第五章 手のひらの夜
満月が、昇った。
伯爵家の二階の客間には、灯りがひとつもともっていなかった。それでも、部屋は明るかった。窓から差しこむ青白い光が、床の上に、窓枠の形をくっきりと落としている。
ガルドは、寝台の端に腰かけて、膝の上の石板を眺めていた。
扉の開く音に、顔を上げる。
「よう、字の先生」
白墨を、太い指の先で転がしてみせた。
「約束だろ。今日は、何の字だ?」
――明日、決める。
ゆうべ、そう答えた。
決めてきた。
レオニスは、後ろ手に扉を閉めた。
閉める前に、廊下のエルナと目が合った。燭台を手に、子供たちの肩を抱いている。――兄さんが、自分で扉を開けるまで、ここで待っています。さっき、そう言った。
部屋の隅の壁際には、ミレイアが立っている。昼のうちに、頼んでおいたのだ。見ててくれ、と。――俺が、押しつけねえように。
レオニスは、ガルドの前に、しゃがみこんだ。
目の高さが、揃う。
「字は、なしだ」
ガルドが、白墨を転がす指を止めた。
「なんだ、そりゃ」
レオニスは、小さく息を吸った。
「……ちょっと、暗くしていいか」
鋼色の目が、細くなった。
「なんで」
レオニスは、その目を、まっすぐに見た。
「あんたが見てえもんが、見えるかもしれねえ」
窓の外で、満月が、しんと照っている。
「……見るかどうかは、あんたが決めろ」
ガルドは、長いこと黙っていた。
鋼色の目が、膝の上の石板に落ちる。太い指が、白墨の跡をなぞった。一度。二度。
――エルナ。
「……この字の奴のことが、知りてえ」
ぽつりと、ガルドは言った。
「俺が最初に覚えた字なんだろ。なのに、誰の顔も、浮かばねえんだ」
レオニスは、頷いた。
右の手のひらを、上に向ける。
「我、欲す」
囁くように、言った。
「――今夜、あんたが、自分の星を見られることを」
手のひらの上が、ふっと暗くなった。
屋根の上で生んだのと、同じ暗さだった。水をすくうように丸めた手のひらに、深く、やわらかな夜が溜まっていく。
溜まって――あふれた。
指のあいだから、夜がこぼれる。床へ。壁へ。寝台の脚を伝い、梁の影を呑んで、音もなく、部屋じゅうに満ちていく。
床の上の、窓枠の形をした月明かりが、薄れて消えた。
窓の外では、満月が、変わらずに照っていた。その光が、硝子のところで止まっている。硝子一枚向こうは、青白い冬の夜。こちら側は、まぶたを閉じたときのような、深い暗さ。
ひと部屋ぶんの、夜だった。
腹の底を、ぎゅっと絞られた気がした。膝が、かすかに笑う。手のひらひとつぶんとは、わけが違った。
それでも、手のひらは、下ろさなかった。
暗がりの中に、光が灯りはじめていた。
自分の胸もとに、針の先ほどの白い星。
壁際のミレイアの胸にも、小さな光が、ひとつ。
そのミレイアが、胸もとの聖印を、服の上から握りしめていた。暗がりの中で、目を見開いている。
「……冷たい」
かすれた囁きが、聞こえた。
レオニスは、ガルドを見た。
大きな体の胸もとに、白いものが、薄く積もっていた。
雪のようだった。音もなく降り積もって、何もかもを平らに覆ってしまう、あの白。
その下で、小さな光が、瞬いていた。
茜色だった。
ガルドが、胸もとを見下ろしていた。
レオニスは、何も言わなかった。
ただ、待った。
◆
胸の上に、雪が積もっていた。
白い、薄い雪だった。いつから積もっていたのか、わからない。冷たくはなかった。むしろ、あたたかかった。
その下で、何かが瞬いていた。
茜色の、小さな光だった。
――どこかで、見た色だ。
ガルドは、左の手首に目をやった。
色褪せたリボンが、暗がりの中で、かすかに揺れていた。
同じ色だった。
――なんで、こんなもん、巻いてんだろうな。
あの朝から、何度もそう思った。解こうとするたびに、指が止まった。
膝の上の石板に、手を置く。暗くて、字は見えない。けれど、指が、なぞり方を覚えていた。
――エルナ。
――見るかどうかは、あんたが決めろ。
ガルドは、大きく息を吸った。
「……見る」
胸の上の雪が、ほろほろと崩れた。
崩れて、ほどけて――
冷たかった。
ひどく、冷たかった。
井戸の底の水が、冷たさを取り戻していく。
――ガルドにいちゃん!
