第三話 水はそのためにある(大正編・二)
大正十四年六月。
三日続きの雨で、帝都の川は堤を越えた。
荒川の水は赤羽の低地を舐め、陸軍被服本廠第三倉庫の土間に、朝には踝まで、昼には膝まで達した。
私は雇員十二名と兵二十名を指揮し、羅紗と毛布を二階へ上げさせた。惣一は棚の札を一枚ずつ外し、濡れた反物の番号と突き合わせながら、階段を往復した。搬入口の柱の札は、水面の上に残った。
「主計殿。北側の棚、四百二十反、二階へ上げました。残りは水に浸かります」
「毛布を優先しろ。羅紗は乾く。毛布は今夜要る」
門の外には、家を失った人々の列ができていた。
王子の町工場と長屋が水に沈み、避難所となった小学校には毛布が足りない。区役所から本廠へ、毛布の貸し出しを求める使いが来た。私は黒岩の決裁を仰ぎ、二百枚を出した。
「二百では足りません。列は五百人を超えています」
「軍の毛布は軍のものだ。二百が限度だ」
黒岩はそう言い、しかし門の外を見て、さらに百を足した。
私はその横顔を見て、やはりこの上官を好きだと思った。
午後、雨脚が弱まった頃、黒岩は私を事務室へ呼んだ。
机の上に一枚の伝票があった。東亜羅紗商会。羅紗二百四十反。受入済。
黒岩はそれを私の前へ滑らせた。
「此度の水害で滅失したものとして処理せよ」
私は伝票を二度見た。
「しかし、この羅紗は納められておりません」
搬入口の柱に、その番号の札はない。今朝、私はすべての札を惣一と数えたばかりだった。
「だから滅失したことにする」
「支払額は六千八百円であります。現物なくして支出する根拠がありません」
六千八百円。私の俸給の六年分より多い。羅紗二百四十反なら、外套にして四百着になる。
「根拠ならある。国防だ」
黒岩は立ち上がり、窓の外を見た。門の外の列は、まだ途切れていなかった。
「榊原。五月に四個師団が消えたな」
「は」
「議会が削ったのだ。兵も、馬も、金も。それで大陸の国境が縮んだと思うか。向こうの動きは止まらん。情報が要る。情報には金が要る。正式の予算では、議会が一銭ずつ数えて、一年遅れる。一年遅れれば、死ぬのは兵だ」
商社へ支払われる六千八百円のうち、幾らかが商社から戻り、名前のない勘定へ入る。名前のない勘定は、国境の向こうで情報を買う。黒岩はそれを、国防と呼んだ。
「清廉だけで国が守れると思うな。大きな組織には、表へ出せぬ勘定もある」
「しかし……」
「私は本所にいた」
黒岩の声が、低くなった。
「震災の日、本所の被服廠跡に、四万人が逃げてきた。私はそこで毛布と衣服の配給をしていた。帳簿は正しかった。一枚も間違えなかった。それでも、火が来た。正しい帳簿は、一人も救わなかった」
私は答えられなかった。
「金と力があれば救えた。あの日、私はそう学んだ。だから議会が削るなら、帳簿の外で埋める。水害で流れたことにすれば、誰も調べぬ。榊原、水とは、そのためにあるものだ」
命令だった。
当時の私は、命令とは責任を上官へ預ける仕組みだと思っていた。押すのは私の指でも、押させたのは上官である。軍隊とは、そういう場所だった。
私は朱肉を開けた。
右手の親指が痛んだ。印は傾いた。右上が薄い。
朱肉が紙へ吸われる音など、するはずがない。それでも私には、何かが折れる音が聞こえた。
伝票を持って倉庫へ戻り、受払簿の最後の頁に、同じ一行を書いた。
『羅紗二百四十反 東亜羅紗商会ヨリ受入 豪雨ニヨル浸水ノタメ滅失』
その下に、もう一度、傾いた印を押した。
向かいで、惣一が黙って見ていた。
「何か言いたいことがあるか」
「私は軍人ではありませんから、命令のことは分かりません」
惣一は帳簿を閉じた。
「ただ、一枚の嘘を綴じれば、その前の九十九枚まで嘘になる。それは帳場の者にも分かります」
「国を守るためだ」
「その国とは、どなたのことでしょう」
倉庫の外では、避難所へ回す毛布が足りないと声が上がっていた。炊き出しの列にいた子どもが、濡れた新聞紙を肩に巻いている。
六千八百円が、その瞬間、帳簿の数字ではなくなった。二百四十反の羅紗があれば、あの列の全員に冬服が行き渡る。
私は答えられなかった。
惣一は、私の傾いた印を見た。
「主計殿。この印は、誰の印か、すぐ分かります」
彼は、それ以上を言わなかった。




