エピローグ はんぶんこ
昼酒ほど尊いものは、この世にそうはない。
川沿いのパン屋の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。冬の薄日が窓から差しこみ、竈の火がぱちぱちと鳴っている。目の前には、なみなみと注いだ黒麦酒の杯と、焼きたての丸パンの山。
完璧だった。
レオニス・アルヴェイン、二十二歳。
職業、闇司祭。ついこのあいだまで、お尋ね者。
目下の欲望――日暮れまでに、この山を平らげること。
冬至の夜から、十日が経っていた。
地の底の階段で眠りこんだレオニスが目を覚ましたのは、二日後の昼だった。パン屋の屋根裏の、いつもの寝床で。誰が担いで帰ったのかと訊くと、ミレイアは少し黙ってから、団長です、とだけ答えた。
親父は、その二日のあいだも、毎朝、五人前を焼いて待っていたらしい。
太い腕が、卓の上に、紙を一枚、叩きつけた。
粉だらけの前掛けをした、太った親父だった。
「兄ちゃん。あんた、お尋ね者じゃなくなったぞ」
掲示板の手配書が、きれいに剥がされていたのだという。
「代わりに、こいつだ」
教会の布告だった。白銀の太陽の紋章の下に、二行。
――冬至の夜、王都に夜の試練あり。
――白陽の聖女ソレーヌは、北の修道院にて、祈りの務めに就く。
レオニスは、杯を傾けた。
「……試練、ねえ」
夜は窓を閉ざし、灯を絶やすな――あの布告も、とうに掲示板から消えている。配られた白い蝋燭は、冬至の夜から、ただの蝋燭になった。親父は今、それを竈の火種に使っている。ただの火の色で燃えて、ちゃんと、ちびていく。
奥の作業台で生地を捏ねていたミレイアが、粉だらけの手のまま、卓の布告を覗きこんだ。
一度だけ読んで、何も言わずに、作業台へ戻っていった。
前のこいつなら、卓に手をついて、怒鳴っていたところだ。
窓の外を、籠を抱えた女がふたり、しゃべりながら通りすぎていく。
「あんたも、見た? あの晩の、星」
「見たよ」
「試練だか何だか知らないけどさ。……あたしは、久しぶりに、よく泣いたよ」
「……あたしもさ」
その向こうを、白い花を抱えた女が、男の子の手を引いて、坂のほうへ歩いていった。
女は、また、黒い服を着ていた。
男の子が、窓の中のレオニスに気づいた。空いているほうの手を、ぶんぶんと振る。
レオニスは、杯を持っていないほうの手を上げた。
戸口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、常連の老婆だった。遠吠えの夜に息子を亡くした人だと、ユナから聞いている。
老婆は、にこにこと笑って、干し葡萄のパンを三つ、指さした。
親父は、何も言わずに、それを包んでやった。
冬至の夜、この人が何を選んだのか、レオニスは知らない。
訊くつもりも、なかった。
老婆と入れ違いに、痩せた男が戸口をくぐった。
ルカーシュだった。
親父が、太い眉を跳ね上げた。
「伯爵さまが、うちみてえな店に、何の用だ」
「パンを、買いに」
穏やかに答えて、ルカーシュは、レオニスの向かいに腰を下ろした。
「判決が、出ました」
レオニスは、杯を置いた。
「ガルドは、焼けた陽だまりの家を建て直す労役に。……建て終えるまで、と」
思わず、訊いていた。
「死罪は」
「取り下げられました。嘆願が、通ったので」
誰の出した嘆願なのかは、訊かなくてもわかった。
「ボルグは、北の鉱山での労役です。明日の昼に、発つそうです」
作業台で、ミレイアの手が、止まった。
すぐに、また、生地を捏ねはじめた。
「聖女さまも、明日の朝、北へ発たれます。それから――」
ルカーシュは、声を落とした。
