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「私は大丈夫」しか言わない光の姫と、それを許さない水の守護者 ~生まれ変わっても、姫は自分を守らない~  作者: 水音乃碧
第3章 なかったはずの加護

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第1話 馴染む光

高窓から落ちる夕刻の光が、執務机の上に積まれた報告書を薄く照らしていた。


「なぜ、ここにいらっしゃるのです。本日はお休みくださいと申し上げたはずですが」


シルヴィーンは執務室へ入ってきたサイラスの声にも顔を上げず、積まれた報告書の一枚へ、ペンを走らせたまま答える。


「覚えているわ」

「覚えておいでなだけですね」


ラグナから戻って二日。シルヴィーンは、休むように言われたことを確かに覚えていた。ただ、覚えていることと、実際に休むのは別の話で、こうして今も、報告書を確認している。


サイラスは、机の上をひととおり眺めた。朝に置いた報告書の半数には、既に署名がされている。

サイラスは小さく息を吐き、抱えていた外套を机脇の長椅子へ置いた。


「お預かりしていた、水の守護者の外套です。清めが済みました」


そこでようやく、シルヴィーンが顔を上げる。


「ありがとう」

「では、機関へ返却の使いを出させます」

「いいえ」


即答だった。


「私が返すわ」


サイラスの手が、止まる。


「……使いで足ります」

「知っているわ」

「象徴が、外套ひとつのために機関へ足を運ぶ。前例がありません」

「そうなの」


それで話は終わったとでもいうような声だった。

サイラスは、わずかに眉を寄せる。


「なぜ、ご自分で」


シルヴィーンは、ペンを置いた。それから、本当に分からないという顔で、サイラスを見る。


「……なぜ?」


理由を尋ねた側が、理由を尋ね返されていた。


サイラスは口を開いたが、その先が続かなかった。危険なことではないし、神殿の規則にも触れない。止めるための言葉を探しても、どこにも見当たらなかった。


「……護衛をお連れください」

「分かったわ」

「必ず、です」

「ええ」


サイラスは一礼し、扉へ向かう。扉に手をかけたまま、ほんのわずかな間だけ動かなかった。

やがて扉が閉まり、部屋には静けさが戻る。


長椅子の上の外套へ、シルヴィーンの視線が落ちる。

深い青緑の布地。見慣れた神殿のものとは違う色だ。指先で、そっと布を撫でる。


織り目の奥に、細い術路が幾重にも走っていた。経糸と緯糸の交差。撚りの角度。布の重なりの厚み。そのすべてが、ひとりの人間の魔力の流れへ合わせて組まれている。


「光の守護者の物とは、違うのね」


長く使い込まれた術路だ。一筋ごとが、持ち主の癖をそのまま覚えている。

高位の装備ほど、持ち主以外を拒む。他人の魔力を流せば、術路は硬く閉じ、押し返してくる。

確かめるつもりで、シルヴィーンは指先へ淡い光を滲ませた。


――拒まれない。


「……?」


術路は閉じなかった。押し返しもしない。ただ、そこに光が入ることを、当たり前のように受け入れている。


シルヴィーンは、指先に滲ませた光を、そのまま術路へ沿わせる。

歪みへの耐性を編み込みながら、既存の術路を壊さないように――と、そこまで意識して、その必要がないことに気づいた。


崩れない。


押し退けてもいない。新しい道を無理に作ってもいない。

水にいざなわれるように、白銀が織り目の奥へ静かに沈んでいく。


やがてシルヴィーンは指先を離した。触れる前と何ひとつ変わらない術路の中で、白銀だけが静かに息づいている。


「……大丈夫そうね」


小さく呟き、外套を抱き上げる。


「……返さなきゃ」


―――


白い石畳の小道に、夕暮れの光が長く伸びていた。


白亜の尖塔を背に、外套を抱えたシルヴィーンは、向かいに建つ魔術機関ハイランディア支部へ歩いていく。神殿の護衛が、黙ってその後ろに続いていた。


石畳を渡りきり、黒鉄の門の前で、シルヴィーンは足を止めた。


「ここで待っていて」


護衛の動きが、止まる。


「しかし――」

「すぐ戻るわ」


言い終える前に、シルヴィーンはもう歩き出していた。外套を抱えたまま、たった一人で、黒鉄の門をくぐっていく。


すれ違った魔術士が、慌てて壁際へ退いた。光の象徴が、供も連れず、たたんだ外套を抱えて廊下を歩いている。誰も、その光景を理解できていない。


向けられた視線へ軽く会釈を返しながら、シルヴィーンはそのまま廊下を進んでいく。


最奥の応接室。扉は半分だけ開き、紙をめくる微かな音が漏れていた。


