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光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


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第五章 手のひらの夜

 満月が、昇った。


 伯爵家の二階の客間には、灯りがひとつもともっていなかった。それでも、部屋は明るかった。窓から差しこむ青白い光が、床の上に、窓枠の形をくっきりと落としている。


 ガルドは、寝台の端に腰かけて、膝の上の石板を眺めていた。


 扉の開く音に、顔を上げる。


「よう、字の先生」


 白墨を、太い指の先で転がしてみせた。


「約束だろ。今日は、何の字だ?」


 ――明日、決める。


 ゆうべ、そう答えた。


 決めてきた。


 レオニスは、後ろ手に扉を閉めた。


 閉める前に、廊下のエルナと目が合った。燭台を手に、子供たちの肩を抱いている。――兄さんが、自分で扉を開けるまで、ここで待っています。さっき、そう言った。


 部屋の隅の壁際には、ミレイアが立っている。昼のうちに、頼んでおいたのだ。見ててくれ、と。――俺が、押しつけねえように。


 レオニスは、ガルドの前に、しゃがみこんだ。


 目の高さが、揃う。


「字は、なしだ」


 ガルドが、白墨を転がす指を止めた。


「なんだ、そりゃ」


 レオニスは、小さく息を吸った。


「……ちょっと、暗くしていいか」


 鋼色の目が、細くなった。


「なんで」


 レオニスは、その目を、まっすぐに見た。


「あんたが見てえもんが、見えるかもしれねえ」


 窓の外で、満月が、しんと照っている。


「……見るかどうかは、あんたが決めろ」


 ガルドは、長いこと黙っていた。


 鋼色の目が、膝の上の石板に落ちる。太い指が、白墨の跡をなぞった。一度。二度。


 ――エルナ。


「……この字の奴のことが、知りてえ」


 ぽつりと、ガルドは言った。


「俺が最初に覚えた字なんだろ。なのに、誰の顔も、浮かばねえんだ」


 レオニスは、頷いた。


 右の手のひらを、上に向ける。


「我、欲す」


 囁くように、言った。


「――今夜、あんたが、自分の星を見られることを」


 手のひらの上が、ふっと暗くなった。


 屋根の上で生んだのと、同じ暗さだった。水をすくうように丸めた手のひらに、深く、やわらかな夜が溜まっていく。


 溜まって――あふれた。


 指のあいだから、夜がこぼれる。床へ。壁へ。寝台の脚を伝い、梁(はり)の影を呑んで、音もなく、部屋じゅうに満ちていく。


 床の上の、窓枠の形をした月明かりが、薄れて消えた。


 窓の外では、満月が、変わらずに照っていた。その光が、硝子(ガラス)のところで止まっている。硝子一枚向こうは、青白い冬の夜。こちら側は、まぶたを閉じたときのような、深い暗さ。


 ひと部屋ぶんの、夜だった。


 腹の底を、ぎゅっと絞られた気がした。膝が、かすかに笑う。手のひらひとつぶんとは、わけが違った。


 それでも、手のひらは、下ろさなかった。


 暗がりの中に、光が灯りはじめていた。


 自分の胸もとに、針の先ほどの白い星。


 壁際のミレイアの胸にも、小さな光が、ひとつ。


 そのミレイアが、胸もとの聖印を、服の上から握りしめていた。暗がりの中で、目を見開いている。


「……冷たい」


 かすれた囁きが、聞こえた。


 レオニスは、ガルドを見た。


 大きな体の胸もとに、白いものが、薄く積もっていた。


 雪のようだった。音もなく降り積もって、何もかもを平らに覆ってしまう、あの白。


 その下で、小さな光が、瞬いていた。


 茜色だった。


 ガルドが、胸もとを見下ろしていた。


 レオニスは、何も言わなかった。


 ただ、待った。


◆


 胸の上に、雪が積もっていた。


 白い、薄い雪だった。いつから積もっていたのか、わからない。冷たくはなかった。むしろ、あたたかかった。


 その下で、何かが瞬いていた。


 茜色の、小さな光だった。


 ――どこかで、見た色だ。


 ガルドは、左の手首に目をやった。


 色褪せたリボンが、暗がりの中で、かすかに揺れていた。


 同じ色だった。


 ――なんで、こんなもん、巻いてんだろうな。


 あの朝から、何度もそう思った。解(ほど)こうとするたびに、指が止まった。


 膝の上の石板に、手を置く。暗くて、字は見えない。けれど、指が、なぞり方を覚えていた。


 ――エルナ。


 ――見るかどうかは、あんたが決めろ。


 ガルドは、大きく息を吸った。


「……見る」


 胸の上の雪が、ほろほろと崩れた。


 崩れて、ほどけて――


 冷たかった。


 ひどく、冷たかった。


 井戸の底の水が、冷たさを取り戻していく。


 ――ガルドにいちゃん!


