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村へ運ぶもの

白角の神鹿の皮は、少しずつ身体から離れていった。


朔太郎が刃を入れる。


迅が押さえる。


村人が布を差し込む。


別の村人が血を受ける。


最初は誰も近づこうとしなかった。


だが、やることが分かると、人は動けた。


白角の神鹿をどう扱えばいいのか分からなかっただけで、誰も放っておきたかったわけではない。


「そこ、引っ張らない。」


朔太郎が言った。


布を持っていた若い男が、びくっと手を止める。


「す、すみません。」


「破れる。」


「はい。」


「少し浮かせるだけ。」


「こう、ですか。」


「うん。」


朔太郎は短く頷いた。


若い男の顔が少しだけ明るくなる。


怒られたわけではないと分かったらしい。


迅はそれを横目で見て、口元を緩めた。


「サク。」


「何。」


「お前、意外と教えるの下手じゃないな。」


「そうか?」


「説明は短いけどな。」


「長いと分からなくなる。」


「誰が?」


「俺が。」


「自分かよ。」


朔太郎は答えず、刃を進めた。


白い毛の下に、薄い膜が光る。


そこを切る。


皮を傷つけず、肉を削りすぎず、ただ身体から外していく。


神官の祈りは続いていた。


けれど、声は少し変わっていた。


悲しみに沈むだけの祈りではない。


作業する者たちの手が止まらないよう、背中を支えるような祈りだった。


「荷車が来ました!」


森の外から声が上がった。


振り向くと、村人たちが2台の荷車を引いてきていた。


車輪は木製で、道の悪い森には向いていない。


それでも、村の近くまでは運べる。


荷車の横には、太い縄と大きな布も積まれていた。


迅が立ち上がる。


「これで全部運べるか?」


村人の男が白角の神鹿を見て、顔を引きつらせた。


「全部は、とても。」


「だよな。」


白角の神鹿は大きすぎた。


荷車2台でどうにかなる大きさではない。


胴だけでも家畜数頭分はある。


角も長い。


脚も太い。


そのまま村へ運ぶのは無理だった。


朔太郎は刃を止めずに言った。


「部位ごと。」


「だよな。」


迅は荷車を見る。


「先に心臓。次に皮。血は使える分だけ。角は?」


「後で外す。」


「今じゃなくていいのか?」


「根元が難しい。道具がいる。」


「折るのは?」


朔太郎が顔を上げた。


眠そうな目が、少しだけ鋭くなる。


「駄目。」


「悪かった。」


「割れる。根元も傷む。中に血が通ってる。」


「分かった。角は丁寧に、だな。」


「うん。」


神官が近づいた。


「角は、村でも特に神聖なものとされています。」


「じゃあ、なおさら雑に取らない方がいい。」


朔太郎は言った。


神官は少し驚いたように目を開いた。


「……あなたは、それを気にしてくださるのですか。」


「割れると困る。」


迅が額を押さえた。


「サク。」


「何。」


「今のは、もうちょっと情緒を足せた。」


「情緒。」


「いや、いい。もういい。」


神官は小さく息を吐いた。


怒ったようでもあり、少しだけ笑ったようでもあった。


「割れぬよう、お願いします。」


「うん。」


朔太郎はまた手元に戻った。


皮がある程度開いたところで、血が溜まりやすい部分を確認する。


傷みの早い部分。


使える部分。


捨てるしかない部分。


それを淡々と分けていく。


村人たちは、最初こそ顔を背けていたが、少しずつ朔太郎の指示を待つようになった。


「これは?」


男が桶を指す。


濁った血が入っている。


朔太郎は匂いを嗅いで、首を横に振った。


「駄目。」


「捨てますか。」


「獣が来ない場所に。穴を掘って、土をかける。」


「はい。」


別の女が、赤い血の入った桶を指した。


「こちらは。」


「残す。冷やす。」


「井戸水で?」


「うん。直接混ぜない。桶ごと冷やす。」


「分かりました。」


迅はそのやり取りを見ていた。


「完全に現場監督だな。」


「誰が。」


「お前。」


「解体してるだけ。」


「その“だけ”の範囲が広いんだよ。」


森の奥で、獣の鳴き声がした。


遠い。


さっきより遠い。


けれど、迅はすぐに剣へ手を伸ばした。


村人たちも身体を強張らせる。


朔太郎だけは刃を止めず、耳だけを向けた。


「遠い。」


「分かるのか?」


「音が薄い。」


「近づいてる?」


