最終章 泣き顔の聖女
顔のない微笑みが、レオニスのほうを向いていた。
目も、鼻も、もうなかった。のっぺりと白い顔の、口もとだけが、やわらかく弧を描いている。
白い光が、神殿を満たしていた。影という影の消えた広間で、剣を失った騎士たちが膝をつき、司教が、震える声で何か唱えている。白い布を被った女神像の胸では、守り火が、燠のように赤く縮んでいた。
祭壇の傍らで、シエルが、立ちつくしていた。
顔のない微笑みの、唇が、動いた。
「レオニスさん」
声は、少しも変わっていなかった。宿舎の中庭の柵ごしに、嬉しそうに名前を呼んだときと、同じ声だった。
「あなたも、こちらへ」
胸の底で、白が、跳ねた。
――そうだ。
――行け。全部、消してしまえ。
指先から、手のひらへ。手のひらから、腕へ。白い光が、皮膚の内側を這い上がってくる。背中が、熱い。何かが、そこから立ち上がろうとしている。
あの新月の夜と、同じ熱さだった。
目の奥に、顔が浮かんだ。
墓標にしがみついて泣いていた男の子。ミルテの麦畑の隅の墓の前で、声を殺して泣いていたユナ。泣きたいのをこらえて笑っていた、エルナ。
白い部屋で、毎晩、泣いていたあいつ。
――消してしまえ。ひとつ残らず。そうすれば、もう誰も。
「あなたの光も、白いのですもの。わかるでしょう? 泣いている人を見ると、胸が、潰れそうになるでしょう?」
パン屋の卓で聞いたのと、同じ言葉だった。
「私も、陽だまりの家の子でした」
やわらかな声が、続いた。
「来たばかりのころは、毎晩、泣いていたのだそうです。司祭さまたちが、そうおっしゃっていました。……覚えては、いないのですけれど」
白い唇が、微笑んだ。
「だから、わかるのです。泣かなくていいことが、どれほどの救いか」
足が、一歩、前へ出た。
祭壇のほうへ。白い獣の、足もとへ。
聖女の背から立ち上がった白いものが、柱の頂の高さから、ゆっくりと身をかがめてくる。顔のない頭が、こちらを覗きこむ。
――全部、消してしまえ。夜ごと。泣き声ごと。
足もとの石の床に、白い光が落ちていた。自分の背後から、差してくる光だった。振り返らなくても、わかった。何かが、そこで、形を取りはじめている。
レオニスは、聞こえないふりをしなかった。
「……ああ」
声が、かすれた。
「俺も、そう思ったことがある」
白い獣の頭が、止まった。
あの新月の夜、この祭壇の前で、そう叫んだ。誰も泣かない世界を、と。雪の庭では、白には白を、と思った。あいつを返せ、と宣誓しかけた。
思ったことは、本当だった。
今だって、胸の底で、同じ声がしている。
「でも――」
レオニスは、背中の熱を、胸の底へ押し戻した。
背後で形を取りかけていた白が、ほどけて、指先へ戻ってくる。燻る火のように、指先にだけ、白が残った。
白で白を消し返しても、雪の上に、雪が積もるだけだ。
「答え、見つかったぜ」
白い唇が、次の言葉を待っていた。
――答えが見つかったら、教えてくださいね。
パン屋の卓で、この人は、そう言ったのだ。
「十二年前の話だ」
祭壇の傍らに立つ少女のほうは、見なかった。見たら、言えなくなる気がした。
「陽だまりの家で、シエルが初めて泣かなかった夜。……俺は、朝まで、ぐっすり眠れた」
白い部屋。隣の寝台。毎晩、毎晩、聞こえてきた泣き声。
あの夜だけ、何も聞こえなかった。
「ほっとしたんだ。やっと眠れる。もう、あの声を聞かなくていいって」
いちばん、言いたくないことだった。師匠にも、話さなかった。
「それから、司祭どもに食ってかかった。あいつを返せって、泣いて、暴れて。……そしたら、言われたよ。あなたも、悲しみを取っていただきましょうね、って」
だから、その夜のうちに、逃げた。
あいつを、白い部屋に置いたまま。
白い唇が、やさしく動いた。
「存じています。……その男の子のためにも、ずっと、祈っていましたから」
それから、少しだけ、不思議そうに。
「それの、何がいけないのですか」
責める色は、どこにもなかった。心の底から、わからない、という声だった。
「あの子は、泣かなくなりました。あなたは、眠れるようになりました。……それで、よかったのではありませんか」
「いけなくなんかねえ」
レオニスは、首を振った。
「……でも、それは、俺の欲だった。シエルの欲じゃなかった」
