↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

エピローグ はんぶんこ

 昼酒ほど尊いものは、この世にそうはない。


 川沿いのパン屋の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。冬の薄日が窓から差しこみ、竈の火がぱちぱちと鳴っている。目の前には、なみなみと注いだ黒麦酒(ビール)の杯(さかずき)と、焼きたての丸パンの山。


 完璧だった。


 レオニス・アルヴェイン、二十二歳。


 職業、闇司祭。ついこのあいだまで、お尋ね者。


 目下(もっか)の欲望――日暮れまでに、この山を平らげること。


 冬至の夜から、十日が経っていた。


 地の底の階段で眠りこんだレオニスが目を覚ましたのは、二日後の昼だった。パン屋の屋根裏の、いつもの寝床で。誰が担いで帰ったのかと訊くと、ミレイアは少し黙ってから、団長です、とだけ答えた。


 親父は、その二日のあいだも、毎朝、五人前を焼いて待っていたらしい。


 太い腕が、卓の上に、紙を一枚、叩きつけた。


 粉だらけの前掛けをした、太った親父だった。


「兄ちゃん。あんた、お尋ね者じゃなくなったぞ」


 掲示板の手配書が、きれいに剥がされていたのだという。


「代わりに、こいつだ」


 教会の布告だった。白銀の太陽の紋章の下に、二行。


 ――冬至の夜、王都に夜の試練あり。


 ――白陽の聖女ソレーヌは、北の修道院にて、祈りの務めに就く。


 レオニスは、杯を傾けた。


「……試練、ねえ」


 夜は窓を閉ざし、灯を絶やすな――あの布告も、とうに掲示板から消えている。配られた白い蝋燭は、冬至の夜から、ただの蝋燭になった。親父は今、それを竈の火種に使っている。ただの火の色で燃えて、ちゃんと、ちびていく。


 奥の作業台で生地を捏(こ)ねていたミレイアが、粉だらけの手のまま、卓の布告を覗きこんだ。


 一度だけ読んで、何も言わずに、作業台へ戻っていった。


 前のこいつなら、卓に手をついて、怒鳴っていたところだ。


 窓の外を、籠を抱えた女がふたり、しゃべりながら通りすぎていく。


「あんたも、見た? あの晩の、星」


「見たよ」


「試練だか何だか知らないけどさ。……あたしは、久しぶりに、よく泣いたよ」


「……あたしもさ」


 その向こうを、白い花を抱えた女が、男の子の手を引いて、坂のほうへ歩いていった。


 女は、また、黒い服を着ていた。


 男の子が、窓の中のレオニスに気づいた。空いているほうの手を、ぶんぶんと振る。


 レオニスは、杯を持っていないほうの手を上げた。


 戸口の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、常連の老婆だった。遠吠えの夜に息子を亡くした人だと、ユナから聞いている。


