森の奥から来るもの
木が折れる音は、近づいていた。
枝が裂ける。
幹が軋む。
葉が揺れ、鳥が飛び立つ。
村人たちは後ずさった。
神官も、白角の神鹿のそばから離れきれずにいたが、顔色は明らかに悪い。
迅は剣を握ったまま、森の奥を見ていた。
笑っている。
けれど、目は笑っていない。
「サク。」
「何。」
「今から来るやつ、白角の神鹿を殺したやつだと思うか?」
朔太郎は白角の神鹿の腹に手を置いた。
裂けた傷口の周りを、指で押す。
皮の下に残った内出血。
骨の割れ方。
肉の潰れ方。
切られたというより、割られている。
噛まれたというより、押し裂かれている。
「たぶん。」
「嫌な返事だな。」
「重いやつだと思う。」
「重いやつ。」
「牙掘りじゃ無理。さっきの黒いやつでも無理。」
「じゃあ、何だよ。」
「知らない。」
「まあ、お前は知らないよな。」
迅は短く息を吐いた。
剣を構え直す。
足場を確かめるように、右足で土を踏んだ。
湿っている。
血も混じっている。
滑る。
迅は舌打ちした。
「足場悪いな。」
「こっち来ると、もっと悪くなる。」
「血か。」
「うん。」
「じゃあ、あっちで止める。」
迅は白角の神鹿から少し離れた。
黒い獣の死体を越え、折れた草の先へ出る。
そこなら村人たちからも少し離れる。
白角の神鹿の血も、まだ少ない。
朔太郎は手元に視線を戻した。
刃を入れた場所から、血がゆっくり流れている。
勢いは弱い。
心臓が止まっているから、押し出す力はない。
抜けるものだけを抜くしかない。
「ジン。」
「何だ。」
「長く無理なら、逃げて。」
「お前は?」
「これは置いていけない。」
迅が振り返った。
「置いていけないって、死体だぞ。」
「死体だから。」
「意味分かんねえ。」
「今やらないと駄目になる。」
「お前さあ。」
迅は呆れたように笑った。
それから、森の奥へ視線を戻す。
「まあ、そう言うと思った。」
木々の間から、影が見えた。
黒ではない。
土色だった。
いや、土をまとっているように見えた。
最初に見えたのは、太い前脚だった。
木の根のように曲がった爪が、地面に沈む。
次に、低い頭。
長い牙。
そして、肩の上に盛り上がった硬い皮。
その獣は、猪に似ていた。
ただし、猪というには大きすぎる。
背は迅の頭より高い。
胴は丸太のように太い。
口元から伸びた牙は、片方が大きく欠けていた。
欠けた断面には、白い毛と赤い肉片がこびりついている。
白角の神鹿のものだった。
迅は喉を鳴らした。
「……いたな。」
朔太郎は顔を上げた。
「猪?」
「たぶん、《根砕き猪》だ。」
「強い?」
「強い。つーか、本来は白角の森の奥にいる中型ボスだ。神鹿と縄張りが被ることはあるけど、白角の神鹿を殺すような相手じゃない。」
「殺してる。」
「だな。」
根砕き猪が鼻を鳴らした。
低い音が森に広がる。
村人のひとりが腰を抜かした。
神官が震える声で言う。
「山を掘る荒れ獣……なぜ、この森に。」
「知ってるのか?」
迅が聞いた。
神官は小さく頷く。
「白角様の森の外れに棲む獣です。木の根を食い、岩を砕き、森を荒らす。白角様がいる限り、こちらへは来ないはずでした。」
「その白角様が死んだから来たってことか。」
「違う。」
朔太郎が言った。
迅と神官が同時に見る。
朔太郎は白角の神鹿の傷口を見ていた。
「先に戦ってる。」
「何で分かる。」
「牙が欠けてる。あいつの牙に白い毛がついてる。腹の傷と合う。」
根砕き猪は、白角の神鹿の亡骸を見ていた。
村人でも迅でもない。
死んだ白い獣だけを見ている。
朔太郎は続けた。
「あれが来たから死んだ。」
神官の顔が歪んだ。
「白角様が、あの獣に敗れたと。」
「たぶん。」
「そんなはずは。」
根砕き猪が一歩進んだ。
地面が沈む。
迅は剣を構えた。
「話は後だ。サク、そいつ、どう見る?」
「猪。」
「それは分かる。」
「突っ込む。」
「それも分かる。」
「正面は無理。」