「あなたの手配を取り下げさせたのは、聖都だそうです。司教も、聖都へ呼び戻されました」
レオニスは、眉を寄せた。
「……聖都?」
「教会は、あなたを追わないことにしたようです。……今は」
レオニスは、窓の外に目をやった。
冬の薄日が、川面を、白く光らせていた。
なんとなく、背中が、寒かった。
ルカーシュは、子供たちの分だと言って丸パンを五つ買い、帰っていった。
竈の前で、頬に白い粉をつけたユナが、手を止めていた。
「……牢屋、行くの?」
「ああ。このあとな」
ユナは、しばらく黙っていた。
やがて、焼き場の棚から、布に包んだ丸パンをひとつ、取った。
「……私も、行く」
◆
牢の門の錠前は、元どおり、鉄の輪に掛かっていた。
レオニスがユナを連れて門の前に立つと、牢番が、欠伸まじりに鍵束を鳴らしながら、訊かれてもいないのに言った。
「言っとくがな、兄さん。冬至の晩は、俺は、朝まで居眠りしてたんだ」
錠前を、顎でしゃくる。
「こいつも、ずっと、ここに掛かってた。……なんにも、見ちゃいねえよ」
「……そうかよ」
牢番は、もう一度、大きな欠伸をした。
廊下のいちばん奥の、向かいの房で、ボルグが、わずかな荷をまとめていた。レオニスに気づくと、残った左手を、軽く上げた。
ガルドは、寝台に腰かけて、石板に何か書いていた。
壁は、相変わらず、子供の絵で埋まっていた。そのあいだに、紙切れが一枚、増えている。子供の手習いのような、大きな、丸い字で――たのむ。
レオニスは、見なかったことにした。
ガルドが、顔を上げた。
レオニスの後ろに立つ小さな姿を見て、白墨が、止まった。
ユナは、布の包みを、胸に抱えていた。ミルテで、木剣を抱えていたときのように。
ガルドは、石板を置いて、立ち上がった。格子の前まで来て、膝をつく。ユナと、同じ高さになるように。
ユナが、包みを、格子の間から差し出した。
ガルドは、それを受け取って、布を開いた。
きつね色の、丸パンだった。
「……焦げてねえな」
「焦げてないよ」
ユナは、ガルドの顔から、目を逸らさなかった。
ガルドは、パンをひと口、かじった。ゆっくりと噛んで、呑みこんだ。
かじりかけのパンを、膝の上に置いた。
「お前の村から、麦を取り上げたのは、俺だ。水車が、止まるまでな」
低い声だった。
「抵抗しねえ奴と、ガキは、殺すな。――その掟を決めたのも、俺だ。裏を返しゃ、抵抗した奴は殺していいってことになる。手下どもは、そう読んだ」
ユナの指が、前掛けの裾を握りしめた。
「おふくろさんは、お前の足首の鎖に、鉈を振り下ろした。……それで、抵抗したことにされた」
ガルドは、ユナの目を見たまま、言った。
「……俺の掟で、死んだんだ」
大きな背中が、ゆっくりと、折れた。
「すまなかった」
レオニスは、黙っていた。
ユナは、前掛けを握りしめて、ほどいて、また、握りしめた。
長い、長い沈黙のあとで、小さな唇が、動いた。
「……許さないからね」
「ああ」
ガルドは、頭を下げたまま、答えた。
ユナは、くるりと背を向けた。
二、三歩、歩いて――止まった。振り返らずに、言った。
「……また、焼いてくる」
ぱたぱたと、足音が、廊下を遠ざかっていった。
ガルドは、しばらく、頭を上げなかった。
向かいの房で、枷の鎖が、小さく鳴った。
寝台の上に、置いたままの石板が見えた。
白墨の字が、ひとつ。――ユナ。
今度は、エになっていなかった。
やがて、ガルドは寝台に戻り、枕もとから、折りたたんだ紙を一枚、取り出した。
「エルナの奴が、今朝、置いてった」
紙を広げる。大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいた。