 遠ざかっていく、蹄(ひづめ)の音。


 上で、何度も、何度も、兄を呼んでいた声。出ていけなかった。怖くて、声も出せなかった。


 それから、二十年。


 伯爵の屋敷の、血の匂い。黒狼と呼ばれるようになった日々。街道で止めた馬車の中の、色褪せたリボン。奪って、奪って、奪いつづけた。


 新月の夜。地の底の神殿。


 凍える井戸の底へ、縄を伝って降りてきた、欲張りの闇司祭。


 ――掴むかどうかは、お前が選べ。


 黒い雪の中で、背中にしがみついてきた細い腕。


 ――……大きく、なったな。


 あの夜は、たったそれだけしか、言えなかった。


 思い出したのは、それだけではなかった。


 白い雪の下で過ごした日々も、ひとつ残らず、そこにあった。


 階段を駆け下りてきた女に、頭を下げた。――どちらさまで?


 宙で止まった、細い両手。泣きたいのをこらえて、笑っていた顔。――おかえりなさい、兄さん。


 ――泣き虫でね。いつも、兄さんの後ろばかり、くっついて歩いてたの。


 へえ、と俺は言ったのだ。そいつは、知らなかったな、と。笑って。


 パン屋で、前掛けを握りしめていた、小さな拳。――ずるいよ。忘れたら、ずるいよ。


 手首のリボンを見て、なんで巻いてんだろうな、と訊いた。あいつは、答えられなかった。


 ――おふくろが、市(いち)で買ってきたんだ。


 エルナと、揃いで。男にこんなもん巻かせるな、とふてくされて――それでも、巻いた。


 ――最初は、これだろ。


 牢の格子越しに、あの欲張りが書いてよこした字。


 なんで最初に、この字を覚えたのか。


 決まってる。


 ガルドは、両手で顔を覆った。


 大きな肩が、震えた。


 声は、殺さなかった。


 部屋は暗くて、誰の顔も、見えなかった。


 どれくらい、そうしていたのか。


 ガルドは、立ち上がった。


 暗がりを横切って、扉の前に立つ。取っ手に手をかけて、一度だけ、深く息を吐いた。


 扉を、開けた。


 廊下の燭台の明かりが、目に沁(し)みた。


 エルナが、立っていた。


 燭台を胸の前で握りしめて。子供たちの肩を抱いて。


 兄の顔を見上げて、その唇が、震えた。


 ガルドの喉から、声がこぼれた。


「……エルナ」


 燭台の火が、大きく揺れた。


 エルナの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。


 転ぶたびに、置いていかれるたびに、泣いていた顔だった。


 ガルドは、妹を抱き寄せた。


 傾いた燭台を、男の子が、あわてて両手で受け止めた。


 腕の中で、エルナが、声を上げて泣いていた。


 シャツの裾を、小さな手が引っぱった。


 女の子が、ガルドを見上げていた。


「おじさま、おもいだした?」


 ガルドは、妹の肩越しに、小さな顔を見下ろした。


「……ああ」


 声が、かすれた。


「お前の、母ちゃんの、兄ちゃんだ」


 女の子が、にぱっと笑った。


 燭台を抱えた男の子が、おずおずと訊いた。


「……じゃあ、ほんと? おかあさまが、ちいさいとき、ないてばっかりだったって」


 ガルドは、腕の中の妹を見下ろした。


 鼻をすすって、笑った。


「ほんとだよ。……今も、な」


 エルナが、兄の胸を、拳でどんと叩いた。泣きながら、笑っていた。


 背中で、レオニスが、ぼそりと言った。


「……見ねえから」


 振り返ると、暗い部屋の奥で、レオニスがこちらに背を向けて、床に座りこんでいた。


 その腹の虫が、盛大に鳴いた。


 ガルドは、噴き出した。


「……締まらねえな、欲張り」


◆


 夜が明けるころ、ガルドは、牢へ向かった。


 西の空に、白っぽくなった満月が、沈みかけていた。


 伯爵家の門の前で、エルナが、左の手首のリボンを、きつく結び直してくれた。止めは、しなかった。ルカーシュも、黙って頷いただけだった。


