第1話 馴染む光
高窓から落ちる夕刻の光が、執務机の上に積まれた報告書を薄く照らしていた。
「なぜ、ここにいらっしゃるのです。本日はお休みくださいと申し上げたはずですが」
シルヴィーンは執務室へ入ってきたサイラスの声にも顔を上げず、積まれた報告書の一枚へ、ペンを走らせたまま答える。
「覚えているわ」
「覚えておいでなだけですね」
ラグナから戻って二日。シルヴィーンは、休むように言われたことを確かに覚えていた。ただ、覚えていることと、実際に休むのは別の話で、こうして今も、報告書を確認している。
サイラスは、机の上をひととおり眺めた。朝に置いた報告書の半数には、既に署名がされている。
サイラスは小さく息を吐き、抱えていた外套を机脇の長椅子へ置いた。
「お預かりしていた、水の守護者の外套です。清めが済みました」
そこでようやく、シルヴィーンが顔を上げる。
「ありがとう」
「では、機関へ返却の使いを出させます」
「いいえ」
即答だった。
「私が返すわ」
サイラスの手が、止まる。
「……使いで足ります」
「知っているわ」
「象徴が、外套ひとつのために機関へ足を運ぶ。前例がありません」
「そうなの」
それで話は終わったとでもいうような声だった。
サイラスは、わずかに眉を寄せる。
「なぜ、ご自分で」
シルヴィーンは、ペンを置いた。それから、本当に分からないという顔で、サイラスを見る。
「……なぜ?」
理由を尋ねた側が、理由を尋ね返されていた。
サイラスは口を開いたが、その先が続かなかった。危険なことではないし、神殿の規則にも触れない。止めるための言葉を探しても、どこにも見当たらなかった。
「……護衛をお連れください」
「分かったわ」
「必ず、です」
「ええ」
サイラスは一礼し、扉へ向かう。扉に手をかけたまま、ほんのわずかな間だけ動かなかった。
やがて扉が閉まり、部屋には静けさが戻る。
長椅子の上の外套へ、シルヴィーンの視線が落ちる。
深い青緑の布地。見慣れた神殿のものとは違う色だ。指先で、そっと布を撫でる。
織り目の奥に、細い術路が幾重にも走っていた。経糸と緯糸の交差。撚りの角度。布の重なりの厚み。そのすべてが、ひとりの人間の魔力の流れへ合わせて組まれている。
「光の守護者の物とは、違うのね」
長く使い込まれた術路だ。一筋ごとが、持ち主の癖をそのまま覚えている。
高位の装備ほど、持ち主以外を拒む。他人の魔力を流せば、術路は硬く閉じ、押し返してくる。
確かめるつもりで、シルヴィーンは指先へ淡い光を滲ませた。
――拒まれない。
「……?」
術路は閉じなかった。押し返しもしない。ただ、そこに光が入ることを、当たり前のように受け入れている。
シルヴィーンは、指先に滲ませた光を、そのまま術路へ沿わせる。
歪みへの耐性を編み込みながら、既存の術路を壊さないように――と、そこまで意識して、その必要がないことに気づいた。
崩れない。
押し退けてもいない。新しい道を無理に作ってもいない。
水に誘われるように、白銀が織り目の奥へ静かに沈んでいく。
やがてシルヴィーンは指先を離した。触れる前と何ひとつ変わらない術路の中で、白銀だけが静かに息づいている。
「……大丈夫そうね」
小さく呟き、外套を抱き上げる。
「……返さなきゃ」
―――
白い石畳の小道に、夕暮れの光が長く伸びていた。
白亜の尖塔を背に、外套を抱えたシルヴィーンは、向かいに建つ魔術機関ハイランディア支部へ歩いていく。神殿の護衛が、黙ってその後ろに続いていた。
石畳を渡りきり、黒鉄の門の前で、シルヴィーンは足を止めた。
「ここで待っていて」
護衛の動きが、止まる。
「しかし――」
「すぐ戻るわ」
言い終える前に、シルヴィーンはもう歩き出していた。外套を抱えたまま、たった一人で、黒鉄の門をくぐっていく。
すれ違った魔術士が、慌てて壁際へ退いた。光の象徴が、供も連れず、たたんだ外套を抱えて廊下を歩いている。誰も、その光景を理解できていない。
向けられた視線へ軽く会釈を返しながら、シルヴィーンはそのまま廊下を進んでいく。
最奥の応接室。扉は半分だけ開き、紙をめくる微かな音が漏れていた。
「入るわね」
レヴィンの視線が上がり、外套で止まる。
「……返しに来る必要はなかった」
