第六章 夜の来ない都
王都の半分が、同じ顔で笑っている。
夜の通りを歩きながら、ミレイアは、そう思った。
窓という窓に、白い灯がともっていた。大聖堂が配った、火まで白い蝋燭だ。閉ざされた硝子の向こうから、笑い声が漏れてくる。どの家からも、よく似た、やわらかな笑い声が。
泣き声は、どこからも聞こえなかった。
見上げた夜空は、白っぽく濁っていた。星は、ひとつも見えない。
冬至まで、あと二日だった。
ミレイアは、外套の頭巾を、目深に引き下ろした。
伯爵家にかくまわれてからも、夜明け前の仕込みにだけは、欠かさず通っている。宿は替わっても、宿代を踏み倒すつもりはなかった。
騎士団が探しているのは、寝癖のある黒髪の闇司祭だ。頭巾をかぶった女ひとりを、呼び止める者はいない。レオニスが店を出てからは、騎士団が、パン屋に踏みこんでくることもなかった。
胸の聖印は、伯爵家の門を出たときから、ずっと、ぬるいままだった。
川沿いの通りで、灯りのない窓は、今夜も一軒だけだった。
裏口を叩くと、親父が、黙って戸を開けた。
食堂は、暗かった。焼き場の竈の火が、戸口からわずかに漏れているだけだ。その薄明かりの縁に、人の影が、肩を寄せあっていた。
息子を亡くした鍛冶屋。焼け出された老夫婦。泣いているところを見とがめられて、聖女さまのもとへ連れていかれそうになった娘。――影は、ひと晩ごとに増えていく。
今夜は、赤ん坊の泣き声が混じっていた。
隅の椅子で、若い母親が、泣きやまない赤ん坊を抱いて、身を縮めていた。
親父が、生地の桶を抱えて通りしなに、ぼそりと教えてくれた。
「夜泣きのたんびに、隣のもんが、戸を叩きに来るんだとよ。聖女さまのところへ、お連れしましょうか、ってな。……やさしい声でよ」
若い母親が、赤ん坊の頭を、胸に押しつけるように抱き寄せた。
「す、すみません。すぐに、泣きやませますから――」
親父が、太い声でさえぎった。
「泣かせとけ」
それから、少しだけ、声をやわらげた。
「赤ん坊は、泣くのが仕事だ」
焼き場では、ユナが、竈に薪をくべていた。今夜も、頬に白い粉がついている。
ミレイアは、捏ね台の前で、袖をまくった。
ユナが、竈の火を見たまま訊いた。
「……レオニスは?」
「屋根の上です。今日も、一日じゅう」
伯爵家の、灰色の石瓦の屋根だった。星の見えない空を、朝から晩まで、ただ見上げている。
ユナの手が、止まった。
「星、見えないのに」
「……見えないのに、です」
ユナは、しばらく黙って、薪をくべていた。
「ちゃんと、食べてる?」
「三人前は」
ユナが、眉を寄せた。
「……じゃあ、元気ないね」
ミレイアは、答えなかった。生地を、捏ねつづけた。
捏ね上げた生地に布をかけ、寝かせているあいだに、竈の明かりで、罪状帳を開いた。
――冬至まで二日:
ペン先が、止まった。
書くことが、なかった。
この何日か、レオニスは、罪状と呼べるようなことを、何ひとつしていない。朝寝坊も。つまみ食いも。
昼寝さえ。
ミレイアは、何も書かないまま、帳面を閉じた。
食堂の暗がりで、いつのまにか、赤ん坊の泣き声が止んでいた。泣き疲れて、眠ったらしい。
若い母親が、その小さな頭に、額を寄せていた。影になった肩が、細かく震えている。声は、立てなかった。
竈の明かりは、そこまで届かない。
その泣き顔は、誰にも、見えなかった。
夜が明けきらないうちに、伯爵家へ戻った。
厨房の卓の隅に、レオニスがいた。屋根から降りてきたところらしく、外套の肩に、霜が白く降りていた。
背を丸めて、紙切れに、何か書いていた。