遠ざかっていく、蹄の音。
上で、何度も、何度も、兄を呼んでいた声。出ていけなかった。怖くて、声も出せなかった。
それから、二十年。
伯爵の屋敷の、血の匂い。黒狼と呼ばれるようになった日々。街道で止めた馬車の中の、色褪せたリボン。奪って、奪って、奪いつづけた。
新月の夜。地の底の神殿。
凍える井戸の底へ、縄を伝って降りてきた、欲張りの闇司祭。
――掴むかどうかは、お前が選べ。
黒い雪の中で、背中にしがみついてきた細い腕。
――……大きく、なったな。
あの夜は、たったそれだけしか、言えなかった。
思い出したのは、それだけではなかった。
白い雪の下で過ごした日々も、ひとつ残らず、そこにあった。
階段を駆け下りてきた女に、頭を下げた。――どちらさまで?
宙で止まった、細い両手。泣きたいのをこらえて、笑っていた顔。――おかえりなさい、兄さん。
――泣き虫でね。いつも、兄さんの後ろばかり、くっついて歩いてたの。
へえ、と俺は言ったのだ。そいつは、知らなかったな、と。笑って。
パン屋で、前掛けを握りしめていた、小さな拳。――ずるいよ。忘れたら、ずるいよ。
手首のリボンを見て、なんで巻いてんだろうな、と訊いた。あいつは、答えられなかった。
――おふくろが、市で買ってきたんだ。
エルナと、揃いで。男にこんなもん巻かせるな、とふてくされて――それでも、巻いた。
――最初は、これだろ。
牢の格子越しに、あの欲張りが書いてよこした字。
なんで最初に、この字を覚えたのか。
決まってる。
ガルドは、両手で顔を覆った。
大きな肩が、震えた。
声は、殺さなかった。
部屋は暗くて、誰の顔も、見えなかった。
どれくらい、そうしていたのか。
ガルドは、立ち上がった。
暗がりを横切って、扉の前に立つ。取っ手に手をかけて、一度だけ、深く息を吐いた。
扉を、開けた。
廊下の燭台の明かりが、目に沁みた。
エルナが、立っていた。
燭台を胸の前で握りしめて。子供たちの肩を抱いて。
兄の顔を見上げて、その唇が、震えた。
ガルドの喉から、声がこぼれた。
「……エルナ」
燭台の火が、大きく揺れた。
エルナの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
転ぶたびに、置いていかれるたびに、泣いていた顔だった。
ガルドは、妹を抱き寄せた。
傾いた燭台を、男の子が、あわてて両手で受け止めた。
腕の中で、エルナが、声を上げて泣いていた。
シャツの裾を、小さな手が引っぱった。
女の子が、ガルドを見上げていた。
「おじさま、おもいだした?」
ガルドは、妹の肩越しに、小さな顔を見下ろした。
「……ああ」
声が、かすれた。
「お前の、母ちゃんの、兄ちゃんだ」
女の子が、にぱっと笑った。
燭台を抱えた男の子が、おずおずと訊いた。
「……じゃあ、ほんと? おかあさまが、ちいさいとき、ないてばっかりだったって」
ガルドは、腕の中の妹を見下ろした。
鼻をすすって、笑った。
「ほんとだよ。……今も、な」
エルナが、兄の胸を、拳でどんと叩いた。泣きながら、笑っていた。
背中で、レオニスが、ぼそりと言った。
「……見ねえから」
振り返ると、暗い部屋の奥で、レオニスがこちらに背を向けて、床に座りこんでいた。
その腹の虫が、盛大に鳴いた。
ガルドは、噴き出した。
「……締まらねえな、欲張り」
◆
夜が明けるころ、ガルドは、牢へ向かった。
西の空に、白っぽくなった満月が、沈みかけていた。
伯爵家の門の前で、エルナが、左の手首のリボンを、きつく結び直してくれた。止めは、しなかった。ルカーシュも、黙って頷いただけだった。
隣を、レオニスが歩いていた。伯爵家の厨房からもらってきた丸パンを、歩きながら、次々と口に放りこんでいる。ゆうべ、厨房のパンをひと籠、ひとりで平らげたくせに。
牢の門の前で、牢番が、欠伸の途中で固まった。
「こ、黒狼……?」
ガルドは、片手を上げた。
「よう。戻ったぜ。開けてくれ」
牢番が、目を白黒させた。
「も、戻ったって……あんたは、恩赦で――」
ガルドは、左の手首のリボンに、指をやった。
「恩赦ってのは、浄化された奴にやるもんだろ。俺は、もう浄化されてねえ」