「入るわね」


レヴィンの視線が上がり、外套で止まる。


「……返しに来る必要はなかった」


静かな声だった。


シルヴィーンは一度だけ瞬く。


「? 借りたものは返さなきゃ」

「使いを寄越せば済んだ」

「それは違うわ」


差し出された外套を、レヴィンが受け取る。


指が布へ触れた瞬間、レヴィンの動きが止まった。術路が、応える。自分の外套だ。幾度も魔力を通し、癖ごと覚え込ませてきた道が、そこにある。


だが、その流れの底に、別のものが沈んでいた。


光。


他人の魔力だ。レヴィンの指先が、術路を辿る。


――崩れていない。


高位の装備へ別人の魔力を通せば、調律は必ず乱れる。流れが濁り、術路に継ぎ目が生まれ、指でなぞればそこだけが硬い。加える力が強いほど、元の馴染みは損なわれる。


だが、この外套は――


指先は、境目を探して、見つけられなかった。一筋の乱れもない。長く使い込んだ馴染みが、そのまま残っている。


壊してはいない。無理に押し込めたのでもない。まるで、最初からそこにあるのが当然のように、光が通っている。


『……なぜ、馴染む』


理屈が、追いつかない。


「……これは」

「拒まれなかったから、少し加護を入れておいたわ」


シルヴィーンは軽い声で答えた。


「歪みへの耐性は上がってるはずよ」


拒まれなかったから……彼女は、それ以上のことを何も考えていない。


その時――


「これは……」


入口にセヴァンが立っていた。口元にはいつもの笑みがあるが、その視線は外套から動かなかった。


「……国宝級ですね」

「えっ?」


シルヴィーンが眉を寄せる。


「他人の調律へ別人の力を注いで、元の流れが一切崩れない。……そんな話は、聞いたことがありません」


シルヴィーンは、少しだけ首を傾げた。それから、セヴァンの肩へ視線を移す。


「あなたの外套も、同じ守護者用でしょう」

「ええ、まあ」

「見せて」


言うが早いか、シルヴィーンはセヴァンの外套の裾へ指を伸ばした。セヴァンが動くより早く、指先へ淡い光が滲み、外套へ触れる。


――閉じる。


術路が硬く縮み、押し返してくる。入るな、と拒絶する感触が、指先を弾いた。シルヴィーンの指が、止まる。


「……閉じたわ」

「ええ。それが普通です」


セヴァンの声は、いつもと変わらない。ただ、眼鏡の奥の目だけが、笑っていなかった。


「高位の装備は、持ち主以外を拒みます。私の外套も、水の守護者の外套も、同じ織物です。同じ機関が、同じ手順で仕立てたものですよ」


沈黙が落ちる。


シルヴィーンの視線が、レヴィンの手にある外套へ戻った。

深い青緑の布地。その奥で、白銀が静かに沈んでいる。


「……では、こちらだけなのね」


レヴィンも、セヴァンも、答えなかった。


シルヴィーンは、なぜ、とは訊かなかった。

訊いたところで、答えが返らないことは分かっていた。ただ――拒まれたものは拒まれた、それだけのことだと、彼女の中では処理が済んでいた。


「なら、上から重ねるわ」

「……は?」


シルヴィーンは、再びセヴァンの外套へ指を伸ばす。

今度は、術路へ触れない。布の外側、織り目の表層へ、独立した加護を薄く敷いていく。既存の調律とは、一切交わらない。

淡い光が、外套の表面を撫でるように流れ、そこへ留まった。


「これでいいわ」


セヴァンが、珍しく数秒黙った。


「……姫君。なぜ、私の外套にまで?」


シルヴィーンは、当然のことのように答える。


「あなたも平気で歪みの中へ入るじゃない」

「…………」

「歪みへの耐性は、上げておいた方がいいでしょう」


それだけ言って、シルヴィーンは踵を返した。


「じゃあ、返したから」


扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。


応接室に残されたのは、受け取った外套を腕に掛けたまま動かないレヴィンと、自分の外套の裾を摘まんだまま立ち尽くすセヴァンだった。

セヴァンが、ゆっくりと息を吐く。


「姫君は、守るとは一言も仰いませんでしたね」


返事はない。

セヴァンは眼鏡を押し上げ、レヴィンの腕に掛かったままの外套へ視線を落とした。


「……加護は外さないので?」


レヴィンは、外套から目を上げない。


「……調律に異常はない」

「ええ、そうですね」

「除く必要がない」

「ええ」


セヴァンは、笑った。


今度は、目も少しだけ笑っていた。


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