一字ずつ、ひどく、ゆっくりと。子供の手習いのような、大きな字だった。
ミレイアは、覗かなかった。
書き終えた紙を小さく畳んで、レオニスは、顔を上げずに言った。
「……エルナに、使いを頼みてえんだ」
◆
宿舎の二階の廊下には、窓ごとに、白い灯がともっていた。
その窓辺に、白い寝間着の子供たちが並んでいた。陽だまりの家の子供たちだった。硝子に額を押しつけて、眼下に続く灯の列を、飽きずに眺めている。
寝かしつけに来た聖女に気づいて、子供たちが、いっせいに振り返った。
みんな、笑っていた。
いちばん小さな女の子が、白い衣の裾を引いた。
「せいじょさま。どうして、よるは、まどを、しめるの?」
聖女は、女の子の前にしゃがんだ。
「夜は、冷えますからね」
女の子は、窓の外の灯の列を振り返った。それから、また、聖女を見上げた。
「よるって、こわいの?」
聖女は、少しだけ考えた。
夜の牢は、泣き声でいっぱいだった。暗い部屋で、声を殺して泣く人たちがいる。この子たちも、初めて会った日には、泣いていた。家が焼けた夜の話を、しながら。
女の子の髪を、そっと撫でた。
「ええ。……でも、怖い夜のことは、覚えていなくていいのですよ」
女の子は、にっこりと笑った。
「うん」
冬至の夜は、あさってだった。
聖女は、子供たちの顔を、ひとりずつ見回した。
「もうすぐ、夜は、来なくなりますからね」
子供たちが、わあ、と小さな声を上げた。
廊下のいちばん奥の扉を、そっと開けた。
シエルは、窓辺にいた。
窓掛けが、手のひらひとつぶんほど、開いていた。その隙間から、白っぽい夜空を見上げている。
この子は、毎晩、こうしている。何を見ているのかと訊いても、首をかしげるだけだった。
伯爵家から帰る馬車の中でも、ずっと、こんなふうに空を見ていた。あの日、この子は、ひとりで屋敷の中へ引き返していって、しばらく戻ってこなかった。何があったのかは、訊かなかった。
聖女は、窓辺に歩み寄った。
「夜は、冷えますよ」
窓掛けに、手をかける。
袖を、引かれた。
「……おねえちゃん」
シエルが、見上げていた。
「よるが、なくなったら、ほしも、なくなるの?」
廊下での話を、聞いていたのだろう。
聖女は、微笑んだ。
「星なんて、なくても、困らないのですよ」
シエルは、目を逸らさなかった。
「……わたし、こまる」
窓掛けにかけた手が、止まった。
この子は、十二年、一度も、いやと言ったことがなかった。
シエルは、笑っていなかった。
言葉を、探した。
泣いている人の前でなら、迷ったことはない。何を言えばいいのか、いつも、わかっていた。
この子は、泣いてさえいないのに――何も、見つからなかった。
聖女は、窓掛けから、手を離した。
「……おやすみなさい、シエル」
それだけ言って、部屋を出た。
扉を閉めてから、窓掛けを閉めてこなかったことに、気がついた。
戻ろうとして――足が、動かなかった。
廊下の窓の向こうで、白い灯が、どこまでも続いている。
――もう誰も、夜にひとりで泣かなくていい。
その願いが、胸の底から、ゆっくりと満ちてきた。いつものように、あたたかく。
あの子も、いつか、わかってくれる。
聖女は、扉に背を向けた。
今夜も、眠れそうになかった。目を閉じれば、白い雪が降ってくる。
◆
冬至の前の日、エルナが、面会に来た。
牢の格子越しに、畳んだ紙切れを差し出してくる。
「レオニスさんから」
ガルドは、眉を上げた。
「あいつは、何て」
「何も。……これだけ渡してくれって」
紙切れを、開いた。
大きな、丸い字だった。一字ずつ、ゆっくりと書いたのがわかる。