太い指が、字をなぞった。左の手首で、色褪せた茜色のリボンが揺れた。
「……おじさまへ」
ゆっくりとした声だった。けれど、一度も、つかえなかった。
「こんどは、おじさまが、ちいさかったときの、おはなしを、してね」
前に、同じような手紙を読んでやったのは、レオニスだった。
今度は、口を挟まなかった。
ガルドは、その字を、じっと見つめていた。
「……俺のちいせえときの話なんざ、ろくなもんじゃねえぞ」
ぼそりと言って、口の端を上げる。
「まあ、エルナが俺の後ろばっかりくっついてきた話なら、いくらでもあるがな」
紙を丁寧に畳んで、枕もとに戻した。
「聞いたぜ。判決」
「おう」
ガルドは、鼻を鳴らした。
「奪ったぶん、建てろってこった」
帰りぎわ、格子の向こうから、声が追いかけてきた。
「おう、欲張り」
「なんだよ」
「ドルフに、伝言は伝えたのか」
「……これからだ」
「おせえよ」
壁の紙切れが、隙間風に、かさりと鳴った。
◆
明くる朝は、雪だった。
レオニスとミレイアが大聖堂の裏手に着いたとき、裏口の前には、もう馬車が一台、停まっていた。
白くない馬車だった。古びた木の、飾り気のない箱馬車。
御者台に、大きな男がひとり、座っていた。白い髭に、雪が薄く積もっている。岩を削ったような顎。灰色の目。
胸に、白銀の太陽はなかった。腰にも、剣帯はない。粗末な旅の外套を、着ているだけだった。
騎士団長だった男だ。
レオニスは、御者台を見上げた。
「……あんたが、担いで帰ってくれたんだってな」
男は、前を向いたまま、答えた。
「……重かった」
「……そりゃ、どうも」
隣で、ミレイアが、御者台に向かって深く頭を下げた。男は、灰色の目でそれを見下ろして――小さく、顎を引いた。
裏口の扉が開いた。
扉を押さえているのは、赤い髪の見習いだった。ミレイアと目が合うと、ふん、と鼻を鳴らして、口の端を上げた。
ふたりが、出てきた。
ヘルミは、白い衣を着ていなかった。
灰色の、飾り気のない旅装。白金の髪を、首のうしろでひとつに束ねている。淡い金色の目のふちが、少し赤かった。
その後ろから、亜麻色の髪を揺らして、シエルがついてくる。
ヘルミは、レオニスの前まで来ると、腕に掛けていた黒いものを、差し出した。
外套だった。きちんと、畳んである。
「お返しします」
ヘルミは、小さく笑った。
「……夜は、冷えますから」
レオニスは、外套を受け取った。このところ借りていた親父のお古を脱いで、袖を通す。知らない石鹸の匂いがした。
「……洗ったのか」
「はい。……初めて、自分で」
レオニスは、親父に持たされた包みを、シエルに渡した。焼きたての丸パンが、まだ温かい。
「道中の分だとさ」
シエルは、包みを両手で抱えて、こくりと頷いた。
ヘルミが、北の空のほうを見た。
「修道院へ参る前に、村の跡を、訪ねてみようと思います」
白金の髪に、雪が、ひとひら、落ちた。
「父の、お墓を。……あるかどうかも、わからないのですけれど」
はにかむように、付け足した。
「それに、まだ、上手に泣けないのです。すぐに、止めようとしてしまって」
「……泣き方でも、覚えに行くのか」
「はい」
ヘルミは、真面目な顔で頷いた。
少し間をおいて、レオニスに向き直る。
「……ひとつ、訊いても、いいですか」
「……ああ」
「お鍋の、おじいさんのことです」
雪が、音もなく、降っていた。
「あの日、レオニスさんは、おっしゃいました。その方は、シチューを作るのが、お上手だったと」
淡い金色の目が、まっすぐに、こちらを見ていた。
「……ご存じの方、だったのですね」
――いつか、話そう。この人が、訊いてきたら。