祭壇の傍らで、亜麻色の髪が、小さく揺れた。
「ほっとしたのは、俺だ。泣けなくなったのは、シエルだ」
あいつは、泣きたくて、泣いていたのだ。母親のことで。
中庭の柵ごしに、ガルドのことで、同じことを言った。この人は、泣きたい人なんていませんよ、と答えた。
レオニスは、顔のない微笑みを、まっすぐに見た。
「あんたが消したいのは、誰の涙だ」
「……みんなの」
ためらいのない声だった。
「違う」
黒い扉に、ひときわ深く刻まれていた一行。
――白く燃ゆる子らよ。汝らが消さんとする涙は、汝ら自身の涙なり。
「あんたのだ」
白い唇が、止まった。
「わたし、の……?」
細い声が、宙をさまよった。
「わたしは……泣いたことなど……」
ひと呼吸、途切れて。
「……覚えている、かぎりでは」
白が、膨れ上がった。
祭壇から、柱から、白い獣の全身から、光が噴き出した。音もなく、熱もなく。ただ、圧倒的な白が、神殿を満たしていく。
体が、宙に浮いた。
背中から、柱に叩きつけられた。息が、詰まる。石の床に転がり落ちたまま、レオニスは、右の手のひらを上に向けた。
「我、欲す……」
手のひらの上が、ふっと、暗くなりかけた。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
暗さは、溜まらなかった。
すくうそばから、指のあいだをこぼれていく砂のように。白い光に晒されて、手のひらの夜が、薄れていく。
届かない。
この白の中では、ひとすくいの夜さえ。
白い光の中で、大きな影が動いた。
ガルドだった。
押し寄せる光に逆らって、祭壇のほうへ、一歩ずつ歩いていく。嵐の中を進むように、大きな体を前へ傾けて。
「……ガルド!」
「欲張り」
振り返らずに、ガルドが言った。
「井戸の底でひとりってのはな。夜が、長えんだよ」
大きな手が、祭壇についた聖女の手首を、掴んだ。
白く透けはじめた、細い手首だった。牢で、この男が掴んだという手首だった。
「我、欲す」
低い声が、神殿に響いた。
「――そのガキの泣き声、半分、寄越せ」
白が、流れた。
聖女の手首から、ガルドの腕へ。腕から、肩へ。背中へ。雪崩のように、白い光が、大きな体に流れこんでいく。
白は、ガルドの胸を覆わなかった。肩に、背中に、ただ重さになって、のしかかっていった。
ガルドの膝が、折れた。
石の床に、片膝がめりこむような音がした。骨が、軋む。丸太のような腕が、がくがくと震えている。食いしばった歯の隙間から、獣のような唸りが漏れた。
それでも、手首は、放さなかった。
「……重てえ」
額から、汗が落ちた。
「欲張りのより、重てえかもな」
黒狼の砦の大広間で、この男は、俺の胸から引き出した光を、取り落とした。お前の一番大事なもんは、俺には重すぎる、と言って。
今度は、落とさなかった。
左の手首で、色褪せた茜色のリボンが揺れていた。その下から、見覚えのある紙の端が覗いている。
厨房の卓で、一字ずつ書いた、あの紙切れだった。
膝をついた騎士たちが、呆然と、その背中を見上げていた。
ガルドの顔が、歪んだ。痛みにでは、なかった。何かに、耳を澄ますように。
「……泣いてやがる」
かすれた声だった。
「この白の、底で。ガキが」
鋼色の目が、見開かれていた。
「……おとうさん、って」
祭壇の溝を流れていた白が、止まった。
柱を昇りつづけていた光が、そこで、動かなくなった。天井の白い布が、それ以上、明るくならない。
階段を昇り、地上へと広がっていく白い昼が――止まったのだと、わかった。
「……欲張り」
ガルドが、歯の隙間から、声を押し出した。
「長くは、もたねえぞ」
扉のほうから、足音が駆けこんできた。
ミレイアだった。抜き身の剣を手に、息を弾ませている。その後ろから、白い外套の大きな影が、重い足取りで続いた。
騎士団長だった。
腰の鞘は、空だった。
階段の途中で、何があったのか。その空っぽの鞘を見れば、訊くまでもなかった。
ミレイアの目が、広間をひと巡りした。膝をついた騎士たち。震える司教。白い獣。その足もとで、聖女の手首を掴んだまま膝をついているガルド。柱の下の、レオニス。
目が、合った。
「レオニス!」
騎士団長は、扉の内側で立ちつくしていた。
灰色の目が、白い獣を見上げている。顔のない頭を。口もとだけの微笑みを。