 隣を、レオニスが歩いていた。伯爵家の厨房からもらってきた丸パンを、歩きながら、次々と口に放りこんでいる。ゆうべ、厨房のパンをひと籠、ひとりで平らげたくせに。


 牢の門の前で、牢番が、欠伸の途中で固まった。


「こ、黒狼……?」


 ガルドは、片手を上げた。


「よう。戻ったぜ。開けてくれ」


 牢番が、目を白黒させた。


「も、戻ったって……あんたは、恩赦で――」


 ガルドは、左の手首のリボンに、指をやった。


「恩赦ってのは、浄化された奴にやるもんだろ。俺は、もう浄化されてねえ」


 牢番は、口をぱくぱくさせた。ガルドの顔と、パンを頬張るレオニスの顔とを、何度も見比べる。


「……出てった囚人が、自分で戻ってくるなんて、聞いたこともねえぞ」


 ガルドは、肩をすくめた。


「じゃあ、俺が最初だ」


 牢番の声が、裏返った。


「そういう話じゃ――」


 頭を抱えかけた牢番の目を、ガルドは、まっすぐに見た。


「裁かれてやるって、決めたんだよ」


 牢番の口が、止まった。


 ガルドは、少しだけ声を落とした。


「……俺が、選んだ」


 隣で、レオニスが、パンを噛むのをやめた。


 牢番は、しばらく鍵束を握りしめていた。それから、がっくりと肩を落として、門の錠前に鍵を差しこんだ。


「……あんたの房、空いたまんまだよ。誰も入れてねえ」


 石の廊下のいちばん奥まで、松明(たいまつ)の明かりが続いていた。


 向かいの房で、大きな影が、ゆっくりと身を起こした。


 剃り上げた頭。空っぽの右の袖。


 ――あの右腕を奪ったのは、俺だ。


 ガルドは、足を止めた。


「……ボルグ」


 大きな体が、びくりと揺れた。


 ボルグは、格子に顔を寄せて、ガルドの顔を、まじまじと見た。


「……頭」


 低い、かすれた声だった。


 ガルドは、首の後ろを掻いた。


「悪かったな。おっさん、なんて呼んで」


 ボルグの口の端が、わずかに歪んだ。笑おうとして、うまく笑えなかった顔だった。


「……おっさんで、合ってるさ」


 ガルドは、鼻を鳴らして、房に入った。


 壁の絵は、そのままだった。大きな黒い熊のようなもの。髪にリボンを結んだ女の人。手をつないだ、小さな人がふたり。


 石の寝台に、石板を置く。


 格子の外で、レオニスが、最後のパンを呑みこんだ。


 ガルドは、その顔を見て、口を開いた。


「パン屋の嬢ちゃんに――」


 言いかけて、首を振る。


「いや。いい」


 レオニスが、眉を上げた。


「何だよ」


 ガルドは、壁の絵に目をやった。


「何を謝りゃいいのか、今は、わかってる。……自分で言う」


 レオニスは、少し黙っていた。


「来るかどうかは、あいつが決めるぞ」


 ガルドは、寝台に腰を下ろした。


「わかってるよ」


 松明の火が、ぱちりと爆ぜた。


 しばらくして、ガルドは言った。


「……なあ、欲張り」


 格子の向こうで、レオニスがこちらを見た。


 ガルドは、石の床に目を落とした。


「あの女の中で、ガキが泣いてる」


 レオニスの顔から、表情が消えた。


「あの女の手首を掴んだとき、見えたんだ。雪ん中でな。燃える村の、でけえ白いもんの足もとで、ちっこいのが両手を伸ばして、泣いてやがった」


 白い雪の下にいたあいだは、思い出しもしなかった。


 今は、胸の底に、重たく沈んでいる。


「……井戸の底の俺と、同じ顔だった」


 レオニスは、格子を握りしめたまま、何も言わなかった。


 ガルドは、膝に肘をついて、格子の向こうを見上げた。


「借りは、返す」


「……貸した覚えは、ねえよ」


「俺が、借りたって決めたんだ」


 レオニスは、長いこと、こちらを見ていた。


 それから、背を向けて、片手だけを上げた。


◆


 白い礼拝堂の扉は、今日も開け放たれていた。


 ミレイアは、扉の内側の、柱の陰に立っていた。女ひとり、列にも並ばず、祈りもせずに立っているのを、誰も咎(とが)めなかった。


 ガルドが、みずから牢へ戻った日の昼だった。


