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4/5

白い皮と黒い血

白角の神鹿の皮は、思ったよりも厚かった。


毛は柔らかい。


指を通すと、雪に触れているような感触がある。


けれど、その下の皮は強い。


刃を入れても、簡単には開かない。


朔太郎は、刃先の角度を少し変えた。


力で切ろうとすると、毛ごと裂ける。


皮の下にある薄い膜を探し、そこに沿わせる。


「硬いな。」


迅が言った。


白角の神鹿の脚を押さえたまま、額に汗を浮かべている。


戦った直後だ。


息もまだ整っていない。


「硬い。」


「ゲームだと白毛って素材だった。たぶん、防具に使うやつ。」


「皮も使える。」


「だろうな。」


「でも、刃が悪い。」


「それ何回目だよ。」


「悪いものは悪い。」


朔太郎は、短い刃物を見た。


刃は厚く、細かい作業には向いていない。


牙掘りを捌くくらいならまだしも、白角の神鹿には足りない。


毛を避けて皮を開くには、もっと薄くてよく切れる刃がいる。


「村に、刃物あるかな。」


「聞いてみるか。」


迅は神官を見た。


神官はまだ膝をついたままだった。


祈りの言葉は止まっている。


ただ、白角の神鹿から目を離していない。


迅は声をかけた。


「神官さん。刃物はあるか?」


神官が顔を上げる。


「刃物、ですか。」


「こいつのじゃ足りない。もっとよく切れるやつ。できれば薄いやつ。」


神官の顔が強張った。


「白角様のために、刃を。」


「止めるか?」


迅の声が少し低くなる。


神官は答えなかった。


答えられなかった。


その代わり、村人の中から年配の女が一歩出た。


「村に、肉切り包丁ならあります。」


村人たちがざわつく。


女は周りを見ず、白角の神鹿を見ていた。


「羊を捌く時に使うものです。白角様に使うなど、許されることではないと思っていました。」


朔太郎は顔を上げた。


「よく切れる?」


女は少し驚いた顔をした。


「……はい。夫が研いでいます。」


「借りたい。」


女は神官を見た。


神官は目を閉じた。


しばらくして、小さく頷いた。


女は村人の若い男に指示を出した。


男は一度ためらい、それから走って森の外へ向かった。


迅は息を吐いた。


「助かったな。」


「うん。」


「それまでどうする。」


「血。内臓。」


「休まないのか?」


「休むと傷む。」


「だよな。」


朔太郎は白角の神鹿の腹へ視線を移した。


すでに破れている。


根砕き猪に裂かれた傷だ。


そこから血が溜まり、内側に熱が残っている。


肉が傷む前に、抜けるものは抜く。


ただし、雑に開けば皮も肉も使えなくなる。


「腹、開く。」


「俺は?」


「押さえる。あと、こぼれるから避けて。」


「何が。」


「内臓。」


「言い方。」


「出る。」


「もっと悪い。」


迅は顔をしかめながらも、白角の神鹿の身体を押さえ直した。


朔太郎は腹の裂け目に手を入れた。


村人たちから小さな悲鳴が上がる。


神官も唇を噛んだ。


朔太郎は気にしなかった。


いや、気づいてはいた。


ただ、今は手元の方が大事だった。


温かい。


ぬるい血が手首までまとわりつく。


裂けた筋肉の下に、傷ついた膜がある。


奥に、胃袋らしい重み。


朔太郎は指先で位置を探った。


「やっぱり胃がある。」


「まだ言うか。」


「中身もある。」


「草か?」


「草。木の芽。あと、固い実。」


迅は神官を見た。


「神官さん。白角様って、何を食べるんだ?」


神官は一瞬、答えに詰まった。


「森の恵みを召し上がると伝えられています。」


「草食ってことか。」


「そのような言い方は。」


「悪い。」


迅は謝ったが、神官はそれ以上責めなかった。


朔太郎は胃を傷つけないように、周りの膜を外していく。


「ジン。」


「何だ。」


「これ、食べられるところ多い。」


「神鹿の肉か。」


「傷んでなければ。」


「食うの、村人嫌がるんじゃないか。」


朔太郎は手を止めた。


村人たちを見た。


誰も答えない。


白角の神鹿を食べる。


その言葉を考えるだけで、空気が重くなる。


だが、白角の神鹿の身体は大きい。


肉は膨大にある。


放っておけば腐る。


腐れば、また獣が来る。


朔太郎は言った。


「食べないなら、埋めるか燃やす。」


神官が震える声で言う。