静かな声だった。
シルヴィーンは一度だけ瞬く。
「? 借りたものは返さなきゃ」
「使いを寄越せば済んだ」
「それは違うわ」
差し出された外套を、レヴィンが受け取る。
指が布へ触れた瞬間、レヴィンの動きが止まった。術路が、応える。自分の外套だ。幾度も魔力を通し、癖ごと覚え込ませてきた道が、そこにある。
だが、その流れの底に、別のものが沈んでいた。
光。
他人の魔力だ。レヴィンの指先が、術路を辿る。
――崩れていない。
高位の装備へ別人の魔力を通せば、調律は必ず乱れる。流れが濁り、術路に継ぎ目が生まれ、指でなぞればそこだけが硬い。加える力が強いほど、元の馴染みは損なわれる。
だが、この外套は――
指先は、境目を探して、見つけられなかった。一筋の乱れもない。長く使い込んだ馴染みが、そのまま残っている。
壊してはいない。無理に押し込めたのでもない。まるで、最初からそこにあるのが当然のように、光が通っている。
『……なぜ、馴染む』
理屈が、追いつかない。
「……これは」
「拒まれなかったから、少し加護を入れておいたわ」
シルヴィーンは軽い声で答えた。
「歪みへの耐性は上がってるはずよ」
拒まれなかったから……彼女は、それ以上のことを何も考えていない。
その時――
「これは……」
入口にセヴァンが立っていた。口元にはいつもの笑みがあるが、その視線は外套から動かなかった。
「……国宝級ですね」
「えっ?」
シルヴィーンが眉を寄せる。
「他人の調律へ別人の力を注いで、元の流れが一切崩れない。……そんな話は、聞いたことがありません」
シルヴィーンは、少しだけ首を傾げた。それから、セヴァンの肩へ視線を移す。
「あなたの外套も、同じ守護者用でしょう」
「ええ、まあ」
「見せて」
言うが早いか、シルヴィーンはセヴァンの外套の裾へ指を伸ばした。セヴァンが動くより早く、指先へ淡い光が滲み、外套へ触れる。
――閉じる。
術路が硬く縮み、押し返してくる。入るな、と拒絶する感触が、指先を弾いた。シルヴィーンの指が、止まる。
「……閉じたわ」
「ええ。それが普通です」
セヴァンの声は、いつもと変わらない。ただ、眼鏡の奥の目だけが、笑っていなかった。
「高位の装備は、持ち主以外を拒みます。私の外套も、水の守護者の外套も、同じ織物です。同じ機関が、同じ手順で仕立てたものですよ」
沈黙が落ちる。
シルヴィーンの視線が、レヴィンの手にある外套へ戻った。
深い青緑の布地。その奥で、白銀が静かに沈んでいる。
「……では、こちらだけなのね」
レヴィンも、セヴァンも、答えなかった。
シルヴィーンは、なぜ、とは訊かなかった。
訊いたところで、答えが返らないことは分かっていた。ただ――拒まれたものは拒まれた、それだけのことだと、彼女の中では処理が済んでいた。
「なら、上から重ねるわ」
「……は?」
シルヴィーンは、再びセヴァンの外套へ指を伸ばす。
今度は、術路へ触れない。布の外側、織り目の表層へ、独立した加護を薄く敷いていく。既存の調律とは、一切交わらない。
淡い光が、外套の表面を撫でるように流れ、そこへ留まった。
「これでいいわ」
セヴァンが、珍しく数秒黙った。
「……姫君。なぜ、私の外套にまで?」
シルヴィーンは、当然のことのように答える。
「あなたも平気で歪みの中へ入るじゃない」
「…………」
「歪みへの耐性は、上げておいた方がいいでしょう」
それだけ言って、シルヴィーンは踵を返した。
「じゃあ、返したから」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
応接室に残されたのは、受け取った外套を腕に掛けたまま動かないレヴィンと、自分の外套の裾を摘まんだまま立ち尽くすセヴァンだった。
セヴァンが、ゆっくりと息を吐く。
「姫君は、守るとは一言も仰いませんでしたね」
返事はない。
セヴァンは眼鏡を押し上げ、レヴィンの腕に掛かったままの外套へ視線を落とした。
「……加護は外さないので?」
レヴィンは、外套から目を上げない。
「……調律に異常はない」
「ええ、そうですね」
「除く必要がない」
「ええ」
セヴァンは、笑った。
今度は、目も少しだけ笑っていた。