 列は、あの日よりも、さらに長くなっていた。ミレイア自身が列に並んで、聖女の前に立った、あの日よりも。


 身廊の奥で、白い光が灯り、消え、また灯る。そのたびに、胸もとの聖印が、火にかざした銅貨のように熱を持った。


 ――ゆうべは、冷たかった。


 満月の夜の、あの部屋で。レオニスが生んだ、ひと部屋ぶんの夜の中で。白い雪に胸を覆われた人が、すぐそばにいたのに。


 あの新月の夜と、同じだった。


 ――夜の中では、白は、誰の心も縛れない。


 今は、そう思う。


 騎士団長が、身廊の脇から、聖女のもとへ歩み寄った。白い髭の口もとが、聖女の耳もとで、何かを告げる。


 聖女の手が、止まった。


 進み出た老婆の手を、白い両手で包んだまま。


「……どうして」


 小さな声だった。けれど、静まり返った身廊には、よく通った。


「どうして……? あの方は、あんなに穏やかに、笑って……」


 そこで、声が途切れた。


 ガルドのことだ、とミレイアにはわかった。


 淡い金色の瞳が、宙をさまよった。続く言葉を、探している。探して、探して――見つからないようだった。


 この人が言葉を失うのを、ミレイアは、初めて見た。


 礼拝堂でも、神殿の地の底でも、パン屋の卓でも、この人は、迷うということがなかった。その白い手が今、老婆の手を包んだまま、止まっている。


 ほんの、ひと呼吸のあいだのことだった。


 聖女は、目の前の老婆に、微笑みを向け直した。


「……ごめんなさい。お待たせしましたね」


 白い光が、灯った。


 胸もとの聖印が、また、熱を持った。


 礼拝堂の脇の小さな扉を出たところで、袖を引かれた。


 赤い髪を、うなじで短く束ねた娘だった。宿舎の中庭に沿った小径(こみち)の角に、ひとりで立っている。見張りの当番なのだろう。


「……あんた、しばらく、この辺に来ないほうがいい」


 赤毛の同期は、中庭のほうを向いたまま、低い声で言った。


「上が、決めたって。闇司祭を、捕らえるって。黒い聖印の、あの寝癖の」


 ミレイアは、息を止めた。


「……罪状は」


「闇司祭であること。それだけ」


 ――闇司祭は、闇司祭だ。何をしたかではない。何であるかが、罪なのだ。


 あの日、騎士団長の執務室で聞いた言葉だった。


「聖女さまは、反対したらしいよ。あの方も、救うべき方です、って。……司教さまに、押し切られたって」


 赤毛の同期は、少しだけ声を落とした。


「今は、まだ表立っては動かないみたい。冬至の前に、騒ぎは起こしたくないんだって。……でも、何かあったら、すぐだよ」


 それだけ言うと、くるりと背を向けた。


「今日は、誰にも会ってないから」


◆


 その晩、パン屋に戻ってから、レオニスが、ガルドのことをユナに話した。牢へ戻ったこと。何もかも、思い出したこと。


 ユナは、生地を捏ねる手を止めなかった。


「……思い出したの?」


 レオニスが、頷いた。


「ああ。全部な」


 ユナの手が、一瞬だけ止まった。


「……ふうん」


 それきりだった。


 けれど、夜更けにミレイアが水を飲みに降りていくと、焼き場に明かりがついていた。


 ユナが、竈の前にしゃがみこんで、丸パンをひとつだけ焼いていた。何度も、何度も、火加減を確かめながら。


 焦がさないように、しているのだと思った。


 冬至まで九日の朝、広場の掲示板に、新しい布告が貼り出された。


 ――夜は窓を閉ざし、灯(ひ)を絶やすな。


 ――泣いている者を見かけたら、聖女さまのもとへ。


 その夜から、王都の窓という窓に、白い灯がともった。


 大聖堂が配った、白い蝋燭だった。どういうわけか、火まで白い。夜通し燃えて、朝になっても、ほとんど減っていない。


 夜空が、白っぽく濁った。


 星が、ひとつも見えなくなった。


 昼の通りでは、白い礼拝堂へ向かう人々のなかに、手を引かれていく人が混じるようになった。泣き腫らした目の男の手を、見知らぬ女が引いている。穏やかに、どこまでも優しく、微笑みながら。


