第九話 今度は、事実に署名する
その夜、私たちは法人税等と消費税等の修正額を計算した。
翌朝、修正申告書に電子署名を付す前、環が小さな声で訊いた。
「先生は、どうしてそこまで」
私は少し考え、事実だけを答えた。
「百年前に、書きそびれた一行があるんです」
環は、それ以上訊かなかった。
私は画面の上で指を止めた。
電子署名には、朱肉がない。傾きもない。誰が、いつ、何に署名したかだけが残る。
それでいい。
百年前、私は虚偽に印を押した。
今度は、事実に署名した。
会社は修正申告書を電子送信し、追加本税と延滞税を納めた。
その日の午後、隆志は専務を辞任し、所有していた資産を担保に、利息を含む返済合意書を会社と交わした。
環は修正税額を織り込んだ十三週の資金繰り表、その返済合意書、二重承認の運用表を銀行へ持ち込んだ。銀行は税務調査が終わるまで、既存借入を三か月だけ暫定更新した。
一週間後、実地調査が始まった。
調査官の野上が会議室へ着席すると、私は先に提出した修正申告書の控えと、赤い別冊を差し出した。
「北星加工への七百三十万円の加工は実在しません。会社から当時の専務への貸付けです。法人税等と消費税等は、すでに修正申告しました」
隣で環が頭を下げた。
野上は表情を変えず、偽の請求書と隆志の経緯書を読んだ。
「その一件は、隠されていても、いずれ分かりました。存在しない法人への七百三十万円は、目立ちます」
淡々とした声だった。環の肩が僅かに揺れた。あの一枚を出さなければどうなっていたか、私はそれ以上想像しないことにした。
「残る三百九十九件も、同じように作られた可能性はありませんか」
「疑われるのは当然です」
三百九十九件について、再発行された請求書、相手先の売上元帳の該当頁、銀行記録、入退場記録、製造日報を相互に結びつけてある。法人税と消費税で必要な整理も分けた。
私は青と黄の一覧を差し出した。
「だからこそ、請求書一枚ではなく、会社の外に残った記録までつなぎました。一件ずつ確認してください。追加の照会にも応じます」
「再発行された請求書も、相手先の売上元帳も、口裏を合わせれば作れます。青と黄を、同じ強さの証拠として扱えということですか」
「いいえ。だから分けました」
私が答えると、宮坂がもう一冊のファイルを机へ置いた。
「外注先だけでなく、完成品の納入先からも遡っています」
ファイルには、救難用ポンプの納品記録、製造番号、使用された弁のロット番号、そして二階で見つかった外注札の番号が並んでいた。いずれも、別々の場所に保存されていた記録である。納入先は国民救難隊の各地方隊。豪雨の日、伊吹精機の一階を排水したのも、そのポンプだった。
「この三百九十九件の加工がなければ、この数の完成品は存在しません」
野上は黙って、外注一覧と製造番号を照合した。
「では、なぜ自分たちに不利な一件を最初に出したのですか」
「不利な事実を隠した資料は、証拠ではありません。都合よく作った物語です」
野上は少しだけ眉を上げ、青と黄のファイルを引き寄せた。
「確認します。必要なら取引先にも照会します」
「応じます。事実でないものを認めていただく必要はありません。事実であるものだけを、事実として扱ってください」
「私にも、それ以外の権限はありません」
面談は二時間続いた。
勝ち負けはなかった。
それから六週間、野上は追加資料を確認し、必要な取引先照会を行った。
調査結果の説明の日、虚偽の一件は、すでに提出した修正申告のとおり、外注費から隆志への役員貸付金へ振り替えることで確定した。返済合意書と担保があったため、貸付金が賞与とされることはなかった。一方、三百九十九件は、法人税上の外注費として認められた。
消費税についても、罹災証明、保険会社の被害報告、再交付された適格請求書と復元資料により、保存できなかったことにやむを得ない事情があり、取引自体は実在すると確認された。架空の一件を除き、仕入税額控除について更なる指摘はなかった。
事前通知後の修正申告に係る過少申告加算税は、後日届いた通知に従って納付した。
調査終了後、既存借入は本更新された。新規の運転資金枠だけは減額された。
会社は無傷ではなかった。予定していた新工場は延期となり、役員報酬も下がった。
それでも給与日、四十六人の口座には予定どおり給与が振り込まれた。