 老婆は、にこにこと笑って、干し葡萄(ぶどう)のパンを三つ、指さした。


 親父は、何も言わずに、それを包んでやった。


 冬至の夜、この人が何を選んだのか、レオニスは知らない。


 訊くつもりも、なかった。


 老婆と入れ違いに、痩せた男が戸口をくぐった。


 ルカーシュだった。


 親父が、太い眉を跳ね上げた。


「伯爵さまが、うちみてえな店に、何の用だ」


「パンを、買いに」


 穏やかに答えて、ルカーシュは、レオニスの向かいに腰を下ろした。


「判決が、出ました」


 レオニスは、杯を置いた。


「ガルドは、焼けた陽だまりの家を建て直す労役に。……建て終えるまで、と」


 思わず、訊いていた。


「死罪は」


「取り下げられました。嘆願が、通ったので」


 誰の出した嘆願なのかは、訊かなくてもわかった。


「ボルグは、北の鉱山での労役です。明日の昼に、発つそうです」


 作業台で、ミレイアの手が、止まった。


 すぐに、また、生地を捏ねはじめた。


「聖女さまも、明日の朝、北へ発たれます。それから――」


 ルカーシュは、声を落とした。


「あなたの手配を取り下げさせたのは、聖都だそうです。司教も、聖都へ呼び戻されました」


 レオニスは、眉を寄せた。


「……聖都?」


「教会は、あなたを追わないことにしたようです。……今は」


 レオニスは、窓の外に目をやった。


 冬の薄日が、川面(かわも)を、白く光らせていた。


 なんとなく、背中が、寒かった。


 ルカーシュは、子供たちの分だと言って丸パンを五つ買い、帰っていった。


 竈の前で、頬に白い粉をつけたユナが、手を止めていた。


「……牢屋、行くの?」


「ああ。このあとな」


 ユナは、しばらく黙っていた。


 やがて、焼き場の棚から、布に包んだ丸パンをひとつ、取った。


「……私も、行く」


◆


 牢の門の錠前は、元どおり、鉄の輪に掛かっていた。


 レオニスがユナを連れて門の前に立つと、牢番が、欠伸まじりに鍵束を鳴らしながら、訊かれてもいないのに言った。


「言っとくがな、兄さん。冬至の晩は、俺は、朝まで居眠りしてたんだ」


 錠前を、顎でしゃくる。


「こいつも、ずっと、ここに掛かってた。……なんにも、見ちゃいねえよ」


「……そうかよ」


 牢番は、もう一度、大きな欠伸をした。


 廊下のいちばん奥の、向かいの房で、ボルグが、わずかな荷をまとめていた。レオニスに気づくと、残った左手を、軽く上げた。


 ガルドは、寝台に腰かけて、石板に何か書いていた。


 壁は、相変わらず、子供の絵で埋まっていた。そのあいだに、紙切れが一枚、増えている。子供の手習いのような、大きな、丸い字で――たのむ。


 レオニスは、見なかったことにした。


 ガルドが、顔を上げた。


 レオニスの後ろに立つ小さな姿を見て、白墨が、止まった。


 ユナは、布の包みを、胸に抱えていた。ミルテで、木剣を抱えていたときのように。


 ガルドは、石板を置いて、立ち上がった。格子の前まで来て、膝をつく。ユナと、同じ高さになるように。


 ユナが、包みを、格子の間から差し出した。


 ガルドは、それを受け取って、布を開いた。


 きつね色の、丸パンだった。


「……焦げてねえな」


「焦げてないよ」


 ユナは、ガルドの顔から、目を逸らさなかった。


 ガルドは、パンをひと口、かじった。ゆっくりと噛んで、呑みこんだ。


 かじりかけのパンを、膝の上に置いた。


「お前の村から、麦を取り上げたのは、俺だ。水車が、止まるまでな」


 低い声だった。


「抵抗しねえ奴と、ガキは、殺すな。――その掟を決めたのも、俺だ。裏を返しゃ、抵抗した奴は殺していいってことになる。手下どもは、そう読んだ」


 ユナの指が、前掛けの裾を握りしめた。


「おふくろさんは、お前の足首の鎖に、鉈(なた)を振り下ろした。……それで、抵抗したことにされた」


 ガルドは、ユナの目を見たまま、言った。


「……俺の掟で、死んだんだ」


 大きな背中が、ゆっくりと、折れた。


「すまなかった」


 レオニスは、黙っていた。


 ユナは、前掛けを握りしめて、ほどいて、また、握りしめた。