 ――もう、泣かなくていいのよ。


 泣いている人は、ひとり、またひとりと、通りから消えていった。


 焚き火の夜に、レオニスが話してくれたことがある。


 ――何もかも真っ白でさ。……いつも、笑い声でいっぱいだった。


 陽だまりの家のことだった。


 この都が、陽だまりの家になっていく。


 胸の聖印は、一日じゅう、ぬるいままだった。


 夜更けに屋根裏の梯子の下から見上げると、天窓が開いていた。屋根の上で、レオニスが、白く濁った空を見上げていた。星は、ひとつも見えないのに。


 パン屋の親父は、配られた白い蝋燭を、窓際に置かなかった。


 それどころか、日が暮れると、わざわざ店の窓を開け放った。


「窓を閉めろだの、灯を絶やすなだの」


 ふん、と鼻を鳴らす。


「こちとら、夜明け前から竈に火を入れてんだ。夜は、寝るもんだろうが」


 ユナが、開いた窓の前に立って、白っぽい夜空を見上げた。


「うちの窓は、閉めないよ」


 誰に言うでもなく、そう言った。


 その暗い窓を目当てにするように、夜になると、裏口を叩く者が現れはじめた。


 浄化を断った人たちだった。息子を亡くした鍛冶屋。焼け出された老夫婦。泣いているところを見とがめられて、聖女さまのもとへ連れていかれそうになった娘。


 親父は、何も訊かずに、卓の上に黒パンを積んだ。


 川沿いの通りで、夜に灯りのない窓は、この店だけになった。


◆


 冬至まで七日の昼下がり、レオニスが、墓地へ行くと言った。


 あの男の子が、このところ毎日、ひとりで父親の墓の前にいる。焼き栗の屋台の老婆から、そう聞いたのだという。


 坂の上の墓地には、冷たい風が吹いていた。


 真新しい木の墓標の前に、小さな背中があった。


 ひとりでは、なかった。


 白い外套の騎士が、三人。それから、前掛けをつけた女がひとり、男の子の肩に手を置いている。


 女は、やさしく声をかけた。


「さあ、行きましょうね。毎日、ここで泣いているんでしょう。かわいそうに。聖女さまに、お願いしましょうね。もう、泣かなくていいように」


 男の子は、墓標にしがみついていた。刻まれた名前に、小さな指が食いこんでいる。


「……やだ」


 女が、困ったように眉を下げた。


「坊や」


 男の子は、首を振った。


「やだ。……とうちゃんのこと、わすれたくない」


 ミレイアの足が、止まった。


 ――悲しみを、取っていただきましょうね。


 十歳で神殿に引き取られたとき、そう言われた。首を振った。泣くかわりに、剣を握った。


 騎士のひとりが、男の子の指を、墓標から一本ずつ剥がしはじめた。


 黒い外套が、ミレイアの脇をすり抜けていった。


 レオニスだった。肩の鉄剣を、下ろしている。


「――おい」


 騎士たちが振り返るより早く、刃のない鉄剣の腹が、ひとり目の脛(すね)を払った。ふたり目が剣の柄(つか)に手をかけたときには、その手首を打っていた。三人目の抜き打ちを身を沈めてかわし、背中を柄頭(つかがしら)で、とん、と押す。


