白角の神鹿はドロップしない
「サク、今日は逃がさねえからな。」
鳴瀬迅は、コントローラーを灰見朔太郎に押しつけた。
朔太郎はソファに沈んだまま、それを片手で受け取った。
背が高いせいで、座っていても少し窮屈そうに見える。
目元は眠そうで、髪も少し跳ねていた。
「何を。」
「《神域獣譚》、新規キャンペーン。新規と組むと報酬が増える。」
「1人でやればいい。」
「やってる。今でも毎日やってる。でも今日はお前がいる。」
「面倒。」
「知ってた。」
迅は笑って、画面を操作した。
《神域獣譚》
発売から7年経った、オンライン対応アクションRPG。
朔太郎はほとんど知らない。
迅は今でもハマっている。
朔太郎にとっては、それくらいの認識で十分だった。
「戦闘は俺がやる。お前は後ろで見てろ。」
「ならいい。」
「やる気ないな。」
「戦いたくない。」
「俺は戦いたい。」
「知ってる。」
画面が黒くなった。
キャラクター作成画面が出るはずだった。
だが、白い文字だけが浮かんだ。
《接続を開始します》
迅の指が止まる。
「ん?」
「もう始まるのか?」
「いや、こんな表示あったか?」
「知らん。」
「お前に聞いた俺が悪い。」
画面の黒が、奥へ沈むように深くなった。
白い文字が崩れる。
スピーカーから、風に似た低い音が鳴った。
次の瞬間、朔太郎の身体から椅子の感覚が消えた。
背中を支えていたものも、足の裏の床も、手元のコントローラーの重さも、一瞬で遠くなる。
落ちた、と思う前に、視界が割れた。
黒の向こうから、白い光が走る。
迅の声が聞こえた。
「サク!」
返事はできなかった。
次に息をした時、空気が冷たかった。
草の匂いがした。
湿った土の匂いもした。
朔太郎は仰向けに倒れていた。
見上げた先に、天井はない。
木の枝が重なり、その隙間から薄い光が落ちている。
「……外?」
声が、妙にはっきり聞こえた。
ゲームの音ではない。
喉が震えて、空気に触れて、森に落ちた声だった。
右手の下に、小石が食い込んでいる。
痛い。
朔太郎は、それを確認してから身体を起こした。
服が違っていた。
粗い布の上着。
動きやすいズボン。
腰には、見覚えのない短い刃物が差してある。
朔太郎はそれを見下ろした。
「なんだこれ。」
少し離れた草むらが揺れた。
「痛ってえ!」
迅が転がるように起き上がった。
肩や背中に枯れ葉がついている。
それでもすぐに立ち上がり、周囲を見た。
顔色が変わる。
「待て。」
「何。」
「ここ、《神域獣譚》の森だ。」
「森は森だろ。」
「違う。いや、森だけど。たぶん白角の森だ。」
「白角。」
「神獣種ボスのエリア。本来なら、初心者が来る場所じゃない。」
朔太郎は周囲を見た。
木。
草。
土。
虫。
風。
画面で見る森とは違う。
匂いがある。
湿度がある。
足元の土が柔らかい。
「ゲームっぽくない。」
「俺だって、こんな匂いまで知らねえよ。」
迅は自分の手元を見た。
そこにあるはずのコントローラーはなかった。
膝の上にも、足元にも、どこにも落ちていない。
「……コントローラーがない。」
「落とした?」
「いや、そういう話じゃねえ。画面もない。メニューもない。ポーズもできない。」
「壊れた?」
「だからゲーム機の話みたいに言うな。」
迅は腰の剣を見下ろした。
画面の中で何度も使ってきた武器に似ている。
けれど、今は重さがある。
柄を握ると、革の硬さが手のひらに返ってくる。
「UIなし。操作方法なし。ログアウト方法不明。痛みあり。匂いあり。」
「まずい?」
「かなりまずい。」
「帰れない?」
迅はすぐには答えなかった。
森を見た。
自分の手を見た。
それから、吐き捨てるように言った。
「分からん。少なくとも、今すぐ戻る方法は見えない。」
「そうか。」
「反応薄いな。」
「まだ眠い。」
「この状況で?」
