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光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


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第四章 笑う黒狼

 牢のいちばん奥の房で、黒狼が笑っていた。


 格子の前に立ったレオニスを見上げて、ガルドは、ひょいと片手を上げた。


「よう、字の先生」


 穏やかな声だった。


 レオニスは、差し入れのパンの包みを握ったまま、動けなくなった。


 鋼色の目が、細められている。口の端が、やわらかく上がっている。ひと月あまり、この格子の前に通ってきて、一度も見たことのない顔だった。


 眉間の皺(しわ)が、どこにもなかった。


「なんだ、変な顔して。……おっ、パンか」


 太い手が、格子の隙間から伸びてきた。包みを受け取って、さっそくひと口かじる。


「うめえな。ちっと焦げてるが」


 聖女が来たあの日、同じ焦げたパンを噛みしめて、この男は言ったのだ。――焦げてるな、と。かすれた声で。


「……ミルテから出てきたガキが、焼いたんだ」


「ミルテ?」


 ガルドは、パンを頬張ったまま首をひねった。


「どこだ、そりゃ」


 レオニスは、息を止めた。


「……狼谷は」


「おおかみ、だに?」


「井戸は。……新月の夜は」


「悪いな、字の先生」


 ガルドは、困ったように笑った。


「なんの話だか、さっぱりだ」


 あの新月の夜、この男の心の底の井戸へ、縄を伝って降りた。


 凍えるような水の中で、茜色のリボンを握りしめてうずくまっていた、十二歳の少年。――掴むかどうかは、お前が選べ。差し伸べた手を、長いこと見つめていた、鋼色の目。


 その目が今、何ひとつ知らない顔で、笑っていた。


 寝台の脇に、石板が立てかけてあった。


 ガルドは、パンの包みを膝に置いて、その石板を取り上げた。大きさも傾きもばらばらな白墨の字が、下へいくほど、少しずつ揃っていく。


「字の手習いは、覚えてるんだがな」


 太い指が、白墨の跡をなぞった。


「……こいつは、誰の名前だ? 朝起きたら、石板に並んでたんだが」


 ――エルナ。


 答えは、喉の奥で凍りついた。


「……兄ちゃん」


 背後で、低い声がした。


 廊下の向かいの房で、ボルグが、格子に顔を寄せていた。残った左手が、鉄の棒を握りしめている。


「夜中に、聖女さんが来た」


 枷の鎖が、かすかに鳴った。


「頭(かしら)は、ガキどもの手紙を読んでた。声、殺して、泣いてた。……そこへ、な」


 低い声が、途切れた。


「……止められなかった」


 レオニスは、首を振った。


「あんたのせいじゃねえよ」


 ボルグは、答えなかった。パンを頬張るガルドの横顔を、じっと見ていた。


「あの日の、村の連中と――同じ顔だ」


 ぽつりと、そう言った。


 昼前に、牢番が紙を一枚、持ってきた。


「黒狼。恩赦だとよ」


 欠伸まじりに、読み上げる。


「聖女さまの光を受けし者は、罪の記憶とともに生まれ変わりし者とみなし――ってやつだ。出ていいぞ」


 ガルドは、目を瞬いた。


「恩赦? 俺が?」


 それから、石板を抱えたまま、照れくさそうに頭を掻いた。


「……そいつは、ありがてえ話だ」


 房を出るとき、ガルドは、向かいの格子に片手を上げた。


「じゃあな、おっさん。先に出るぜ」


 ボルグ、とは、呼ばなかった。


 黒狼の里の炊事場で、ずっと、ガルドと手下たちのために鍋を振ってきた男のことを――ガルドは、向かいの房のおっさんとしか、覚えていなかった。


 ボルグは、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。


 昼には、大聖堂前の広場の掲示板に、新しい布告が貼り出された。


 ――黒狼ガルド。聖女の光を受け、罪の記憶とともに生まれ変わりし者なり。


 ――よって、これを赦(ゆる)す。