大きな体が、ぐらりと揺れた。膝が、折れかけて――折れなかった。
祭壇の脇で、司教が、金切り声を上げた。
「聖女さま! 続けなさい! お祈りを、続けて――」
顔のない微笑みは、答えなかった。
そのときだった。
祭壇の傍らで、シエルが、顔を上げた。
白い布に覆われた天井を、見上げている。裏から灼かれたように、白く光っている天井を。
「……よるが、みたい」
小さな声だった。
けれど、白い光に満ちた広間の隅々まで、はっきりと聞こえた。
女神の胸で、何かが、ぱちりと爆ぜた。
燠になっていた守り火が、ふっと、ひと回り大きくなった。
レオニスは、息を呑んだ。
――夜を、欲しがったから。
なぜかは、わからなかった。わからないまま、わかった気がした。
柱にすがって、立ち上がる。膝が笑った。腹の底が、焼けつくように空っぽだった。
「シエル」
少女が、こちらを見た。
「……上だ」
天井を、顎でしゃくった。
「あの布の下に、夜がある」
指を振る。
宣誓のいらない、小さな光の板。
夕暮れ色の足場が、宙に灯った。ひとつ、またひとつ。シエルの足もとから、白い布の張られた天井の縁へと、続いていく。
シエルは、一度も、足もとを確かめなかった。
「……ゆうやけ」
一枚目を踏む。二枚目を踏む。亜麻色の髪をなびかせて、夕暮れ色の光を、駆け上がっていく。白い光に満ちた広間を、小さな影が、まっすぐに昇っていく。
司教が、裏返った声で叫んだ。
「と、止めなさい! その布に、触れさせては――射なさい! 闇司祭を!」
壁際で、騎士のひとりが、背中の弩を下ろした。
鋼の矢が、弦を離れた。
ぎん、と。
目の前で、火花が散った。
ミレイアの剣が、矢を弾いていた。
剣を構えたまま、ミレイアは、レオニスの前に立っていた。振り返りもしなかった。
「足場を」
それだけ、言った。
二の矢をつがえようとした騎士の手が、止まった。
騎士団長が、白い獣から目を離さないまま、低く言ったのだ。
「……下ろせ」
シエルが、最後の一枚を踏んだ。
天井の縁に打ちこまれた鉤の、すぐ下だった。白い布の端に、小さな両手が届く。
シエルは、布を、握りしめた。
全身で、引いた。
鉤が、ひとつ、弾け飛んだ。
ふたつ。みっつ。
白い布が、天井から剥がれた。一枚が落ちると、隣の布が引きずられて、また落ちた。大きな鳥の翼のように、ゆっくりと、はためきながら、広間に舞い降りてくる。
布の下から、黒が現れた。
底のない、夜をそのまま切り取って嵌めこんだような、黒硝子の天井。ひと筋の、古い亀裂。
その黒の中に、何かが映っていた。
雪だった。
黒硝子の奥で、雪が、降っていた。
雪の降る、谷の村だった。茅葺きの屋根が、燃えている。火の粉と雪が、同じ空を舞っている。
燃える村の真ん中に、白いものが立っていた。
顔のない頭の、口もとだけが、笑っている。その足もとへ、痩せた男の影が、湯に落とした雪のように、ほどけて吸いこまれていくところだった。
白いものの足もとの雪の上で、小さな女の子が、泣いていた。
麦わらよりも淡い色の髪。小さな綿入れ。雪の上に座りこんで、白いものに向かって、両手を伸ばしている。
村のはずれの雪の上には、白い外套の騎士たちが、膝をついていた。そのひとりが、胸の白銀の太陽を、片手で握りしめている。岩を削ったような顎の、若い男だった。
ガルドが、呻いた。聖女の手首を掴んだまま、天井を見上げている。
「……ああ。あいつだ。……いかないで、って、言ってやがる」
声は、聞こえなかった。けれど、天井の中の小さな唇は、たしかに、そう動いていた。
――おとうさん、いかないで。
何度も。何度も。
司教が、両手で顔を覆った。
――見苦しいものは、覆ってしまいましょう。
白い布を張らせた夜、この男は、そう言った。天井が何を映すのか、知っていたのだ。
騎士団長の喉から、声が漏れた。
「……あの日の、光だ」
岩を削ったような顎の下で、白い髭が、震えていた。
「私が、膝をついた……」
白銀の太陽を握りしめた大きな手が、震えていた。
門の前で、この男が語ったという話を、レオニスは、ミレイアから聞いていた。
谷じゅうが、真っ白になった。膝が、ひとりでに折れた。――神の光だった。
光の中に、娘がひとり、座りこんでいた。
神の光は――娘の涙を止めようとした、父親の獣だったのだ。
