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光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


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第三章 北の子守唄

 向かいに座っているのは、父と母を殺した男だった。


 窓のない、石造りの小部屋だった。粗末な木の卓がひとつと、腰掛けがふたつ。卓の上で、短い蝋燭が一本、頼りなく揺れている。


 牢番は、欠伸まじりに鍵束を鳴らして、ミレイアをこの部屋に通した。伯爵家の使いの兄さんの連れなら、誰でも同じらしかった。


 卓の向こうで、熊のような男が、窮屈そうに背を丸めていた。剃り上げた頭。額から頬へ走る古い傷。鉄の枷(かせ)は、左の手首にだけはまっている。空っぽの右の袖は、腰紐に留めてあった。


 ボルグは、ミレイアの顔を見たまま、長いこと口をきかなかった。


「……嬢ちゃん」


 ようやく出てきたのは、かすれた声だった。


「兄ちゃんに、来てもらうつもりだったんだがな」


 ミレイアは、背筋を伸ばした。


「話を、聞きに来ただけです」


 夜明けのパン屋で、炭で書かれたあの手紙を、ミレイアも読んだ。


 聖女は牢でパンを配りながら、子守唄を歌っていたのだと、レオニスは言った。師匠が鍋をかき回しながら、いつも鼻でなぞっていたのと、同じ節の歌だ、と。


 外套を掴んで立ち上がったレオニスに、ミレイアは、自分でも驚くほどはっきりと言っていた。


 ――私が、聞きます。


 人づてに聞くのは、嫌だった。


 あの人のことは、自分の目で見て、自分の耳で聞く。裁きの間で、見たものを、見たとおりに話したように。


 レオニスは何か言いかけて、やめた。扉の外で待ってる、とだけ言った。


 胸もとが、かすかにぬるかった。


 気のせいではなかった。この部屋には、竈もない。蝋燭一本の火が、服の上から聖印を温めるはずもない。


 黒狼の里の炊事場で、この人に鍋の振り方を習っていたころも、胸もとがぬるかった気がする。竈の火のせいだと、気にも留めなかった。


 ひと月前の新月の夜、燃える陽だまりの家の前で、この人と背中合わせに立ったときは――冷たかったのに。


 ミレイアは、聖印に触れなかった。膝の上で、両手を重ねた。


 ボルグは、卓の上に置いた左手を、しばらく見下ろしていた。


「……北の、山奥の村の話だ」


 低い声が、ゆっくりと話しはじめた。


「冬になると、どこの家でも、同じシチューを作る村でな。……嬢ちゃんに教えた、あれだ」


 黒麦酒(ビール)に、干し肉と根菜。真っ黒に焦がした玉ねぎと、仕上げにひと匙(さじ)の蜂蜜。


 ――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。


「貧しい村だった。それに、黒き母を、こっそり拝んでる村でもあった。坊主に聞かれても平気なように、夜のかあさま、って呼んでな」


 ボルグの口の端が、わずかに歪んだ。


「村には、闇司祭がひとりだけいた。赤ん坊に名前をつけて、死んだ奴を送って、ガキどもに字を教えてた。みんな、先生って呼んでた。……俺は、石板を割ってばっかりの洟(はな)垂れだったがな」


 黒狼の里の、雨の夜。ミレイアが石板に書いた名前を、この人は読んだ。


 ――ミレイア・セレス。


「先生には、娘がいた。ヘルミって名の、泣き虫でな」


 ヘルミ、とボルグはもう一度、口の中で転がした。


「北の言葉で、真珠って意味だ。転んじゃ泣いて、夜が怖いって泣いて、シチューの蜂蜜が足りねえって泣いて。泣くたびに、誰かに両手を伸ばす子だった」


 大きな左手が、卓の上で、何かを包むような形になった。


「先生は、かみさんを早くに亡くしてな。毎晩、あの子を抱いて、子守唄を歌ってやってた。村じゅうに、聞こえてたよ」


 ボルグは、目を閉じた。


 太い喉の奥で、節が鳴った。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 ひどく調子の外れた、かすれた声だった。