牢番は、口をぱくぱくさせた。ガルドの顔と、パンを頬張るレオニスの顔とを、何度も見比べる。
「……出てった囚人が、自分で戻ってくるなんて、聞いたこともねえぞ」
ガルドは、肩をすくめた。
「じゃあ、俺が最初だ」
牢番の声が、裏返った。
「そういう話じゃ――」
頭を抱えかけた牢番の目を、ガルドは、まっすぐに見た。
「裁かれてやるって、決めたんだよ」
牢番の口が、止まった。
ガルドは、少しだけ声を落とした。
「……俺が、選んだ」
隣で、レオニスが、パンを噛むのをやめた。
牢番は、しばらく鍵束を握りしめていた。それから、がっくりと肩を落として、門の錠前に鍵を差しこんだ。
「……あんたの房、空いたまんまだよ。誰も入れてねえ」
石の廊下のいちばん奥まで、松明の明かりが続いていた。
向かいの房で、大きな影が、ゆっくりと身を起こした。
剃り上げた頭。空っぽの右の袖。
――あの右腕を奪ったのは、俺だ。
ガルドは、足を止めた。
「……ボルグ」
大きな体が、びくりと揺れた。
ボルグは、格子に顔を寄せて、ガルドの顔を、まじまじと見た。
「……頭」
低い、かすれた声だった。
ガルドは、首の後ろを掻いた。
「悪かったな。おっさん、なんて呼んで」
ボルグの口の端が、わずかに歪んだ。笑おうとして、うまく笑えなかった顔だった。
「……おっさんで、合ってるさ」
ガルドは、鼻を鳴らして、房に入った。
壁の絵は、そのままだった。大きな黒い熊のようなもの。髪にリボンを結んだ女の人。手をつないだ、小さな人がふたり。
石の寝台に、石板を置く。
格子の外で、レオニスが、最後のパンを呑みこんだ。
ガルドは、その顔を見て、口を開いた。
「パン屋の嬢ちゃんに――」
言いかけて、首を振る。
「いや。いい」
レオニスが、眉を上げた。
「何だよ」
ガルドは、壁の絵に目をやった。
「何を謝りゃいいのか、今は、わかってる。……自分で言う」
レオニスは、少し黙っていた。
「来るかどうかは、あいつが決めるぞ」
ガルドは、寝台に腰を下ろした。
「わかってるよ」
松明の火が、ぱちりと爆ぜた。
しばらくして、ガルドは言った。
「……なあ、欲張り」
格子の向こうで、レオニスがこちらを見た。
ガルドは、石の床に目を落とした。
「あの女の中で、ガキが泣いてる」
レオニスの顔から、表情が消えた。
「あの女の手首を掴んだとき、見えたんだ。雪ん中でな。燃える村の、でけえ白いもんの足もとで、ちっこいのが両手を伸ばして、泣いてやがった」
白い雪の下にいたあいだは、思い出しもしなかった。
今は、胸の底に、重たく沈んでいる。
「……井戸の底の俺と、同じ顔だった」
レオニスは、格子を握りしめたまま、何も言わなかった。
ガルドは、膝に肘をついて、格子の向こうを見上げた。
「借りは、返す」
「……貸した覚えは、ねえよ」
「俺が、借りたって決めたんだ」
レオニスは、長いこと、こちらを見ていた。
それから、背を向けて、片手だけを上げた。
◆
白い礼拝堂の扉は、今日も開け放たれていた。
ミレイアは、扉の内側の、柱の陰に立っていた。女ひとり、列にも並ばず、祈りもせずに立っているのを、誰も咎めなかった。
ガルドが、みずから牢へ戻った日の昼だった。
列は、あの日よりも、さらに長くなっていた。ミレイア自身が列に並んで、聖女の前に立った、あの日よりも。
身廊の奥で、白い光が灯り、消え、また灯る。そのたびに、胸もとの聖印が、火にかざした銅貨のように熱を持った。
――ゆうべは、冷たかった。
満月の夜の、あの部屋で。レオニスが生んだ、ひと部屋ぶんの夜の中で。白い雪に胸を覆われた人が、すぐそばにいたのに。
あの新月の夜と、同じだった。
――夜の中では、白は、誰の心も縛れない。
今は、そう思う。
騎士団長が、身廊の脇から、聖女のもとへ歩み寄った。白い髭の口もとが、聖女の耳もとで、何かを告げる。
聖女の手が、止まった。
進み出た老婆の手を、白い両手で包んだまま。
「……どうして」
小さな声だった。けれど、静まり返った身廊には、よく通った。
「どうして……? あの方は、あんなに穏やかに、笑って……」
そこで、声が途切れた。
ガルドのことだ、とミレイアにはわかった。