膝をついた騎士たちが、天井を見上げていた。誰ひとり、神の光だとは、言わなかった。
聖女が、天井を見上げていた。
顔のない顔で。
泣いている女の子を、じっと見上げて――白い唇が、震えた。
「……だあれ?」
胸の奥で、何かが、きしんだ。
十二年前。白い部屋で。
同じ言葉を、聞いた。
泣いている子供を、この人は、知らないのだ。雪の中で両手を伸ばして泣いていた――幼い日の、この人自身を。
レオニスは、祭壇へ歩いた。
白い光が、肌を刺す。足が、重い。それでも、さっきのように、押し戻されはしなかった。
ガルドが、半分、持っている。
祭壇の前で、足を止めた。顔のない微笑みの、すぐ前で。
伯爵家の食堂で、喉まで来て、呑みこんだ名前があった。
言えば、この人は、知らされてしまう。見ると決めるより、先に。――あの日は、そう思った。
今は、訊かれた。
「……あんただよ」
白い唇が、止まった。
「――ヘルミ」
広間が、しんと静まった。
天井の中で、雪が、降りつづけていた。
白い唇が、その名前を、なぞった。
「ヘル、ミ……」
「……お鍋の、おじいさんが」
ひとり言のような声だった。
「わたしを見て、そう……」
十年前の冬。陽だまりの家の門で。
「あのシチュー……どうして、涙が……」
声が、細く、震えた。
「……わたし、なの?」
レオニスは、頷いた。
「北の言葉で、真珠って意味だそうだ」
顔のない微笑みが、ほんの少しだけ、歪んだ。
「……見たら」
細い声だった。
「見たら……私は、もう、誰の涙も拭えなくなります」
白い獣が、身じろぎした。
この人は、ずっと、そうしてきたのだ。泣いている人の手を、両手で包んで。もう、泣かなくていいのですよ、と。
レオニスは、首を振った。
「拭わなくていい」
白い唇が、震えた。
「……では、泣いている人は……夜に、ひとりで……」
「ひとりに、しなきゃいい」
もう誰も、夜にひとりで泣かなくていい。――それが、この人の願いだった。
十二年前の夜を、思い出していた。
窓掛けを手のひらひとつぶんだけ開けて、泣いている女の子の手を引いた。泣きやませることは、一度もできなかった。泣きながら星を探して、探しながら泣いて、泣き疲れて眠ってしまうまで――
ただ、隣にいた。
それしか、できなかった。
それで、よかったのだ。
「……泣いてる奴の、隣にいりゃいい」
――思い出してほしい。
胸の底で、でかい欲が、身じろぎした。
それも、本当だった。今だって、本当だ。
だから、それは、宣誓しなかった。
レオニスは、祭壇に、右の手をついた。
あの新月の夜と、同じように。
手のひらの下に、刻まれた文字の溝があった。
「我、欲す」
静かに、告げた。
「――ヘルミが、自分の涙を、選べる夜を」
祭壇の溝を、ひとすじ、暗いものが流れた。
白い光の中を、音もなく。祭壇から、聖女の足もとへ。
聖女のまわりにだけ、夜が降りた。
ひとすくいの夜だった。まぶたを閉じたときのような、やわらかな暗さ。顔のない白い顔も、透けかけた白い手も、その暗さに、そっと包まれていく。
腹の底を、ぎゅっと絞られた。
それでも、手は、祭壇から離さなかった。
夜の中で、光が、灯った。
聖女の胸もとに、白いものが、厚く積もっていた。雪のようだった。何重にも、何重にも降り積もって、固く押し固められた雪。
その、いちばん底で――
小さな光が、瞬いていた。
蜂蜜色だった。
夕暮れ色の足場を、軽い足音が駆け下りてきた。
シエルだった。
最後の一枚から、とん、と床に降りる。それから、まっすぐに、聖女のほうへ歩いていった。
ひとすくいの夜の中へ、ためらわずに入っていく。
白く透けかけた手を、小さな両手で、握った。
「……おねえちゃん」
顔のない顔が、少女のほうを向いた。
シエルの胸もとにも、光が灯っていた。
白いものに、薄く覆われている。その下で、淡い空色が、瞬いていた。
伯爵家の食堂で、手のひらの夜に映した星だった。
――……こわい。
あの日、シエルは、首を振った。
今は、振らなかった。
聖女の手を握ったまま、胸もとの星を、じっと見下ろしていた。
「……みる」
小さな声だった。
白い雪が、ほろほろと、崩れた。
淡い空色が、夜の中に、灯った。
シエルの目が、大きく見開かれた。
「……おかあさん」
かすれた声だった。
「……おかあさんの、こえ」