 人垣のあいだで、囁きが交わされていた。黒狼が、生まれ変わったってよ。あの黒狼がか。聖女さまの光ってのは、たいしたもんだ――。


 昼過ぎ、牢の門の前に、飾り気のない馬車が止まった。


 降りてきたのは、痩せた男だった。


 グラウベル伯爵、ルカーシュ。


 牢番が、あんぐりと口を開けた。それから、レオニスの袖を引いて、ひそひそと言った。


「……伯爵さまって、ほんとにいたんだな」


「いるに決まってんだろ」


 門をくぐって出てきたガルドを前に、ルカーシュは、静かに、深く頭を下げた。


 あの新月の夜が明けた朝、大聖堂の身廊でしたのと、同じ礼だった。父の仇(かたき)に。妻の兄に。


 ガルドは、きょとんとして、それから慌てたように頭を下げ返した。


「こいつは、どうも。……世話になります」


 ルカーシュの肩が、ほんのわずか、揺れた。


 伯爵家へ向かう馬車の中で、ガルドは、石板を膝に抱えたまま、ずっと窓の外を眺めていた。


「でけえ街だな、王都ってのは」


 子供のような声だった。


 あの新月の夜、この男は、この街じゅうから我慢を奪おうとした。妹を抱えて地の底へ降り、王都じゅうに、狼の遠吠えを響かせて。


 レオニスは、何も言わなかった。


◆


 伯爵家の玄関広間に入ると、階段の上で、足音が弾(はじ)けた。


 あの新月の夜、狼の毛皮をまとった男が、妹を奪いに来た広間だった。あの夜、泣き出しそうな顔で、それでも笑おうとしながら、一段ずつ兄のほうへ降りてきた女が――


 今は、裾をつまんで、駆け下りてきた。


「兄さん!」


 質素な濃紺のドレス。ひとつに束ねた黒髪に、色褪せた茜色のリボン。


 エルナは、階段の下で足を止めた。息が、弾んでいた。兄と同じ鋼色の目が、潤んでいる。


 ガルドは、背筋を伸ばした。


 それから、礼儀正しく、頭を下げた。


「……どちらさまで?」


 エルナの顔から、表情が抜け落ちた。


 伸ばしかけた両手が、宙で止まっていた。


 階段の上から、子供がふたり、こちらを覗いていた。七つくらいの男の子と、四つくらいの女の子。


 男の子は、ぱっと駆け下りてきて、母親のスカートの陰に隠れた。


 女の子は、隠れなかった。


 とことこと階段を降りてきて、母親の前に出る。大きな男を、まじまじと見上げる。


 あの新月の夜が明けた朝、この子は、同じ男を見上げて訊いたのだ。――だあれ? と。


 女の子は、小さな胸を、ぐっと張った。


「わたしはね、おじさまの、めいっこだよ」


 きっぱりとした声だった。


「おかあさまの、おにいちゃんでしょ」


 ガルドは、目を瞬いた。


 大きな体を、ゆっくりと折り曲げる。膝をついて、女の子と同じ高さに。


「そうか」


 鋼色の目が、細められた。


「……そいつは、嬉しいな」


 やさしい声だった。何ひとつ思い出さない、やさしい声だった。


 女の子は、にぱっと笑った。


 エルナの目が、ガルドの左の手首に落ちた。


 色褪せた茜色のリボンが、そこに巻かれていた。


 エルナの指が、髪に結んだリボンに触れた。


 唇が、震えた。


 泣く、とレオニスは思った。


 エルナは、泣かなかった。


 笑ってみせた。


「……おかえりなさい、兄さん」


 ガルドは、少し戸惑ったように頭を掻いた。それから、女の子の頭に、大きな手をぽんと置いた。


「おう。……ただいま、で、いいのか」


 母親のスカートの陰から、男の子が、そっと顔を出した。


「……おじさま。てがみ、よんだ?」


 ガルドは、きまり悪そうに眉を下げた。


「あの紙か。……わりいな、まだ、ちゃんと読めてねえんだ」


 男の子が、続けて訊いた。


「おかあさまが、ちいさいとき、ないてばっかりだったって。……ほんと?」


 ――頭は、ガキどもの手紙を読んでた。声、殺して、泣いてた。


 ボルグの低い声が、耳の奥によみがえった。


 ガルドは、エルナを見た。


「……そうなのか?」


 エルナの喉が、小さく動いた。


「……ほんとよ」


 それでも、笑っていた。


「泣き虫でね。いつも、兄さんの後ろばかり、くっついて歩いてたの」