三つ、並んでいた。
太い指で、なぞる。
「……た」
ひとつ目。
「の……む」
声に出して、読んだ。
それから、もう一度、今度は声に出さずに読んだ。
――たのむ。
読めた。
ガルドは、喉の奥で笑った。
「奪う前に頼んでみる、って言ったのは、俺のほうなんだがな」
エルナが、まばたきをした。
「……兄さん?」
「なんでもねえ。……あの欲張り、字が、でけえんだよ」
紙切れを小さく畳み直して、左の手首のリボンの下に、押しこむ。
エルナは、兄の手首を、しばらく見ていた。
「返事は?」
「いらねえよ」
エルナは、それ以上、何も訊かなかった。髪のリボンに一度だけ指をやって、帰っていった。
向かいの房で、ボルグが、黙ってこちらを見ていた。
ガルドは、石の寝台に寝転がった。天井近くの、拳ほどの明かり取りを見上げる。
「……気が向いた」
明くる日は、ひどく長かった。
拳ほどの空が、冬の昼の色から、夜の色に変わるまで、ガルドは、寝台に寝転がったまま、それを見上げていた。
夜の色、といっても、暗くはならなかった。白っぽく濁ったまま、星のひとつも出なかった。
冬至の夜だった。
牢は、静かだった。いつもなら、どこかの房から、すすり泣きが聞こえてくる。今夜は、それもなかった。
廊下の入り口の、牢番の机で、白い蝋燭が燃えていた。布告の蝋燭だ。火まで白い。
夜が更けるのを待って、ガルドは、身を起こした。
格子戸の錠前に、手を伸ばす。
「寄越せ」
錠前が、ごとりと、手の中に落ちてきた。
格子戸が、軋んで開いた。
向かいの房の暗がりで、大きな影が、のそりと動いた。
「……頭」
「おう。ちっと、出てくる」
ボルグの目が、ガルドの左の手首に落ちた。リボンの下から、紙の端が覗いている。
「……兄ちゃんか」
「ああ。頼まれちまった」
ボルグは、しばらく黙っていた。
それから、格子の奥で、深々と身を折った。片方しかない腕を、体の横にぴたりとつけて。
里の炊事場の前で、何度も見た姿だった。
ガルドは、小さく顎を引いた。
廊下の入り口で、牢番が、椅子から転げ落ちかけた。
「こ、黒狼……! あ、あんた、今度は――」
ガルドは、手の中の錠前を、机の上に置いた。白い蝋燭の火が、揺れた。
「頼まれて奪うんだ。勘定に入れんな」
牢番の口が、ぱくぱくと動いた。
「終わったら、戻る。裁かれてやるって、決めてるからな」
牢番は、錠前とガルドの顔とを、何度も見比べた。それから、がっくりと肩を落とした。
「……房、空けとくよ」
ガルドは、片手を上げた。
机の向こうの、牢の門には、鉄の錠前が下りていた。
「寄越せ」
門の錠前も、同じように、手の中に落ちてきた。
ガルドは、それを、ひとつ目の錠前の隣に並べて置いた。
門を押し開けると、外は、白かった。
通りという通りの窓に、白い灯がともっている。大聖堂のほうの空が、ひときわ白く光っていた。
ガルドは、走りだした。
手首のリボンの下で、紙切れが、かさりと鳴った。
◆
冬至の日は、朝から、雲ひとつなかった。
昼を過ぎると、伯爵家の門の外を、人の流れが通りはじめた。老いも若きも、晴れ着に身を包み、白い蝋燭を手にして、大聖堂のほうへ歩いていく。一年でいちばん長い夜に、陽の戻りを祝う祭り――白陽祭だった。
ミレイアは、客間の窓から、その流れを見下ろしていた。
笑い声が、途切れなかった。
日が沈むと、大聖堂のほうの空が、白く染まった。
広場を埋めつくす、灯の海だった。
通りから人影が消えたころ、ルカーシュの馬車が、伯爵家の門を出た。飾り気のない、黒塗りの馬車だった。
