方の魔獣たちが、見えない圧に押されるように、位置をずらした。
ざわめきが走る。誰も指示していないのに、群れの中に、一本のまっすぐな道だけが拓けていく。
「――シルヴィーン様!!」
背後で、サイラスの声が響く。風の守護者だけが、目を細めた。
「……なるほど」
眼鏡の奥で、視線が状況の輪郭をなぞる。
シルヴィーンは振り返らない。ただ、前へ進んでいく。横から魔獣が跳び、牙が閃く。だが、届かない。
そこに、水がある。
見えないまま、空気に溶けるように置かれている。進路へ踏み込んだ瞬間、魔獣の動きが削がれる。
レヴィンの右手首で、銀の環がほどけた。
流れ落ちるはずの水が、落ちない。掌の中で密度を増し、輪郭を得て、刃になる。
レヴィンは、その刃を崩れた軌道へ一閃させ、魔獣の身体を断つと、それ以上は魔獣の群れへ踏み込まず、シルヴィーンの横へ位置を取る。
気づけば、シルヴィーンへ届くはずだった牙も爪も、彼女が認識するよりも前に、すべてレヴィンの手で消えていた。
その間にも、シルヴィーンは止まらない。聖獣が開いた道を、ただまっすぐに進み、中心へ近づいていく。
魔法陣の中央――。
シルヴィーンは足を止め、視線を落とした。
光が走る。術式の線が、内側から外側へ、順に意味を結んでいく。
召喚の陣だ。座標を指定し、境界を開き、向こう側から呼び出す。構造そのものは、教本にあるものと変わらない。
『――違う』
読み終えて、シルヴィーンは眉を寄せた。
呼び出す先が、どこにも書かれていない。繋ぐ座標が空白のまま組み上がって、それでも陣は成立している。
何も呼べないはずの陣が、現に魔獣を吐き出していた。辻褄が、合わない。
その少し後ろで、レヴィンもまた、同じ陣を見ていた。彼が見ているのは線ではない。流れだ。
魔力が陣へ吸い込まれ、魔獣として吐き出されていく。だが、勘定が合わない。入っていく量に対して、出ていく量が少なすぎる。
どこかへ、消えている。
『――出すための陣じゃない』
そこまで辿りついた瞬間、視界の端でシルヴィーンが膝をつき、魔法陣を覗き込む。
「――」
レヴィンが止める声より先に、彼女の指が魔法陣へ伸びていた。
「――触れるな!」
炎の守護者の声が飛ぶ。
だが、それより早く――魔法陣が、消えた。
シルヴィーンの指は、何にも届かないまま、空を掻いた。音も、光も残らない。ただ、そこにあった魔法陣だけが消え、ただの床に戻っている。
同時に、シルヴィーンの指先が薄く裂け、赤い血が滲む。
触れていない。
シルヴィーンは、自分の指先を見た。血の滲む場所と、消えた陣のあった場所を見比べる。小さく首を傾げ、下ろそうとするシルヴィーンの手首を、レヴィンが掴んだ。
不意を突かれたように、シルヴィーンの視線が上がる。
「……っ、離して」
シルヴィーンは手を引こうとするが、レヴィンは何も答えず、その指先へ薄く水を触れさせる。
冷たい感覚と共に傷はその場で塞がり、跡も残らない。血の滲んだ指先を、レヴィンは一度だけ見た。
何かが、歪められている。
だが、確かめるものは、もうどこにも残っていなかった。
聖獣はシルヴィーンの隣に伏せ、その様子をただじっと見つめている。シルヴィーンは、自分の指先を一度だけ見ると、聖獣へと視線を向けた。
「ルナ、帰ろう」
名を呼ばれた瞬間、聖獣の巨躯がほどけ、銀色の猫へ戻る。
役目を終えたように、そのままシルヴィーンの肩へ飛び乗り、当たり前のように収まった。シルヴィーンは肩の上の重みを気にする様子もなく、歩き出す。
「待ちな」
低い声。炎の守護者だった。
「勝手に前に出るんじゃない。それに――不用意に魔法陣へ触れるんじゃないよ。次は通さないからね、嬢ちゃん」
シルヴィーンは振り返らない。
「……?」
ただ、首を傾げ、視線だけが、炎の守護者へ向けられる。
「これが一番早いわ」
シルヴィーンは当然のことのように答える。
レヴィンはその横顔を黙って見ていた。
危険だから止まる、という選択肢が、シルヴィーンにはないらしい。少なくとも、その危険が自分に及ぶだけなら、彼女は止まらない。
傷も危険も、自分のことだけは、彼女の判断には含まれていなかった。
レヴィンはその姿に、なぜか覚えがある気がした――けれど、その正体は掴めない。ただ、胸の奥に、小さな引っかかりだけが残る。
炎の守護者は何かを言いかけ、結局、口を閉ざした。
シルヴィーンは何も言わず、会議室を後にする。
崩れた机。乱れた床。彼女が去ったあとの静けさだけが、じわりと室内に広がっていった。