「分からない。」


「そこは分からないのかよ。」


「音だけだと。」


「まあ、そうか。」


迅は森の奥を見たまま、村人たちに言った。


「急いだ方がいい。ただし、走るな。荷車を倒したら終わる。」


村人たちは頷いた。


神官も動いた。


白角の神鹿の心臓は、布で包まれ、木の板ごと荷車へ乗せられた。


重い。


大人4人で持っても、腕が震える。


心臓の白い筋は、布越しにも淡く光っていた。


村人たちはそれを見るたびに息を呑む。


神官が荷車の横に立ち、静かに祈りを唱えた。


「それ、先に村へ。」


朔太郎が言った。


「冷やして。綺麗な布。桶。水。直接水につけない。」


「分かりました。」


年配の女が答える。


迅が言う。


「護衛つける。俺が行ければいいけど、ここ離れるとまずいな。」


村人の男たちが農具を持って前に出た。


顔は怖がっている。


それでも逃げてはいない。


「私たちで運びます。」


「戦えるのか?」


「獣を追うくらいなら。」


「来たら戦うな。荷車を捨ててでも逃げろ。」


男たちは戸惑った。


「しかし、これは白角様の。」


「死んだら運べない。」


迅の声は強かった。


男たちは黙った。


神官が頷く。


「命を優先しなさい。白角様も、それを望まれるはずです。」


その言葉で、男たちはようやく頷いた。


心臓を載せた荷車が動き出す。


車輪が軋む。


布の下で、淡い光が揺れる。


朔太郎はそれを少しだけ見送った。


それから、すぐに白角の神鹿へ視線を戻す。


「次、皮。」


迅が笑う。


「本当に切り替え早いな。」


「心臓は行った。」


「そうだけどよ。」


「こっちが残ってる。」


「はいはい。」


迅は再び白角の神鹿の脚を押さえた。


腕は痛む。


肩もずきずきしている。


だが、押さえられないほどではない。


朔太郎はそれを見た。


「腕、悪くなってる?」


「見ただけで分かるのか?」


「力の入り方が変。」


「少し痛いだけだ。」


「少し?」


「わりと。」


「冷やした方がいい。」


「今は無理。」


「じゃあ、押さえ方変えて。」


「どう。」


「腕じゃなくて、体重。」


朔太郎は白角の神鹿の脚を指した。


「ここに膝。手は添えるだけ。」


「なるほど。」


迅は言われた通りに位置を変えた。


確かに、腕の負担が減る。


「お前、そういうのも分かるんだな。」


「力で押さえると疲れる。」


「経験者の言葉だな。」


「うん。」


朔太郎は刃を入れながら答えた。


「大きいものは、体重で押さえる。」


「何を押さえてたんだよ。」


「いろいろ。」


「怖いから聞かないでおく。」


皮がさらに剥がれていく。


白い毛並みが、ひとつの大きな布のように広がり始めた。


村人たちはそれを見て、再びざわめく。


神官は目を伏せる。


けれど、止めない。


「これ、どこまで取る?」


迅が聞いた。


「傷んでないところまで。」


「全部は?」


「時間がない。」


「そうか。」


「腹の傷の周りは駄目。背中側は取れる。」


「背中か。」


迅は白角の神鹿の身体を見上げた。


これをひっくり返すのは無理だ。


村人が集まっても、簡単には動かせない。


「背中側、どうやって取る?」


朔太郎は少し考えた。


「片側だけ先に。」


「全部じゃなくて?」


「うん。村に運んでから続き。」


「この巨体を?」


「解体しながら小さくする。」


「なるほどな。」


迅は森の奥を見た。


また音がした。


今度は枝の折れる音ではない。


低い唸り。


距離はある。


だが、確実に何かがいる。


「時間、本当にないな。」


「うん。」


「サク、どこまでやったら撤収できる?」


「皮を途中まで。使える血。心臓は出した。あとは、前脚の腱。」


「腱?」


「太い。使えるかも。」


「ゲームでも神鹿の腱は素材だった。弓と防具に使う。」


「じゃあ取る。」


「すぐ取れるか?」


「すぐは無理。」


「だよな。」


朔太郎は白角の神鹿の前脚を見た。


太い。


強い脚だ。


あれだけの身体を支え、森を走っていた脚。


そこには必ず良い腱がある。


ただし、取るには時間がかかる。


道具もいる。


今ここで無理にやれば、傷つける。


「腱は村。」


「分かった。」


迅は頷いた。


「今取るのは皮と血だけ。あとは運べる形にする。」


「うん。」


「角は後。」


「うん。」


「心臓は先に行った。」


