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2/5

神獣の血は赤い

森の奥から現れた黒い影は、牙掘りではなかった。


もっと大きい。


背は人の胸ほどあり、胴は低く、前脚が太い。


牙掘りに似ている。


ただし、口の裂け方も、肩の盛り上がりも、さっき倒したものよりずっと悪い。


黒い毛のあちこちに、白い毛が絡んでいた。


白角の神鹿のものだった。


迅は剣を構えたまま、目を細めた。


「親玉か。」


朔太郎は振り返らなかった。


白い獣の首元に刃を入れたまま、少しだけ手を止める。


「さっきのと同じ?」


「牙掘りの上位種だと思う。たぶん、《巣掘り牙》だ。序盤で出す敵じゃねえぞ。」


「強い?」


「強いけど、白角の神鹿を殺せるほどじゃない。」


「じゃあ違うな。」


「何が。」


「これを殺したやつ。」


迅は一瞬だけ、白い獣の傷へ目を向けた。


腹の裂け方。


背の毛の乱れ。


逃げた跡。


確かに、目の前の黒い獣だけでやった傷には見えない。


「じゃあ、こいつは血に寄ってきただけか。」


「たぶん。」


「厄介だな。」


巣掘り牙が唸った。


村人たちが悲鳴を上げて後ずさる。


神官が白角の神鹿の前に立とうとした。


迅が怒鳴る。


「下がれ!祈って止まる相手じゃねえ!」


神官の足が止まった。


巣掘り牙が地面を掻く。


湿った土がえぐれる。


さっきの牙掘りより深い。


迅は笑った。


「いいねえ。」


「楽しそうだな。」


「楽しいわけねえだろ。」


「顔。」


「顔は今関係ない。」


巣掘り牙が飛んだ。


速い。


黒い塊が、地面すれすれを滑るように迫る。


迅は受けなかった。


横へ跳び、剣を振る。


刃が肩に入る。


しかし、浅い。


毛と脂に止められた。


「硬いな!」


巣掘り牙が身体をひねった。


太い前脚が、迅の脇腹を狙う。


迅は剣を引き戻して受ける。


金属と爪がぶつかり、嫌な音がした。


迅の身体が横へ流れる。


足が土を削る。


「重っ。」


「前脚、さっきのより太い。」


「見りゃ分かる!」


「後ろ弱い。」


「どう弱い!」


「細い。曲がり方も浅い。たぶん、急に止まれない。」


「助かる!」


巣掘り牙が再び突っ込む。


迅は真正面で待った。


村人たちが息を呑む。


巣掘り牙の頭が下がる。


前脚が土に沈む。


次の瞬間、迅は後ろではなく、斜め前へ踏み込んだ。


黒い牙が脇を抜ける。


迅の剣が、獣の後脚を狙う。


刃が入った。


細い脚の腱が切れる。


巣掘り牙の身体が大きく傾いた。


止まれない。


そのまま地面を滑り、白角の神鹿の亡骸の近くまで転がった。


朔太郎がようやく顔を上げた。


「近い。」


「悪い!」


「血が跳ねる。」


「そこかよ!」


巣掘り牙は倒れたまま暴れた。


まだ死んでいない。


太い前脚で地面を掻き、身体を起こそうとする。


迅は追った。


だが、巣掘り牙の口が大きく開いた。


土と血を巻き込みながら、黒い牙が迅の脚を狙う。


迅は跳んだ。


一瞬遅れて、牙が空を噛む。


「こいつ、倒れてからも噛むのかよ。」


「首が長い。」


「先に言え!」


「今見た。」


「なら仕方ない!」


迅は笑っていた。


息は荒い。


腕も震えている。


それでも目は前を向いている。


戦いが好きな顔だった。


巣掘り牙が唸る。


白角の神鹿の血の匂いで、目が濁っている。


迅を見ているようで、見ていない。


ただ血に寄っている。


ただ肉に食いつこうとしている。


朔太郎は、白角の神鹿の首筋から手を離した。


「ジン。」


「何だ!」


「口の奥。」


「口?」


「泡が赤い。舌、切れてる。」


「だから?」


「噛む力、落ちてるかも。」