「だろうな。」
「牙、片方欠けてる。左に寄るかも。」
「どっちから見て左?」
朔太郎は少し黙った。
「向こうから見て。」
「助かる。」
根砕き猪が鼻を鳴らす。
前脚で土を掻く。
湿った土が大きく跳ねた。
牙掘りとは違う。
巣掘り牙とも違う。
掻いたというより、地面を削った。
迅は一歩下がる。
「村人、下がらせろ!」
神官が我に返ったように叫んだ。
村人たちが慌てて後ろへ下がる。
それでも、足がすくんで動けない者もいる。
迅は視線だけで確認した。
守る対象が多すぎる。
白角の神鹿の死体。
解体中の朔太郎。
神官。
村人。
自分。
笑う余裕が少し減った。
根砕き猪が動いた。
速い。
巨体が地面を削りながら突っ込んでくる。
迅は横へ跳んだ。
だが、根砕き猪の身体が予想より大きい。
避けたはずの肩が、迅の腕をかすめた。
衝撃が走る。
迅の身体が後ろへ弾かれる。
「ぐっ。」
剣は離さなかった。
足も止めなかった。
転がる前に片膝をつき、すぐ立つ。
左腕が痺れている。
「かすっただけでこれかよ。」
「骨は?」
朔太郎が聞いた。
「折れてない!」
「なら動ける。」
「雑!」
根砕き猪は止まらなかった。
そのまま木にぶつかる。
太い幹が軋み、根元から折れた。
木が倒れる。
村人たちが悲鳴を上げる。
迅は顔をしかめた。
「こんなの、まともに受けたら死ぬな。」
「受けない方がいい。」
「分かってる!」
根砕き猪が向きを変える。
身体が重いせいか、旋回は遅い。
欠けた牙の側へ少し傾く。
朔太郎がそれを見ていた。
「曲がりにくい。」
「どっち。」
「欠けた方。」
「左に寄るって言ったよな。」
「うん。たぶん、そっちに体重かけたくない。」
「弱点あるか?」
「足。」
「全部そうだろ!」
「前脚、太すぎる。後脚、押し出してるだけ。」
「後ろか。」
「でも近づくと危ない。」
「知ってる!」
根砕き猪が再び突っ込む。
今度は迅も真正面には立たない。
早めに横へ逃げる。
だが、根砕き猪は途中で首を振った。
欠けていない牙が、横へ払われる。
迅は剣で受けた。
受けた瞬間、腕が痺れた。
身体ごと持っていかれる。
足が滑る。
血の混じった土で踏ん張りが効かない。
「まずっ。」
迅の背中が木に当たった。
根砕き猪が鼻を鳴らす。
すぐそこにいる。
突進の距離ではない。
だが、牙を振れば届く。
朔太郎が手元の刃を止めた。
「ジン。」
「分かってる!」
迅は木を背にして、息を止めた。
根砕き猪が頭を下げる。
正面から押し潰すつもりだ。
避ける場所は少ない。
右は木の根。
左は血で滑る斜面。
前は牙。
迅は笑った。
「こういうの、ゲームならタイミング合わせて回避なんだけどな。」
「ゲームじゃない。」
「知ってる!」
根砕き猪が踏み込む。
その瞬間、迅は木の根を蹴った。
真横ではない。
上へ跳ぶ。
根砕き猪の牙が木に刺さった。
幹が裂ける。
迅はその背中に落ちた。
ほんの一瞬だけ、乗った。
「硬っ。」
剣を振り下ろす。
刃が背中の皮に当たる。
弾かれた。
まるで濡れた革の下に石があるみたいだった。
根砕き猪が暴れる。
迅の身体が跳ねる。
「無理!」
迅は転がり落ちた。
肩から地面に落ち、息が詰まる。
根砕き猪は木から牙を抜こうとしている。
抜けない。
欠けていない牙が深く刺さっている。
朔太郎が顔を上げた。
「刺さった。」
「見りゃ分かる!」
「今なら足。」
「どの足!」
「右後ろ。浮いてる。」
迅は地面に手をついて起き上がった。
根砕き猪は暴れている。
前脚で地面を掻き、木を揺らす。
そのたびに、右後脚が少し浮く。
体重が前に寄りすぎている。
迅は息を吐いた。
「一回だけだな。」
「うん。」
「外したら?」
「潰れる。」
「だよな。」
迅は走った。
痛みはある。
左腕は重い。
肩も熱い。
だが、足は動く。
根砕き猪の横へ回り込む。
暴れる前脚を避ける。
土が飛ぶ。
爪が近くを掠める。
迅は低く身を沈めた。
右後脚の内側。