 長い、長い沈黙のあとで、小さな唇が、動いた。


「……許さないからね」


「ああ」


 ガルドは、頭を下げたまま、答えた。


 ユナは、くるりと背を向けた。


 二、三歩、歩いて――止まった。振り返らずに、言った。


「……また、焼いてくる」


 ぱたぱたと、足音が、廊下を遠ざかっていった。


 ガルドは、しばらく、頭を上げなかった。


 向かいの房で、枷(かせ)の鎖が、小さく鳴った。


 寝台の上に、置いたままの石板が見えた。


 白墨の字が、ひとつ。――ユナ。


 今度は、エになっていなかった。


 やがて、ガルドは寝台に戻り、枕もとから、折りたたんだ紙を一枚、取り出した。


「エルナの奴が、今朝、置いてった」


 紙を広げる。大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいた。


 太い指が、字をなぞった。左の手首で、色褪せた茜色のリボンが揺れた。


「……おじさまへ」


 ゆっくりとした声だった。けれど、一度も、つかえなかった。


「こんどは、おじさまが、ちいさかったときの、おはなしを、してね」


 前に、同じような手紙を読んでやったのは、レオニスだった。


 今度は、口を挟まなかった。


 ガルドは、その字を、じっと見つめていた。


「……俺のちいせえときの話なんざ、ろくなもんじゃねえぞ」


 ぼそりと言って、口の端を上げる。


「まあ、エルナが俺の後ろばっかりくっついてきた話なら、いくらでもあるがな」


 紙を丁寧に畳んで、枕もとに戻した。


「聞いたぜ。判決」


「おう」


 ガルドは、鼻を鳴らした。


「奪ったぶん、建てろってこった」


 帰りぎわ、格子の向こうから、声が追いかけてきた。


「おう、欲張り」


「なんだよ」


「ドルフに、伝言は伝えたのか」


「……これからだ」


「おせえよ」


 壁の紙切れが、隙間風に、かさりと鳴った。


◆


 明くる朝は、雪だった。


 レオニスとミレイアが大聖堂の裏手に着いたとき、裏口の前には、もう馬車が一台、停(と)まっていた。


 白くない馬車だった。古びた木の、飾り気のない箱馬車。


 御者台に、大きな男がひとり、座っていた。白い髭に、雪が薄く積もっている。岩を削ったような顎。灰色の目。


 胸に、白銀の太陽はなかった。腰にも、剣帯はない。粗末な旅の外套を、着ているだけだった。


 騎士団長だった男だ。


 レオニスは、御者台を見上げた。


「……あんたが、担いで帰ってくれたんだってな」


 男は、前を向いたまま、答えた。


「……重かった」


「……そりゃ、どうも」


 隣で、ミレイアが、御者台に向かって深く頭を下げた。男は、灰色の目でそれを見下ろして――小さく、顎を引いた。


 裏口の扉が開いた。


 扉を押さえているのは、赤い髪の見習いだった。ミレイアと目が合うと、ふん、と鼻を鳴らして、口の端を上げた。


 ふたりが、出てきた。


 ヘルミは、白い衣を着ていなかった。


 灰色の、飾り気のない旅装。白金の髪を、首のうしろでひとつに束ねている。淡い金色の目のふちが、少し赤かった。


 その後ろから、亜麻色の髪を揺らして、シエルがついてくる。


 ヘルミは、レオニスの前まで来ると、腕に掛けていた黒いものを、差し出した。


 外套だった。きちんと、畳んである。


「お返しします」


 ヘルミは、小さく笑った。


「……夜は、冷えますから」


 レオニスは、外套を受け取った。このところ借りていた親父のお古を脱いで、袖を通す。知らない石鹸の匂いがした。


「……洗ったのか」


「はい。……初めて、自分で」


 レオニスは、親父に持たされた包みを、シエルに渡した。焼きたての丸パンが、まだ温かい。


「道中の分だとさ」


 シエルは、包みを両手で抱えて、こくりと頷いた。


 ヘルミが、北の空のほうを見た。


「修道院へ参る前に、村の跡を、訪ねてみようと思います」


 白金の髪に、雪が、ひとひら、落ちた。


「父の、お墓を。……あるかどうかも、わからないのですけれど」


 はにかむように、付け足した。


「それに、まだ、上手に泣けないのです。すぐに、止めようとしてしまって」