「試したくはねえな!」


「あと、左の牙が割れてる。」


迅は巣掘り牙を見た。


確かに、左側の大きな牙の先が欠けている。


白角の神鹿に噛みついた時に折れたのか。


それとも、もっと前からか。


「右から来るな。」


「たぶん。」


「たぶんは怖いんだよ!」


巣掘り牙が跳ねるように起き上がった。


後脚の片方は使えない。


それでも前脚だけで身体を引きずり、迅へ向かう。


右側の牙を前に出してくる。


迅はそれを待った。


一歩下がる。


もう一歩、下がる。


巣掘り牙が焦れるように口を開く。


右牙が迫る。


迅は剣を立てた。


牙を受けるのではない。


割れた左側へ踏み込む。


巣掘り牙の頭が右へ流れる。


その一瞬、喉の下が空いた。


「そこか!」


迅の剣が、喉元へ入った。


深い。


黒い獣の身体が跳ねた。


前脚が地面を叩く。


土が飛ぶ。


血が散る。


迅は剣を抜かず、体重をかけた。


巣掘り牙の暴れる力が、少しずつ弱くなる。


やがて、太い前脚が止まった。


森に静けさが戻る。


迅は息を吐いた。


「倒した。」


朔太郎は白角の神鹿のそばで頷いた。


「うん。」


「もうちょっと褒めてもいいんだぞ。」


「すごい。」


「軽い。」


「血、こっちに来た。」


「お前ほんとにぶれねえな。」


迅は剣を引き抜いた。


黒い血が刃を伝って落ちる。


さっきの牙掘りより濃い。


匂いも強かった。


朔太郎は少しだけ眉を寄せた。


「臭い。」


「魔物だからか?」


「内臓悪そう。」


「そんな感想ある?」


村人たちは、誰も声を出せなかった。


神官も同じだった。


祈っていた森の神の前で、異国の若者が獣を殺した。


もうひとりは、その森の神に刃を入れようとしている。


恐れればいいのか。


怒ればいいのか。


感謝すればいいのか。


誰も決められなかった。


迅は村人たちを見た。


それから、神官へ視線を向ける。


「まだ来るかもしれない。血の匂いが強すぎる。」


神官の唇が震えた。


「白角様の血が、魔を呼んでいると。」


「たぶん違う。血は血だ。匂いがすれば獣が来る。」


朔太郎が言った。


神官が朔太郎を見る。


朔太郎は白角の神鹿の腹を見ていた。


「早くしないと、もっと来る。」


「あなたは……。」


神官は言葉を探した。


怒りの言葉か。


拒絶の言葉か。


それとも、許しの言葉か。


そのどれも口から出なかった。


「あなたは、白角様を何だと思っているのです。」


朔太郎は少し考えた。


考えたわりに、答えは短かった。


「死んだ大きい獣。」


村人の何人かが息を呑んだ。


神官の顔が歪む。


迅が慌てて間に入った。


「言い方!サク、頼むから言い方考えろ!」


「間違ってる?」


「間違ってないのが問題なんだよ。」


朔太郎は困ったように瞬きをした。


「でも、死んでる。」


神官は白角の神鹿を見た。


白い毛並みは、まだ美しかった。


枝分かれした角は、まだ森の光を受けて淡く輝いていた。


膝をついて祈れば、今にも目を開けそうに見えた。


だが、胸はもう動かない。


腹から流れた血は土に吸われている。


黒い獣が寄ってきた。


虫もいずれ来る。


神官の手が震えた。


「白角様を、汚すことは許されません。」


「汚れる前にやる。」


朔太郎は言った。


「もう汚れ始めてる。」


神官は息を詰まらせた。


朔太郎は責めていない。


嘲ってもいない。


ただ、見たことを言っているだけだった。


だからこそ、神官は言い返せなかった。


迅は剣の血を草で拭った。


「神官さん。あんたたちがこのまま祈るのは自由だ。でも、守りたいなら、祈る以外のこともした方がいい。」


「守る。」


「ああ。白角様を、あんたたちがそう呼ぶものを、これ以上食い荒らされないようにする。」


