最終話 死傷者、零
翌年六月、伊吹精機の工場が全面再開した。
新しいサーバーは二階へ移され、帳簿データは遠隔地にも保存されるようになった。雲というものは、火にも水にも存外強いらしい。
正面玄関の小さな展示室には、大正十四年の物品受拂簿が置かれていた。
修復の際、背表紙から一通の手紙が見つかった。惣一が、議員と新聞社へ帳簿の写しを送った経緯を記したものだった。
私はそれを、展示室で一人で読んだ。
『榊原殿は、初め虚偽へ印を押した。されど日が変わる前に戻り、自らその印を訂正して本簿を私に託した。火が放たれしは、その直後である。私を窓より逃がしたのち、榊原殿は帰らなかった。初めだけを記せば罪人となり、後だけを記せば作り物の英雄となる。人は過つ。次の一行を選び直せることこそ、後世へ伝えられたい』
この世界の征一も、火の中から帰らなかった。
私と違っていたのは、日が変わる前に戻ったこと。それだけだった。
右手の親指は、もう疼かなかった。
被服本廠帳簿事件の記念館は、展示を改めた。
「英雄・榊原征一」という見出しは消え、伊吹惣一、倉庫職員、新聞記者、議員、証言した商人たち、そして七年後に上申書を書いた元三等主計正の名とともに、征一が最初に押した虚偽の印の拡大写真も展示された。右上の薄い、斜めの印である。
一冊の帳簿だけが戦争を止めたのではない。一つの嘘を見過ごさなかった多くの人が、少しずつ国の進路を変えたのだ。
それでよかった。歴史も帳簿も、都合の悪い一行を伏せたままでは正しくならない。
私は、自分が榊原征一の生まれ変わりだとは誰にも言わなかった。
言う必要はなかった。
「先生」
隣に立つ宮坂が、新しい工場を見上げた。
「今回の戦果は、どのくらいですか」
「戦果ではない」
「では、結果は」
搬入口では、従業員たちが完成した救難用ポンプをトラックへ積んでいる。事務室では、環と新しい経理責任者が、二重承認の画面を確認していた。隆志は月に一度、返済のために会社を訪れる。帰りには必ず、二階の外注札の箱を見ていくのだと、環から聞いた。
「修正申告、完了。融資、継続。給与遅配、なし」
私は一つずつ数えた。
「本件の死傷者は」
「零名だ」
宮坂は笑った。
「それなら、上出来ですね」
私は反論しようとして、やめた。
「左様だな」
展示された帳簿の最後には、惣一の言葉どおり、まだ白い余白が残っていた。
申告書には提出期限がある。
けれど、人が次の一行を選び直すのに、百年は遅くなかった。
(了)