 ガルドは、目を丸くした。


「へえ」


 それから、喉の奥で、楽しそうに笑った。


「そいつは、知らなかったな」


 穏やかに、どこまでも優しく、笑っていた。


 指先が、ちりりと疼いた。


 ――消してしまえ。


 胸の底で、白が囁いた。


 ――エルナの、痛みを。泣きたいのをこらえて笑っている、その顔ごと。


 レオニスは、拳を握りこんだ。


 爪が、手のひらに食いこんだ。


 黙って、玄関広間を出た。


 背中で、ルカーシュが妻の名を呼ぶ、低い声がした。


◆


 ゆうべ遅くに戻ってきたレオニスは、食堂の卓に突っ伏したまま、ひとことだけ言った。


 ――ガルドが、浄化された。


 それきり、何も話さなかった。


 朝の客たちは、黒狼の恩赦の話で持ちきりだった。生まれ変わったんだとさ。聖女さまの光で。――親父は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、黙って生地を捏(こ)ねつづけていた。


 昼下がりのパン屋には、焼きたての匂いが満ちていた。ミレイアは、食堂の卓を拭いていた。店先では、ユナが、焼き上がったばかりの丸パンを籠に並べている。


 戸口の鈴が、鳴った。


 背をかがめるようにして、大きな男が入ってきた。


「いい匂いだな、嬢ちゃん」


 低い、穏やかな声だった。


 ミレイアは、顔を上げた。


 ほどいた黒髪。鋼色の目。仕立てのいい外套は、肩のあたりが窮屈そうだった。後ろに、黒髪の女が、青い顔で寄り添っている。


「……ガルド、さん」


 思わず、声が出た。


 ユナの手から、丸パンが落ちた。


 床の上を、ころころと転がっていく。


「……あんたが、ガルド?」


 ユナの声は、かすれていた。


 ガルドは、足もとに転がってきたパンを拾い上げた。粉を払って、ユナに差し出す。


「そうらしいな」


 人のよさそうな笑顔だった。


 ユナは、差し出されたパンを見なかった。ガルドの顔だけを、見ていた。


「ミルテの……」


 声が、震えた。


「お母さんの……」


 ガルドが、少し考えるように眉を上げた。


「ミルテ?」


 それから、申し訳なさそうに笑った。


「……すまねえな、覚えてねえんだ」


 ユナの顔から、血の気が引いた。


 小さな拳が、前掛けを握りしめる。握りしめて、ほどいて、また握りしめた。


 殴りかかるかもしれない、とミレイアは思った。


 ユナは、殴らなかった。


「……ずるいよ」


 声が、裏返った。


「忘れたら、ずるいよ」


 それだけ言って、ユナは、焼き場のほうへ駆けこんでいった。


 ガルドは、パンを差し出したまま、立ち尽くしていた。


「……俺、何か、したか」


 困りきった声だった。


「あの嬢ちゃんに、謝っといてくれるか。……何を謝りゃいいのか、わかんねえんだが」


 エルナが、兄の袖をそっと引いた。それから、ミレイアに向かって、深く頭を下げた。


 ミレイアは、頭を下げ返す間も惜しんで、焼き場へ走った。


 竈の前で、ユナは、膝を抱えてうずくまっていた。


 袖を、噛んでいた。


 床下の暗闇で、両手で口を塞いで、朝まで震えていた十歳の自分と、同じように。


 ミレイアは、その隣に腰を下ろした。何も言わずに。


 竈の火が、ぱちりと爆ぜた。


 しばらくして、ユナが、袖から口を離した。


「……殺さないって、決めたの」


 くぐもった声だった。


「仕返しのためだけに生きないって、決めた。……でも、憎いのは、やめないって。お母さんのこと、忘れないって。……決めたのに」


 膝に、顔を押しつける。


「あいつが忘れたら、私の憎いのは、どこへ行けばいいの」


 ミレイアは、答えられなかった。


 許さない、と言える相手が、いなくなったのだ。


 目の前にいるのに。笑って、パンを拾ってくれるのに。


 許さないと決めることは、誰かを憎みつづけることだけではなかった。忘れないと、決めることでもあった。その相手が忘れてしまったら――ひとりで、握りしめているしかない。


