第五話 赤い蝶(大正編・四)
宿舎から第三倉庫までは、走って五分の道である。
雨は上がっていた。雲の切れ目に月があり、水の引いた道には泥が光っていた。半分ほど走ったところで、風の向きが変わり、油の臭いが来た。
次に、赤い光が来た。
遅すぎた。
倉庫はすでに炎に包まれていた。偶然の出火ではない。搬入口の前から、人影が一つ、走り去るのが見えた。曹長の背丈だった。遠くで巡察の呼子が鳴っている。私はそれを追わなかった。追うべき相手は、火の中にいた。
「惣一!」
返事はなかった。
惣一は、この夜も倉庫に残っていた。私は知っていた。彼は今日、私の傾いた印を見て、それから何も言わずに、札の箱を二階へ運んでいた。あの男は、帳簿が焼かれる夜に、帳簿を置いて帰るような男ではない。
私は外套を水溜まりに浸し、頭から被って、火の中へ入った。
熱は、音より先に来た。
帳簿棚は崩れ、紙の端が無数の赤い蝶のように舞っていた。搬入口の柱の札が、一枚ずつ燃え落ちていく。四桁の番号が、黒く縮れていく。惣一が数え、私が数えた番号である。物があった証も、物がなかった証も、同じ火で消えていく。
階段の下に、札の箱が転がっていた。中身が土間に散っている。誰かが二階から抱えて降り、途中で落としたのだ。
「惣一! どこだ!」
煙が喉を焼いた。返事の代わりに、二階の床が鳴った。
奥に、鼠色の表紙が見えた。
本簿である。誰かが棚から出し、机の上に置いたままになっていた。惣一の姿はない。
私は本簿へ向かった。
右手の親指が、火の熱で疼いた。懐には廃棄命令書があり、その裏には鉛筆の一行がある。これを本簿の余白へ書き写し、印を押し、それから惣一を探す。順番はそれでいい。帳簿を先にするのは、帳簿のためではない。四年分の毛布のためだ。門の外の列のためだ。濡れた新聞紙を肩に巻いた、あの子のためだ。
当時の私は、そう考えていた。今の私は、順番が逆だったと知っている。人が先だ。帳簿は、人がいて初めて意味を持つ。
手を伸ばす。届かない。
もう一歩踏み出したとき、梁が落ちた。
最後に見たものは、私の赤い印が炎の中で黒く縮れていくところだった。右上の薄い、傾いた印。
訂正の一行は、命令書の裏にあった。命令書は、私の懐にあった。
筆を取る前に、帳簿が燃えた。
次に目を開けたとき、私は平成生まれの赤子になっていた。