ミレイアの隣には、ルカーシュが座っていた。向かいの席では、エルナが、ふたりの子供を両脇に抱き寄せている。今夜は、灯のない窓の内側にいたい。そう言って、ついてきたのだ。
レオニスは、ミレイアの座る席の下にいた。
座席の板を持ち上げると、中が物入れになっている。お尋ね者が門を出るところを、誰に見られるかわからない。念のため、とルカーシュに言われて、手足を折りたたむようにして、そこへ潜りこんだのだ。
ミレイアは、その板の上に座っていた。
窓の外を、白い灯の列が流れていく。白い外套の騎士は、どこにも見えなかった。みな、広場の守りに回されているのだろう。
川沿いの通りで、馬車が止まった。
ミレイアが腰を上げると、座席の板が、内側から押し上げられた。
膝を抱えて丸まっていたレオニスが、這い出してきた。首を回すと、ごきり、と音がした。
「……首が、ねじれた」
寝癖が、いつもより、ひどいことになっていた。
灯の海の中に、ひとつだけ、暗い窓があった。
パン屋の窓だった。
裏口から入ると、暗い食堂に、見知った影がいくつも並んでいた。親父。ユナ。鍛冶屋に、老夫婦に、赤ん坊を抱いた若い母親。ルカーシュは、裏口のそばに、黙って立った。
奥の暗がりから、小さな影が、飛び出してきた。
墓の前の、あの男の子だった。
「にいちゃん!」
レオニスの外套に、しがみつく。
壁際に、女がひとり、立っていた。
泣き疲れて眠った息子を送り届けた晩、戸口で迎えた母親だった。黒い服は、もう着ていなかった。
女は、にこにこと、困ったように微笑んだ。
「広場へ行きましょう、と言ったのですけれど。この子が、どうしても、ここがいいと言うものですから」
男の子が、外套を握ったまま、レオニスを見上げた。
「にいちゃん、どこ、いくの?」
レオニスは、しゃがんだ。男の子と、同じ高さに。
「星、見に行ってくる」
男の子は、窓のほうを振り返った。白くかすんだ夜空を、しばらく見上げていた。
「……ほし、ないよ」
「だから、行くんだよ」
男の子は、よくわからない、という顔をした。それでも、外套から、そっと手を離した。
親父が、布の包みを、レオニスの胸に押しつけた。焼きたてのパンの匂いがした。
「持ってけ」
それから、ぶっきらぼうに付け足した。
「明日の朝の分は、多めに焼いといてやる」
レオニスが、にっと笑った。
「三人前な」
親父が、ふんと鼻を鳴らした。
「五人前だろ、どうせ」
焼き場の戸口で、ユナが、腕を組んでいた。
「……うちの窓、開けとくから」
それだけ言って、そっぽを向いた。
エルナが、レオニスの前に進み出た。
何も、言わなかった。ただ、深く、頭を下げた。髪に結んだ茜色のリボンが、肩からこぼれた。
レオニスは、黙って頷いた。
真夜中の鐘まで、あと一刻というころだった。
ミレイアは、剣帯を締め直した。
――冬至の夜、大聖堂に近づけば、斬る。
門の格子越しに聞いた、低い声がよみがえる。
柄を、一度だけ、握った。
◆
大聖堂の裏手へ続く坂を、ミレイアは、レオニスと並んで上った。
焼け落ちた陽だまりの家の前を、通り過ぎる。レオニスは、振り返らなかった。
坂の上の、神殿騎士団の本営の裏手。井戸小屋の扉には、太い板が、何枚も釘で打ちつけてあった。
「……塞がれていますね」
白い布が張られるのを見た、あの晩。ここから忍びこんだことは、やはり、知られていたらしい。
坂の下から、重い足音が、駆け上がってきた。
ミレイアは、剣の柄に手をかけた。
白っぽい夜の底から、見上げるほどの大男が、姿を現した。粗末な上着一枚で、肩から白い湯気を立てている。左の手首に、色褪せた茜色のリボン。その下から、紙の端が覗いていた。
