第1話 空から落ちてきた姫
朝の光が、ふっと翳った。
白い石畳へ、影がひとつ落ちる。
見上げた空――白亜の尖塔から、それは落ちてくる。
人だ。
「……シルヴィーン様!?」
隣を歩いていた男の声が、わずかに強張った。
その声に、レヴィンは落ちてくる少女へ目を凝らす。朝の光に煌めく銀青の髪。その傍らでもつれる、小さな影。
少女の姿を捉えた次の瞬間には、レヴィンの視線は落下の軌道へ移っていた。
落ちてくる少女の指先には光が滲み、宙に何かが描かれる。だが、光は形にならない。滲んだ光は、まるで誰かに払われているように、指のあいだをすり抜けていく。
それでも、少女の動きは不思議なほど静かだった。落下しているというのに、取り乱した様子はない。
揺れているのは少女ではなく、その身を包む光だけだった。
少女の顔の上半分は、白を基調とした繊細な細工の仮面で覆われている。中央に埋め込まれた青い宝石が、朝の光を鋭くはね返し、その奥にある本物の青い瞳が地上の二人を認め、見開かれる。
「……サイラス、よけて! そこのあなたも!」
焦りで鋭くなる声。落下していく恐怖の最中にありながら、少女の視線は、二人を巻き込まないか、その足元へと向けられていた。
少女の身体が、空中で不自然に傾く。
そのときにはもう、レヴィンは彼女の真下に滑り込んでいた。迷いなく、ただ落下線を見据え、音もなく身体の重心を移動させる。半歩で位置を合わせ、右手をすっと上げる。
それに応じるように、大気中の水分が陽光を浴びて、薄い水の膜となって重なった。水は衝撃を受け止めない。ただ、傾いた軌道に寄り添い、落下の勢いを外側へと滑らせていく。
傷つけないためだけの、最小限の魔術だ。
水の守護者。精霊を操る魔術士の中で、最も力ある五人のひとり。その男が選んだにしては、あまりに小さな術だった。
指先から滲んだ光の名残を透かしながら、少女の落下が静かにほどけていく。
レヴィンは両腕を伸ばし、少女の身体を受け止める。その動きは、落ちてくる少女よりもなお静かだった。
受け止めた瞬間、淡い陽だまりのような香りが掠め、レヴィンの呼吸がほんのわずかに止まる。嗅いだことはない。それなのに、どこか懐かしい香りだ。
腕の中におさまった身体は、見た目の華奢さのとおり、驚くほど軽い。その背が、恐怖の余韻と、誰も傷つけずに済んだ安堵から、小さく震えていた。
遅れて、銀色の猫が四肢を揃え、軽やかに石畳へ着地する。
レヴィンの腕の中で、少女は一度だけ瞬く。
仮面の奥の青い瞳が、至近距離からレヴィンの顔を映し出した。深い緑の髪。同じ色の瞳。整いすぎた面立ちには中性的な甘さはなく、凪いだ湖面のような眼差しには、感情の影が薄い。それでいて、不思議と冷たさは感じさせなかった。
「……ありがとう」
少し掠れた、小さな声。けれど、その胸の上下だけが少し浅く、速い。
少女が身を起こすのに合わせ、レヴィンは腕を緩め、石畳へ下ろした。少女の白い指先が、ふと、レヴィンの衣服の袖に触れる。
その瞬間、少女の身体の動きがぴたりと止まり、仮面の奥の瞳が、わずかに見開かれる。
『……水……?』
「シルヴィーン様、何をしているんです?」
一歩進み出た男の声が低く落ち、逃がさない視線でシルヴィーンをまっすぐに見据える。
ハイランディア神殿――通称「光の神殿」の神官長、サイラス。整えられた金の髪が肩先で揺れ、物腰は穏やかだが、その目はよく動き、周囲を絶えず確かめている。
「なぜ落ちてくるんです。……なぜ、光が形にならなかったんです」
その言葉にシルヴィーンは少しだけ目を伏せ、足元へ視線を落とす。銀色の小さな猫が、丸い瞳でじっと彼女を見上げていた。
「……この子」
そう言ってシルヴィーンは身を屈め、小さな猫を抱き上げた。
抱き上げられた猫は、両の手のひらにちょうど収まるほどの大きさで、なめらかな銀の毛並みに、朝光とは違う淡い光が滲んでいる。普通の猫でないことは、見る者が見れば一目で分かる。
猫は抵抗せず、細い腕の中で満足げに目を細め、喉を鳴らしている。その猫を、シルヴィーンはサイラスの顔の前へと突き出す。
「文句はこの子に言って」
「は?」
サイラスが訝しげに眉を跳ね上げる。
シルヴィーンは、先ほどの揺れを隠すように、肩を竦めてみせた。
「落ちた原因よ」
サイラスの視線が、目の前の猫へと向けられる。
滑らかな銀色の毛並みに滲む淡い光。その異質さに、サイラスの眉間がわずかに寄る。だが猫は気にした様子もなく、すました顔でサイラスを見返していた。
「……順を追ってお願いします」
「尖塔の上で、この子と遊んでいたの。そしたら急に暴れ出して」
「はい」
サイラスは頷き、続きを促す。
「爪が服に引っかかって、そのまま一緒に。落ちながら止めようとしたのだけれど、光が言うことを聞かなくて」
そこまで言って、シルヴィーンは小首を傾げた。
「……なんでかしら?」
他人事のように首を傾げる少女の視線を追って、サイラスの目が再び猫へ戻る。だが、猫は目を細めたまま、長い尻尾をゆったりと左右に揺らすだけだった。
「……その猫は、本来あなたの側にあるべきものではありません」
「そう。じゃあ、返しておいて」
シルヴィーンはそれだけ告げて、猫をサイラスの胸元へ押し付け、歩き出す。
一度も振り返らず、足音だけが遠ざかっていく。
残されたのは、猫を抱えたまま硬直しているサイラスと、その背中を黙って見つめていたレヴィンだった。
やがて猫は、不満そうに一度だけ短く鳴くと、サイラスの腕からするりと抜け出した。軽やかに石畳へ降り立ち、迷いなくレヴィンの足元へ歩み寄る。黒いブーツに身体を擦り寄せ、得意げに見上げる。
レヴィンの視線が、一瞬だけ猫へ落ちるが、すぐに逸らされる。それが不服だったのか、猫はもう一度鳴くと、今度は少し強く、ブーツへ身体を押しつけた。
サイラスが深く息を吐き出し、レヴィンの足元から猫を抱き上げた。
「……光の守護者が連れている、聖獣でしょうか」
聖獣――精霊が、人ではなく獣へ加護を与えた稀有な存在。神殿でも、伝え聞くばかりで実物を見た者は少ない。
「そう見える」
サイラスは腕の中の、光を帯びた毛並みを見下ろし、眉間の皺を深める。
「従っているというより……なんというか……」
言葉を濁すサイラスの横で、猫はただ退屈そうに欠伸をした。
「懐いているようにしか見えませんね」
「そのようだな」
レヴィンは短く応じる。
だが、彼の緑の瞳は、すでに遠ざかっていく銀青の髪の残像を追っていた。
サイラスが、白亜の尖塔を振り返る。それから、小道を挟んで向かいに建つ、黒鉄の建物へ目をやった。
「……会議に、遅れますね」
祈る者と、使う者。今日は、その二つが卓を挟んで向かい合う日だった。