朔太郎は立ち上がった。
背が高いせいで、迅より少し上から森を見る形になる。
けれど、表情はぼんやりしていた。
知らない場所にいる。
服が違う。
帰り方が分からない。
普通なら、もっと慌てるべきなのだろうと思った。
ただ、慌てたところで、見えるものはあまり変わらない。
朔太郎は、足元の土を見た。
湿った土に、何か重いものが通った跡がある。
草が折れている。
枝も低いところで割れている。
獣道にしては幅が広い。
「何かいる。」
「どっち。」
朔太郎は森の奥を指した。
「あっち。」
風が吹いた。
木の葉が揺れた。
その奥から、低く、苦しそうな鳴き声が聞こえた。
それは、人の声ではなかった。
獣が喉の奥で息を詰まらせたような声だった。
「怪我してる。」
「分かるのか?」
「声が変。」
「声で?」
「あと、血の匂い。」
迅が黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「お前、ゲーム知識ないくせに、そういうのは分かるんだな。」
「ゲームじゃないだろ。」
朔太郎は森の奥を見たまま言った。
迅の笑みが消えた。
「……そうだな。」
草むらが、右側で大きく揺れた。
迅が振り向くより早く、黒い影が飛び出した。
犬ほどの大きさの獣だった。
ただし、犬ではない。
背中が丸く盛り上がり、前脚だけが異様に太い。
口は裂けるように横へ広く、牙の間から泡混じりの唾液が垂れていた。
「牙掘りだ!」
迅が剣を抜いた。
声は驚いていたが、身体は前へ出ていた。
黒い獣が地面を蹴る。
迅は半歩横へずれて、突っ込んできた頭を剣の腹で受け流した。
重い音がした。
獣の身体が横に流れ、草を削って止まる。
「序盤の雑魚にしては速いな!」
「雑魚?」
「本来はな!」
黒い獣が唸った。
前脚で土を掻く。
爪が深く食い込み、湿った土が跳ねる。
迅は笑った。
怖がっていない。
むしろ、ようやく自分の出番が来たみたいな顔だった。
「サク、下がってろ。」
「うん。」
朔太郎は素直に下がった。
腰の短い刃物には手をかけている。
けれど、構え方は雑だった。
戦うための手つきではない。
何かを切るための手つきだった。
牙掘りが再び飛びかかる。
迅は正面から受けなかった。
斜めに踏み込み、獣の肩口へ剣を入れる。
刃が毛皮を裂いた。
浅い。
牙掘りは悲鳴を上げず、身体をひねって迅の腕に噛みつこうとした。
迅は腕を引いた。
牙が空を噛む。
「硬っ。ゲームより毛皮厚くないか、こいつ。」
「首、違う。」
「は?」
「そこじゃない。」
朔太郎は、ぼんやりした顔のまま牙掘りを見ていた。
視線は牙ではなく、前脚の付け根にある。
牙掘りが動くたび、肩の盛り上がった肉が大きく揺れる。
けれど、後脚は細い。
跳ぶ時は前脚で地面を掘るようにして、身体を前へ引っ張っている。
「前脚で跳んでる。」
「だから?」
「右の肩、浅い。もっと下。」
「もっと下ってどこだよ!」
「付け根。内側。」
「分かりにくいわ!」
牙掘りが土を抉った。
前脚が沈む。
その瞬間、迅が動いた。
突っ込んでくる獣を待たず、逆に距離を詰める。
牙掘りの頭が上がる。
迅はその下へ滑り込むように踏み込み、剣を低く振った。
刃が前脚の内側を裂いた。
今度は深かった。
牙掘りの身体が崩れる。
右前脚が力を失い、体重を支えきれなくなった。
獣は地面に顎を打ちつけ、泡を散らした。
「おお。」
迅が短く声を漏らした。
「マジで止まった。」
「そこ切れたら動けない。」
「攻略Wikiに載ってない弱点だな。」
「攻略Wiki見たことない。」
「知ってる。」
牙掘りは倒れたまま暴れた。
まだ死んでいない。
残った脚で地面を掻き、身体を起こそうとする。
迅が剣を構え直した。
「悪いな。」
一歩で間合いに入る。
剣先が牙掘りの首筋に入った。
今度は、獣の動きが止まった。