「燃やすなど。」


「じゃあ、腐る。」


誰も言わなかったことを、朔太郎は言った。


村人の何人かが顔を伏せる。


迅は頭を掻いた。


「サク、もう少し言い方。」


「他にある?」


「ある。たぶん。」


「じゃあ言って。」


「えー……。」


迅は困った。


戦闘の方がずっと簡単だった。


敵が来る。


避ける。


斬る。


倒す。


それでいい。


だが、死んだ神獣をどう扱うかは、剣で解決できない。


迅は神官へ向き直った。


「このままにしておけないのは分かるよな。」


神官は黙って頷いた。


「なら、選ぶしかない。捨てるか、燃やすか、埋めるか、使うか。」


「使う。」


神官は、その言葉を繰り返した。


まるで、口にするだけで罪になると思っているようだった。


朔太郎は白角の神鹿に手を置く。


「死んだものは、使えるところを使った方がいい。」


「それが、あなたの考えですか。」


「うん。」


「祈りは。」


「分からない。」


神官の目が細くなる。


朔太郎は続けた。


「俺は祈り方を知らない。」


森が静かになった。


「でも、腐らせない方法は少し分かる。」


神官は息を呑んだ。


迅も、また少し驚いた顔をした。


朔太郎は本当に、何かを説得しようとしているわけではない。


信仰を壊したいわけでもない。


ただ、自分ができることとできないことを分けているだけだった。


「祈るなら、そっちはやって。」


朔太郎は神官を見る。


「俺は、こっちをやる。」


神官は白角の神鹿を見た。


それから、自分の手を見た。


震えている。


何もできない手だった。


祈ることはできる。


だが、目の前の身体を守ることはできない。


神官は深く息を吸った。


「……祈りは、私が。」


「うん。」


「白角様の身を、これ以上穢さぬように。」


「うん。」


「あなたは。」


神官は言葉を探した。


「あなたは、腐らせぬように。」


朔太郎は頷いた。


「分かった。」


迅が小さく笑った。


「役割分担だな。」


「うん。」


「俺は?」


「押さえる。」


「ずっとそれかよ。」


「あと、獣が来たら止める。」


「急に重いな。」


「戦闘好きだろ。」


「好きだけど、連戦は疲れる。」


「そうか。」


「気遣い薄いな。」


森の外へ走った若い男が戻ってきた。


息を切らし、布に包まれた包丁を抱えている。


その後ろに、さらに数人の村人が続いていた。


手桶。


縄。


布。


木の板。


朔太郎が頼んだわけではない。


しかし、女が集めさせたのだろう。


年配の女は朔太郎の前に膝をつき、包丁を差し出した。


「これを。」


朔太郎は布を開いた。


刃はよく研がれていた。


厚みはあるが、今の短い刃物よりずっといい。


手入れされている。


大事に使われてきた道具だった。


「借りる。」


「はい。」


「汚れる。」


「道具ですから。」


女はそう言った。


声は震えていたが、目は逸らさなかった。


朔太郎は少しだけ目を細めた。


「いい道具だ。」


女の顔がわずかに変わった。


悲しみの中に、ほんの少しだけ誇りのようなものが混じる。


「夫が、毎晩研いでおります。」


「後で洗って返す。」


「はい。」


迅が横から言った。


「サク。お前、道具相手だとちょっと丁寧だよな。」


「道具は大事。」


「人も大事にしろ。」


「してる。」


「してるか?」


「たぶん。」


「たぶんかよ。」


朔太郎は包丁を握った。


重さを確かめる。


刃の入り方を想像する。


短い刃物より、ずっとやりやすい。


「ジン。」


「はいはい、押さえるな。」


「うん。」


迅は白角の神鹿の前脚を押さえた。


村人たちは距離を取ったまま見ている。


神官は祈り始めた。


今度の祈りは、さっきまでとは違った。


神にすがる祈りではない。


死者を見送る祈りに近かった。


朔太郎は腹の裂け目から刃を入れた。


今度はよく切れた。


皮の下を開き、傷んだ血を外へ逃がす。


手桶を近くへ寄せる。


村人の男が震えながらも手桶を支えた。


黒ずんだ血がそこへ流れる。


匂いが強くなる。


何人かが口元を押さえた。


朔太郎は顔をしかめない。


ただ、少しだけ鼻で息をするのをやめた。


「この血、使える?」


迅が聞いた。


「分からない。」


「ゲームだと聖血石って素材があった。」


「石?」