朔太郎が言った場所。
刃を入れる。
浅い。
皮が厚い。
「くそっ。」
迅は剣を引かず、角度を変えた。
筋肉の隙間を探す。
ゲームの当たり判定ではない。
今は肉の隙間を通すしかない。
「サク!」
「少し下。」
「早く言え!」
「今見えた。」
迅は剣を少し下げた。
刃が滑り込む。
手応えが変わった。
硬いものを避け、柔らかいものを裂いた感触。
根砕き猪が吠えた。
後脚が崩れる。
巨体が傾く。
牙が木から抜ける。
迅はすぐ離れた。
遅ければ潰されていた。
根砕き猪が横倒しになる。
地面が揺れた。
村人たちがまた悲鳴を上げる。
「倒したか?」
迅は息を荒くして剣を構える。
朔太郎は首を横に振った。
「まだ。」
根砕き猪は倒れたまま動いた。
前脚が強い。
後脚が一本使えなくても、前へ進む。
白角の神鹿の方へ。
朔太郎の方へ。
迅の顔色が変わる。
「サク、離れろ!」
朔太郎は白角の神鹿の首元に手を置いたまま、根砕き猪を見た。
近い。
だが、動きは鈍い。
牙は片方欠け、片方には木の破片が刺さっている。
口元から血が流れている。
左の目の上に、古い傷があった。
白角の神鹿との戦いでできたものではない。
もっと前の傷。
「しつこいな。」
朔太郎が言った。
「感想言ってる場合か!」
「頭、下がってる。」
「だから?」
「目、狙える。」
迅は一瞬だけ黙った。
それから、顔をしかめる。
「えげつねえな。」
「猪は頭硬い。」
「知ってる!」
根砕き猪が前脚だけで進む。
迅は後ろから追いついた。
背中は無理。
後脚も一本は切った。
なら、前に回るしかない。
迅は根砕き猪の横を走り抜けた。
朔太郎の前に立つ。
根砕き猪と白角の神鹿の間に入る。
根砕き猪が頭を上げる。
目が血走っている。
迅は剣を両手で握った。
「サク。」
「何。」
「こいつ、食えると思うか?」
「臭そう。」
「じゃあ素材用だな。」
根砕き猪が口を開けた。
迅は踏み込んだ。
牙の内側へ。
普通なら入らない場所。
噛まれれば終わる。
だが、左の牙は欠けている。
右の牙には木片。
噛み合わせは悪い。
朔太郎が見た通りだった。
迅は剣を突き出す。
狙うのは目。
根砕き猪が首を振る。
刃は目から少し外れた。
だが、目の上の古傷へ入った。
硬い皮が途切れている場所。
傷跡の下に、薄い部分がある。
刃が深く沈む。
根砕き猪が吠えた。
迅の耳が痛む。
だが、手を離さない。
さらに押し込む。
「倒れろ!」
根砕き猪の前脚が地面を叩いた。
一度。
二度。
三度。
そして、動きが鈍る。
巨体が傾いた。
迅は剣を抜いて横へ跳ぶ。
根砕き猪は、白角の神鹿のすぐ手前で倒れた。
土が跳ねる。
血が跳ねる。
白い毛に、黒い血が少しかかった。
朔太郎が眉を寄せた。
「汚れた。」
迅は地面に片膝をついた。
息が荒い。
髪に土がついている。
腕にも血がついている。
「俺の心配しろよ。」
「怪我は?」
「ある。」
「動ける?」
「動ける。」
「じゃあ大丈夫。」
「お前の基準、雑なんだよ。」
迅は笑った。
笑ってから、肩を押さえた。
痛そうだった。
朔太郎は立ち上がりかけた。
だが、すぐに白角の神鹿へ目を戻す。
迅がそれを見て、ため息をつく。
「いい。俺は後でいい。先にそっちやれ。」
「うん。」
「即答かよ。」
「血、止まってきてる。」
「分かったよ。」
神官が、倒れた根砕き猪を見ていた。
それから白角の神鹿を見る。
「これが……白角様を。」
声が震えている。
怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか分からない。
朔太郎は答えた。
「たぶん。」
「なぜ、白角様はこのような獣に。」
「怪我してた。」
神官が朔太郎を見る。
「前から傷がある。脚も悪い。歯も欠けてる。たぶん、長く戦える身体じゃなかった。」
「白角様が、弱っていたと。」
「うん。」
神官は言葉を失った。
村人たちも黙っていた。