 ――もし。


 不意に、牢の奥の、熊のような背中が浮かんだ。


 もし、あの人が、聖女さまの光を受けたら。


 父が、両手を広げて立っていたこと。母が、台所の床の上に覆いかぶさっていたこと。


 あの夜の父と母の最期を知っているのは、この世に、ふたりしかいない。床下にいた自分と――斧を持っていた、あの人と。


 あの人が、笑って、忘れたら。


 ――嬢ちゃん。すまねえな、覚えてねえんだ。


 背筋が、冷えた。


 胸もとの聖印は、ガルドが戸口をくぐってきたときから、ずっと、ぬるいままだった。


「……あの人に、忘れさせては、いけない」


 声に、出ていた。


 ユナが、濡れた目を上げた。


 ミレイアは、その不揃いな前髪に、そっと手を置いた。


◆


 ユナのことをミレイアから聞いたのは、その日の夕方だった。


 ――ずるいよ。忘れたら、ずるいよ。


 聞き終わる前に、パン屋を出ていた。


 夕暮れの中庭で、白い服の子供たちが、鬼ごっこをしていた。鬼に捕まった子が、笑っていた。転んで膝を擦りむいた子も、笑っていた。


 鉄の柵の外から、レオニスは、その奥の白い衣を見ていた。


 聖女が、こちらに気づいた。子供たちに何か言い置いて、柵のそばまで歩いてくる。回廊の柱の陰で、白い髭の騎士団長が、腕を組んでこちらを見ていた。


 聖女は、柵の前で、嬉しそうに微笑んだ。


「レオニスさん」


「……ガルドを、浄化したのか」


「ええ」


 ためらいのない声だった。


「頼まれたのか」


「いいえ」


 淡い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。


「でも、あの方は、泣いていました。夜の牢は、泣き声でいっぱいなのです」


「泣いてたら、取っていいのかよ」


 聖女は、少しだけ目を見開いた。


「泣いている人を、放っておくのですか?」


 言い返そうとした。


 声が、出なかった。


 ミルテの麦畑の隅。細い月の下で、声を殺して泣いていた小さな背中。気づいたときには、その頭へ、白い指先が伸びていた。


 頼まれても、いないのに。


 ――……あなたも、取るの?


 振り向いた子供の、濡れた目。


 聖女は、静かに続けた。


「あの方は、死罪になるはずでした。今は、生きて、笑っています。妹さんのもとで」


「……妹を、忘れてな」


 かすれた声しか、出なかった。


 聖女は、痛ましそうに目を伏せた。


「悲しい記憶と一緒に。……でも」


 顔を上げる。その目には、ひとかけらの迷いもなかった。


「新しく、覚えればいいのです」


 レオニスは、柵を握りしめた。


「……向かいの房のおっさんが、見てたんだ。あいつは、妹のガキの手紙を読んで、泣いてたって」


 声が、震えた。


「泣きたくて、泣いてたんだよ」


 聖女は、ほんの少し、不思議そうに瞬いた。


 それから、やさしく微笑んだ。


「泣きたい人なんて、いませんよ」


 心の底から、そう信じている声だった。


 中庭の奥で、子供たちの笑い声が弾けた。


 長椅子で、亜麻色の髪の少女が、こちらを見ていた。小さく手を振りかけて――その手が、途中で止まった。


 レオニスは、柵から手を離して、背を向けた。


◆


 二日後、王都に、この冬初めての雪が降った。


 昼過ぎから降りはじめた雪は、日が暮れるころには、伯爵家の庭をうっすらと白く覆っていた。


 その晩、レオニスとミレイアは、伯爵家の夕食に招かれた。


 長い卓の向こうで、ガルドは、銀のナイフとフォークを持て余していた。肉を切ろうとして皿ごと滑らせ、女の子に「おじさま、へたっぴ」と笑われる。ガルドは頭を掻いて、一緒になって笑った。ルカーシュが、黙って、ガルドの皿の肉を小さく切り分けてやった。


 エルナは、ずっと微笑んでいた。


 レオニスは、ほとんど手をつけなかった。


 食事が済んで、帰り支度をしているときだった。


 庭で、子供たちの歓声が上がっていた。


 ガルドが、雪だるまを作っていた。


 大きな手が、雪玉を転がしていく。転がすたびに、雪玉は大きくなる。男の子がその横で、負けじと小さな雪玉を転がしている。女の子は、ガルドの外套の裾にしがみついて、きゃあきゃあと笑っていた。