 白い外套が三つ、凍てた土の上に転がった。


 気づけば、ミレイアは、男の子の前に立っていた。


 剣は、抜いていない。柄に手をかけたまま、前掛けの女と騎士たちのあいだに立っていた。


 前掛けの女は、目を丸くして、転がった騎士たちを見下ろしていた。


「まあ……」


 怯えたふうは、なかった。ただ、不思議そうだった。


 騎士のひとりが、土にまみれて身を起こした。レオニスの襟もとに目をやって、息を呑む。


 外套の襟からこぼれた、黒鉄(くろがね)のランタンの聖印。


「……闇司祭」


 レオニスは、鉄剣を肩に担ぎ直した。


「泣くのも、そいつのもんだ」


 騎士たちは、顔を見合わせた。それから、転がった剣を拾い集めて、坂を駆け下りていった。


 前掛けの女は、しばらく、男の子とレオニスを見比べていた。やがて、困ったように微笑んで、騎士たちのあとを追っていった。


 男の子は、墓標にしがみついたまま、泣いていた。


 泣きはらした目が、レオニスを見上げた。


「……にいちゃん」


 レオニスが、その隣の地面に、腰を下ろした。


 ミレイアも、男の子を挟んだ反対側に座った。あの日と、同じように。


 冬の日が、墓標の影を、長く伸ばしていった。


 その夜のうちに、広場の掲示板に、手配書が貼り出された。


 ――闇司祭レオニス。黒き聖印を帯びる者なり。見つけし者は、神殿騎士団へ届け出よ。


 ――寝癖のある黒髪。琥珀色の目。黒い外套。


 一枚剥がしてきた親父が、食堂の卓に叩きつけた。


「兄ちゃん。あんた、お尋ね者だぞ」


 レオニスは、手配書を覗きこんだ。


「……寝癖、って書いてあるな」


「書いてありますね」


 夜明け前に、ふたりは、パン屋を出た。


 ここにいれば、騎士団は、この店に踏みこんでくる。夜ごと裏口を叩く人たちの、暗い窓ごと。


 親父は、何も言わずに、丸パンの包みをふたつ押しつけてきた。ユナは戸口に立って、唇を噛んでいた。


「……また、来てよ」


 伯爵家の門を叩いたのは、まだ暗いうちだった。


 ルカーシュは、部屋着に外套を羽織った姿で、自ら門を開けた。事情を聞き終える前に、ひとつ頷いた。


「かまわない」


 穏やかな声だった。


「この家は、昔から、教会に好かれていないので」


 貴族の屋敷の門の内には、神殿騎士団も、王の許しなしには踏みこめない。見習いのころ、そう教わった。


 客間に通されてから、ミレイアは、罪状帳を開いた。


 ――冬至まで七日:お尋ね者になる。


 少し迷って、書き足した。


 ――人相書き、「寝癖」。正確。


◆


 騎士団長が伯爵家の門の前に立ったのは、冬至まで五日の朝だった。


 白い外套の騎士たちを、通りの角に残して、ひとりで。


 門を開けろとは、言わなかったという。セレスを呼んでほしい、とだけ。


 ミレイアは、鉄の門を挟んで、騎士団長と向かい合った。


 九年、見上げてきた顔だった。白い髭。岩を削ったような顎。灰色の目。


「闇司祭を、差し出せ」


 低い声だった。


「そうすれば、お前のことは、不問にする」


「お断りします」


 灰色の目が、わずかに細くなった。


 ミレイアは、門の格子越しに、その胸もとを見た。白銀の太陽の聖印が、冬の朝の光を弾いている。


 白い礼拝堂で、老人が浄化された瞬間――まばたきひとつのあいだだけ、この人の手が触れた聖印だった。


「団長。ひとつ、お訊きしてもよろしいですか」


「……何だ」


「あなたの聖印は、あの方の浄化のとき、冷たいですか」


 騎士団長は、答えなかった。


 長い沈黙だった。通りの角で、騎士たちの馬が、白い息を吐いている。


「……熱い」


 ようやく、騎士団長は言った。


「二十五年、ずっとだ」


 灰色の目が、ミレイアを通り越して、どこか遠くを見ていた。


「二十五年前の冬、北の山奥の、異端の村を浄めに行った。そこで、白い光を見た」


 低い声が、かすかにかすれた。


「谷じゅうが、真っ白になった。膝が、ひとりでに折れた。――神の光だった」


「光の中に、娘がひとり、座りこんでいた。笑っていた」


「この子は、光に選ばれた子だ。……そう言って、私が、この腕で抱いて連れ帰った」


 ミレイアの背筋を、冷たいものが走った。


 ――それから、若いのがひとり、笑ってるあの子を抱き上げて、連れていった。この子は光に選ばれた子だ、とか言ってな。


 面会室で、ボルグが語った言葉だった。


 あの若い騎士は――この人だったのだ。


 そして、その娘は。


 ――あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ。


「聖印が熱いのは、神の光に触れているからだ」


 騎士団長の声が、硬くなった。


「聖印ごときに、神の光は裁けぬ」


 ミレイアは、胸もとの聖印を、服の上から握った。


「私は、自分の目で見たものを信じます」


 声は、震えなかった。


「私の聖印も、あの方の祈りのたびに熱くなります。……けれど、夜の中では、冷たいのです」


 騎士団長の眉が、ぴくりと動いた。


 灰色の目が、揺れた。――あの日、執務室で、大聖堂の地下に神殿などないと言ったときと、同じように。


「……冬至の夜」


 騎士団長は、踵(きびす)を返しながら、言った。


「大聖堂に近づけば、斬る」


 ミレイアは、門の格子を握りしめた。