彼らにとって白角の神鹿は、森そのものだった。
森を守るもの。
病を祓うもの。
獣を遠ざけるもの。
人の手が届かないもの。
だが今、目の前にあるのは、年を取り、傷を負い、戦って敗れた獣の身体だった。
神官が膝をつく。
祈るためではなかった。
力が抜けたように、土の上に膝をついた。
「では、私たちは何に祈っていたのです。」
迅は何も言えなかった。
ゲーム知識ならある。
白角の神鹿の分類。
攻略法。
素材名。
討伐報酬。
鎮静ルート。
それらなら語れる。
だが、今の神官に言える言葉は持っていなかった。
朔太郎は、白角の神鹿の首筋に触れた。
少し考えてから言った。
「これに。」
神官が顔を上げる。
「神じゃなくても、いたんだろ。」
「……。」
「森に。長く。」
朔太郎の声は低かった。
いつも通り、感情は薄い。
けれど、雑ではなかった。
「なら、祈ってたのは、間違いじゃないんじゃないか。」
神官の目が見開かれた。
迅も、少し驚いて朔太郎を見る。
「サク、お前。」
「何。」
「たまにまともなこと言うな。」
「たまに。」
「怒るところだぞ。」
「怒ってない。」
朔太郎はまた白角の神鹿に向き直った。
「でも、死んだら腐る。」
「台無しだよ。」
迅は笑った。
小さく、疲れた笑いだった。
神官はしばらく黙っていた。
やがて、震える手で額の銀の輪に触れた。
それから、白角の神鹿に深く頭を下げた。
「白角様。」
声はまだ震えている。
「どうか、お許しください。」
村人たちも、ひとり、またひとりと頭を下げた。
それは、解体を許した祈りなのか。
神でないことを認めた祈りなのか。
死んだ獣を見送る祈りなのか。
朔太郎には分からなかった。
ただ、誰も止めなかった。
朔太郎は刃を入れ直した。
白い毛の下に、赤い筋が開く。
血を抜く。
皮を傷つけないように、少しずつ開く。
迅は隣にしゃがみ込んだ。
「何すればいい。」
「押さえる。」
「またか。」
「動くと切りにくい。」
「俺、今ボス倒したんだけど。」
「うん。すごい。」
「軽いんだよなあ。」
それでも迅は、白角の神鹿の脚を押さえた。
手のひらに、まだ熱が残っている。
生きていたものの重さがあった。
ゲームでは、倒した敵は消えた。
素材が落ちる。
報酬画面が出る。
数字が増える。
それだけだった。
だが、この世界では違う。
倒れたものは残る。
血も、肉も、骨も、匂いも残る。
残るなら、扱わなければならない。
迅は、朔太郎の手元を見た。
眠そうな顔のまま、刃だけが迷わず進んでいく。
「サク。」
「何。」
「お前、やっぱ向いてるわ。」
「ゲーム?」
「違う。」
「じゃあ何。」
迅は少し考えた。
「この世界。」
朔太郎は手を止めなかった。
「嫌だな。」
「だろうな。」
「帰れるなら帰りたい。」
「俺もだよ。」
「そうか。」
「でも、帰るまで生きなきゃな。」
「うん。」
「食うものもいる。」
「うん。」
「素材もいる。」
「うん。」
「で、神獣はドロップしない。」
朔太郎は白角の神鹿の身体を見た。
死体は消えない。
光にもならない。
報酬画面も出ない。
ただ、そこにある。
「だから、解体する。」
迅は笑った。
「そういうことだな。」
森の奥では、まだ何かが動いている音がした。
血の匂いは消えない。
白角の神鹿の身体も、まだほとんど残っている。
やることは多かった。
朔太郎は刃を握り直した。
眠そうな目で、赤く濡れた白い毛を見る。
神ではない。
けれど、ただの獣でもない。
神として祈られ、森で生き、戦って死んだ、大きな獣。
その身体を、無駄にはしない。
「ジン。」
「何だ。」
「次、皮。」
「もう次行くのか。」
「傷む。」
「分かったよ。」
迅はため息をついて、白角の神鹿の脚を押さえ直した。
神官が祈りを続ける。
村人たちは震えながら、それでも目を逸らさなくなっていた。
森の中で、刃が静かに進む。
白角の神鹿は、もうドロップしない。
だから、朔太郎が捌くしかなかった。