「おじさま、もっと、おおきく!」


 ガルドが、どんと胸を叩いた。


「おう、任せとけ」


 大きな雪玉の上に、ひと回り小さな雪玉が載った。男の子が、小石をふたつ埋めて目にする。ガルドが太い指で、口もとに、にっと笑った線を引いた。


「いい顔じゃねえか」


 ガルドが、笑った。


 腹の底からの、楽しそうな笑い声だった。


 玄関の軒下で、エルナが、肩掛けを胸の前にかき寄せて、それを見ていた。


 微笑んでいた。


 ときどき、その微笑みが、ふっと揺れた。そのたびに、エルナは、髪のリボンに指をやった。


 レオニスは、庭の隅で、それを見ていた。


 指先が、白く燻(くすぶ)っていた。


 玄関広間を出たあの日から、ずっとだ。


 ――白には、白を。


 ふと、そう思った。


 あの女の白が、ガルドの中から、エルナを消した。なら、この手の白で、あの女の白を、消し返せないか。


 奪われたものを、奪い返すみたいに。


 指先の白が、ぼうっと明るくなった。


 レオニスは、雪を踏んで、ガルドの背中へ歩きだした。


「我、欲(ほっ)す――」


 声が、勝手に出た。


「――あいつを、返――」


 手首を、掴まれた。


 冷たい手だった。


「それは、あなたの欲でしょう!」


 ミレイアだった。


 いつの間に、そこにいたのか。レオニスの手首を、両手で握りしめていた。


「放せ」


「放しません」


 まっすぐな目が、こちらを見上げていた。


「あなたは、ガルドさんに、思い出してほしいだけです」


 声が、震えていた。


「それを、あの人に押しつけるのですか。……あの聖女さまと、同じことを」


 白が、指先で、ぐらりと揺れた。


「……じゃあ、どうしろってんだよ!」


 自分の声が、雪の庭に響いた。


「あいつは、エルナを忘れたんだぞ! 二十年、井戸の底で、妹の声を聞いてたくせに――」


「わかりません」


 ミレイアは、手を放さなかった。


「でも――」


 唇を、噛む。


「あなたが、あの聖女さまと同じことをするのは、見たくありません」


 庭が、静まり返っていた。


 子供たちが、雪玉を抱えたまま、こちらを見ていた。


 ガルドが、ゆっくりと振り向いた。


「……喧嘩か、字の先生」


 困ったような、やさしい顔だった。


「仲良くしろよ。……な?」


 レオニスは、指先の白を、拳の中に握り潰した。


 ミレイアが、そっと手を放した。


 雪が深くなったからと、ルカーシュは、ふたりにそれぞれ客間を用意させた。


 その夜、ふたりは、ひとことも口をきかなかった。


◆


 伯爵家の屋根は、灰色の石瓦でできていた。


 雪は、夜更けにはやんでいた。


 月が、明るかった。満月まで、あと二日。丸く膨らみかけた月が、雪の積もった王都を、青白く照らしている。


 見上げても、星は、ほとんど見えなかった。


 明るすぎるのだ。


 シエルは今夜も、窓掛けの隙間から、空を探しているのだろうか。この月じゃ、星なんて見えやしないのに。


 指先の白は、まだ燻っていた。


 ――それは、あなたの欲でしょう!