「……泣き方でも、覚えに行くのか」


「はい」


 ヘルミは、真面目な顔で頷いた。


 少し間をおいて、レオニスに向き直る。


「……ひとつ、訊いても、いいですか」


「……ああ」


「お鍋の、おじいさんのことです」


 雪が、音もなく、降っていた。


「あの日、レオニスさんは、おっしゃいました。その方は、シチューを作るのが、お上手だったと」


 淡い金色の目が、まっすぐに、こちらを見ていた。


「……ご存じの方、だったのですね」


 ――いつか、話そう。この人が、訊いてきたら。


 訊かれた。


「……俺の、師匠だ」


 ヘルミの目が、見開かれた。


「オズワルドって、名だった。あんたの親父さんのことを、兄貴って呼んでたそうだ」


「……父を、兄貴、と」


「冬が来るたびに村へ帰って、あんたの家の竈の前で、ひと冬、シチューを食ってたって。帰るたびに、麓の町で、蜂蜜を買ってってな。あんたのシチューに垂らす分だ、って」


 レオニスは、少し迷ってから、付け足した。


「……牢にいる、片腕のおっさんに聞いた。ボルグっていう。あんたの村の、生き残りだ」


 ヘルミの唇が、かすかに、震えた。


「……あの、牢の」


 それきり、何も言わなかった。


「師匠のシチューには、いつも、蜂蜜がひと匙(さじ)、入ってた」


 喉の奥が、熱くなった。


「……あんたの、ひと匙だ」


 ヘルミの目から、涙が、ひと粒、こぼれた。


 拭わなかった。


「十年前、師匠は、あんたを迎えに行ったんだ。門で、追い返されて――」


 レオニスは、目を落とした。


「その晩、雪の路地裏で、腹を空(す)かせたガキどもに、鍋ごと食わせた。……俺と、もうひとりのちびで、空にしたよ。あんたの分の、シチューを」


 ヘルミは、長いこと、黙っていた。


 涙が、もうひと粒、頬を伝った。


「……おいしかったですか」


「……ああ。うまかった」


 ヘルミは、泣きながら、笑った。


「では、あの晩、あの方は」


 かすれた声だった。


「ひとりで、帰ったのでは、なかったのですね」


 レオニスは、答えられなかった。


 代わりに、俺を拾った――ずっと、そう思っていた。


 隣で、ミレイアが、そっと目を伏せた。


 しばらくして、レオニスは、ようやく口を開いた。


「……作り方、教えてやろうか。師匠の、あのシチュー」


 ヘルミは、少し考えて、首を振った。


「いいえ」


 涙の跡の残る顔で、微笑む。


「あのシチュー……北の味は、北で覚えます」


 ――皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ。


 どこかで、師匠が、笑った気がした。


「……そうか」


 レオニスも、口の端を上げた。


「蜂蜜は、ひと匙な」


「はい」


「あんた、足りねえって泣く子だったらしいけどな。……これも、ボルグのおっさんの話だ」


 ヘルミが、目を丸くした。


 それから、濡れた頬のまま、小さく噴き出した。


 シエルが、包みをほどいていた。


 丸パンをひとつ取り出して、両手で持つ。まんなかから、ふたつに割る。


 片方を、レオニスに差し出した。


「はんぶんこ」


 牢の廊下で差し出されたのと、同じ手つきだった。


「レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ」


「……教えた覚えは、ねえよ」


「おしえて、くれたよ」


 首が、少しだけ、右にかしいだ。


「まいばん」


 白い部屋の、白い寝台。泣いている隣の女の子に、毎晩、自分のパンを割って差し出した。泣きやませることは、一度もできなかった。


 それでも、毎晩、そうした。


 レオニスは、半分のパンを受け取った。


 牢の廊下でもらった半分は、あの日、食えなかった。パン屋の卓の上で硬くなっていくのを何日も眺めたあとで、黙って湯でふやかして食った。


 今度は、その場で、かじった。


「……うまい」


 シエルが、満足そうに頷いた。


 ヘルミが、ミレイアのほうを向いた。


「ミレイアさん」


「はい」


「あの日、おっしゃいましたね。――これは、私のものです、と」