「よるの かあさま ひを だいて」


 そこで、ボルグは口をつぐんだ。


「……三行目も、ある。村のガキなら、誰でも知ってる」


 それきり、続きは歌わなかった。


 蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。


「二十五年前の、冬だ。俺は、二十だった」


 ボルグの声が、低くなった。


「神殿騎士団が来た。異端の村だってな。――聖なる光の名において、この村を浄める。そう言って、家に火をつけて回った」


 ミレイアの指が、膝の上で強張った。


 白い外套。白銀の太陽の旗。九年間、仰いできたものだった。


「村の者は、広場に追い立てられて、泣いてた。ヘルミ嬢ちゃんも、先生の腕の中で泣き叫んでた。先生は、あの子を抱いたまま、子守唄を歌ってた。……それから」


 ボルグは、言葉を探すように、しばらく黙った。


「白くなった」


「……白く?」


「谷じゅうがだ。昼間より、白く。影って影が、なくなった」


 ミレイアは、息を止めた。


 白い礼拝堂。聖女の手のひらに灯った光。床の影も、柱の影も、消えた。


「泣き声が、ひとつずつ止んでいった。……それで、みんな、笑いだした」


 ボルグの左手が、ゆっくりと握りこまれた。枷の鎖が、卓の上で鳴った。


「笑ってたんだ。村が燃えてるのに」


 ボルグは、ミレイアを見なかった。卓の木目の一点を、じっと見つめていた。


「俺んちも、燃えてた。おふくろは、土間の竈の前に座りこんでた。ゆうべ仕込んだシチューの鍋の前でな。屋根に火が回ってるのに、逃げもしねえで――」


 声が、途切れた。


「おふくろが燃える家の中で笑ってるのを見ながら――俺も、笑ってた」


 ミレイアは、何も言えなかった。


 ひと月前、燃える陽だまりの家の前で、子供たちは泣いていた。煤だらけの顔で、互いの手を握りあって。自分たちの涙を、自分たちのものとして。


 その子供たちは今、宿舎の中庭で、白い服を着て笑っている。


「戸口に突っ立って笑ってた俺の襟首を、誰かが掴んだ。黄昏(たそがれ)みてえな色の火を、ぼろぼろにまとった男だった。そいつが俺を雪の上に放り出して、おふくろのほうへ飛びこもうとして……」


 ボルグは、目を伏せた。


「屋根が、落ちた」


 しばらく、どちらも口をきかなかった。


 蝋燭の火だけが、ふたりのあいだで揺れていた。


「広場のほうじゃ、とっくに、先生の背中から白いもんが立ち上がってた。家よりでかい、四つ足の獣みてえな、背中を丸めた巨人みてえな……顔の、ねえやつだ。口だけが、笑ってた」


 ボルグは、どこでもない宙を見ていた。


「泣いてたのは、ヘルミ嬢ちゃんだけだった。おとうさん、おとうさん、ってな。……あの子が泣きやんで、笑ったら、そのでかいのは崩れて、雪になった。あったけえのに、溶けねえ雪だった。先生は、どこにもいなかった」


「騎士たちは」


 訊いた声が、自分でも思いがけないほど、かすれていた。


「膝をついて、拝んでたよ。神の光だ、ってな。それから、若いのがひとり、笑ってるあの子を抱き上げて、連れていった。この子は光に選ばれた子だ、とか言ってな」


 ボルグは、枷の鳴る手で、額の古傷をなぞった。


「日が暮れても、谷じゅう、笑い声だった。焼け跡のあちこちで、みんな、暮れていく空を見上げて笑ってた。……暗くなってから、どこかで、ひとりだけ泣いてる奴がいたな。誰だったのかは、知らねえ」


