第4.5話 サイラスのひとりごと
「……承知しました」
短く答え、結界の外へ下がる。
命じられたことに、異論はない。姫がそう決めたなら、従うのが自分の役目だ。
だが、足を止めた瞬間、胃の底が重くなる感覚はどうにもならなかった。
姫が歪みへと向き直る。迷いのない、いつもの背中だ。
『また、そういう顔をしている』
見えるはずもないのにわかる。仮面の奥の表情を、長年かけて覚えてしまっている。結界の強化に意識を向けながら、歪みから目が離せない。
水の守護者が歪みへ踏み込んだのは、予想外だった。続いて風の守護者も。知らず知らずのうちに、ため息が出る。止める間も、止める権限も、自分にはない。
『守護者というのは、ああいうものなのか』
呆れているのか、感心しているのか、自分でもよくわからない。ただ、準備もなしに歪みへ踏み込める度胸を、羨ましいとは思わなかった。
姫が歪みに触れるのが見える。光が重なり、曖昧だった境界線が引き直される。
『また、お一人で引き受ける気だ』
何をするにしても、姫がそうすることだけは、わかっていた。
結界の維持に力を注ぐ。それだけが、今の自分にできることだ。
突然、破裂音が耳を突いた。次の瞬間、石畳が抉れ、衝撃が空間を走る。
無意識に足が半歩、前へ出る。だが、それ以上は動けない。外で結界を強化せよと、命じられている。それが今の自分の役目だ。
『わかっている』
わかっていても、肩口に走った赤が目に入った瞬間、喉の奥が締まった。傷は、治癒できる。姫は、神官だ。そう言い聞かせても、血が石畳に落ちる音だけが、大きく響く。
歪みが世界から切り離されたことを確認し、姫へ歩み寄る。言うつもりのなかった言葉が口を衝いて出てしまう。
「左腕を、犠牲にしてまで」
「サイラス」
名を呼ばれる。“これ以上続けるな”との姫の言外の命に、息を一つ吐き出し、口を閉ざす。
姫が魔術士に示したのは、自分の傷ではなかった。歪みから助け出された子供たちを診ろと、それだけを言う。……いつものことだ。
姫の肩の傷へ手を伸ばしたのは、水の守護者だった。大丈夫だと姫は言い、腕を引こうとする。だが、水の守護者は退かなかった。
水の治癒は、深い傷を迷いなく塞いでいく。術として見ても、申し分がない。
だが、目に残ったのは、その治癒ではなかった。
本来なら、姫の「大丈夫」を退けるのは自分の役目だ。だが、その一言の前では、いつも自分の方が退いてきた。
今日、それが通らなかった。
「後は任せるわ」
「……承知しました」
頭を下げる。本日は城へ、と勧めても、姫は退かなかった。エルドの一件だけを残し、他は後日へ。そう言い置いて、背を向けていく。
石畳に、赤が残っている。その一点から、視線を引き剥がす。感情を挟む場所はない。挟んでも、意味がない。
現場の後始末が始まる。算段を立てる。姫の指示どおり、二件を後日へ回す手配。エルドを経て、城への帰路。それが自分の仕事だ。
避難名簿の照合も、自分の仕事のうちだった。
名簿はすでに作成されている。行方不明の届けは、一件も出ていない。
あの歪みの中に、二人の子供が取り残されていたにもかかわらず、書類上では誰も欠けていないことになっていた。
背筋が、冷える。
母親でさえ、子供たちがいないことに気づいていなかった。同じ村の者も、隣人も、誰ひとり。行方不明の届けが出ないのは、当たり前だ。誰も、失ったと思っていなかったのだから。
歪みは、命を奪うだけではない。“そこにいた”という事実ごと、この世から抜いていく。
もし姫が来なければ、あの二人は、最初からいなかったことになっていた。誰も泣かず、誰も探さず、名簿だけが、誰ひとり欠けていないまま閉じられていた。
そして、その二人を数に入れられたのは、あの現場で、ただ一人、姫だけだった。
『……あの方は』
世界が忘れた二人を、数えた。ご自身のことは、決して数えぬというのに。
* * *
現場を離れ、割り当てられた一室へ戻る。すべての調整を終えた時には、空はもう暮れかけていた。
ふと、踵を返す姫の足がほんの一瞬止まったのを思い出す。気づいた者は少ないだろう。水の守護者が何も言わず、その背を追っていった。
『……なるほど』
水の守護者も、自身を数えぬ者か……。
だが姫は、今日だけではない。仮面を付けるようになってから、何度も見てきた。
自分を後回しにする姿を。誰かを優先することを、迷わなくなった姿を。そして、自分のことだけは数えなくなった姿を。
昔は、違った。
今の姫しか知らぬ者は、きっと信じないだろう。
よく笑う子だった。気に入らぬことがあれば、頬を膨らませもした。疲れた、と小さく零して、寄りかかってくることもあった。あの頃の姫は、まだ、自分をこの世に数えていた。
それが、ある日を境に、変わった。
何があったかは、言うまい。それは、いずれ語られるべきことだ。
ただ――変わっていく姫の傍で、自分にできたことは、何もなかった。止めることも、引き戻すことも叶わなかった。
ひとつ、またひとつと、姫が自分から手を離していくのを、ただ見ていた。周りの者を遠ざけたのではない。姫は、自分自身を、少しずつ手放していったのだ。
人が変わるのを見るのは、その人が離れていくのを見るのと、よく似ている。同じ場所にいて、同じように仕えていても、届く場所が、年々遠くなる。
静かに息を吐く。
「……困った方です」
それは、呆れではない。ずっと変わらぬ、ひとつの願いだった。
どうか、ご自分も、数に入れてくださいますよう。
叶わぬと知りながら、それでも、それが今の自分にできる、唯一の祈りだった。
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