訊かれた。
「……俺の、師匠だ」
ヘルミの目が、見開かれた。
「オズワルドって、名だった。あんたの親父さんのことを、兄貴って呼んでたそうだ」
「……父を、兄貴、と」
「冬が来るたびに村へ帰って、あんたの家の竈の前で、ひと冬、シチューを食ってたって。帰るたびに、麓の町で、蜂蜜を買ってってな。あんたのシチューに垂らす分だ、って」
レオニスは、少し迷ってから、付け足した。
「……牢にいる、片腕のおっさんに聞いた。ボルグっていう。あんたの村の、生き残りだ」
ヘルミの唇が、かすかに、震えた。
「……あの、牢の」
それきり、何も言わなかった。
「師匠のシチューには、いつも、蜂蜜がひと匙、入ってた」
喉の奥が、熱くなった。
「……あんたの、ひと匙だ」
ヘルミの目から、涙が、ひと粒、こぼれた。
拭わなかった。
「十年前、師匠は、あんたを迎えに行ったんだ。門で、追い返されて――」
レオニスは、目を落とした。
「その晩、雪の路地裏で、腹を空かせたガキどもに、鍋ごと食わせた。……俺と、もうひとりのちびで、空にしたよ。あんたの分の、シチューを」
ヘルミは、長いこと、黙っていた。
涙が、もうひと粒、頬を伝った。
「……おいしかったですか」
「……ああ。うまかった」
ヘルミは、泣きながら、笑った。
「では、あの晩、あの方は」
かすれた声だった。
「ひとりで、帰ったのでは、なかったのですね」
レオニスは、答えられなかった。
代わりに、俺を拾った――ずっと、そう思っていた。
隣で、ミレイアが、そっと目を伏せた。
しばらくして、レオニスは、ようやく口を開いた。
「……作り方、教えてやろうか。師匠の、あのシチュー」
ヘルミは、少し考えて、首を振った。
「いいえ」
涙の跡の残る顔で、微笑む。
「あのシチュー……北の味は、北で覚えます」
――皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ。
どこかで、師匠が、笑った気がした。
「……そうか」
レオニスも、口の端を上げた。
「蜂蜜は、ひと匙な」
「はい」
「あんた、足りねえって泣く子だったらしいけどな。……これも、ボルグのおっさんの話だ」
ヘルミが、目を丸くした。
それから、濡れた頬のまま、小さく噴き出した。
シエルが、包みをほどいていた。
丸パンをひとつ取り出して、両手で持つ。まんなかから、ふたつに割る。
片方を、レオニスに差し出した。
「はんぶんこ」
牢の廊下で差し出されたのと、同じ手つきだった。
「レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ」
「……教えた覚えは、ねえよ」
「おしえて、くれたよ」
首が、少しだけ、右にかしいだ。
「まいばん」
白い部屋の、白い寝台。泣いている隣の女の子に、毎晩、自分のパンを割って差し出した。泣きやませることは、一度もできなかった。
それでも、毎晩、そうした。
レオニスは、半分のパンを受け取った。
牢の廊下でもらった半分は、あの日、食えなかった。パン屋の卓の上で硬くなっていくのを何日も眺めたあとで、黙って湯でふやかして食った。
今度は、その場で、かじった。
「……うまい」
シエルが、満足そうに頷いた。
ヘルミが、ミレイアのほうを向いた。
「ミレイアさん」
「はい」
「あの日、おっしゃいましたね。――これは、私のものです、と」
ヘルミは、胸の前で、両手を重ねた。
「今なら、少しだけ、わかる気がします」
ミレイアは、しばらく、ヘルミを見ていた。
「……はい」
それだけ、答えた。
ヘルミが、御者台を振り仰いだ。
「参りましょう、ゴドフロワ」
「……は」
男が、手綱を取った。