淡い金色の瞳が、宙をさまよった。続く言葉を、探している。探して、探して――見つからないようだった。
この人が言葉を失うのを、ミレイアは、初めて見た。
礼拝堂でも、神殿の地の底でも、パン屋の卓でも、この人は、迷うということがなかった。その白い手が今、老婆の手を包んだまま、止まっている。
ほんの、ひと呼吸のあいだのことだった。
聖女は、目の前の老婆に、微笑みを向け直した。
「……ごめんなさい。お待たせしましたね」
白い光が、灯った。
胸もとの聖印が、また、熱を持った。
礼拝堂の脇の小さな扉を出たところで、袖を引かれた。
赤い髪を、うなじで短く束ねた娘だった。宿舎の中庭に沿った小径の角に、ひとりで立っている。見張りの当番なのだろう。
「……あんた、しばらく、この辺に来ないほうがいい」
赤毛の同期は、中庭のほうを向いたまま、低い声で言った。
「上が、決めたって。闇司祭を、捕らえるって。黒い聖印の、あの寝癖の」
ミレイアは、息を止めた。
「……罪状は」
「闇司祭であること。それだけ」
――闇司祭は、闇司祭だ。何をしたかではない。何であるかが、罪なのだ。
あの日、騎士団長の執務室で聞いた言葉だった。
「聖女さまは、反対したらしいよ。あの方も、救うべき方です、って。……司教さまに、押し切られたって」
赤毛の同期は、少しだけ声を落とした。
「今は、まだ表立っては動かないみたい。冬至の前に、騒ぎは起こしたくないんだって。……でも、何かあったら、すぐだよ」
それだけ言うと、くるりと背を向けた。
「今日は、誰にも会ってないから」
◆
その晩、パン屋に戻ってから、レオニスが、ガルドのことをユナに話した。牢へ戻ったこと。何もかも、思い出したこと。
ユナは、生地を捏ねる手を止めなかった。
「……思い出したの?」
レオニスが、頷いた。
「ああ。全部な」
ユナの手が、一瞬だけ止まった。
「……ふうん」
それきりだった。
けれど、夜更けにミレイアが水を飲みに降りていくと、焼き場に明かりがついていた。
ユナが、竈の前にしゃがみこんで、丸パンをひとつだけ焼いていた。何度も、何度も、火加減を確かめながら。
焦がさないように、しているのだと思った。
冬至まで九日の朝、広場の掲示板に、新しい布告が貼り出された。
――夜は窓を閉ざし、灯を絶やすな。
――泣いている者を見かけたら、聖女さまのもとへ。
その夜から、王都の窓という窓に、白い灯がともった。
大聖堂が配った、白い蝋燭だった。どういうわけか、火まで白い。夜通し燃えて、朝になっても、ほとんど減っていない。
夜空が、白っぽく濁った。
星が、ひとつも見えなくなった。
昼の通りでは、白い礼拝堂へ向かう人々のなかに、手を引かれていく人が混じるようになった。泣き腫らした目の男の手を、見知らぬ女が引いている。穏やかに、どこまでも優しく、微笑みながら。
――もう、泣かなくていいのよ。
泣いている人は、ひとり、またひとりと、通りから消えていった。
焚き火の夜に、レオニスが話してくれたことがある。
――何もかも真っ白でさ。……いつも、笑い声でいっぱいだった。
陽だまりの家のことだった。
この都が、陽だまりの家になっていく。
胸の聖印は、一日じゅう、ぬるいままだった。
夜更けに屋根裏の梯子の下から見上げると、天窓が開いていた。屋根の上で、レオニスが、白く濁った空を見上げていた。星は、ひとつも見えないのに。
パン屋の親父は、配られた白い蝋燭を、窓際に置かなかった。
それどころか、日が暮れると、わざわざ店の窓を開け放った。
「窓を閉めろだの、灯を絶やすなだの」
ふん、と鼻を鳴らす。
「こちとら、夜明け前から竈に火を入れてんだ。夜は、寝るもんだろうが」
ユナが、開いた窓の前に立って、白っぽい夜空を見上げた。
「うちの窓は、閉めないよ」
誰に言うでもなく、そう言った。
その暗い窓を目当てにするように、夜になると、裏口を叩く者が現れはじめた。
浄化を断った人たちだった。息子を亡くした鍛冶屋。焼け出された老夫婦。泣いているところを見とがめられて、聖女さまのもとへ連れていかれそうになった娘。
親父は、何も訊かずに、卓の上に黒パンを積んだ。
川沿いの通りで、夜に灯りのない窓は、この店だけになった。