「私は、斬りません」


 白い外套の背中が、止まった。


「――止めます」


 騎士団長は、振り返らなかった。


 そのまま、通りの角で待つ騎士たちのほうへ、歩いていった。


◆


 鍋は、ひと晩、寝かせてあった。


 ゆうべ、レオニスが、伯爵家の料理番に頼んで厨房の隅を借り、仕込んだシチューだった。黒麦酒(ビール)で煮込んだ干し肉と根菜。真っ黒になるまで焦がした玉ねぎ。


 仕上げのひと匙(さじ)の蜂蜜を垂らそうとして、手が止まった。


 ――誰のための、ひと匙だったのか。


 面会室の扉ごしにボルグの話を聞いてから、ずっと、喉の奥に引っかかっていた。


 結局、垂らした。師匠のシチューには、欠かさず、そうしてあったから。


 聖女が伯爵家を訪ねてきたのは、騎士団長が門の前に立った、その翌日の昼下がりだった。


 連れているのは、シエルだけだった。騎士団長は、門の外の馬車のそばに残ったという。


 ルカーシュは、聖女を食堂へ通すと、黙って席を外した。エルナは、最後まで顔を見せなかった。


 レオニスは、卓を挟んで、聖女と向かい合った。ミレイアは、座らなかった。戸口の脇に、立ったままでいた。


 聖女は、卓の向こうで、いつものようにやわらかく口を開いた。


「レオニスさんが、こちらにいらっしゃると、ゴドフロワから聞きました」


 白い手が、膝の上で重なる。


「ガルドさんが、みずから牢へ戻られたそうですね。……何が、あの方を変えたのでしょう。それが知りたくて、参りました」


 ――答えが見つかったら、教えてくださいね。


 パン屋で、この人は、そう言った。


 レオニスは、少し黙っていた。


「……暗くしただけだ」


 聖女が、小さく繰り返した。


「暗く……?」


 レオニスは、頷いた。


「あいつが、自分の星を見るかどうか。決めたのは、あいつだ」


 聖女は、まばたきをした。


「星、ですか」


 不思議そうな声だった。責める色も、疑う色もない。ただ、わからない、という声だった。


 聖女の隣で、シエルが、じっとこちらを見ていた。


 レオニスは、立ち上がった。


「……腹、減ってねえか。シチューがある。ひと晩、寝かせたやつだ」


 厨房から、温め直した鍋を運んでくる。


 椀(わん)によそって、聖女とシエルの前に置く。自分の分も、よそった。湯気が、ふわりと立ちのぼる。黒麦酒と、焦がし玉ねぎと、ほんのかすかな蜂蜜の匂い。


 聖女は、礼を言って、匙を取った。


 ひと口、すすった。


 その手が、止まった。


 淡い金色の瞳から、涙が、ひと粒こぼれた。


 白い頬を伝って、椀のふちに落ちる。


「あら……」


 聖女は、不思議そうに、指先で頬に触れた。


「どうして、かしら」


 隣で、シエルが、匙をくわえたまま目を丸くしていた。


 聖女は、しばらく、椀から立ちのぼる湯気を見つめていた。


「……湯気を見ていたら、思い出しました」


 ひとり言のような声だった。


「十年前の、冬でした。陽だまりの家の門に、お鍋を抱えたおじいさんが、いらしたことがあるのです」


 指先が、冷たくなった。


「パイプをくわえた、痩せた方でした。お鍋からは、こんなふうに、湯気が立っていて」


 聖女は、少しだけ目を細めた。


「私を見て、知らないお名前で、お呼びになったのです。――ヘルミ、と」


 食堂の空気が、止まった気がした。


 戸口の脇で、ミレイアが、小さく息を呑んだ。


 聖女は、静かに続けた。


「どなたのことでしょう、とお訊きしても、何もおっしゃらなくて。司祭さまたちに追い払われるまで、ずっと、黙って、私を見ていらっしゃいました」


 聖女は、小さく首を振って、微笑んだ。


「おかしなことを、覚えているものですね」


 ――雪の、路地裏だった。


 飢えて、凍えて、もう指一本、動かせなかった。隣では、もっと小さな子が、同じようにうずくまっていた。


 湯気の向こうから、椀が差し出された。


 ――こいつが先。俺は、あとでいい。


 ひび割れた唇で、そう言ったのを覚えている。椀を、隣の子の前に置いたのを。


 それから、パイプをくわえた痩せた爺さんが、舌打ちをして――湯気の立つ鍋ごと、路地裏へ運んできたのを。


 あの晩、なぜ、あの爺さんは、鍋なんか抱えて雪の夜道を歩いていたのか。


 一度も、訊いたことがなかった。


 ――帰ってくるたびに、麓の町で蜂蜜を買ってきてな。ヘルミ嬢ちゃんのシチューに垂らす分だ、って。


 面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声。


 あの鍋は。


 あのひと匙は――


 喉の奥が、焼けるように熱くなった。


 ――それは、あんたの名前だ。


 言葉が、喉まで来た。全部、来た。


 言えば、この人は、知らされてしまう。見ると決めるより、先に。


 レオニスは、椀に目を落とした。


「……その爺さん」


 声が、かすれた。


「シチュー作るの、うまかったんだぜ」


 聖女が、顔を上げた。


 淡い金色の瞳が、不思議そうに、こちらを見た。


「……そうですか」


 それだけ言って、聖女は、また匙を取った。


 ゆっくりと、最後のひと口まで、食べた。


 そのあいだに、二度、指先で頬を拭った。


 帰りぎわ、聖女は、戸口で深く頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