森に、荒い息だけが残る。
迅は剣についた血を振った。
表情は明るい。
「やっぱ戦闘はいいな。身体が動く。」
「楽しそう。」
「楽しい。怖いけどな。」
「怖いのに。」
「怖いからいいんだよ。」
朔太郎はよく分からないという顔をした。
それから、倒れた牙掘りに近づいた。
迅が慌てて止める。
「おい、まだ危ないかもしれないぞ。」
「死んでる。」
「分かるのか?」
「首、切れてる。」
「それは俺でも分かる。」
朔太郎はしゃがんだ。
牙掘りの前脚を持ち上げる。
重い。
指で肩のあたりを押し、肉の入り方を確かめる。
「こいつ、掘るやつだ。」
「名前が牙掘りだからな。」
「牙より前脚。」
「たしかに牙で掘ってはなかったな。」
「肉、硬そう。」
「食う気か?」
「食えるなら。」
「切り替え早いな。」
朔太郎は腰の短い刃物を少しだけ抜いた。
けれど、すぐに戻した。
「今は後。」
「解体しないのか?」
「大きいやつが先。」
「優先順位が解体基準なんだよな、お前。」
その時、森の奥から、もう一度低い鳴き声が響いた。
さっきより弱い。
けれど、近かった。
迅の顔から笑みが消える。
「今の、さっきの大きいやつか。」
「たぶん。」
「行くぞ。」
「うん。」
2人は、折れた草の跡をたどった。
少し進むと、森の空気が変わった。
土の匂いの中に、鉄の匂いが濃く混じる。
鳥の声が少なくなる。
木々の間から、白いものが見えた。
最初は、倒れた木かと思った。
近づくと、それが毛だと分かった。
さらに近づくと、巨大な獣の腹だと分かった。
森の奥で、白い獣が死にかけていた。
鹿に似ていた。
ただし、鹿というには大きすぎた。
背は小屋ほどあり、首は長く、額から伸びた角は枯れ木のように枝分かれしている。
毛並みは雪みたいに白く、腹のあたりだけが赤黒く濡れていた。
その周囲に、村人たちが膝をついていた。
泣いている者もいた。
祈っている者もいた。
誰も近づこうとはしない。
白い獣の身体からは、まだ湯気が立っていた。
「……イベントだ。」
迅が、低く言った。
いつもの軽い声ではなかった。
腰の剣を握ったまま、目だけがやけに忙しく動いている。
「たぶん、こいつが《白角の神鹿》だ。森の守護者。序盤後半のフィールドボス。聖属性持ち。ゲームだと、討伐か鎮静で分岐するやつ。」
朔太郎は、少し遅れて頷いた。
「白角。」
「かなり大物だぞ。キャラメイクもチュートリアルも飛ばして、いきなり会う相手じゃねえ。」
白い獣の胸が、わずかに上下した。
深く、苦しげな息だった。
朔太郎は、その腹を見ていた。
裂けた傷口の奥に、肉と膜と脂が見えている。
血は赤い。
固まり方も普通だった。
少なくとも、朔太郎が知っている生き物の身体から大きく外れてはいない。
「死ぬな。」
「分かるのか?」
「血が多い。」
「助かるか?」
「無理だと思う。」
「お前、そういうことははっきり言うよな。」
白い獣が、もう一度息を吐いた。
それが最後だった。
胸の動きが止まる。
森に、祈りの声だけが残った。
朔太郎は、ぼんやりした顔で白い獣を見ていた。
背が高いせいで、何もしていなくても少し目立つ。
姿勢は悪い。
髪は寝癖のままみたいに跳ねている。
目元は眠そうで、表情はほとんど動かない。
そのせいで、村人たちの悲壮な空気の中に立っていると、ひとりだけ場違いだった。
迅が小声で言った。
「サク。こいつ、神獣種だ。」
「神獣。」
「ゲームでの分類な。こっちの人たちは、森の神みたいに扱ってるっぽい。」
「神。」
「でもゲーム分類では神格存在じゃない。神獣種。名前に神ってついてるけど、神そのものじゃない。」
朔太郎は、白い獣の腹を見た。
裂けた傷口の奥に、肉と膜と脂が見えている。
血は赤い。
固まり方も普通だった。
「これは、神じゃないと思う。」
「分かるのか?」