ガルドだった。
「よう」
レオニスが、にやりと笑った。
「遅かったじゃねえか」
ガルドが、白い息を吐いた。
「寄り道してた」
わからないやりとりだった。ふたりとも、それで足りた、という顔をしている。
リボンの下の紙切れは、厨房の卓でレオニスが書いていたものだろう。
ミレイアは、ガルドに向き直った。
「……どうして、ここが」
ガルドは、肩をすくめた。
「押しこみは、裏からって決まってんだ」
ミレイアは、塞がれた扉に背を向けた。
「こちらへ」
大聖堂の脇の壁に沿って、進む。聖具室の外にも、小さな扉がひとつある。司祭たちが、宿舎との行き来に使う扉だ。九年、油の当番で、毎朝のように前を通った。
扉の前で、ランタンの灯が、ひとつ揺れていた。
見張りに立っていたのは、赤い髪を、うなじで短く束ねた娘だった。
赤毛の同期は、ミレイアの顔を見て、長い息を吐いた。
「……来ると思った」
それから、後ろのふたりに目をやって、ぽかんと口を開けた。
「……ねえ。あれ、黒狼じゃ」
「訊かないでください」
「訊かない」
赤毛の同期は、腰の鍵束を外した。
「みんな、広場と、下の守りに回されてる。……ここは、あたしひとり」
鍵が、回った。
扉を押し開けながら、赤毛の同期が、ぽつりと言った。
「……あんたのスープ、まだまずいの?」
ミレイアは、少しだけ考えた。
「……シチューなら、四杯、食べてもらえました」
赤毛の同期は、目を丸くした。それから、小さく噴き出した。
「行きなよ」
油の匂いのする聖具室を抜けると、身廊だった。
今夜の大聖堂は、白かった。
祭壇にも、柱の燭台にも、白い蝋燭が、数えきれないほどともっている。火まで白い灯が、白い柱と白い床を、真昼のように照らしていた。
閉ざされた正面の扉の向こうから、広場の歌声が、くぐもって聞こえてくる。
身廊には、誰もいなかった。
祭壇の足もとの床が、今夜も、黒く裂けていた。
裂け目の下から、石の階段が、闇の底へと続いている。
◆
この階段を降りるのは、ミレイアには、二度目だった。
レオニスの指先に灯った夕暮れ色だけが、足もとを照らしている。一段降りるごとに、空気が冷えていく。
半ばまで降りたところで、その明かりの先に、もうひとつ、明かりが見えた。
段の上に置かれた、ランタンだった。
その傍らに、白い外套の男が、ひとりで立っていた。
白い髭。岩を削ったような顎。灰色の目。
騎士団長だった。
「言ったはずだ」
低い声が、石の壁に響いた。
「斬る、と」
ミレイアは、剣を抜いた。
隣で、ガルドが、騎士団長のほうへ、手を差し出しかけた。
ミレイアは、騎士団長から目を離さずに言った。
「手出しは、無用です。この人の剣は、私が受けます。……先に行ってください」
ガルドが、差し出しかけた手を、引っこめた。
背中で、レオニスが、息を詰める気配がした。
「……ミレイア」
「行ってください」
騎士団長の剣が、鞘走った。
九年、見上げてきた剣だった。
がきん、と。
鋼と鋼の噛みあう音が、狭い階段を揺らした。
受け止めた腕が、肩まで痺れた。重い。白い布が張られた夜、神殿で受けたときと、同じ重さだった。
宙に、夕暮れ色の光が灯った。
騎士団長の頭上を越えて、ひとつ、またひとつ。階段の闇の奥へと、小さな光の板が続いていく。
レオニスが、跳んだ。
ガルドが、続いた。大きな体が蹴るたびに、光の板が、わずかにたわんだように見えた。
――持ちこたえた。
灰色の目が、光を追って、上へ流れた。
その一瞬に、ミレイアは、剣を押しこんだ。
灰色の目が、戻ってくる。