「血が固まった素材。聖属性強化に使う。」


朔太郎は手桶に溜まる血を見た。


赤い。


少し光っているようにも見える。


ただ、神の光というより、血そのものが熱を持っている感じだった。


「固まるかも。」


「どうする?」


「分ける。」


「何に。」


「綺麗な血と、悪い血。」


迅は手桶を見た。


「見分けられるのか?」


「匂いが違う。」


「お前、鼻もいいのかよ。」


「悪い血は臭い。」


「それは分かりそう。」


朔太郎は村人に指示を出した。


「桶、もう1つ。」


村人は神官を見た。


神官は祈りを止めず、小さく頷いた。


すぐに別の桶が運ばれる。


朔太郎は血の色と匂いを見ながら、流す先を分けた。


濁った血。


腹の中で傷みかけた血。


まだ赤く、温かい血。


迅はそれを見て眉を上げる。


「ゲームだと、ボタン押したら全部同じ素材だったんだけどな。」


「雑だな。」


「ゲームに言うな。」


「雑だろ。」


「まあ、今見ると雑だな。」


迅は小さく笑った。


画面の中の素材名。


白角の神鹿の血。


白角の神鹿の皮。


白角の神鹿の角。


ゲームでは、それで終わっていた。


だが、目の前には違いがある。


傷んだ血。


使えそうな血。


切りやすい皮。


傷のある皮。


割れやすい角。


古傷の残る骨。


同じ名前でまとめるには、あまりにも違いすぎる。


朔太郎が腹の奥を見た。


「内臓、傷んでるところがある。」


「猪にやられたところか。」


「うん。そこは捨てる。」


神官の声が少し止まった。


朔太郎は続ける。


「全部は使えない。」


「……そうですか。」


「でも、心臓は残ってるかも。」


神官が顔を上げた。


「心臓。」


「たぶん。」


迅が低く言う。


「ゲームだと、白角の神鹿の心臓はレア素材だった。」


「何に使う?」


「高位の回復薬。あと、聖属性武器の強化。」


村人たちがざわめいた。


回復薬。


その言葉には、彼らにも分かる価値があったらしい。


神官の目が揺れる。


「白角様の御心を薬に。」


「嫌ならやめる。」


朔太郎はすぐに言った。


神官は口を閉じた。


嫌だと言えば、それで終わる。


朔太郎はたぶん、本当にやめる。


無理に奪うつもりはない。


だが、使わなければ腐る。


またその選択に戻る。


神官は震える手を握りしめた。


「それで、救える命があるのですか。」


迅が答える。


「ゲーム知識でよければ、ある。かなり強い回復素材だった。」


「今も同じとは限らない。」


朔太郎が言った。


「そうだな。」


迅は頷いた。


「でも、何かの力はあると思う。白角の神鹿は、ただの獣じゃない。」


朔太郎も頷いた。


「ただの獣じゃない。」


神官が朔太郎を見る。


「あなたも、そう思うのですか。」


「うん。」


「神ではないと、言ったのに。」


「神じゃない。でも、普通でもない。」


朔太郎は白い毛に触れた。


「身体が違う。」


「身体。」


「毛も、血も、肉も、骨も。たぶん、全部。」


神官は黙った。


朔太郎の言葉は、神官の信仰とは違う。


それでも、白角の神鹿を軽んじているわけではないと、少しずつ分かってきた。


神ではない。


けれど、価値がないわけではない。


祈る意味がなくなるわけでもない。


ただ、死んだ身体は身体として扱わなければならない。


神官は静かに言った。


「心臓を、取り出してください。」


村人たちが息を呑む。


神官は白角の神鹿に頭を下げた。


「それが誰かを救うなら、白角様もお許しになるはずです。」


朔太郎は頷いた。


「分かった。」


迅は小さく息を吐いた。


「サク。できるか?」


「たぶん。」


「またそれ。」


「見てから。」


「怖いな。」


「怖いなら見ない方がいい。」


「見る。俺も知らなきゃまずい。」


迅は白角の神鹿の身体を押さえ直した。


朔太郎は腹を開いていく。


血の匂いが濃くなる。


内臓の熱が外へ出る。


村人たちは顔を青くしながらも、目を逸らさない者が増えていた。


神官の祈りが続く。


朔太郎は、傷ついた臓器を避け、奥へ手を進めた。


心臓は大きかった。


人間のものとは比べものにならない。


両腕で抱えるほどある。


表面には細い白い筋が走っていた。


血管ではない。


神経でもない。


薄く光る、木の根のような模様だった。


迅が息を呑む。