ふたりが、馬車に乗りこむ。扉が閉まる寸前に、シエルが、窓から顔を出した。
「……いってきます」
「……おう」
声が、かすれた。
「いってこい」
馬車が、動きだした。雪の上に、二本の轍が、まっすぐに伸びていく。
宿舎の二階の、いちばん端の窓で、窓掛けが、いっぱいに開いていた。硝子に額を押しつけて、小さな女の子が、手を振っている。
シエルが、馬車の窓から身を乗り出して、手を振り返した。
十二年前は、振り返りもせずに、置いてきた。
今度は、見えなくなるまで、見ていた。
◆
ボルグを乗せた荷馬車が牢の門を出たのは、その日の昼だった。
ミレイアは、門の脇に立っていた。
レオニスは、来なかった。行くかと訊いたら、お前の見送りだろ、と言って、パン屋の屋根裏で丸くなった。
北の鉱山へ送られる囚人が、ボルグのほかに三人。槍を抱えた兵が、荷台の四隅に座っている。
ボルグは、荷台のいちばん後ろにいた。枷は、左の手首にしかはまっていない。右の袖は、空のまま、腰紐に留めてある。
膝もとの荷に、木の棒が一本、差してあった。
流木を削った、魚みたいな木剣だった。
ボルグが、ミレイアに気づいた。
「……嬢ちゃん」
ミレイアは、荷台の前まで歩いて、足を止めた。
ボルグは、何度か口を開きかけて、閉じた。
「……ヘルミ嬢ちゃんは」
「今朝、北へ発ちました」
「……泣いてたか」
雪の中で、涙を拭わなかった横顔を、ミレイアは思い出した。
「はい」
ボルグは、目を閉じた。
「……そうか」
御者が、手綱を取った。荷台が、ぎしりと揺れる。
ボルグが、目を開けた。
「……泣けたよ。二十五年ぶりに」
「……そうですか」
許すとは、言わなかった。言うつもりも、なかった。
胸の聖印は、ぬるくなかった。
牢の面会室で、この人の話を聞いたときは、ぬるかった。今は、ただの、冬の冷たさだった。
荷馬車が、動きだした。
北の門へ続く通りを、ゆっくりと遠ざかっていく。今朝、白くない馬車が出ていったのと、同じ道を。
荷台の後ろで、魚みたいな木剣が、揺れていた。
ミレイアは、何も言わなかった。
◆
ミルテの水車は、回っていた。
王都を発って、三日目の昼だった。川沿いの細長い谷に、冬の日が低く差している。ごとり、ごとりと、水車が冷たい川の水をすくい上げていた。
レオニスは、ひとりで、水車小屋の戸を開けた。ユナに頼まれた丸パンは、ミレイアが、村の墓地へ届けに行っている。
粉が、舞っていた。
石臼の前に、ひょろりとした若者がしゃがみこんでいた。焦げた袖を継ぎあてた上着も、髪も、眉も、粉で真っ白だった。
若者が、振り返った。
「げっ!」
ドルフだった。
「な、なんで、あんたが、こんなとこに……!」
「よう、ドルフ。粉挽きの調子はどうだ」
「う、うるせえ!」
真っ赤になって怒鳴った――らしい。粉まみれで、よくわからなかった。
レオニスは、戸口の柱にもたれた。
「伝言を、預かってきた」
「……伝言?」
「頭から、だ」
ドルフの手から、粉袋が落ちた。
ひと月半、懐にしまいっぱなしだった言葉を、レオニスは、そのまま渡した。
「――よくやった、ってさ」
ドルフは、動かなかった。
粉だらけの顔の中で、目だけが、見開かれていた。
唇が、震えた。
「……頭が」
声が、裏返った。
「……頭が、俺に……?」
膝が、崩れた。
粉の山の中にへたりこんで、ドルフは、泣いた。
子供みたいな声だった。村ごと灰にして褒めてもらうんだと叫んでいた、あの晩と、同じ裏返った声だった。
水車が、ごとり、と鳴った。
「……べ、別に」
ドルフが、しゃくりあげながら言った。
「泣いてるわけじゃ、ねえからな……!」
「粉が、目に入ったんだろ」