夕暮れ色の足場は、闇の底へ遠ざかって、消えた。
階段には、ふたりだけが残った。
二の太刀が、来た。
来るより先に、剣がそこにある。三の太刀を、剣の腹で逸らす。四の太刀を、身を沈めて外す。
重い。
けれど――読める。
九年、この人の剣を見上げてきた。朝の稽古場で、誰よりも早く起きて。誰よりも長く。
どの型から、どこへ来るのか。この人の剣が、どこで息を継ぐのか。
体が、覚えていた。
どれだけ打ちあったのか、わからなかった。
遠く、上のほうで、鐘が鳴った。
真夜中の鐘だった。
階段の底から、白い光が、噴き上がってきた。
足もとを駆け抜け、壁を這い上がり、上へ――裂け目のほうへと、昇っていく。
壁に落ちていたふたつの影が、消えた。
胸の聖印が、焼けるように熱くなった。
息が止まるほどの熱さだった。白い礼拝堂の、どの祈りのときよりも。
剣を噛みあわせたまま、ミレイアは、騎士団長の顔を見た。
大きな左手が、その胸の聖印を、握りしめていた。
まばたきひとつのあいだでは、なかった。手は、下りなかった。
灰色の目が、揺れていた。
「団長」
ミレイアは、言った。
「あなたの聖印は、今、冷たいですか」
騎士団長は、答えなかった。
剣を押しこむ力が、ほんのわずか、緩んだ。
「私は、斬りません」
ミレイアは、剣を外して、踏みこんだ。
「――止めます」
剣の腹を、叩きつけた。
剣を握る、右の手に。
斬らなかった。
骨に響く手応え。大きな指が開いて、剣が、石の段に落ちた。白い光の中を、跳ねながら、下へ下へと転がり落ちていく。
騎士団長は、空になった右手を、見下ろしていた。
「ご自分の目で、見に来てください」
それだけ言って、ミレイアは、階段を駆け降りた。
振り返らなかった。
しばらくして、後ろから、重い足音が、階段を降りてきた。
◆
背後で、鋼の噛みあう音が、何度も響いていた。
レオニスは、足を止めなかった。
前にも、見た。白い布が張られた夜、ミレイアが、騎士団長の剣を真正面から受け止めるのを。一歩も、退かずに。
だから、振り返らなかった。
夕暮れ色の足場を蹴って、階段を駆け降りる。隣を、ガルドが、段を三つ飛ばしに降りていく。
階段の底で、黒い扉が、開いていた。
小さなランタンを抱いた、顔のない女。そのまわりを、びっしりと文字が埋めつくしている。
目の高さに、ひときわ深く刻まれた一行があった。
今度は、読んだ。
――白く燃ゆる子らよ。汝らが消さんとする涙は、汝ら自身の涙なり。
足が、止まりかけた。
――汝ら、自身の。
胸の底で、白が、ひやりと身を縮めた気がした。
その下にも、文字は続いていた。走る目の端に、切れ切れの言葉が引っかかる。
――白き者、この祭壇より……泣く者なき昼を……
――夜の番人ら、最後の欲をもて……女神の灯に……
人の名前らしいものが、いくつも刻まれていた。そのうちのひとつだけが、鑿で深く抉られて、読めなくなっていた。
「――闇司祭だ!」
扉の内側から、白い外套が、いくつも飛び出してきた。剣の柄に、いっせいに手がかかる。
ガルドが、無造作に手を差し出した。
「寄越せ」
剣が、宙を舞った。
抜き放たれた剣も、抜きかけた剣も、鞘ごと。一本残らず騎士たちの手を離れて、ガルドの足もとへ降ってくる。剣帯を引っぱられて、つんのめる者もいた。
がらがらと、鋼の山ができた。
騎士たちは、空になった手を見下ろしていた。
ガルドは、剣の山を、爪先で脇へ押しやった。
「悪いな。頼まれて、奪ってんだ」
扉を、くぐった。
円い広間は、白かった。
