第八話 表へ出せない勘定
翌朝、一覧表と請求書を並べると、隆志は最初、余裕のある顔で言った。
「北星は水害の後に潰れたんだ。照会先がないのは当たり前だろう」
「御社から北星加工への振込がありません」
「現金で払った。急ぎの試作だった」
「同じ日に、会社口座からあなたの口座へ、同じ額が動いています」
隆志の指が止まった。
私は、前任事務所から引き継いだ契約書の写しを、請求書の角印の隣に置いた。旧社判の枠の欠けが、同じ位置にあった。
彼は長い間、何も言わなかった。
「……水害の混乱で、一時的に借りただけだ」
やがて隆志は、掠れた声で言った。
「私が個人保証していた外注先が潰れかけた。あそこが止まれば、うちの生産も止まる。会社から私が借り、私名義で七百三十万を先方へ送った。一週間で利息を付けて返すつもりだった。だが返せないまま決算が来た。役員への貸付けが銀行に知られれば、更新に響く。それが怖くて、架空の外注費へ振り替えた」
「実在しない請求書を作って」
「水害で請求書が全部流れたと聞いたとき、正直、助かったと思った」
隆志は、自分の言葉に自分で顔をしかめた。
「四百枚が消えたんだ。一枚くらい増えても、誰にも分からんと」
「一枚だけ、濡れていなかった」
「……そうだな」
短い沈黙のあと、隆志の顔が急に赤くなった。
「四十六人を守るためだ!」
拳が机を打った。
「きれい事で会社が残るか。帳簿しか見ない先生に、四十六人を背負う人間の気持ちが分かるか。組織を預かる者には、表へ出せない勘定があるんだ」
百年前の黒岩と、同じ言葉だった。
私の視界で、現代の会議室と燃える倉庫が重なった。
黒岩は責任を部下に押しつけた。隆志は責任を一人で背負った。背負い方を間違えただけで、この男は黒岩ではない。それでも、綴じられた一枚の嘘は、どちらも同じ重さだった。
「この一件を黙っていれば、残りは認められるんでしょう?」
環が問うた。社長としてではなく、叔父を告発することになる姪の声だった。
隆志が彼女を見る。
「環。会社を守れ。それが社長の仕事だ」
私は答える前に、百年前の帳簿を開いた。
「一枚の嘘を綴じれば、その前の九十九枚まで嘘になる」
「何の話だ」
「伊吹惣一さんの言葉です」
環が息を呑んだ。隆志の視線が、焼け焦げた表紙に落ちた。
「御社のご先祖は、虚偽の記載を隠すのではなく、虚偽だけを虚偽として残しました。そのおかげで、本当だった他の記録まで守られた」
私は、現代の一覧表を指した。
「この一件を隠して調査官に見つけられれば、我々が積み上げた三百九十九件も、口裏合わせに見えます。三百九十九件を守るために、一件を出すのです」
「なら、一件を認めれば会社は助かるのか」
隆志が睨んだ。
「助かる、とは言いません。正しくなる、と言います」
私は偽の請求書を指した。
「正しい処理は外注費ではなく、会社からあなたへの役員貸付金です。加工という課税仕入れもありませんから、消費税の控除も外れます。返済条件を弁護士同席で書面にし、利息と担保を含めた回収計画を作ります。書面がなければ、貸付けではなく賞与と見られ、会社の負担はさらに増えます」
「……」
「実地調査を待たず、直ちに修正申告します。追加の法人税等と消費税等、それに延滞税。事前通知の後ですから、過少申告加算税も資金繰りへ入れなければなりません。ここでなお隠し、調査で仮装と判断されれば、重加算税で負担はさらに重くなる。融資への影響もゼロではありません」
「ほら見ろ」
「しかし、正しい三百九十九件まで捨てる必要はない」
私は印鑑ケースを閉じた。
「その理屈に署名することはできません。けれど、この会社を見捨てるつもりもありません」
環は目を閉じた。
やがて、自分の前にあった偽の請求書を裏返した。
「修正してください」
「環!」
「嘘で一年助かっても、来年はもっと大きな嘘が要ります。私は、この会社を百一年目にも残したい」
その声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。
百年前、惣一も同じ目をしていた。
隆志は、焼け焦げた帳簿から目を離さなかった。祖父が振った四桁の番号を、指でなぞっていた。