 それから、頬に、もう一度そっと触れた。


「……不思議ですね。どうして、涙が出たのかしら」


 答えを待たずに、白い衣は、廊下の向こうへ遠ざかっていった。シエルが、ぱたぱたとその後ろをついていく。


 食堂には、湯気の消えかけた鍋と、レオニスと、ミレイアが残った。


「……師匠は」


 ぽつりと、声が出た。


「あの人を、迎えに来たんだ。……迎えに来て、追い返されて」


 鍋の中で、冷めかけたシチューが、とろりと光っていた。


「代わりに、俺を拾ったんだ」


 ミレイアは、しばらく黙っていた。


 それから、鍋の前に立って、レオニスの椀に、残りのシチューをよそった。


 目の前に、ことりと置く。


「……代わりなんかじゃ、ありません」


 静かな声だった。


「冷めますよ」


 廊下を、軽い足音が駆け戻ってきた。


 シエルだった。亜麻色の髪を揺らして、息を弾ませて、食堂の戸口に立っている。


「……おねえちゃんが、ばしゃで、まってる」


 それから、少しだけ、声を落とした。


「おねえちゃん、よる、ねむれないの」


 レオニスは、匙を置いた。


 シエルが、ぽつりと続けた。


「しろい、ゆきの、ゆめを、みるんだって」


 とことこと卓のそばまで来て、座っているレオニスを見下ろす。


「さっき、ほし、って、いった」


 レオニスは、頷いた。


「……ああ」


「わたしの、ほし、どこ?」


 レオニスは、長いこと、シエルの顔を見ていた。


 十二年前、白い部屋で、毎晩泣いていた顔。泣かなくなって、笑うだけになった顔。


 ――思い出してほしい。


 胸の底で、でかい欲が、身じろぎした。


 レオニスは、それを、黙って胸にしまったまま――右の手のひらを、上に向けた。


「我、欲す」


 囁くように、言った。


「――手のひらひとつぶんの、夜を」


 手のひらの上が、ふっと暗くなった。窓から差しこむ夕暮れの光が、そこだけ、届かなかった。


 丸めた手のひらを、シエルの胸の前に、そっと差し出す。


 小さな暗さの中に、光が、ひとつ映っていた。


 白いものに、薄く覆われている。雪のような。


 その下で、淡い空色が、瞬いていた。


 シエルは、息を止めて、それを見つめた。


「……これが、わたしの?」


「ああ」


「しろいの、かかってる」


「その下を見たら、忘れてたもんを、思い出す。……たぶん、全部な」


 レオニスは、手のひらを差し出したまま、言った。


「泣くかもしれねえ」


 シエルは、黙っていた。


「見るかどうかは、お前が決めろ」


 長い、長い沈黙だった。


 淡い空色が、小さな夜の底で、瞬いていた。


 シエルは、それから目を離さないまま――ゆっくりと、首を振った。


「……こわい」


 小さな声だった。


「みたら、おねえちゃんが、かなしむ気がする」


 レオニスは、手を閉じた。


 手のひらの中で、小さな夜が、ほどけて消えた。


「そっか」


 それだけ、言った。


 シエルは、少しのあいだ、閉じた手を見ていた。それから、くるりと背を向けて、廊下へ駆けていった。


 足音が、遠ざかっていく。


 ――見るかどうかは、お前が決めろ。


 いちばん、言いたくない相手だった。


 言えた。


 レオニスは、閉じた手を、膝の上に置いた。


 隣の椅子に、ミレイアが、黙って腰を下ろした。


◆


 このところ、同じ夢を見る。


 白い雪が、降っている。あたたかいのに、溶けない雪。音もなく降り積もって、何もかもを白く覆っていく。


 その向こうに、何か大きな、白いものがいる。


 ――そこで、いつも目が覚める。


 目が覚めると、胸の奥が、しんと冷えている。何かを、どこかに置いてきたような気がして、窓の外が白むまで、眠れない。


 冬至まで三日の朝も、そうだった。


 大聖堂の奥の間で、司教が、肥えた体をかがめるようにして、一枚の羊皮紙を差し出した。


「冬至の夜の、祈りの文でございます」


 金糸の法衣の胸で、白銀の太陽が揺れていた。額には、冬の朝だというのに、今朝も汗が浮いている。


「当日まで、お手もとに」


 聖女は、羊皮紙を受け取った。


 古い字が、並んでいた。


 一行目で、目が止まった。


 ――我、欲す。


「……これは、闇司祭の言葉では?」


 司教は、手巾(ハンカチ)で額を拭った。


「古い、祈りの形です」


 それ以上は、何も言わなかった。


 聖女は、羊皮紙を胸に抱いて、窓の外に目をやった。


 黒狼と呼ばれていたあの方は、みずから牢へ戻られたという。あんなに穏やかに、笑っていらしたのに。


 伯爵家でいただいたシチューは、ひと口で、涙がこぼれた。どうしてなのか、今も、わからない。


 ――その爺さん、シチュー作るの、うまかったんだぜ。


 レオニスさんは、なぜ、あんなことをおっしゃったのだろう。


 帰りの馬車で、シエルは、ひとことも口をきかなかった。窓の外の空ばかり、見上げていた。


 窓の外は、冬の朝の光に満ちていた。


 白い雪は、どこにも降っていない。


 それでも聖女は、あの夢から覚めた朝のように、長いこと、窓の外から目を離せずにいた。


 胸に抱いた羊皮紙の、いちばん上の一行を、指先で押さえたまま。

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