第七話 三点照合
伊吹精機の会議室には、まだ薄く泥の臭いが残っていた。
四代目社長の伊吹環は三十四歳。工場の設計部門から社長になったばかりで、祖父の代から会社を支えた叔父の隆志が、現在も専務として経理を握っている。
「調査官は、請求書がなければ外注費を認めないと言っているのでしょうか」
環が尋ねた。
「いいえ。まずは確認したいということです。請求書が失われても、取引そのものが消えるわけではありません」
「でも、何も残っていません」
「御社になくても、相手先には残っています」
「法人税と消費税では、同じ証拠が要るのですか」
「法人税で確かめるのは、仕事が本当に行われ、金額と支払義務が確定していたかです。消費税は、それに加えて帳簿と適格請求書の保存が原則です。ただし、災害で保存できなかった場合の例外があります」
「なら、それで済むだろう」
口を挟んだのは隆志だった。
「水害で全部流された。天災だ。誰の責任でもない。それで通らんのかね」
私の身体が、椅子の上で僅かに硬くなった。
――此度の水害で滅失したものとして処理せよ。
「通りません」
私は、自分でも驚くほど平坦な声で答えた。
「災害の例外は、失われた本物を救う制度です。無いものを有ることにする制度ではありません。罹災証明や保険会社の被害報告と併せて、実在した取引を外部の記録から一件ずつ示します」
私は百年前の帳簿を開き、欄外の四桁番号を環に見せた。
「それに、伊吹精機の中にも残っているかもしれません。創業者は、受入札、搬入口札、完成品の組番号を三点で照合していました。この番号の振り方は、現在の工場へ引き継がれていませんか」
環は首を振りかけ、途中で止め、スマートフォンを取った。相手は、前年まで工場長だった八十二歳の男性だった。
「外注札? ……二階の旧工具室に、金属の札を入れた箱が?」
十分後、環は自ら、油に黒ずんだ鋼鉄の箱を抱えて戻った。中には外注先、加工日、品番を刻んだ薄いアルミ札が、年度別に詰まっていた。二階は、水に浸からなかった。
惣一の記録法は、百年後も工場の二階で生きていた。
私はホワイトボードへ四つの項目を書いた。
銀行の振込記録。
外注先の売上元帳の該当頁と、再発行された請求書。
搬入口の金属札と、工場の入退場記録。
製造日報と、完成品のロット番号。
「一枚の紙がなくても、取引は複数の場所に足跡を残します。足跡をつなぎ直します」
環は僅かに息を戻した。しかし隆志は腕を組んだままだった。
「そんな悠長なことをして、融資の更新に間に合うのかね」
「間に合わせるため、今日から取引先へ照会します」
「四百件だぞ」
「相手先は三十七社です。件数と兵力……失礼、件数と社数を混同してはいけません」
宮坂が机の下で私の靴を軽く蹴った。
「先生。私へ『照会せよ』と命令するところでしたね」
「分かるのか」
「三年目ですから」
私は咳払いした。
「宮坂さん。力を貸してもらえないだろうか」
「承知しました、であります」
環が初めて小さく笑った。
融資審査へ資料を提出するまでの十日間、私たちは四百件の取引を復元し続けた。
最初の壁は、相手先だった。
「うちまで調べられるのは困る」
三十七社のうち八社が、電話口でそう言った。
「御社が売上として申告した取引を、御社の帳簿どおりに確認させていただくだけです。申告済みの売上を確認されて困ることは、原則ありません」
私はそう説明し、それでも渋る相手には、伊吹精機が水害の翌週に何をしたかを話した。自社の工場が泥に沈んだまま、外注先へ加工代を前払いしたのである。相手が止まれば、自分たちも止まる。隆志の判断だったと、環から聞いていた。
八社のうち七社が、翌日には売上元帳の写しを送ってきた。
宮坂は再発行された請求書を受け取り、メールの送受信記録と照合した。私は銀行明細と材料の出庫記録を追った。環は設計者の目で、弁のロット番号から完成品と納入先を逆算した。水没した製造日報は、機械端末に残る履歴と、二階のアルミ札から復元した。
夜になると三人で一覧表を更新した。直接証拠があるものを青、複数の間接証拠がつながるものを黄、何もつながらないものを赤に塗る。宮坂は赤を黄に塗り替えるたび、小さく「一件、救出」と言った。私の口癖が移ったのだとしたら、責任は私にある。
前世の私は、三色を使わなかった。全部を一色に塗った。
水没した工場の一階へ原簿を取りに入ると言い出した社員がいた。
私は即座に止めた。
「証憑は取引先から復元できます。人命に再発行はありません」
前世の私は決断が遅れ、帳簿を守ろうと火の中へ入り、何一つ持ち出せないまま死んだ。勇気と無謀は違う。帳簿は人のためにある。人が帳簿のために死んではならない。
三日目の夜、赤は四十一件だった。
七日目、九件。
九日目、一件。
青は三百二十一件、黄は七十八件。最後まで赤く残った一件は――
北星加工株式会社。金額七百三十万円。大型弁の試作品加工代。
水害を免れた、唯一の紙の請求書だった。
私は深夜の事務所で、その一枚を、段ボール箱から出した伝票の束の上に載せた。泥水をくぐって波打った紙の上に、乾いた紙が一枚だけ浮いている。
百年前、黒岩は嘘を水に沈めた。
百年後、誰かが嘘を、水の上に浮かべていた。
私は、請求書と同じ日付の銀行明細を開いた。伊吹精機から北星加工への振込はない。代わりに同じ日、会社口座から隆志の個人口座へ、七百三十万円が動いていた。
製造日報に試作品の記載はなく、入退場記録にも外注札にも、担当者の名前はない。法人番号公表サイトにも、適格請求書発行事業者公表サイトにも、北星加工は存在しなかった。請求書記載の住所には、三年前に閉店した文具店があった。
さらに角印を拡大すると、枠の欠けと朱肉のむらが、伊吹精機の旧社判と完全に一致した。中央の社名だけが、画像編集で差し替えられている。
「作った人間は、これで取引を証明できると思ったのでしょう」
宮坂が言った。
「だが実在する取引には、紙以外の痕跡がある。この一件だけは、紙しかない」
私は環に電話をかけた。
「社長。明朝、専務を会議室へ呼んでいただけますか」
「……叔父ですか」
環は理由を訊かなかった。訊けば、答えを聞くことになる。




