第六話 大戦を回避した日本
十歳の春、私は教科書の中の自分と目が合った。
近代史の単元だった。見開きの右下に、軍帽をかぶった若い男の白黒写真がある。頬の削げ方、眉の角度、口を結ぶ癖。鏡で見慣れた今の顔より、むしろ見慣れた顔だった。
写真の下には、こう書かれていた。
『不正な秘密支出を記した帳簿を守り、告発した陸軍二等主計・榊原征一』
「榊原、お前の先祖だろ」
隣の席の子が笑い、教室が沸いた。それから高校を出るまで、私は何度も「英雄の末裔」とからかわれた。姓が同じで、顔も似ている。誰も、別の世界から本人が生まれ直したとは考えなかった。
二度目の人生で、私は榊原真守と名づけられた。前世と同じ姓になったのは偶然なのか、何者かの悪趣味なのか、いまだに分からない。
五歳で電卓を与えられ、その日のうちに操作を覚えた。九歳で表計算ソフトに出会い、軍の全倉庫へこれを配備できれば、と本気で悔しがった。十二歳のとき、父から「経費で落とす」という言葉を聞き、どの勘定から何を落伍させるのかと尋ねて笑われた。
だが、笑えない違いもあった。
二度目に生まれた日本は、私が知る大正の先に、思いもよらぬ未来を築いていた。
この世界では、焼けたはずの帳簿の写しが新聞社へ届いていた。それを端緒に国会の特別調査が始まり、商社側の元帳や各地の倉庫職員の証言から、複数年度にわたる架空の滅失処理が明るみに出た。昭和七年、相次いだ軍事会計疑獄を受け、軍の予算と指揮権は国会の厳格な統制下に置かれた。多くの記者、議員、商人、軍人、市民が改革を積み重ね、日本はその後の世界大戦に参戦しなかった。今は国民救難隊が災害対応を担い、伊吹精機のような町工場が、そのポンプと弁を作っている。
教科書には、その改革へ連なる事件の一つとして「被服本廠帳簿事件」が載っていた。
載っているのは、私ではない。
私は虚偽へ印を押し、日が変わるまで迷い、帳簿も惣一も救えなかった。教科書の榊原征一は、私と同じ過ちを犯しながら、私より早く次の行動を選べたもう一人の男だ。
私は褒められるたびに、自分の中の赤い印が濃くなるのを感じた。
大学で商学を学び、税理士試験を受けた。軍の経理をしていたから簡単だった、ということはない。百年後の税法は昔の陸軍給与令よりはるかに複雑で、何度も不合格になった。
それでも税理士を選んだ。
税理士は国の徴税官ではなく、依頼人の隠し事を請け負う者でもない。事実と法令の間に立ち、正しい額を示す仕事だ。その立ち位置が、上官の顔色だけを見ていた前世の私には、ひどく眩しかった。
「先生」
宮坂の声で、私は百年前から戻った。
「その頁、訂正されていますよ」
記憶に引きずられ、私は自分の朱印から先を見ていなかった。
帳簿を見下ろす。
二百四十反の記載には、二本の朱線が引かれていた。余白にあるのは、紛れもなく私の筆跡だった。
『右物品納入ノ事実ナシ 上官ノ命ニ依リ誤記セルモノナリ』
だが、私はこの文を書いていない。私の世界では、筆を取る前に帳簿が燃えた。
訂正文の下に、別の筆跡が続いていた。
『榊原殿ノ訂正ヲ確認ス 伊吹惣一』
この世界の征一は間に合った。そして惣一も、生きて倉庫を出たのだ。
胸の奥で、百年間止まっていた何かが、かすかに動いた。
私の手が止まっている理由を、宮坂は訊かなかった。三年目である。
頁の外側には、惣一の四桁の番号が、変わらず並んでいた。
宮坂が厚い背表紙を、指の腹でそっとなぞった。
「中に紙のような感触があります。でも、無理に開けば帳簿ごと壊れますね。専門の修復業者に見てもらいましょう」
「伊吹社長のご先祖でしょうか」
「おそらく」
「だったら、これも社長に返さないといけませんね。……その前に、今の四百件です」
宮坂は現代の元帳を帳簿の隣へ置いた。
私は頷いた。
過去の一行を眺めているだけでは、現在の四十六人に給与は出ない。




