第四話 九十九枚(大正編・三)
その夜、私は搬入口の柱の前に立った。
水はまだ土間に残り、灯りは油燈だけである。柱に吊られた番号札を、私は一枚ずつ指で数えた。惣一が今朝、数え終えた札である。二百四十反の番号は、どこにもなかった。
次に、前年の受払簿を開いた。九月の台風。天幕八十張、滅失。柱には、その番号もない。
さらに前の年。地震。毛布三千枚、滅失。
滅失、滅失、滅失。
災害のたびに、入ってこなかった物が、失われた物になっていた。金額を足すと、四年で三万円を超えた。
四年分の冬服と、毛布と、天幕。
私は帳簿を閉じ、しばらく暗がりの中に座っていた。
黒岩は嘘をついていない、と思った。彼は本当に本所にいて、本当に四万人が焼けるのを見たのだろう。そして本当に、情報と金があれば救えると信じている。だが、彼が救うと言った国境の兵と、門の外の列とは、同じ国の人間である。片方の毛布を、もう片方の情報に変える権限は、三等主計正にはない。議会にもない。誰にもない。
――その国とは、どなたのことでしょう。
惣一の問いに、私は今も答えられなかった。ただ、少なくとも黒岩のことではない、とは思った。
翌朝、私は黒岩の事務室へ行った。
「昨日の記載を、訂正したく思います」
「何をだ」
「羅紗二百四十反は、受け入れておりません。受払簿の記載は事実に反します。訂正のうえ、支払を差し止めるべきと考えます」
黒岩は、しばらく私を見ていた。怒鳴らなかった。この人は、部下を怒鳴らない。
「榊原。お前は昨日、印を押した」
「は」
「押した印を、翌日に自分で消す主計を、誰が信用する。訂正した頁も嘘だと言われる。お前の帳簿は、全部が疑われる。それでもよいのか」
私は黙った。それは、惣一が言ったのと同じことを、逆から言っているのだった。
「よく考えろ。お前は郷里に母と弟がいると言ったな。抗命は軍法会議だ。俸給が止まれば、誰が飯を食わせる」
黒岩は一枚の紙を差し出した。
『浸水損耗書類焼却処分』
廃棄命令書である。水に浸かった書類は、腐る前に焼く。それ自体は毎年の慣例だった。
「今夜、第三倉庫の浸水書類を焼却する。鵜飼曹長にやらせる。お前は立ち会うだけでよい」
「本簿は、浸水しておりません」
「濡れた書類と乾いた書類を、火は区別せん」
声は低いままだった。
「本簿も混ぜろ。水害で失われたことにすれば、調べる者はいない。写しは私が作る。真っ直ぐな字でな」
命令書を受け取り、敬礼し、私は自室へ戻った。
午前零時まで、机の前に座っていた。
雨音だけがした。
帳簿を焼かなければ、抗命を問われ、軍歴を絶たれるかもしれない。俸給を失えば、郷里の母と弟の暮らしも立たなくなる。だが焼けば、私が正しいと信じて点検してきたすべての頁が、あの一行と同じになる。
私は郷里へ手紙を書こうとして、やめた。書けば、書いた言葉に縛られる。まだ何も選んでいない人間に、書く資格はなかった。
代わりに、廃棄命令書の裏へ、鉛筆で一行を書いた。
『右物品納入ノ事実ナシ 上官ノ命ニ依リ誤記セルモノナリ』
帳簿に書き入れるための、訂正の文である。上官の名は書かなかった。黒岩の名を書けば、黒岩一人の罪で終わる。四年分の滅失は、三等主計正一人で作れる大きさではない。上官の名は、上官が自分で書くべきものだった。
私は自分の親指を見た。落馬で傷めた指は、まだ真っ直ぐに印を押せない。
真っ直ぐに押せぬなら、押すべきではなかったのだ。
時計が零時を打った。
命令とは責任を上官へ預ける仕組みである。私はそう信じてきた。しかし預けた責任は、預けた本人のところへ、いつか帳簿の形で戻ってくる。それが分かるのに、私は日が変わるまでかかった。
私は軍帽を置いた。
廃棄命令書だけを持って、第三倉庫へ向かった。