◆
冬至まで七日の昼下がり、レオニスが、墓地へ行くと言った。
あの男の子が、このところ毎日、ひとりで父親の墓の前にいる。焼き栗の屋台の老婆から、そう聞いたのだという。
坂の上の墓地には、冷たい風が吹いていた。
真新しい木の墓標の前に、小さな背中があった。
ひとりでは、なかった。
白い外套の騎士が、三人。それから、前掛けをつけた女がひとり、男の子の肩に手を置いている。
女は、やさしく声をかけた。
「さあ、行きましょうね。毎日、ここで泣いているんでしょう。かわいそうに。聖女さまに、お願いしましょうね。もう、泣かなくていいように」
男の子は、墓標にしがみついていた。刻まれた名前に、小さな指が食いこんでいる。
「……やだ」
女が、困ったように眉を下げた。
「坊や」
男の子は、首を振った。
「やだ。……とうちゃんのこと、わすれたくない」
ミレイアの足が、止まった。
――悲しみを、取っていただきましょうね。
十歳で神殿に引き取られたとき、そう言われた。首を振った。泣くかわりに、剣を握った。
騎士のひとりが、男の子の指を、墓標から一本ずつ剥がしはじめた。
黒い外套が、ミレイアの脇をすり抜けていった。
レオニスだった。肩の鉄剣を、下ろしている。
「――おい」
騎士たちが振り返るより早く、刃のない鉄剣の腹が、ひとり目の脛を払った。ふたり目が剣の柄に手をかけたときには、その手首を打っていた。三人目の抜き打ちを身を沈めてかわし、背中を柄頭で、とん、と押す。
白い外套が三つ、凍てた土の上に転がった。
気づけば、ミレイアは、男の子の前に立っていた。
剣は、抜いていない。柄に手をかけたまま、前掛けの女と騎士たちのあいだに立っていた。
前掛けの女は、目を丸くして、転がった騎士たちを見下ろしていた。
「まあ……」
怯えたふうは、なかった。ただ、不思議そうだった。
騎士のひとりが、土にまみれて身を起こした。レオニスの襟もとに目をやって、息を呑む。
外套の襟からこぼれた、黒鉄のランタンの聖印。
「……闇司祭」
レオニスは、鉄剣を肩に担ぎ直した。
「泣くのも、そいつのもんだ」
騎士たちは、顔を見合わせた。それから、転がった剣を拾い集めて、坂を駆け下りていった。
前掛けの女は、しばらく、男の子とレオニスを見比べていた。やがて、困ったように微笑んで、騎士たちのあとを追っていった。
男の子は、墓標にしがみついたまま、泣いていた。
泣きはらした目が、レオニスを見上げた。
「……にいちゃん」
レオニスが、その隣の地面に、腰を下ろした。
ミレイアも、男の子を挟んだ反対側に座った。あの日と、同じように。
冬の日が、墓標の影を、長く伸ばしていった。
その夜のうちに、広場の掲示板に、手配書が貼り出された。
――闇司祭レオニス。黒き聖印を帯びる者なり。見つけし者は、神殿騎士団へ届け出よ。
――寝癖のある黒髪。琥珀色の目。黒い外套。
一枚剥がしてきた親父が、食堂の卓に叩きつけた。
「兄ちゃん。あんた、お尋ね者だぞ」
レオニスは、手配書を覗きこんだ。
「……寝癖、って書いてあるな」
「書いてありますね」
夜明け前に、ふたりは、パン屋を出た。
ここにいれば、騎士団は、この店に踏みこんでくる。夜ごと裏口を叩く人たちの、暗い窓ごと。
親父は、何も言わずに、丸パンの包みをふたつ押しつけてきた。ユナは戸口に立って、唇を噛んでいた。
「……また、来てよ」
伯爵家の門を叩いたのは、まだ暗いうちだった。
ルカーシュは、部屋着に外套を羽織った姿で、自ら門を開けた。事情を聞き終える前に、ひとつ頷いた。
「かまわない」
穏やかな声だった。
「この家は、昔から、教会に好かれていないので」
貴族の屋敷の門の内には、神殿騎士団も、王の許しなしには踏みこめない。見習いのころ、そう教わった。
客間に通されてから、ミレイアは、罪状帳を開いた。
――冬至まで七日:お尋ね者になる。
少し迷って、書き足した。
――人相書き、「寝癖」。正確。
◆
騎士団長が伯爵家の門の前に立ったのは、冬至まで五日の朝だった。
白い外套の騎士たちを、通りの角に残して、ひとりで。
門を開けろとは、言わなかったという。セレスを呼んでほしい、とだけ。