神官の目が揺れた。


朔太郎は、腰の刃物を抜いた。


「手、貸して。」


迅が振り返る。


「俺?」


「うん。」


「今戦ったばっかなんだけど。」


「立てるだろ。」


「立てるけどさ。」


「じゃあ、押さえて。」


迅は大きく息を吐いた。


それから笑った。


「人使い荒いな、解体師。」


「まだ解体師じゃない。」


「今からなるんだろ。」


朔太郎は返事をしなかった。


白角の神鹿の首筋に触れる。


毛は柔らかい。


皮は厚い。


熱はまだ残っている。


血は流れすぎているが、完全に冷えてはいない。


間に合うところはある。


間に合わないところもある。


それを見分ける必要があった。


「まず血。」


「血抜きか?」


「うん。溜まってるところを抜く。肉と皮を駄目にしないため。」


「神獣素材って、ゲームだと品質差なかったんだけどな。」


「今はあると思う。」


「嫌な現実感だな。」


「現実だろ。」


迅は何も言えなくなった。


朔太郎は刃を当てる場所を探した。


首元。


肩の付け根。


太い血管の走る位置。


生きている時なら危険な場所。


死んでいる今なら、急ぐべき場所。


刃が入る。


白い毛の下に赤い線が開いた。


血が流れた。


村人のひとりが泣いた。


別のひとりが顔を背けた。


神官は目を逸らさなかった。


朔太郎の手つきは、思ったよりも静かだった。


乱暴ではない。


雑でもない。


切り裂くというより、開いていく。


隠れていた身体の仕組みを、順番に外へ出していく。


「サク。」


迅の声が少し低くなった。


「何。」


「これ、白角の神鹿を殺したやつ、別にいるんだよな。」


「うん。」


「傷口、どう見える。」


朔太郎は手を止めた。


白い獣の腹を見る。


裂けた肉。


押しつぶされた骨。


皮の下に残った黒い痕。


牙掘りや巣掘り牙の牙ではない。


爪でもない。


もっと重いもの。


もっと鋭いもの。


一撃で腹を割り、逃げる白角の神鹿を追い込めるもの。


「大きい。」


「どのくらい。」


「分からない。」


「神鹿より?」


「たぶん、重い。」


迅の顔から笑みが消えた。


神官が小さく声を漏らす。


「白角様より、重いものなど。」


その時、遠くの森で木が折れる音がした。


一本ではない。


何本も。


低い地響きが、足元から伝わってくる。


村人たちが一斉に顔を上げた。


迅が剣を握る。


朔太郎も手を止めた。


森の奥。


血の匂いの向こう。


何かがゆっくりと動いている。


迅は乾いた声で笑った。


「サク。」


「何。」


「続き、急げるか?」


「無理。」


「だよな。」


「急ぐと駄目になる。」


「分かってる。」


迅は剣を肩に乗せた。


手は少し震えている。


それでも、前に出る。


「じゃあ、時間稼ぐ。」


朔太郎は白角の神鹿の身体に手を置いたまま、静かに頷いた。


「うん。」


「俺が戦う。」


「うん。」


「お前は捌く。」


「うん。」


森の奥で、また木が折れた。


今度は近い。


迅は笑った。


怖がっている顔だった。


けれど、逃げる顔ではなかった。


「神獣を殺したやつか。いいじゃねえか。」


朔太郎は刃を握り直した。


「倒したら、見る。」


「見るだけかよ。」


「解体もする。」


「そっちが本音だな。」


迅が地面を蹴った。


朔太郎は振り返らなかった。


白角の神鹿の血は、神の光などではなかった。


赤く、温かく、重く、手にまとわりつく。


それは、生き物の血だった。


だから、朔太郎は刃を入れる。


死んだものが、ただ腐っていくだけにならないように。

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