 ヘルミは、胸の前で、両手を重ねた。


「今なら、少しだけ、わかる気がします」


 ミレイアは、しばらく、ヘルミを見ていた。


「……はい」


 それだけ、答えた。


 ヘルミが、御者台を振り仰いだ。


「参りましょう、ゴドフロワ」


「……は」


 男が、手綱を取った。


 ふたりが、馬車に乗りこむ。扉が閉まる寸前に、シエルが、窓から顔を出した。


「……いってきます」


「……おう」


 声が、かすれた。


「いってこい」


 馬車が、動きだした。雪の上に、二本の轍(わだち)が、まっすぐに伸びていく。


 宿舎の二階の、いちばん端の窓で、窓掛けが、いっぱいに開いていた。硝子に額を押しつけて、小さな女の子が、手を振っている。


 シエルが、馬車の窓から身を乗り出して、手を振り返した。


 十二年前は、振り返りもせずに、置いてきた。


 今度は、見えなくなるまで、見ていた。


◆


 ボルグを乗せた荷馬車が牢の門を出たのは、その日の昼だった。


 ミレイアは、門の脇に立っていた。


 レオニスは、来なかった。行くかと訊いたら、お前の見送りだろ、と言って、パン屋の屋根裏で丸くなった。


 北の鉱山へ送られる囚人が、ボルグのほかに三人。槍を抱えた兵が、荷台の四隅に座っている。


 ボルグは、荷台のいちばん後ろにいた。枷は、左の手首にしかはまっていない。右の袖は、空のまま、腰紐に留めてある。


 膝もとの荷に、木の棒が一本、差してあった。


 流木を削った、魚みたいな木剣だった。


 ボルグが、ミレイアに気づいた。


「……嬢ちゃん」


 ミレイアは、荷台の前まで歩いて、足を止めた。


 ボルグは、何度か口を開きかけて、閉じた。


「……ヘルミ嬢ちゃんは」


「今朝、北へ発ちました」


「……泣いてたか」


 雪の中で、涙を拭わなかった横顔を、ミレイアは思い出した。


「はい」


 ボルグは、目を閉じた。


「……そうか」


 御者が、手綱を取った。荷台が、ぎしりと揺れる。


 ボルグが、目を開けた。


「……泣けたよ。二十五年ぶりに」


「……そうですか」


 許すとは、言わなかった。言うつもりも、なかった。


 胸の聖印は、ぬるくなかった。


 牢の面会室で、この人の話を聞いたときは、ぬるかった。今は、ただの、冬の冷たさだった。


 荷馬車が、動きだした。


 北の門へ続く通りを、ゆっくりと遠ざかっていく。今朝、白くない馬車が出ていったのと、同じ道を。


 荷台の後ろで、魚みたいな木剣が、揺れていた。


 ミレイアは、何も言わなかった。


◆


 ミルテの水車は、回っていた。


 王都を発って、三日目の昼だった。川沿いの細長い谷に、冬の日が低く差している。ごとり、ごとりと、水車が冷たい川の水をすくい上げていた。


 レオニスは、ひとりで、水車小屋の戸を開けた。ユナに頼まれた丸パンは、ミレイアが、村の墓地へ届けに行っている。


 粉が、舞っていた。


 石臼の前に、ひょろりとした若者がしゃがみこんでいた。焦げた袖を継ぎあてた上着も、髪も、眉も、粉で真っ白だった。


 若者が、振り返った。


「げっ!」


 ドルフだった。


「な、なんで、あんたが、こんなとこに……!」


「よう、ドルフ。粉挽(ひ)きの調子はどうだ」


「う、うるせえ!」


 真っ赤になって怒鳴った――らしい。粉まみれで、よくわからなかった。


 レオニスは、戸口の柱にもたれた。


「伝言を、預かってきた」


「……伝言?」


「頭(かしら)から、だ」


 ドルフの手から、粉袋が落ちた。


 ひと月半、懐にしまいっぱなしだった言葉を、レオニスは、そのまま渡した。


「――よくやった、ってさ」


 ドルフは、動かなかった。


 粉だらけの顔の中で、目だけが、見開かれていた。


 唇が、震えた。


「……頭が」


 声が、裏返った。


「……頭が、俺に……?」


 膝が、崩れた。


 粉の山の中にへたりこんで、ドルフは、泣いた。


 子供みたいな声だった。村ごと灰にして褒めてもらうんだと叫んでいた、あの晩と、同じ裏返った声だった。


 水車が、ごとり、と鳴った。


「……べ、別に」


 ドルフが、しゃくりあげながら言った。


