プロローグ
遥か昔の話。
今ではもう、語り手の名前すら忘れられた、古い古い伝承。
世界がまだ、神の思念に満ちていた頃。大地を歪ませ、人を呑む災厄に抗うため、五人の若者が立ち上がった。
精霊の加護を受け、その力を地上に下ろすことを許された存在。人々は彼らを神子と呼んだ。
精霊が、なぜ五人を選んだのか。
なぜ、人の子に己の力を託したのか――その理由は定かではない。
光、水、風、炎、大地。
それぞれの加護を受けた五人。
五人が何を選び、何を失ったのか――それを覚えている者は、もういない。
* * *
世界が、白く灼けていた。
崩れていく世界の中で、光だけが静かに瞬いている。
その中心には、世界をただ静かに見つめる少女がいた。
少女は青い瞳を一瞬だけ伏せる。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるような、小さな呟きだった。
その言葉とともに、少女の指先から、髪から、足元から、光が溢れ出す。
世界を繋ぎ止めるための光が、広がっていく。
隣に立つ青年は、その光がどこから来ているのか、彼女が何を引き換えにしているのかを、最初から知っていた。
知っていて、それでも一瞬、声が出なかった。
「やめろ」
制止の声に、彼女が振り返る。
「大丈夫。救えるわ」
恐れを感じさせない、穏やかな笑みを浮かべている。
こんな時でさえ、彼女はいつもと同じように、微笑んでいる。
「そうじゃない」
絞り出した声は、届かない。
水は、あらゆるものを繋ぐ。
流れを変え、傷を癒し、命を巡らせる。
何でもできるはずだった。
なのに、目の前のたった一人が、止められない。
すぐ隣にいる。手を伸ばせば、触れられる。
それでも、止められなかった。
伸ばした手が、光に触れた。
熱くはない。ただ、あたたかい。
陽だまりのような、オレンジの花の香りのような、どこか懐かしい温もり。
伸ばした指に、彼女がそっと指を絡めた。
次の瞬間、光が弾けた。
絡めた指が、ほどけていく。
ほどいたのは、彼女だった。
足元の感触が消え、彼女が遠ざかっていく。
いや――違う。
遠ざかっているのは、彼女ではない。自分ひとりだけが、元の世界へ押し戻されていく。
繋がる音がした。
砕けかけた空が、大地が、ひとつずつ元の場所へ戻っていく。
ただひとつを除いて、すべてが救われていく。
「あなたは、生きて」
最後に届いた声だけが残った。
指先には、まだ温もりが残っているのに、もう何も触れていない。
わずかに残っていた温もりさえも、ゆっくりと消え去っていく。
* * *
世界は救われ、緩やかな時間が流れ始める。
人々は五人の若者を讃え、五人が愛した地に、聖五大国が誕生した。
光の国・ハイランディア
水の国・ラヴァーナ
風の国・ルシタニア
炎の国・アポロニア
大地の国・ヴェルディア
美しく語り継がれる、五人の若者が世界を救った物語。
聖五大国の始まりの物語。
光の神子が、命を捧げて世界を繋ぎ止めたこと。その傍らで、涙を流した神子がいたことは語られない。
残された四人の神子がその後、何をなしたのか、どこへ消えたのかも、知る者はいない。
* * *
長い時が流れる。
水は、巡る。
光も、巡る。
悠久の時を越え、すべてが静かに動き出す。
ただひとつ――
オレンジの花の香りを懐かしく思う、その理由を思い出す日が来ることを願って。