「これ、ゲームのアイコンと違うな。」


「そうなのか。」


「ああ。もっと石っぽい素材だと思ってた。」


「石じゃない。」


「見れば分かる。」


朔太郎は心臓に触れた。


まだ温かい。


止まっているはずなのに、奥に熱が残っている。


一瞬、指先が小さく痺れた。


朔太郎は眉を寄せた。


「変だ。」


「何が。」


「止まってるのに、動きそう。」


迅の顔が険しくなる。


「危ない素材か?」


「分からない。」


「取り出せるか?」


「やる。」


朔太郎は心臓につながる太い管を探した。


切る順番を間違えると、血が溢れる。


傷つければ、使える部分が駄目になるかもしれない。


刃を入れる場所を見極める。


ひとつ。


ふたつ。


みっつ。


切るたびに、白い筋がわずかに光った。


神官の祈りが震えた。


村人の女が口元を押さえる。


迅が低く言う。


「光ってるぞ。」


「見えてる。」


「大丈夫か?」


「分からない。」


「やめるか?」


「今やめる方が危ない。」


朔太郎は最後の管に刃を入れた。


その瞬間、心臓が一度だけ震えた。


どくん、と音がした。


止まっていたはずのものが、最後に脈を打った。


村人たちが悲鳴を上げる。


神官が祈りの言葉を強くした。


迅も思わず剣に手を伸ばした。


朔太郎だけが、手を止めなかった。


「動いた。」


「分かってる!」


「でも、死んでる。」


「本当か?」


「たぶん。」


「たぶんで持つな!」


朔太郎は心臓を両手で支えた。


重い。


熱い。


血で滑る。


迅が慌てて手を貸す。


「うわ、重っ。」


「落とすな。」


「落とすかよ!」


2人で心臓を持ち上げ、木の板の上へ置いた。


白い筋が淡く光っている。


呼吸するように、ゆっくり明滅していた。


森の空気が変わった。


血の匂いの中に、草の匂いが混じる。


白角の神鹿の周囲だけ、少し風が澄んだように感じた。


神官が涙を流していた。


「白角様の御心が……。」


迅は板の上の心臓を見て、声を落とした。


「これ、ただの素材じゃないな。」


「うん。」


「ゲームだと分からなかった。」


「そうか。」


「サク。」


「何。」


「これ、どうする。」


朔太郎は少し考えた。


「冷やす。」


「冷やす?」


「傷む。」


「こんな光ってても傷むのか。」


「心臓だし。」


「心臓だし、で片づけていいのかこれ。」


朔太郎は村人を見る。


「冷たい水ある?」


村人たちは互いに顔を見合わせる。


年配の女が答えた。


「村に井戸があります。」


「綺麗な布も。」


「あります。」


「桶。大きいやつ。」


「はい。」


神官が立ち上がった。


「運ばせます。」


朔太郎は頷いた。


「早めに。」


「はい。」


神官は村人たちに指示を出した。


さっきまで誰も動けなかった。


だが、今は少しずつ動き始めている。


桶を運ぶ者。


布を取りに走る者。


黒い獣の死体を遠ざけようとする者。


根砕き猪の牙に触れて、慌てて手を引っ込める者。


迅はその様子を見た。


「なんか、流れ変わったな。」


「そう?」


「さっきまで全員固まってた。」


「動かないと傷む。」


「お前の基準で世界が動き始めてるの、ちょっと怖いぞ。」


朔太郎は答えなかった。


白角の神鹿の身体に向き直る。


心臓を取り出しても、まだ終わりではない。


皮。


角。


腱。


骨。


肉。


血。


使えるものは多い。


ただし、時間がない。


「ジン。」


「何だ。」


「次、皮。」


「さっきも聞いたな。」


「うん。」


「その前に、俺の腕見ない?」


朔太郎は迅の腕を見た。


袖が裂けている。


肩から腕にかけて、赤く腫れていた。


根砕き猪にかすられたところだ。


骨は折れていない。


だが、打撲は強い。


「動く?」


「動く。」


「じゃあ後。」


「予想通りすぎる。」


「冷やした方がいい。」


「心臓と一緒に?」


「別で。」


「当たり前だ。」


迅は座り込み、疲れたように笑った。


「でもまあ、まだ動ける。」


「無理なら言って。」


「お、心配か?」


「倒れたら邪魔。」


「違った。」


朔太郎は少しだけ首を傾けた。


「怪我したら困る。」


迅は一瞬黙った。


それから、口元を緩めた。


「それでいい。」


「そうか。」


「そうだ。」