「胃がある。」
「理由そこ?」
「歯も減ってる。」
「歯?」
「右の奥。割れてる。脚も昔折れてる。治り方が雑だ。」
「生活感で神性を否定すんな。」
「生活してるなら、生き物だろ。」
朔太郎は、白い獣の前脚に視線を落とした。
太い脚の片方に、わずかな歪みがあった。
外から見れば神々しい白い毛に覆われているだけだ。
だが、立っていた時の重心を想像すると、骨の癖が分かる。
長く生きた身体だった。
走って、逃げて、傷ついて、それでも生きてきた身体だった。
「神じゃない。」
「俺の知識と結論は同じか。」
「じゃあ、合ってる。」
「何が。」
「解体できる。」
迅が黙った。
村人たちの祈りの声が、森の中に細く流れている。
誰かが「森の神がお隠れになった」と呟いた。
別の誰かが、白い獣の角に額をこすりつけようとして、年配の男に止められていた。
朔太郎は、腰に差した短い刃物に手をかけた。
迅がその手首を掴んだ。
「待て。」
「何。」
「今やるのか?」
「今やらないと傷む。」
「この状況で?」
「うん。」
「こっちの人たち、森の神だと思ってるぞ。」
「神じゃないんだろ。」
「そうだけど、そういう問題じゃねえんだよ。」
朔太郎は、少しだけ首を傾けた。
眠そうな目で、迅を見る。
「腐る。」
「分かってる。分かってるけど、この空気見ろ。」
「見てる。」
「見てる顔じゃねえんだよ。」
その時、膝をついていた神官らしき男が顔を上げた。
白い布をまとい、額に銀の輪をつけている。
目は赤くなっていた。
「旅の方。どうか、近づかぬように。」
神官の声は震えていた。
「白角様は森を守りし尊きお方。亡骸に刃を向けるなど、あってはならぬことです。」
朔太郎は、神官を見た。
それから白い獣を見た。
また神官を見た。
「でも、血が溜まってる。」
神官の眉が動いた。
「何を。」
「このままだと、内側から悪くなる。腹も破れてる。虫も来る。」
「おやめください。」
「肉も皮も駄目になる。」
「おやめくださいと言っている!」
森の空気が、きつく張った。
村人たちの視線が一斉に朔太郎へ向く。
迅が小さく舌打ちした。
「サク。言い方。」
「何が。」
「全部。」
朔太郎は困ったように瞬きをした。
ただ、手は刃物から離さなかった。
神官が立ち上がる。
「白角様は獣ではない。森に宿る神そのものだ。」
「違う。」
朔太郎の返事は早かった。
普段より、少しだけ早かった。
神官の顔が強張る。
「何をもって、違うと申す。」
「身体がある。」
「神も姿を取る。」
「これは姿じゃない。」
朔太郎は、白い獣の裂けた腹を指した。
「骨で立ってる。筋肉で動く。腱で引く。血が回る。草を食う。歯が減る。怪我をして、治る。古傷が残る。」
森が静かになった。
朔太郎は、淡々と言った。
「生活してる。」
迅は、思わず口元を押さえた。
笑いそうになったわけではない。
ただ、その言い方があまりにも朔太郎らしかった。
神官は言葉を失っていた。
朔太郎は、白い獣に向き直る。
「神聖かどうかは知らない。」
刃物を抜いた。
「でも、神じゃない。」
村人のひとりが短く悲鳴を上げた。
迅が前に出る。
戦うためではない。
朔太郎と村人の間に立つためだった。
「待て待て。落ち着け。こいつは別に、冒涜したいわけじゃない。」
「では何をするつもりだ!」
「解体。」
「それを冒涜と言うのだ!」
「まあ、そう言われると困るんだけどな。」
迅は頭を掻いた。
ゲームなら、倒した瞬間に光になって素材が落ちた。
角。
白毛。
神鹿の腱。
聖血石。
たぶん、そんな名前のアイテムだった。
けれど、今そこにあるのは、光る宝箱ではない。
巨大な死体だった。
死体は消えない。
素材は落ちない。
身体についている。
なら、取るしかない。
迅は、その当たり前のことに少し遅れて気づいた。
「神官さん。こいつは神そのものじゃない。」