亜麻色の髪が、小さく揺れた。何かを、探すように。右から左へ。高いところから、低いところへ。
「しろい、へや……となりの、べっど……」
ひとつずつ、拾い上げるように。
「ぱん、はんぶんこ、してくれた……まどかけ、あけてくれた……」
唇が、震えた。
「しんだひとは、ほしに、なるんだって……」
十二年前、窓辺で、そう言った。泣いている女の子の手を引いて。
お前のかあちゃん、どれかな、と。
シエルが、こちらを見た。
淡い空色の光に照らされた顔が、くしゃりと、歪んだ。
「……レオにいちゃん」
十二年前、あいつは、この名前を最後までうまく言えなかった。
だから、ずっと、そう呼んでいた。
大粒の涙が、シエルの頬を、転がり落ちた。
ひとつ。ふたつ。
十二年ぶりの、涙だった。
シエルは、泣いた。
声を上げて、泣いた。白い部屋で、毎晩、泣いていたのと、同じ声で。
レオニスは、動けなかった。
祭壇についた手が、震えていた。
泣き声を、聞いていた。十二年前と、同じ泣き声を。
胸の底の白が、何かを言いかけて――黙った。
シエルは、泣きながら、聖女を見上げた。
握った手に、力をこめる。
「おねえちゃん」
しゃくりあげながら。
「……ないても、いいんだよ」
顔のない微笑みが、揺れた。
胸もとの、厚い雪の底で、蜂蜜色が瞬いている。
白い唇が、かすかに動いた。
「……でも……泣きたい人なんて……」
その先は、続かなかった。
シエルが、息を吸った。
涙に濡れた声で、歌いはじめた。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
聖女が、この子に教えた歌だった。
「よるの かあさま ひを だいて」
――先生は、毎晩、あの子を抱いて、子守唄を歌ってやってた。
面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声。
白い唇が、動いていた。
シエルの歌をなぞるように。声には、ならないまま。
三行目で――ふたつの声が、重なった。
「ないても いいよ よるの なか」
胸もとの雪が、ほろりと、崩れた。
ひと欠片。またひと欠片。何重にも積もっていた白が、ほどけていく。
蜂蜜色の光が、夜の中に、灯った。
顔のない頬を、ひと筋、何かが伝った。
涙だった。
涙の伝ったところから、白が、ほどけていく。
目が、戻ってきた。淡い金色の、濡れた目が。鼻が。眉が。震える唇が。
くしゃくしゃに歪んだ――泣き顔が。
「……おとう、さん」
ヘルミが、泣いていた。
二十五年ぶりに。
声を上げて。子供のように。息を吸うたびに、しゃくりあげて。
「おとうさん……いかないで……」
しゃくりあげる声が、途切れ途切れに、こぼれていく。
「ゆきが……ふって……みんな、わらってて……わたしだけ……」
ガルドの手が、その手首を、そっと放した。
透けかけていた白い手に、色が戻っていた。その両手が、宙に伸びた。
誰かに向かって、伸ばされた手だった。
シエルが、その手の中に飛びこんだ。
ふたりは、抱きあって、泣いた。
「ごめんなさい……」
ヘルミの声が、亜麻色の髪の中で、くぐもっていた。
「ごめんなさい……シエル……」
シエルは、首を振った。何度も。
「……いっしょに、ないてる」
泣きながら、そう言った。
「いまは、いっしょに、ないてるよ」
泣き声が、ふたつ、神殿に響いていた。
レオニスは、祭壇に手をついたまま、それを聞いていた。
胸の底が、ふっと、ゆるんだ。
ほっとしていた。
十二年前とは、逆のわけで。
白い獣が、崩れた。
顔のない頭から、ほろほろと。肩から。背中から。四つの足から。音もなく、白い雪になって、神殿じゅうに降りそそいでいく。
――あの子が泣きやんで、笑ったら、そのでかいのは崩れて、雪になった。……先生は、どこにもいなかった。
レオニスは、息を詰めた。
降りしきる雪の中に――ヘルミは、いた。
シエルを抱いて、泣いていた。どこへも、行かなかった。
二十五年前は、この人が泣きやんだときに、獣が崩れた。
今夜は、この人が泣いたときに、崩れた。
ミレイアが、ゆっくりと、剣を下ろしていた。
ガルドの背から、白が、滑り落ちた。
雪になって、石の床に積もる。大きな体が、ふうっと、息を吐いた。額の汗を、手の甲で拭う。
「……ほらな」
笑っていた。
「泣きゃあ、軽くなる」