ミレイアは、鉄の門を挟んで、騎士団長と向かい合った。
九年、見上げてきた顔だった。白い髭。岩を削ったような顎。灰色の目。
「闇司祭を、差し出せ」
低い声だった。
「そうすれば、お前のことは、不問にする」
「お断りします」
灰色の目が、わずかに細くなった。
ミレイアは、門の格子越しに、その胸もとを見た。白銀の太陽の聖印が、冬の朝の光を弾いている。
白い礼拝堂で、老人が浄化された瞬間――まばたきひとつのあいだだけ、この人の手が触れた聖印だった。
「団長。ひとつ、お訊きしてもよろしいですか」
「……何だ」
「あなたの聖印は、あの方の浄化のとき、冷たいですか」
騎士団長は、答えなかった。
長い沈黙だった。通りの角で、騎士たちの馬が、白い息を吐いている。
「……熱い」
ようやく、騎士団長は言った。
「二十五年、ずっとだ」
灰色の目が、ミレイアを通り越して、どこか遠くを見ていた。
「二十五年前の冬、北の山奥の、異端の村を浄めに行った。そこで、白い光を見た」
低い声が、かすかにかすれた。
「谷じゅうが、真っ白になった。膝が、ひとりでに折れた。――神の光だった」
「光の中に、娘がひとり、座りこんでいた。笑っていた」
「この子は、光に選ばれた子だ。……そう言って、私が、この腕で抱いて連れ帰った」
ミレイアの背筋を、冷たいものが走った。
――それから、若いのがひとり、笑ってるあの子を抱き上げて、連れていった。この子は光に選ばれた子だ、とか言ってな。
面会室で、ボルグが語った言葉だった。
あの若い騎士は――この人だったのだ。
そして、その娘は。
――あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ。
「聖印が熱いのは、神の光に触れているからだ」
騎士団長の声が、硬くなった。
「聖印ごときに、神の光は裁けぬ」
ミレイアは、胸もとの聖印を、服の上から握った。
「私は、自分の目で見たものを信じます」
声は、震えなかった。
「私の聖印も、あの方の祈りのたびに熱くなります。……けれど、夜の中では、冷たいのです」
騎士団長の眉が、ぴくりと動いた。
灰色の目が、揺れた。――あの日、執務室で、大聖堂の地下に神殿などないと言ったときと、同じように。
「……冬至の夜」
騎士団長は、踵を返しながら、言った。
「大聖堂に近づけば、斬る」
ミレイアは、門の格子を握りしめた。
「私は、斬りません」
白い外套の背中が、止まった。
「――止めます」
騎士団長は、振り返らなかった。
そのまま、通りの角で待つ騎士たちのほうへ、歩いていった。
◆
鍋は、ひと晩、寝かせてあった。
ゆうべ、レオニスが、伯爵家の料理番に頼んで厨房の隅を借り、仕込んだシチューだった。黒麦酒で煮込んだ干し肉と根菜。真っ黒になるまで焦がした玉ねぎ。
仕上げのひと匙の蜂蜜を垂らそうとして、手が止まった。
――誰のための、ひと匙だったのか。
面会室の扉ごしにボルグの話を聞いてから、ずっと、喉の奥に引っかかっていた。
結局、垂らした。師匠のシチューには、欠かさず、そうしてあったから。
聖女が伯爵家を訪ねてきたのは、騎士団長が門の前に立った、その翌日の昼下がりだった。
連れているのは、シエルだけだった。騎士団長は、門の外の馬車のそばに残ったという。
ルカーシュは、聖女を食堂へ通すと、黙って席を外した。エルナは、最後まで顔を見せなかった。
レオニスは、卓を挟んで、聖女と向かい合った。ミレイアは、座らなかった。戸口の脇に、立ったままでいた。
聖女は、卓の向こうで、いつものようにやわらかく口を開いた。
「レオニスさんが、こちらにいらっしゃると、ゴドフロワから聞きました」
白い手が、膝の上で重なる。
「ガルドさんが、みずから牢へ戻られたそうですね。……何が、あの方を変えたのでしょう。それが知りたくて、参りました」
――答えが見つかったら、教えてくださいね。
パン屋で、この人は、そう言った。
レオニスは、少し黙っていた。
「……暗くしただけだ」
聖女が、小さく繰り返した。
「暗く……?」
レオニスは、頷いた。
「あいつが、自分の星を見るかどうか。決めたのは、あいつだ」
聖女は、まばたきをした。