森の奥から、遠く獣の声がした。


今度は近くない。


だが、血の匂いは広がっている。


いつまた何かが来るか分からない。


迅は立ち上がった。


「やっぱ休めねえな。」


「休んでいい。」


「誰が止めるんだよ。」


「村人。」


迅は村人を見た。


震えながら槍のような農具を持っている男が数人いた。


迅は少し考えた。


「無理だな。」


「うん。」


「そこは否定しろ。」


「無理そう。」


「正直すぎる。」


迅は剣を握った。


「俺が見る。お前は続けろ。」


「うん。」


「ただし、次にでかいのが来たら一回逃げるぞ。」


「白角は?」


「持てるだけ持つ。」


朔太郎は白角の神鹿を見た。


大きすぎる。


持てるだけ。


それではほとんど置いていくことになる。


「駄目だな。」


「お前が言うと思った。」


「置いていけない。」


「だから、逃げ道も考えろ。」


朔太郎は黙った。


迅は続ける。


「全部取るのは無理だ。今ここで全部守るのも無理だ。なら、優先順位を決めろ。」


「優先順位。」


「そう。心臓は取った。次は何だ。」


朔太郎は白角の神鹿を見た。


皮。


角。


血。


肉。


腱。


骨。


内臓。


全部は無理。


時間が足りない。


道具も足りない。


人手も足りない。


なら、傷むものから。


ただし、価値の高いものもある。


「皮。」


「理由は。」


「傷が広がる前に剥ぐ。肉は後で切れる。骨も残る。角も後。」


「心臓の次が皮か。」


「うん。」


「分かった。」


迅は頷いた。


「じゃあ、皮を取ったら一回村へ運ぶ。村で続きだ。」


朔太郎は顔を上げた。


「運べる?」


「全部は無理。でも、村人がいる。縄も板もある。白角の神鹿全部は無理でも、部位ごとなら運べる。」


「ここでやった方が早い。」


「ここは危ない。」


朔太郎は森の奥を見た。


血の匂い。


倒れた牙掘り。


巣掘り牙。


根砕き猪。


確かに、ここはもう危ない。


「村に運ぶ。」


「そうだ。」


「でも、皮はここである程度開く。」


「そこは譲らないんだな。」


「固まると大変。」


「分かった。」


迅は神官を呼んだ。


「神官さん。村まで運ぶ準備をしてくれ。全部は無理でも、こいつをできるだけ運びたい。」


神官は一瞬、白角の神鹿を見た。


それから頷いた。


「村の者を集めます。荷車も。」


「あるのか?」


「森の外れまでなら入れます。」


「助かる。」


神官は村人へ指示を出す。


その声には、さっきより力が戻っていた。


泣いていた者たちも動き始める。


神として祈るだけではなく、死んだ白角の神鹿を運ぶために。


朔太郎は皮に刃を入れた。


白い毛の下を、静かに開いていく。


迅は周囲を見る。


神官は祈りと指示を続ける。


村人たちは震えながらも働く。


白角の神鹿の心臓は、木の板の上で淡く光っている。


この世界で最初に手に入れた神獣素材。


それはドロップではなく、血に濡れた手で取り出したものだった。


朔太郎は、眠そうな目で刃を進める。


「ジン。」


「何だ。」


「ゲームだと、皮はどう取る?」


迅は少し笑った。


「倒したら勝手に落ちる。」


「雑だな。」


「俺も今、そう思ってる。」


「じゃあ、覚えて。」


「何を。」


「皮の剥ぎ方。」


「俺もやるのか?」


「押さえる時、知ってた方がいい。」


「結局押さえる係かよ。」


朔太郎は少しだけ考えた。


「あと、逃げる時にどこ持つか分かる。」


迅は黙った。


それから、真面目な顔で白角の神鹿の皮を見た。


「教えろ。」


「うん。」


朔太郎は刃先を少し浮かせた。


「ここは切らない。」


「なんで。」


「皮が裂ける。薄い膜だけ切る。」


「膜。」


「肉と皮の間。力入れすぎると駄目。」


「難しいな。」


「うん。」


「お前、よくできるな。」


「慣れ。」


「何に慣れてたんだよ。」


朔太郎は答えなかった。


刃を進める。


白い皮が、少しずつ身体から離れていく。


森の中で、祈りと血の匂いと刃の音が混じる。


それは冒涜にも見えた。


弔いにも見えた。


作業にも見えた。


朔太郎にとっては、その全部だった。


死んだものを前にして、できることをする。


ただ、それだけだった。

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