黒硝子の天井は、白い布の下に隠れている。女神像も、頭から白い布を被せられて、白い柱のように立っていた。布の裾のあいだから、胸のランタンの守り火が、細く、細く、震えているのが見えた。
女神像の足もとの、黒い石の祭壇の前に、白い衣の聖女が立っていた。
傍らに、亜麻色の髪の少女。
シエルは、笑っていなかった。
祭壇の脇で、金糸の法衣の男が、跳ねるように振り向いた。肥えた顔が、引きつっている。
司教だった。
「……闇司祭!」
手巾を握りしめた手で、こちらを指さす。
「と、止めなさい! 誰か――」
祭壇のまわりに控えていた騎士たちが、剣を抜いて、踏み出した。
ガルドが、広間に向かって、片手を広げた。
「寄越せ」
剣が、また、宙を舞った。
司教の声が、裏返ったまま、途切れた。
聖女が、振り返った。
淡い金色の瞳が、レオニスを見つけて、やわらかく細められた。
「レオニスさん」
嬉しそうな声だった。
はるか頭上から、鐘の音が、降りてきた。
真夜中の鐘だった。
聖女は、微笑んだまま、言った。
「見ていてくださいね」
祭壇に向き直る。白い両手が、黒い石の上についた。
レオニスは、床を蹴った。
「――やめろ!」
聖女の唇が、動いた。
「我、欲す――」
闇司祭の、宣誓の言葉だった。師匠の。――俺の。
「――もう誰も、夜にひとりで泣かなくていい、終わらない昼を」
祭壇の溝を、白い光が駆け抜けた。
踏みこんだ足が、光に押し戻された。目を開けていられない。
白は、祭壇から柱へ走り、柱を駆け上がって、天井の白い布を、裏から灼くように照らした。それから――階段を、昇っていった。
あの新月の夜、この祭壇から、夜が昇っていった道だった。同じ道を、今、白が昇っていく。
地上へ。
見えなくても、わかった。今ごろ、王都の真夜中の空が、白んでいる。
足もとで、影が、消えた。
レオニスの影も。ガルドの影も。立ちつくす騎士たちの影も。柱の影も。どこにも、なかった。
女神の胸で、守り火が、縮んでいった。
細く、細く――燠のように、赤く、小さく。
胸の底で、何かが、応えた。
――そうだ。
白だった。
――全部、消してしまえ。
レオニスは、胸を押さえた。指の隙間から、白い光が漏れる。
聖女の背から、白が、立ち上がっていた。
膨れ上がり、うねり、形を取っていく。柱の頂を越えて。白い布を被った女神像の、肩に届くほどに。
――家よりでかい、四つ足の獣みてえな、背中を丸めた巨人みてえな……
面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声がよみがえった。
――顔の、ねえやつだ。口だけが、笑ってた。
白いものの頭には、顔がなかった。
あの新月の夜、この神殿で、自分の背後に立ち上がったのと、同じ白だった。
剣を失った騎士たちが、ひとり、またひとりと、膝をついていく。司教が、両手を組んで、震える声で何か唱えていた。
隣で、ガルドが、低く呻いた。
「……あれだ」
鋼色の目が、見開かれていた。
「雪ん中の……でけえ、白いの」
祭壇の傍らで、シエルが、小さく呼んだ。
「……おねえちゃん?」
聖女は、答えなかった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
その顔から、目が、鼻が、白に溶けていくところだった。祭壇についたままの白い手が、光の中で、淡く透けはじめている。
口もとだけが、残っていた。
穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。
二十五年前、北の村で。
ヘルミの父親がなったものと、同じ顔で。