「星、ですか」
不思議そうな声だった。責める色も、疑う色もない。ただ、わからない、という声だった。
聖女の隣で、シエルが、じっとこちらを見ていた。
レオニスは、立ち上がった。
「……腹、減ってねえか。シチューがある。ひと晩、寝かせたやつだ」
厨房から、温め直した鍋を運んでくる。
椀によそって、聖女とシエルの前に置く。自分の分も、よそった。湯気が、ふわりと立ちのぼる。黒麦酒と、焦がし玉ねぎと、ほんのかすかな蜂蜜の匂い。
聖女は、礼を言って、匙を取った。
ひと口、すすった。
その手が、止まった。
淡い金色の瞳から、涙が、ひと粒こぼれた。
白い頬を伝って、椀のふちに落ちる。
「あら……」
聖女は、不思議そうに、指先で頬に触れた。
「どうして、かしら」
隣で、シエルが、匙をくわえたまま目を丸くしていた。
聖女は、しばらく、椀から立ちのぼる湯気を見つめていた。
「……湯気を見ていたら、思い出しました」
ひとり言のような声だった。
「十年前の、冬でした。陽だまりの家の門に、お鍋を抱えたおじいさんが、いらしたことがあるのです」
指先が、冷たくなった。
「パイプをくわえた、痩せた方でした。お鍋からは、こんなふうに、湯気が立っていて」
聖女は、少しだけ目を細めた。
「私を見て、知らないお名前で、お呼びになったのです。――ヘルミ、と」
食堂の空気が、止まった気がした。
戸口の脇で、ミレイアが、小さく息を呑んだ。
聖女は、静かに続けた。
「どなたのことでしょう、とお訊きしても、何もおっしゃらなくて。司祭さまたちに追い払われるまで、ずっと、黙って、私を見ていらっしゃいました」
聖女は、小さく首を振って、微笑んだ。
「おかしなことを、覚えているものですね」
――雪の、路地裏だった。
飢えて、凍えて、もう指一本、動かせなかった。隣では、もっと小さな子が、同じようにうずくまっていた。
湯気の向こうから、椀が差し出された。
――こいつが先。俺は、あとでいい。
ひび割れた唇で、そう言ったのを覚えている。椀を、隣の子の前に置いたのを。
それから、パイプをくわえた痩せた爺さんが、舌打ちをして――湯気の立つ鍋ごと、路地裏へ運んできたのを。
あの晩、なぜ、あの爺さんは、鍋なんか抱えて雪の夜道を歩いていたのか。
一度も、訊いたことがなかった。
――帰ってくるたびに、麓の町で蜂蜜を買ってきてな。ヘルミ嬢ちゃんのシチューに垂らす分だ、って。
面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声。
あの鍋は。
あのひと匙は――
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
――それは、あんたの名前だ。
言葉が、喉まで来た。全部、来た。
言えば、この人は、知らされてしまう。見ると決めるより、先に。
レオニスは、椀に目を落とした。
「……その爺さん」
声が、かすれた。
「シチュー作るの、うまかったんだぜ」
聖女が、顔を上げた。
淡い金色の瞳が、不思議そうに、こちらを見た。
「……そうですか」
それだけ言って、聖女は、また匙を取った。
ゆっくりと、最後のひと口まで、食べた。
そのあいだに、二度、指先で頬を拭った。
帰りぎわ、聖女は、戸口で深く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
それから、頬に、もう一度そっと触れた。
「……不思議ですね。どうして、涙が出たのかしら」
答えを待たずに、白い衣は、廊下の向こうへ遠ざかっていった。シエルが、ぱたぱたとその後ろをついていく。
食堂には、湯気の消えかけた鍋と、レオニスと、ミレイアが残った。
「……師匠は」
ぽつりと、声が出た。
「あの人を、迎えに来たんだ。……迎えに来て、追い返されて」
鍋の中で、冷めかけたシチューが、とろりと光っていた。
「代わりに、俺を拾ったんだ」
ミレイアは、しばらく黙っていた。
それから、鍋の前に立って、レオニスの椀に、残りのシチューをよそった。
目の前に、ことりと置く。
「……代わりなんかじゃ、ありません」
静かな声だった。
「冷めますよ」