 わかっていた。


 わかっていたから、言い返せなかった。


 思い出してほしい。取り戻したい。返してやりたい。――エルナに。ユナに。……俺に。


 全部、俺の欲だ。


 ――でかい欲が言えねえなら。


 しわがれた声が、耳の奥でした。


 ――今、目の前にある一番ちっぽけな本音を言え。


 叙階を受けて間もないころ、修道院跡の裏庭で、師匠はそう言った。腹が減った、とかな、と笑いながら。


 半信半疑で「腹、減った」と宣誓したら、指先に豆粒ほどの光が灯って、腹の虫が盛大に鳴いた。師匠は、切り株から転げ落ちそうになるほど笑っていた。


 思い出してほしい、は、でかすぎる。取り戻したい、も。


 じゃあ、いちばんちっぽけな本音は、何だ。


 レオニスは、月を見上げた。


 月の光に洗われた空の、ずっと奥に、ひとつだけ、かすかな星が瞬いていた。目を凝らさなければ、わからないほどの。


 ――昼の光は、みんなに同じ景色しか見せねえ。


 あの新月の夜、神殿の地の底で、自分がガルドに言った言葉だった。


 ――夜になって、やっとひとりひとりの星が見えるんだ。


 礼拝堂から出てくる、同じ顔。牢の廊下の、同じ笑い声。雪だるまの前の、穏やかな笑顔。


 みんな、同じだった。


 昼の光の下の、景色のように。


 レオニスは、息を止めた。


 ――昼の光の下では、星は見えない。


 聖女が来たあの日の昼、パン屋の窓から川沿いの通りを眺めて、そう思ったのは自分だった。けれど、あの夜の星は、今も、ひとりひとりの胸の上に灯っている、と。


 見えないだけで。


 消えたわけじゃ、ない。


 月が明るすぎて見えないだけで、星は今も、あの空にある。


 なら――


 白い部屋で、泣くのをやめたあいつの星も。井戸の底で、妹が呼ぶ声を聞いていた男の星も。


 消えたんじゃ、ないのかもしれない。


 見えなくなっているだけ、なのかもしれない。


 ――あの日の白は、まだ、俺の中にある。


 面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声がよみがえった。


 白が、中にあるのなら。その下に、まだ――


 喉の奥が、熱くなった。


 思い出させてやりたい、と思った。


 違う、と、すぐに思い直した。


 それは、でかい。それは、俺の欲だ。


 もっと、ちっぽけな――


 十二年前、白い部屋の窓掛けを、手のひらひとつぶんだけ開けた。


 泣いている女の子に、星を見せたかった。


 見せたかっただけだ。泣きやませることは、一度もできなかったけれど。


 見たい奴が、見えるくらいには、暗くしてやりたい。


 見るかどうかは、そいつが決める。


 ――それだけだ。


 レオニスは、右の手のひらを、上に向けた。


「我、欲す」


 囁くように、言った。


「――手のひらひとつぶんの、夜を」


 手のひらの上が、ふっと、暗くなった。


 月の光が、そこだけ、届かなかった。


 ひとすくいの、夜だった。


 水をすくうように丸めた手のひらの中に、深く、やわらかな暗さが溜まっている。まぶたを閉じたときのような。誰にも顔を見られずに泣くことのできる、あの夜と、同じ暗さ。


 その底に――


 針の先ほどの白い星が、ひとつ灯っていた。


 白かった。けれど、眩しくはなかった。


 指先で燻っていた白は、もう、どこにもなかった。囁きも、聞こえなかった。


 祭壇がなくても、これくらいの夜なら、生める。


 シエルに、見せてやりたい。


 そう思ってから、レオニスは、小さく首を振った。


 ――見たいって、あいつが言ったら、だ。


 レオニスは、長いこと、手のひらの星を見つめていた。


 それから、雪の積もった屋根の上に、仰向けに倒れた。


「……腹、減った」


◆


 夜明け前に、目が覚めた。


 伯爵家の客間の寝台は、パン屋の二階の物置よりも、ずっとやわらかかった。やわらかすぎて、よく眠れなかったのかもしれない。


 窓の外が、白みはじめていた。


 廊下に出ると、突き当たりの窓が開いていて、冷たい風が吹きこんでいた。


 窓枠に、雪まみれの足がかかった。


 屋根から降りてきたレオニスが、廊下に転がりこんできた。寝癖の頭も黒い外套も、雪まみれだった。


 目が、合った。


 ゆうべから、口をきいていなかった。


 何か言わなければ、と思った。何を言えばいいのかは、わからなかった。


 先に口を開いたのは、レオニスだった。


「……見てくれ」


 右の手のひらを、こちらへ差し出す。


 丸めた手のひらの中が、暗かった。


 夜明けの薄明かりが、そこだけ、届いていなかった。深く、やわらかな暗さの底で、針の先ほどの白い星が、ひとつ瞬いている。


 ミレイアは、息を呑んだ。


「……夜、ですか」


 大聖堂の尖塔の向こうに、数えきれない星が灯った、あの新月の夜。その夜を、手のひらにすくい取ってきたような、小さな暗さだった。