女神の胸で、守り火が、燃え上がった。
燠のように縮んでいた火が、まっすぐに、高く。
女神像を覆っていた白い布が、するりと、肩から滑り落ちた。
顔のない女が、小さなランタンを胸に抱いて、そこに立っていた。
ぴしり、と。
凍った湖が割れるような音が、頭上で響いた。
黒硝子の天井に、亀裂が走っていた。古いひと筋に寄り添うように、もうひと筋。
割れは、しなかった。
天井の中の雪の谷が、ゆっくりと、薄れていった。
レオニスは、祭壇についた手に、力をこめた。
地上には、まだ、白い昼が残っている。真夜中に白んだ、王都の空が。
「我、欲す」
あの新月の夜と、同じ言葉だった。
「泣くことも、笑うことも――誰もが、自分で選べる夜を」
夜が、祭壇の溝を流れていった。
柱を昇り、天井の黒硝子に染みこみ、階段を駆け上がって――地上へ。
白い都の上へ。白い灯の列の上へ。泣いている人の上にも、笑っている人の上にも。
王の上にも、乞食の上にも、等しく。
祭壇についた手のひらから、夜の隅々までが伝わってくる。川沿いの、暗い窓の上へ。牢の、拳ほどの明かり取りの上へ。宿舎の窓辺の、白い寝間着の子供たちの上へ。坂の上の、真新しい木の墓標の上へ。
二度目の夜が、降りていった。
神殿に降り積もった白い雪が、冷たくなった。
それから、ゆっくりと、溶けはじめた。
天井の黒硝子に、光が灯った。
ひとつ。またひとつ。
星だった。
ふた筋の亀裂のあいだにも、数えきれない星が灯っていく。そのなかに、蜂蜜色と、淡い空色が、寄り添うように瞬いていた。茜色も。ミレイアの、小さな光も。針の先ほどの、白い星も。
膝をついた騎士たちの胸からも、光が昇っていった。司教の胸からも。立ちつくす騎士団長の胸からも。
「……また、夜にしたよ。師匠」
声に出したつもりは、なかった。
腹の虫が、盛大に鳴いた。
レオニスは、祭壇に背をあずけて、ずるずると座りこんだ。
◆
真夜中に白んだ空が、ふいに、暗くなった。
大聖堂前の広場を埋めつくしていた人々が、いっせいに、空を見上げた。
手の中の白い蝋燭の火が、ゆらりと揺れた。揺れて――ただの火の色に、戻った。
夜だった。
月のない、冬至の夜だった。
凍てついた空いっぱいに、星が出ていた。
そして、人々の胸の上にも、光が灯りはじめた。
白いものに、薄く覆われた光が多かった。雪のような白の下で、ひとつひとつ、違う色が瞬いている。
見下ろす者がいた。
見なかった者も、いた。
広場の真ん中で、白い蝋燭を手にしたまま、声を上げて泣きだす者がいた。その肩を、隣の見知らぬ誰かが、黙って抱いていた。
川沿いのパン屋の、暗い食堂で、ひとりの女が、胸もとの光を見下ろしていた。
黒い服は、もう着ていなかった。その手を、隣で、男の子が握っていた。
女は、長いこと、雪の下の光を見ていた。
それから、息子の手を、握り返した。
白い雪が、ほどけた。
女の唇が、ひとつの名前を呼んだ。坂の上の、真新しい木の墓標に刻まれている名前だった。
女は、泣いた。
男の子も、泣いた。ふたりで、同じ名前を呼んで。
隅の椅子で、赤ん坊が、また泣きだした。若い母親は、もう、謝らなかった。
食堂の奥では、黒髪の女が、ふたりの子供を両脇に抱き寄せていた。その胸で、茜色の星が灯っていた。痩せた夫が、黙って、その肩に手を置いた。
焼き場では、親父が、竈に薪をくべていた。明日の朝の分の生地が、いつもよりずっと多く、布の下で寝かせてあった。
開け放った窓の前に、ユナが立っていた。胸の上で、星が灯っていた。白いものは、どこにもかかっていなかった。
下町の古い家では、ひとりの老人が、戸棚の奥から、小さな革の靴を片方、取り出していた。いつのまにか抱えるのをやめて、よく眠れるようになっていた靴だった。老人は、それを胸に抱いて、朝まで、眠らなかった。
大聖堂の宿舎の窓辺では、白い寝間着の子供たちが、ひとり、またひとりと、泣きだしていた。
燃える家の夜のことを。いなくなった誰かのことを。それぞれの涙を、それぞれのものとして。
いちばん小さな女の子は、泣かなかった。
窓の外の夜を、じっと、見上げていた。
聖具室の外の小さな扉の前では、赤い髪の見習いが、壁にもたれて空を見上げていた。胸の上の光を、指の先でつついて、ふん、と笑った。