廊下を、軽い足音が駆け戻ってきた。
シエルだった。亜麻色の髪を揺らして、息を弾ませて、食堂の戸口に立っている。
「……おねえちゃんが、ばしゃで、まってる」
それから、少しだけ、声を落とした。
「おねえちゃん、よる、ねむれないの」
レオニスは、匙を置いた。
シエルが、ぽつりと続けた。
「しろい、ゆきの、ゆめを、みるんだって」
とことこと卓のそばまで来て、座っているレオニスを見下ろす。
「さっき、ほし、って、いった」
レオニスは、頷いた。
「……ああ」
「わたしの、ほし、どこ?」
レオニスは、長いこと、シエルの顔を見ていた。
十二年前、白い部屋で、毎晩泣いていた顔。泣かなくなって、笑うだけになった顔。
――思い出してほしい。
胸の底で、でかい欲が、身じろぎした。
レオニスは、それを、黙って胸にしまったまま――右の手のひらを、上に向けた。
「我、欲す」
囁くように、言った。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
手のひらの上が、ふっと暗くなった。窓から差しこむ夕暮れの光が、そこだけ、届かなかった。
丸めた手のひらを、シエルの胸の前に、そっと差し出す。
小さな暗さの中に、光が、ひとつ映っていた。
白いものに、薄く覆われている。雪のような。
その下で、淡い空色が、瞬いていた。
シエルは、息を止めて、それを見つめた。
「……これが、わたしの?」
「ああ」
「しろいの、かかってる」
「その下を見たら、忘れてたもんを、思い出す。……たぶん、全部な」
レオニスは、手のひらを差し出したまま、言った。
「泣くかもしれねえ」
シエルは、黙っていた。
「見るかどうかは、お前が決めろ」
長い、長い沈黙だった。
淡い空色が、小さな夜の底で、瞬いていた。
シエルは、それから目を離さないまま――ゆっくりと、首を振った。
「……こわい」
小さな声だった。
「みたら、おねえちゃんが、かなしむ気がする」
レオニスは、手を閉じた。
手のひらの中で、小さな夜が、ほどけて消えた。
「そっか」
それだけ、言った。
シエルは、少しのあいだ、閉じた手を見ていた。それから、くるりと背を向けて、廊下へ駆けていった。
足音が、遠ざかっていく。
――見るかどうかは、お前が決めろ。
いちばん、言いたくない相手だった。
言えた。
レオニスは、閉じた手を、膝の上に置いた。
隣の椅子に、ミレイアが、黙って腰を下ろした。
◆
このところ、同じ夢を見る。
白い雪が、降っている。あたたかいのに、溶けない雪。音もなく降り積もって、何もかもを白く覆っていく。
その向こうに、何か大きな、白いものがいる。
――そこで、いつも目が覚める。
目が覚めると、胸の奥が、しんと冷えている。何かを、どこかに置いてきたような気がして、窓の外が白むまで、眠れない。
冬至まで三日の朝も、そうだった。
大聖堂の奥の間で、司教が、肥えた体をかがめるようにして、一枚の羊皮紙を差し出した。
「冬至の夜の、祈りの文でございます」
金糸の法衣の胸で、白銀の太陽が揺れていた。額には、冬の朝だというのに、今朝も汗が浮いている。
「当日まで、お手もとに」
聖女は、羊皮紙を受け取った。
古い字が、並んでいた。
一行目で、目が止まった。
――我、欲す。
「……これは、闇司祭の言葉では?」
司教は、手巾で額を拭った。
「古い、祈りの形です」
それ以上は、何も言わなかった。
聖女は、羊皮紙を胸に抱いて、窓の外に目をやった。
黒狼と呼ばれていたあの方は、みずから牢へ戻られたという。あんなに穏やかに、笑っていらしたのに。
伯爵家でいただいたシチューは、ひと口で、涙がこぼれた。どうしてなのか、今も、わからない。
――その爺さん、シチュー作るの、うまかったんだぜ。
レオニスさんは、なぜ、あんなことをおっしゃったのだろう。
帰りの馬車で、シエルは、ひとことも口をきかなかった。窓の外の空ばかり、見上げていた。
窓の外は、冬の朝の光に満ちていた。
白い雪は、どこにも降っていない。
それでも聖女は、あの夢から覚めた朝のように、長いこと、窓の外から目を離せずにいた。
胸に抱いた羊皮紙の、いちばん上の一行を、指先で押さえたまま。