「手のひらひとつぶん、だけな」


 レオニスは、手のひらの夜を見下ろした。


「昼の光の下じゃ、星は見えねえ。……でも、消えたわけじゃねえ。見えなくなってるだけだ」


 声が、少しかすれていた。


「ガルドの星も、たぶん、そうだ。シエルの星も。消えたんじゃねえ。白に覆われて、見えなくなってるだけなんだ」


 手のひらの星が、小さく瞬いた。


「だから、暗くする。見たいって言ったら、見えるくらいには」


 それから、ぽつりと付け加えた。


「見るかどうかは、そいつが決める」


 ようやく、レオニスが、こちらを見た。


「……お前が、止めてくれたからだ」


 胸の奥が、きゅっと鳴った。


 ミレイアは、目を逸らした。


「……監視対象ですので」


 声が、少しだけ上ずった。


 手のひらの小さな夜を、もう一度見つめる。


 あの新月の夜。燃える陽だまりの家の前で、背中合わせのボルグの胸から光が昇ったとき――白銀の太陽は、冷たかった。


 あのときも、夜だった。


 ――夜、だったからだろうか。


 答えは、まだ、わからなかった。


 止めたことを、罪だとは思わない。


 けれど、声を荒らげたこと。あの人の顔を見ないまま、おやすみも言わずに、客間の扉を閉めたこと。


 ミレイアは、懐から罪状帳を取り出した。


 ペン先が、紙の上を走る。


 ――冬至まで十七日:口論。


 少しだけ迷って、書き足した。


 ――半分は、私の罪状。


 レオニスが、首を伸ばして覗きこんだ。


「……半分かよ」


「半分です」


 ミレイアは、澄ました顔で帳面を閉じた。


 廊下の角から、寝間着の女の子が、目をこすりながら顔を出した。雪まみれのレオニスを見上げて、目を丸くする。


「……くろい、ゆきだるま」


 ミレイアは、こらえきれずに噴き出した。


◆


 その晩も、伯爵家の灯りは、遅くまで消えなかった。


 居間の暖炉の前で、ガルドが、石板を膝に載せていた。


 白墨の字を、太い指で、何度もなぞっている。


 ――エルナ。


「……俺の字なんだとさ」


 レオニスが隣に腰を下ろすと、ガルドは、石板から目を上げずに言った。


「あいつが、教えてくれた。牢で、俺が書いたんだって。……エルナってのは、あいつの名前なんだろ」


 穏やかな声だった。


「なあ、字の先生」


 太い指が、止まった。


「なんで俺は、この字を、最初に覚えたんだ?」


 レオニスは、口を開きかけた。


 ――最初は、これだろ。


 牢の格子越しに、そう言って書いてやった字だった。この男は、差し戻された石板を両手で受け取って、食い入るように見つめていた。太い指で、一度、二度と、白墨の跡をなぞっていた。


 全部、喉まで来た。


 言えば、この男は、知るだろう。井戸の底のことも。二十年のことも。――知らされて、しまうのだろう。


 それは、ちっぽけな本音じゃない。


「……さあな」


 それだけ、言った。


 ガルドは、ふうん、と鼻を鳴らした。それから、また石板の字をなぞりはじめた。


 ゆっくりと。何度も。


 左の手首で、色褪せたリボンが揺れていた。


 腰を上げたレオニスの背中に、ガルドの声がかかった。


「字の先生。明日は、何の字だ?」


 レオニスは、振り向かなかった。


「……明日、決める」


 夜更けに、客間の扉を叩く音がした。


 エルナだった。


 燭台を手に、廊下に立っていた。泣いたあとのような目をしていた。けれど、泣いてはいなかった。


「……少しだけ、いいですか」


 レオニスは、黙って頷いた。


 エルナは、しばらく、燭台の火を見つめていた。


「兄さんは、優しいんです」


 ぽつりと、言った。


「子供たちにも、夫にも、私にも。笑って、ありがとうって言ってくれる。……二十年ぶんの話を、ちゃんと聞いてくれるんです。ひとつも、覚えていないのに」


 声が、かすかに揺れた。


「今日ね、兄さんに訊かれたんです。手首のリボンを見て。――これ、なんで巻いてんだろうな、って」


 エルナの指が、髪のリボンに触れた。


「……答えられませんでした」


 燭台を持つ手に、力がこもった。


「だから、お願いです。兄さんを、助けて――」


 言いかけて、エルナは口をつぐんだ。


 燭台の火が、揺れた。


 長い沈黙のあとで、エルナは、ゆっくりと首を振った。


「……ううん」


 鋼色の目が、まっすぐにレオニスを見た。


「兄さんに、選ばせてあげて」


 ――私は奪われた。でも、その先は私が選んだの。


 あの新月の夜、井戸の底まで降ってきた声と、同じ声だった。


 レオニスは、右の手のひらを見下ろした。


 明日の夜は、満月だった。

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