王都の牢では、牢番が、机の上に並んだふたつの錠前を眺めていた。胸の星を見下ろして、それから、また錠前を眺めて、長いため息をついた。
廊下のいちばん奥の、向かいの房で、片腕の大男が、背中を丸めていた。
胸の上の、雪の下の光を、見下ろしていた。二十五年、ずっと、そこにあった光を。
大男は、泣いた。
燃える家の中で、笑ったまま火に呑まれた母のために。二十五年ぶりに。声を、殺さずに。
浄化の赦しで牢を出た男が、とある家の戸口の前で、膝をついていた。あの晩、その家の者を殺めたことを、思い出していた。
夜は、それを消しはしなかった。
男は、両手で顔を覆って、泣いていた。
見ないと、選んだ者もいた。
白い蝋燭を吹き消し、胸もとの光に背を向けて、眠りについた者がいた。
毎朝、黒パンをひとつだけ買っていた老婆は、胸の上の光を、長いこと見下ろしていた。それから、雪の下の光を、そっと手のひらで覆って、微笑んだまま、灯を吹き消した。
夜は、どちらも、強いなかった。
その夜、王都じゅうで、泣き声がした。
夜は、どの泣き顔も、誰にも見せなかった。
◆
夜明けが、近かった。
ミレイアは、祭壇の前に立っていた。
胸の聖印は、冷たかった。
――夜の中では、白は、誰の心も縛れない。
神殿の床には、溶けかけた雪が、うっすらと残っていた。黒硝子の天井には、まだ、星が灯っている。ふた筋の亀裂のあいだで。
女神像の足もとで、ヘルミが、シエルの膝に頭をあずけて、眠っていた。
泣き疲れて、眠ったのだった。頬に、いくすじも涙の跡を残したまま。
泣き腫らした、ただの、若い女の寝顔だった。
シエルは、その髪を、指でゆっくりと梳いていた。中庭の長椅子で、子供たちの髪を櫛で梳いていたときと、同じ手つきで。
祭壇に背をあずけて、レオニスが座りこんでいた。目は閉じているが、眠ってはいない。腹の虫が、ときどき、情けない音を立てていた。
柱の陰では、ガルドが、大の字に寝転がっていた。
騎士たちは、膝をついたまま、動かなかった。胸の星を見下ろして、泣いている者もいた。
懐の罪状帳に、指が触れた。今日の分は、まだ書いていない。何から書けばいいのか、わからなかった。
騎士団長が、司教の前に立った。
空の鞘を、腰に下げたまま。
「司教」
低い声だった。
「あの祈りの文は、何だ」
司教は、床に座りこんでいた。金糸の法衣は、溶けた雪に濡れている。手巾を握りしめたまま、肥えた肩を震わせていた。
「……古い、祈りの形で――」
「答えろ」
司教の喉が、ひくりと鳴った。
長い沈黙のあとで、かすれた声が漏れた。
「……開祖さまは」
司教は、顔を上げなかった。
「三百年前に、鏡を白く燃やした、闇司祭でした」
膝をついた騎士たちが、顔を上げた。誰も、声を出さなかった。
ミレイアは、息を止めた。
思わず、祭壇にもたれているレオニスを見た。
白い光の、闇司祭。
司教の声が、続いた。
「我、欲す、は……開祖さまの、祈りの形なのです。白き者は、この祭壇から、泣く者のない昼を、国じゅうに広げたと……。夜の番人たちが、最後の欲で、女神の灯に火をともして、夜を取り戻したと……。扉に、刻まれております」
ミレイアは、広間の入り口の、黒い扉へ歩いた。
柱の松明を、一本、抜き取る。
扉の下半分は、びっしりと、古い文字で埋まっていた。
――白き者、この祭壇より、泣く者なき昼を国じゅうに広げたり。
――夜の番人ら、最後の欲をもて、女神の灯に火をともし、夜を取り戻せり。
番人たちの名前らしいものが、いくつも刻まれている。
そのなかで、ひとつだけ。
鑿で深く抉られて、読めない名前があった。
背後で、司教の声がした。
「……白き者の、名です」
「教会が、削りました。……祭壇も、女神の像も、壊そうとしたのです。三百年前に。けれど、道具のほうが砕けて、あの火は、消えなかった」
司教は、女神の胸の守り火を、見上げていた。
「だから、上に、大聖堂を建てました。……蓋を、したのです」
ミレイアは、祭壇のほうを振り返った。
騎士団長が、眠っているヘルミを見下ろしていた。
二十五年前、この人が、あの雪の中から抱き上げて連れ帰った娘だった。
騎士団長の手が、腰へ伸びた。
剣帯の留め金を、外す。
空の鞘ごと、剣帯が、石の床に落ちた。
「……私は」
かすれた声だった。
「二十五年、何に、膝をついていたのだ」
誰も、答えなかった。
