幕間 窓の外側(伊吹惣一)
その夜、榊原殿は日が変わる前に戻ってきた。
私は倉庫の二階にいた。札の箱を運び上げ、暗がりで一枚ずつ数えていた。数え終わっても、帰らなかった。帳簿が焼かれる夜に、帳簿を置いて帰るのは、帳場の者の仕事ではない。
十一時半、鵜飼曹長が油の缶を提げて入ってきた。曹長は階段の下から私を見上げ、少し困った顔をした。
「伊吹。もう帰れ」
「札を数えております」
「零時に火を入れる。命令だ」
「承知しております。火が入る前に帰ります」
曹長は油を撒き始めた。土間の水はまだ引ききらず、油は水の上に虹を作った。私は数え続けた。曹長が私を無理に追い出さなかったのは、たぶん彼も、この夜の仕事が嫌だったからだと思う。
十一時五十分、扉が開いた。
榊原殿だった。軍帽をかぶっていなかった。濡れた外套のまま、油の匂いの中を真っ直ぐ歩いてきて、曹長に言った。
「待て。訂正が先だ」
「主計正殿の命令であります」
「私の命令だ。五分でいい」
曹長は油の缶を置いた。置いたということが、返事だった。
榊原殿は本簿を棚から出し、机に置き、最後の頁を開いた。私は階段を降り、油燈を近づけた。
朱線が二本、二百四十反の記載を横切った。それから、余白に一行。
『右物品納入ノ事実ナシ 上官ノ命ニ依リ誤記セルモノナリ』
字は真っ直ぐだった。印だけが、傾いていた。右上が薄い。
「伊吹。確認の署名を」
私は筆を取った。『榊原殿ノ訂正ヲ確認ス 伊吹惣一』。雇員の私が主計殿の帳簿に字を書いたのは、これが最初で最後である。
「主計正殿の名は、お書きにならないのですか」
「黒岩の名を書けば、黒岩一人の罪で終わる。四年分の滅失は、一人で作れる大きさではない。上官の名は、上官が自分で書くものだ」
榊原殿はそう言って、傾いた印の下の余白を、指で押さえた。
「そのために、ここは空けておく」
遠くで、巡察の呼子が鳴った。
曹長が、油の缶に手を伸ばした。彼の顔は、命令と命令の間で潰れていた。零時の鐘が鳴った。曹長は火を入れた。私たちが正面から出ると思ったのだ、と後で聞いた。
油は、水の上を走った。
火は音より先に来た。榊原殿は本簿を私の胸に押しつけ、私の襟を掴んで、北側の窓へ引きずった。窓は高い。榊原殿は膝を組んで台にし、私を押し上げた。
「札の箱だ」
窓枠に手をかけた私に、榊原殿は下から言った。
「札がなければ、この頁が本当かどうか、後の者が確かめられん。伊吹、写しを作れ。二つ作れ。紙は燃える」
「主計殿も、こちらへ」
「先に行け」
榊原殿は階段へ戻った。二階に、私の札の箱があった。
私は窓の外へ落ちた。泥の上に転がり、帳簿を胸に抱えたまま、立ち上がった。
窓の外側から見る倉庫は、四角い火だった。ガラスが割れ、赤い紙が舞い出してきた。無数の蝶のように。柱の札が燃える匂いと、羅紗が焦げる匂いがした。
私は待った。
窓を見ていた。正面を見ていた。屋根を見ていた。
誰も出てこなかった。
巡察の提灯が門の向こうに現れ、曹長が走り去るのが見えた。私はまだ待った。屋根が落ちる音がして、火の粉が私の頭の上まで来て、それでも待った。
帳簿を抱えた雇員が、燃える軍の倉庫の前に立っている。見つかれば、この帳簿は経理局に取り上げられる。榊原殿の一行も、傾いた印も、余白も、取り上げられる。
それが分かって、私は走った。
王子の焼け残った長屋の、知り合いの家で、夜明けまで写しを作った。二つ作った。一つは新聞社へ、一つは代議士へ。本簿は、油紙に包んで床下へ隠した。
紙は燃える。だから写しは二つ作る。榊原殿がそう言った。
夜が明けても、榊原殿は帰らなかった。
私は、その日から、榊原殿の分まで数えている。