「そ、そうだよ!」
レオニスは、少しだけ笑った。
「自分で聞きに行け。面会、できるぞ」
ドルフは、粉だらけの袖で、ごしごしと顔をこすった。
真っ白な頬に、涙の筋が、二本、通っていた。
◆
黒狼の里に着いたのは、それから二日あとの、昼過ぎだった。
ミレイアは、黒い馬の手綱を引いて、里の入り口で足を止めた。
古い樫の板が、立っていた。
――奪うのは、外からだけ。
――抵抗しない者と、子供は殺すな。
二行目の「殺すな」の三文字を、斜めの傷が一本、断ち割っていた。
あの雨の夜に、自分がつけた傷だった。
里の奥で、炊事場の煙突から、細い煙が上がっていた。
レオニスは、入り口をくぐるなり、どこからか湧いてきた子供たちに、袖を引っぱられていった。光の司祭さまだ、と誰かが叫び、惜しい、闇のほうだ、と言い返す声が、遠ざかっていく。
「お姉ちゃん!」
学び舎のほうから、女の子がひとり、駆けてきた。
おさげが、左右で、太さが違っていた。
女の子は、ミレイアの前で止まった。息を弾ませて、見上げてくる。
あの朝、訊かれたことを、ミレイアは覚えていた。
――……お姉ちゃん。また、来る?
答えられなかった。黙っておさげを編み直して、振り返らずに、歩き出した。
ミレイアは、膝をついた。女の子と、同じ高さに。
「……来ました」
女の子の目が、まんまるになった。
「……ほんとに、きた」
すぐに、ぷうっと頬をふくらませた。
「おそいよ」
「……少し、寄り道を、していました」
ほどけかけたおさげに、手を伸ばす。
「これは、誰が?」
「イルザ。へたでしょ」
ミレイアは、小さく笑った。
おさげをほどいて、丁寧に、編み直す。
今度は、答えてから。
手綱の先で、黒い馬が、鼻を鳴らした。
炊事場の戸口に、女がひとり、立っていた。
鋭い目つきは、そのままだった。腰に、鎖は、もう巻いていない。前掛けで、濡れた手を拭いている。
イルザだった。
イルザは、黒い馬と、ミレイアとを、順に眺めた。
「……律儀だね」
「借りたものですので」
黒い馬が、イルザの肩に、鼻づらを押しつけた。
「王都で、パンの味を覚えたようです」
「……誰に似たんだか」
イルザは、鼻で笑った。
ふと、声を落とす。
「頭は」
「陽だまりの家を、建て直すそうです。……建て終えるまで」
イルザは、目を丸くした。
「頭に、ガキの家の大工かい」
それから、喉の奥で、笑った。
◆
明くる日の、帰り道だった。
里を出て最初の楡の木の下で、レオニスは、早くも仰向けに寝転がっていた。
何をしているのです、とは、ミレイアは訊かなかった。
訊かなくても、わかっている。
葉を落とした枝のあいだから、冬の陽が、まっすぐに差していた。風のない、晴れた昼だった。根もとの枯れ草の上だけが、ぽかりと、陽だまりになっている。
刃のない古い鉄剣を枕にして、もう、規則正しい寝息を立てている。寝癖が、ひどいことになっていた。
ミレイアは、懐から、革表紙の帳面を取り出した。
罪状帳。
――冬至まで二日:
そこで止まったままの頁をめくって、新しい頁を開く。
ペン先を、下ろした。
――本日:世界を救った件(二度目)については、保留とする。
少し考えて、もう一行。
――本日:昼寝。
ペンが、止まった。
隣の陽だまりは、ひどく、暖かそうだった。
――私も、少しだけ。
前にそう書いたのは、眠ってしまったあとだった。
今度は、眠る前に、書いた。
帳面を閉じて、レオニスの隣に、腰を下ろす。
枯れ草が、かさりと鳴った。寝息は、少しも乱れなかった。
日が暮れる前には、起こそう。
ミレイアは、目を閉じた。
それが、ミレイア・セレスという娘の、本日の罪状だった。