「うん。」


「俺の腕は後。」


「冷やして。」


「後でな。」


朔太郎は少しだけ眉を寄せた。


「悪くなる。」


「分かった。村に戻ったらすぐ冷やす。」


「今、布だけでも。」


迅は少し驚いた顔をした。


「心配してる?」


「悪くなると押さえられない。」


「そういうことにしといてやるよ。」


朔太郎は村人に布を頼んだ。


水で濡らした布がすぐに来る。


迅はそれを肩に巻いた。


冷たさに顔をしかめる。


「冷てえ。」


「動かしすぎない。」


「無理言うな。」


「無理なら言って。」


「言ったら?」


「別の人に押さえてもらう。」


「俺の代わりいるのかよ。」


朔太郎は村人たちを見た。


何人かが、慌てて目をそらす。


「いないかも。」


「だろ。」


迅は少し得意げに笑った。


「戦って押さえられるやつは貴重だぞ。」


「じゃあ壊れないで。」


「物みたいに言うな。」


「道具は大事。」


「俺は道具か。」


「違う。」


朔太郎は少し考えた。


「相棒。」


迅は黙った。


予想していなかった言葉だったらしい。


神官も村人も、少しだけ2人を見た。


迅は咳払いをした。


「……そういうこと急に言うな。」


「何が。」


「いや、いい。」


「押さえて。」


「はいはい、相棒だからな。」


迅は白角の神鹿の脚を押さえ直した。


どこか機嫌がよさそうだった。


作業は進んだ。


朔太郎の手は血に濡れ、袖も赤く染まっていた。


白い毛は汚れやすい。


だから布を当て、血を避け、できるだけ汚さないように剥がしていく。


それでも完全には無理だった。


白い毛に赤がつく。


赤い土がつく。


黒い獣の血も、少し残る。


「汚れたところは?」


迅が聞く。


「洗う。駄目なら切る。」


「全部きれいには無理か。」


「無理。」


「ゲームだと全部新品だったけどな。」


「死体から新品は出ない。」


「正論。」


朔太郎は皮の端を持ち上げた。


村人に布を差し込ませる。


「ここまで。」


「切るのか?」


「うん。」


「いいのか?」


「全部つながってると運べない。」


神官が目を伏せた。


皮を切り離す。


それは、白角の神鹿の身体を本当に分ける行為だった。


祈りだけでは追いつかない現実が、目の前にある。


朔太郎は刃を当てた。


迷いはない。


ただし、雑でもない。


境目を決める。


傷の少ない部分を残す。


持ち運べる大きさを考える。


切る。


白い皮が、身体から離れた。


村人の女が小さく泣いた。


神官は祈りを強くした。


迅は黙って見ていた。


朔太郎は切り離した皮を布の上に置いた。


「毛を内側にしない。」


「どう置く?」


村人が聞いた。


「毛を上。血がつかないように。畳まない。丸めるならゆるく。」


「はい。」


「重ねると蒸れる。」


「蒸れる。」


村人はその言葉を繰り返した。


白角様の皮が蒸れる。


あまりにも現実的な言葉だった。


だが、誰も笑わなかった。


朔太郎が言うなら、必要なことなのだと分かってきたからだ。


荷車の準備が整った。


皮を載せる。


血の桶を載せる。


包丁や布もまとめる。


白角の神鹿の本体は、まだ森に残っている。


大きな身体は、片側の皮を失い、血を抜かれ、腹を開かれていた。


神官がそれを見て、唇を噛む。


「残りは。」


「戻って取る。」


朔太郎が言った。


「今日中に?」


「できれば。」


迅が顔をしかめる。


「いや、今日は無理だ。村で体勢整えよう。人手と道具を増やして、見張りも立てる。」


「傷む。」


「分かってる。でも、ここで全滅したら終わりだ。」


朔太郎は黙った。


それから白角の神鹿の身体を見た。


残す部分。


守れない部分。


今できること。


後でやること。


全部は選べない。


「じゃあ、守る。」


「何を。」


「残り。」


「どうやって。」


「獣が来ないように。」


「それは俺たちだけじゃ無理だ。」


神官が言った。


「火を焚きます。」


迅が振り向く。


「火?」


「森の獣は火を嫌います。完全ではありませんが、近づきにくくなる。」


村人の男も頷いた。


「煙も使えます。肉を守るなら、猟師が使う草があります。」


朔太郎が顔を上げる。


「虫除け?」


「はい。獣にも多少は。」


「使う。」


神官は頷いた。


「村から持ってこさせます。見張りも立てます。」


迅は少し驚いたように神官を見た。


