第四章 サザンへの帰還③
(……あの野郎)
数分前。
廊下を進みながら、一人の少女が青筋を立てていた。
美麗な少女だ。ただ、勝気……というより、不機嫌そうな眼差しをしており、口元はへの字に結んでいる。肩口より少し長いぐらいのアイボリーの乱れ髪は少し整えている。流石に額の火傷は前髪で隠してはいるが。
ハワードの婚約者。アイシャ=シーハンズである。
彼女は今、慣れないドレスを身に着けていた。ハワードに頼まれたからだ。
自分の婚約者として、来客に紹介したいと。
すでに婚約自体は諦めている。
自分はもう、生涯ハワードから逃げられないと覚悟していた。
だからこそ嫁入り修行も頑張っているつもりだ。
しかし、お披露目はまだ三カ月ほど期間があったはずだ。
だというのに、いきなり今日、紹介したいなど告げられたのだ。
アイシャとしては不満だ。
(いきなり過ぎんだよ。ケダモノ伯爵め)
思わず、さらに不機嫌顔になってしまう。
とはいえ、相手が相手だ。
ハワードの宿敵。そしてアイシャにとっては姉の恋人の弟になるらしい。
予期せずに、すでに顔も合わせているので初対面ではない。
互いの存在をここで明確にしておくこと自体は悪くはなかった。
(けど、あいつはそれを利用しそうだしな)
ハワードなら、この事情を十全に利用しそうだった。
掌の上で踊らされているようで面白くはない。
すると、
「……奥さま」
その時、声を掛けられた。
食堂の扉の前に立つ老執事。ベン=ロッソだ。
「旦那さまと、お客人の方々が中でお待ちです。奥さまのことをお伝えして参りますので少々お待ちください」
そう告げて、ベンは食堂に入っていった。
ややあって戻ってくると、アイシャに近づき、
「……分かっていると思うが」
鋭い声で忠告してくる。
「もうお前は旦那さまの妻だ。伯爵夫人なのだ。それに相応しい応対をしろ」
このハワードに忠誠を誓う老執事は時折、素の顔を見せてくる。
「分かってるよ」
アイシャとしてはこっちの方がありがたい。
この老執事は素の顔を見せても嫌味などは言わない。本心で忠告してくるからだ。
「けど、今回は相手側にオレも素の性格を知られてるからな。事前に会っちまってるし。多少のボロはいいだろ?」
「……それにも限度はあると思うが」
ベンは嘆息した。
「とりあえず『ケダモノ伯爵』とかはやめろ。旦那さまを揶揄するような言い方を控えるのなら多少は大丈夫だろう」
「りょーかい」
アイシャはそう返して、片手を振った。
そうして、アイシャはベンと入れ替わって入室した。
「初めまして」
アイシャはドレスの裾を上げて、挨拶をする。
「ハワードさまの婚約者。アイシャ=シーハンズと申します」
………………………。
…………………。
……五分後。
「そっか。姉ちゃんは元気なのか」
アイシャの伯爵夫人の仮面はいきなり欠片もなかった。
それも仕方がない。
なにせ、相手側がアイシャの登場に一切驚かず、「……ああ~」と遠い目をしたからだ。
本来なら街中で偶然知り合った少女が伯爵の婚約者だったのだ。もう少し驚いてもいいと思う――実はハワードもそう考えていた――のだが、相手側も事前に持っていた情報から、ハワードの婚約者がアイシャであると推測していたようだ。
それが確信に変わって、思わず揃って遠い目をしてしまったそうだ。
(いや。なんで遠い目?)
アイシャはそう思ったが、とりあえず、もう演技はしなくてもよさそうだ。
ハワードも苦笑を浮かべて「楽にしてくれていい。アイシャ」と承諾してくれた。
かくして初お披露目は、奇妙な縁を持つ親睦会へとなったのである。
「しかし、ヒラサカ君の兄君が、かの《双金葬守》殿であろうとは」
ハワードは興味深そうにコウタを見つめた。
「ヒラサカ君の実力も納得だよ」
「けど、ボクはまだまだ兄に届きません」
コウタは素直にそう口にした。
「強くなるほどに。兄の背中を遠く感じます」
「……ほう。君にそこまで言わせるか」
ハワードは、少しだけ素の表情を見せた。それほどの強者と聞くと流石に血が騒いでくる。とは言え、今はそれ以上の顔は見せないが、
「ふむ。しかも、アイシャの姉君の恋人でもあるのか。これは一度お会いしたい。いや、必ずすべきだね」
「……そ、そうですね」
それには、コウタも思わず顔を強張らせた。
いよいよ、このはっちゃけ伯爵と縁戚になる可能性が確実になってきたからだ。
「ですが、そこはきっと兄の方から挨拶に来ると思います」
とりあえず、兄に全部投げることにした。
「私とアイシャの式には姉君と共に是非とも参列していただきたいな。しかし、それほどの遠方にお住まいとなると難しいかもしれんな」
ハワードは隣に座るアイシャに目をやった。
アイシャは作法の修行などどこに行ったかのように、パンに噛り付いていた。
むしゃむしゅと食べながら、
「構わねえよ。出来ればで。姉ちゃんや、その兄ちゃんも堅苦しいの苦手そうだし」
「……まったくお前は」
ハワードは、アイシャにしか見せない優しい顔を向けた。
その穏やかで柔らかな眼差しに、コウタたちは少し驚いた。
(……なるほどな)
コウタやリーゼと違い、前からの顔見知りであってもあまり会話に参加せず、静かに情報収集に専念していたジェイクが思う。
(伯爵さんの雰囲気が変わったのはアイシャさんと出会ったからか。まあ、オレっちもフランの前だとあんな感じになるしな)
溢れ出す愛情は人を穏やかにするのだ。
それは、はっちゃけ伯爵さまも変わらないらしい。まあ、それでもなお、充分はっちゃけているのだが、そこまではジェイクにも分からなかった。
「いずれにせよ、喜ばしいことだ」
ハワードが笑みを浮かべてそう言った。それからコウタの方を見やり、
「ヒラサカ君。パドロにはいつ帰還する予定なのだい?」
「あ、はい。魔獣使いの件もありますし、二、三日はサザンに滞在しようかと」
コウタがそう答えると、ハワードは「ふむ。そうか」と頷き、
「ならば、遠慮することはない。私とヒラサカ君は縁戚になるのだ。アイシャも姉君の近況を聞きたいだろう」
一拍おいて、彼はこう告げるのだった。
「その期間は、我が屋敷に宿泊されてはどうかね?」