「泣いてるわけじゃ、ねえからな……!」


「粉が、目に入ったんだろ」


「そ、そうだよ!」


 レオニスは、少しだけ笑った。


「自分で聞きに行け。面会、できるぞ」


 ドルフは、粉だらけの袖で、ごしごしと顔をこすった。


 真っ白な頬に、涙の筋が、二本、通っていた。


◆


 黒狼の里に着いたのは、それから二日あとの、昼過ぎだった。


 ミレイアは、黒い馬の手綱を引いて、里の入り口で足を止めた。


 古い樫(かし)の板が、立っていた。


 ――奪うのは、外からだけ。


 ――抵抗しない者と、子供は殺すな。


 二行目の「殺すな」の三文字を、斜めの傷が一本、断ち割っていた。


 あの雨の夜に、自分がつけた傷だった。


 里の奥で、炊事場の煙突から、細い煙が上がっていた。


 レオニスは、入り口をくぐるなり、どこからか湧いてきた子供たちに、袖を引っぱられていった。光の司祭さまだ、と誰かが叫び、惜しい、闇のほうだ、と言い返す声が、遠ざかっていく。


「お姉ちゃん!」


 学び舎のほうから、女の子がひとり、駆けてきた。


 おさげが、左右で、太さが違っていた。


 女の子は、ミレイアの前で止まった。息を弾ませて、見上げてくる。


 あの朝、訊かれたことを、ミレイアは覚えていた。


 ――……お姉ちゃん。また、来る?


 答えられなかった。黙っておさげを編み直して、振り返らずに、歩き出した。


 ミレイアは、膝をついた。女の子と、同じ高さに。


「……来ました」


 女の子の目が、まんまるになった。


「……ほんとに、きた」


 すぐに、ぷうっと頬をふくらませた。


「おそいよ」


「……少し、寄り道を、していました」


 ほどけかけたおさげに、手を伸ばす。


「これは、誰が?」


「イルザ。へたでしょ」


 ミレイアは、小さく笑った。


 おさげをほどいて、丁寧に、編み直す。


 今度は、答えてから。


 手綱の先で、黒い馬が、鼻を鳴らした。


 炊事場の戸口に、女がひとり、立っていた。


 鋭い目つきは、そのままだった。腰に、鎖は、もう巻いていない。前掛けで、濡れた手を拭いている。


 イルザだった。


 イルザは、黒い馬と、ミレイアとを、順に眺めた。


「……律儀だね」


「借りたものですので」


 黒い馬が、イルザの肩に、鼻づらを押しつけた。


「王都で、パンの味を覚えたようです」


「……誰に似たんだか」


 イルザは、鼻で笑った。


 ふと、声を落とす。


「頭は」


「陽だまりの家を、建て直すそうです。……建て終えるまで」


 イルザは、目を丸くした。


「頭に、ガキの家の大工かい」


 それから、喉の奥で、笑った。


◆


 明くる日の、帰り道だった。


 里を出て最初の楡(にれ)の木の下で、レオニスは、早くも仰向けに寝転がっていた。


 何をしているのです、とは、ミレイアは訊かなかった。


 訊かなくても、わかっている。


 葉を落とした枝のあいだから、冬の陽が、まっすぐに差していた。風のない、晴れた昼だった。根もとの枯れ草の上だけが、ぽかりと、陽だまりになっている。


 刃のない古い鉄剣を枕にして、もう、規則正しい寝息を立てている。寝癖が、ひどいことになっていた。


 ミレイアは、懐から、革表紙の帳面を取り出した。


 罪状帳。


 ――冬至まで二日:


 そこで止まったままの頁(ページ)をめくって、新しい頁を開く。


 ペン先を、下ろした。


 ――本日:世界を救った件(二度目)については、保留とする。


 少し考えて、もう一行。


 ――本日:昼寝。


 ペンが、止まった。


 隣の陽だまりは、ひどく、暖かそうだった。


 ――私も、少しだけ。


 前にそう書いたのは、眠ってしまったあとだった。


 今度は、眠る前に、書いた。


 帳面を閉じて、レオニスの隣に、腰を下ろす。


 枯れ草が、かさりと鳴った。寝息は、少しも乱れなかった。


 日が暮れる前には、起こそう。


 ミレイアは、目を閉じた。


 それが、ミレイア・セレスという娘の、本日の罪状だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。