「いいのか?ここに残るのは危ないぞ。」


「白角様を置いて逃げることはできません。」


「でも戦えないだろ。」


「祈るだけでは守れないことは、分かりました。」


神官は根砕き猪の死体を見た。


それから、朔太郎を見る。


「ですから、守るためにできることをします。」


朔太郎は頷いた。


「火。煙。見張り。あと血は離す。」


「血を離す?」


「獣が来る。悪い血と内臓の傷んだところは、白角から離して埋める。」


「分かりました。」


「でも、使える内臓は村に。」


「はい。」


迅は腕を押さえながら笑った。


「完全に作戦会議だな。」


「必要だから。」


「分かってる。」


森の奥で、また獣の声がした。


今度は複数だった。


遠いが、匂いにつられて集まっているのかもしれない。


迅は剣を握り直す。


「撤収だ。荷車を先に出せ。サク、行けるか?」


「まだ。」


「何がまだだ。」


朔太郎は白角の神鹿の腹に手を入れた。


迅が目を見開く。


「おい。」


「これだけ。」


「何を。」


朔太郎は何かを探るように手を動かした。


そして、拳ほどの白い塊を取り出した。


血に濡れている。


石のようにも見える。


脂の塊のようにも見える。


だが、表面に薄い光があった。


迅の表情が変わる。


「それ、聖血石か?」


「分からない。」


「ゲームだとレア素材だぞ。」


「血の中にあった。」


「どこ。」


「心臓の近く。」


神官が息を呑む。


「それは。」


「何か知ってるのか?」


迅が聞く。


神官は震える声で答えた。


「白角様の御力が宿る石。伝承では、死してなお森を癒やす核とされています。」


迅は朔太郎を見る。


「ゲーム知識と伝承が一致したな。」


「うん。」


「それ、超重要素材だ。」


「冷やす?」


「たぶん。いや、知らん。ゲームじゃ袋に入るだけだった。」


朔太郎は聖血石らしき塊を見た。


血で濡れている。


だが、温度は心臓ほど高くない。


少し硬い。


手のひらに置くと、じんわりとした痺れがある。


「布。」


すぐに布が差し出された。


朔太郎はそれを包む。


「これも村。」


神官が両手で受け取ろうとした。


だが、手が震えている。


朔太郎は少し見て、首を横に振った。


「落としそう。」


神官の顔が固まる。


迅が吹き出しかけた。


「サク。」


「何。」


「もう少し包め。」


「落とすと割れるかも。」


「それはそう。」


年配の女が前に出た。


「私が持ちます。」


朔太郎は女の手を見た。


震えていない。


「うん。」


女は布に包まれた白い塊を受け取った。


胸に抱く。


神官がその横に立つ。


「村まで、私も共に。」


「頼む。」


迅が言った。


荷車が動き出した。


心臓。


皮。


使える血。


聖血石らしき塊。


最初に運ぶべきものが、森から村へ向かう。


朔太郎は白角の神鹿の残った身体を見た。


まだ多くが残っている。


肉。


骨。


腱。


角。


残していくには惜しい。


けれど、今は運べない。


「戻る。」


朔太郎が言った。


迅は頷いた。


「戻る。道具を持って、人を集めて、火と煙を用意してな。」


「うん。」


「無茶はしない。」


「うん。」


「本当に分かってるか?」


「たぶん。」


「そこは、うんって言え。」


朔太郎は少し考えた。


「うん。」


「遅い。」


村へ向かう道は、血の匂いを避けるため、少し遠回りになった。


迅が先頭に立つ。


村人が荷車を押す。


神官が祈りながら歩く。


朔太郎は最後に、白角の神鹿の身体を振り返った。


森の中に残る白い巨体。


片側の皮を失い、血を抜かれ、それでも角はまだ枝のように空へ伸びている。


神ではない。


でも、ただ捨てていいものでもない。


「待ってろ。」


朔太郎は小さく言った。


迅が振り返る。


「誰に言った?」


「白角。」


「名前で呼ぶんだな。」


「長いから。」


「理由が雑。」


「戻るから。」


迅は少しだけ笑った。


「そうだな。戻る。」


森の奥で、獣の唸り声がした。


遠くから、血の匂いを追う影が集まり始めている。


それでも2人は歩き出した。


白角の神鹿はドロップしない。


素材は、そこに残る。


残るなら、取りに戻るしかない。

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