騎士団長は、ヘルミの前に、膝をついた。
今度は、みずから膝を折ったのだと、ミレイアには見えた。
灰色の目が、ミレイアを見上げた。
「セレス」
「はい」
「お前の剣は……何のためにある」
ミレイアは、少しだけ考えた。
十歳で神殿に引き取られた日から、剣を振ってきた。泣くかわりに。
「誰かが、泣ける場所を守るために、振ります」
騎士団長は、長いこと、ミレイアを見ていた。
それから、目を閉じた。
「……そうか」
柱の陰で、ガルドが、むくりと起き上がった。
首を回すと、ごきりと音がした。
「さて、と」
ミレイアは、振り向いた。
「……ガルドさん?」
「戻るわ。房、空けてもらってんでな」
ガルドは、欠伸をしながら、黒い扉のほうへ歩いていった。
扉の前で、一度だけ、振り返った。
眠っているヘルミと、その髪を梳いているシエルを、しばらく見ていた。
それから、祭壇にもたれているレオニスに、顎をしゃくった。
「……気が向いたら、また頼め」
レオニスは、目を閉じたまま、片手を上げた。
騎士団長は、その背中を、黙って見送った。
ガルドの足音が、階段を昇っていった。
◆
はるか頭上から、鐘の音が降りてきた。
夜明けの鐘だった。
天井の星が、ひとつ、またひとつと、薄れていく。消えるわけじゃない。見えなくなるだけだ。
レオニスは、ヘルミのそばに座っていた。
両手は、膝の上に置いていた。
墓の前の、あの日のように尻の下に敷かなくても、手は、どこへも伸びていかなかった。胸の底の白は、何も言わなかった。
ヘルミは、眠っていた。シエルの膝に頭をあずけて。泣き疲れた子供のような寝顔だった。
鍋を抱えて門の前に立っていた、痩せた爺さんのことを、思った。
いつか、話そう。この人が、訊いてきたら。
シエルが、顔を上げた。
泣き腫らした目が、レオニスを見た。
レオニスは、口を開いた。
十二年、言えなかった言葉だった。
「……置いてって、ごめん」
シエルは、しばらく、黙っていた。
それから、首が、少しだけ右にかしいだ。十二年前と、同じ角度で。
「……ずっと、よるに、さがしてた」
小さな声だった。
「なにを、さがしてるのか、わからないまま。……ずっと」
窓辺で、右から左へ。高いところから、低いところへ。
母親の星と一緒に――あいつは、俺を、探していたのか。
視界が、滲んだ。
隣に、ミレイアがしゃがみこんでいた。こちらの顔を、覗きこむ。
「……泣いているんですか」
「……玉ねぎだ」
「玉ねぎは、ありません」
シエルが、泣き腫らした目のまま、小さく噴き出した。
レオニスは、袖で目をこすった。
「……シエル。一緒に、来るか」
シエルは、首を振った。
膝の上の、ヘルミの髪に、そっと手を置く。
「おねえちゃんは、まだ、ひとりで泣けないから」
十二年前、泣いている女の子の隣に、いた。
今度は、この子が、隣にいると決めたのだ。
「……決めるのは、お前だ」
シエルが、頷いた。
涙の跡の残る顔で、笑った。
白い部屋で笑っていた顔とは、違う笑い方だった。
シエルの膝の上で、ヘルミが、小さく身じろぎした。
泣き腫らしたまぶたが、ゆっくりと開く。淡い金色の目が、しばらく宙をさまよって、それから、レオニスを見つけた。
ヘルミは、肩を小さく震わせた。
「……夜は、冷えますね」
かすれた声だった。
何度も聞いた言葉だった。窓掛けを閉めるときの。夜を遠ざけるときの。
けれど、今のは、違った。冷えた夜の中で、寒いと感じている人の声だった。
「……ああ。冷えるな」
レオニスは、外套を脱いで、ふたりの肩に掛けた。
地上へ昇る階段は、長かった。
一段昇るごとに、足が重くなった。
「……腹、減った」
思わず、声に出た。
すぐ後ろで、ミレイアが答えた。
「親父さんが、朝のパンを焼いて待っているはずです。五人前」
「……三人前って、言ったんだけどな」
「知っています」
半ばまで昇ったところで、膝が、かくりと折れた。
石の段に、座りこむ。立ち上がろうとして――体が、言うことをきかなかった。
まぶたが、落ちてくる。
隣に、誰かが腰を下ろす気配がした。
起こそうとは、しなかった。肩に、そっと、外套が掛けられた。
すぐそばで、声がした。
「……昼寝の、時間です」
そういえば、ずいぶん長いこと、昼寝をしていなかった。
レオニスは、少しだけ笑って――眠った。