「あなたまで。」
「俺は知ってる。こいつは神格存在じゃない。神獣種だ。神に近い場所で育った、でかくて強い獣だ。」
「何を言っているのか分からぬ。」
「だろうな。俺も説明できる気がしない。」
迅は剣の柄を握り直した。
「ただ、こいつが言ってることはたぶん正しい。放っておけば腐る。腐れば、あんたらが祈ってる相手は、もっとひどい姿になる。」
神官が息を呑んだ。
朔太郎は、もう膝をついていた。
白い獣の首筋に手を置く。
毛の流れを逆らわず、指で押して、皮の厚みを確かめる。
「サク。」
「何。」
「できるのか?」
「たぶん。」
「たぶんかよ。」
「刃が悪い。」
「道具のせいにすんな。」
「道具は大事。」
朔太郎は、白い獣の角を見上げた。
村人たちは、角を神の象徴として見ている。
迅は、レア素材として見ている。
朔太郎は、血管の通った硬い成長器官として見ていた。
「角は後。」
「ゲームだと角が一番高い。」
「今取ると割れる。」
「マジか。」
「たぶん。」
「だからその、たぶんが怖いんだよ。」
朔太郎は、首元に刃を当てた。
その瞬間だけ、眠そうな顔から余分なものが消えた。
ヌボーっとした立ち姿も、遅い返事も、ぼやけた目つきも、そこにはない。
刃先だけを見ている。
皮の下にある血管。
筋肉の重なり。
骨の位置。
どこから入れれば、余計に傷つけずに済むか。
それだけを見ている。
「神なら。」
朔太郎が小さく言った。
「こんなに丁寧に身体を作らなくていい。」
迅には聞こえた。
神官にも聞こえたかもしれない。
朔太郎は、刃を引いた。
白い毛の下から、赤い線が開く。
血が流れた。
誰かが泣いた。
誰かが祈りの言葉を強く唱えた。
神官は止めなかった。
止められなかった。
朔太郎の手つきは、あまりにも静かだった。
乱暴ではない。
奪う手つきでもない。
壊す手つきでもない。
死んだものを、死んだまま終わらせない手つきだった。
「ジン。」
「何だ。」
「押さえて。」
「どこを。」
「脚。こっちに倒れると危ない。」
「了解。」
迅は白い獣の脚に回った。
巨大な脚だった。
ゲームなら、何度も斬りつけた場所だ。
けれど、こうして触れると、ただの敵ではなかった。
温かい。
重い。
硬い。
生き物だった。
「サク。」
「何。」
「これ、倒したやつがいる。」
「うん。」
「傷、腹だけじゃないよな。」
「背中にもある。」
「見えんのか?」
「毛が乱れてる。」
朔太郎は刃を止めずに答えた。
「あと、逃げた跡がある。脚の筋肉が張ってる。死ぬ前に走ってる。」
「森の守護者が逃げたのか。」
「獣なら逃げる。」
「神なら?」
「知らない。」
迅は笑いそうになって、やめた。
森の奥から、低い音がした。
木々の間を、何かが踏み分けてくる音だった。
村人たちがざわめく。
神官が顔を上げる。
迅は剣を抜いた。
「サク。続き、急げるか?」
「無理。」
「即答すんな。」
「急ぐと駄目になる。」
「じゃあ、俺が止める。」
「うん。」
朔太郎は振り向かなかった。
刃先は、白い獣の首元を正確に進んでいる。
迅は笑った。
今度は、少しだけ本当に笑った。
「戦闘は俺。解体はお前。」
「うん。」
「ゲーム知識は俺。」
「うん。」
「身体を見るのはお前。」
「うん。」
「神様かどうかは?」
朔太郎は、白い獣の身体に手を置いたまま答えた。
「これは違う。」
森の奥から、黒い影が現れた。
白い獣の血の匂いに誘われたのか。
それとも、白い獣を殺したものなのか。
迅は剣を構えた。
「じゃあ、次に来るやつも確かめようぜ。」
「倒したらな。」
「任せろ。」
迅が地面を蹴った。
朔太郎は、振り返らない。
神でもない。
ただの獣でもない。
神に近い場所で生き、神として祈られ、獣として死んだもの。
その身体に、灰見朔太郎は眠そうな顔で刃を入れていた。