 低い声が、少しだけ、揺れた。


「俺は、それを聞きながら、笑ってた」


 ミレイアは、膝の上の両手を、握りしめた。


「朝になって、腹が減った。だから、谷を出た。おふくろを、置いてな」


 淡々とした声だった。


「それから、あちこちを流れて、貴族の戦に駆り出されて、逃げて……あとは、嬢ちゃんも知ってのとおりだ」


 街道沿いの宿屋。両手を広げて立っていた父。台所の床に覆いかぶさっていた母。


 ボルグは、ようやく顔を上げた。


「悲しいはずなのに、今も、悲しくねえんだ」


 ミレイアを、まっすぐに見ていた。


「おふくろのことを思い出しても、胸のどこも痛まねえ。二十五年、ずっとだ。……それが、いちばん恐ろしい」


 大きな背中が、少しだけ丸くなった。


「あの聖女さんに、言われたよ。もう、救われていらっしゃるのですね、って。……あれで、わかった。あの日の白は、まだ、俺の中にある。どこにも、行っちゃいねえんだ」


 胸もとの聖印が、ぬるかった。


 話のあいだじゅう、ずっと。


「……言い訳には、ならねえがな」


 ボルグは、ぽつりと付け加えた。


 ミレイアは、首を振らなかった。頷きもしなかった。


「あの聖女さんが歌ってたのは、先生がヘルミ嬢ちゃんに歌ってた子守唄だ。村の外で、あの歌を知ってる奴はいねえ」


 ボルグは、左手を卓の上で握りしめた。


「年も、合う。生きてりゃ、ちょうど三十だ。……あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ」


 泣くたびに、誰かに両手を伸ばした子供。


 ――いいえ。……覚えているかぎりでは。


 神殿の地の底で、泣いたことがあるかと問われて、聖女はそう答えた。


 ミレイアは、長いこと、蝋燭の火を見つめていた。


 それから、腰掛けを立った。


 許すとは、言わなかった。言うつもりもなかった。


 けれど、扉に手をかける前に、振り返った。


「……話してくださって、ありがとうございます」


 ボルグが、目を見開いた。


 それから、ゆっくりと首を振った。


「礼を言われることは、何も――」


 裁きの間で、自分がこの人に返したのと、よく似た言葉だった。


◆


 扉は、細く開いたままだった。


 石の壁にもたれて、レオニスは、そこから漏れてくる声を、ひとことも聞き漏らさなかった。


 ――黄昏みてえな色の火を、ぼろぼろにまとった男だった。


 その言葉を聞いてから、息の仕方を忘れていた気がする。


 扉が開いて、ミレイアが出てきた。


 目が合った。ミレイアは何も言わずに、扉の脇へ退いた。


 レオニスは、面会室に入った。


 腰掛けには、座らなかった。


「……兄ちゃん」


 ボルグが、顔を上げた。


「その、黄昏色の火の男ってのは」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


 ボルグは、しばらくレオニスの顔を見ていた。


「村を出てった、もうひとりの闇司祭さ。冬になると、ふらっと帰ってきてな。先生んとこの竈の前で、ひと冬、シチューを食ってた。先生のことを、兄貴、って呼んでたよ」


 枷の鎖が、小さく鳴った。


「帰ってくるたびに、麓の町で蜂蜜を買ってきてな。ヘルミ嬢ちゃんのシチューに垂らす分だ、って。……オズワルドって、名だった」


 蝋燭の火が、揺れた。


「……俺の、師匠だ」


 ボルグの目が、ゆっくりと見開かれていった。


「……じゃあ」


 かすれた声だった。


「あのシチューは」


 黒狼の里の炊事場。湯気の向こうの、焦がし玉ねぎと黒麦酒と、ほんのかすかな蜂蜜の匂い。


「兄ちゃん、あんとき、泣いてたろ」


「……玉ねぎが、目に染みたんだよ」


「玉ねぎは、とっくに煮溶けてたがな」


 あの日と、同じやりとりだった。


 ボルグは笑おうとして、うまく笑えなかったようだった。


 師匠は、生まれた場所の話を、一度もしなかった。


 訊かなかった。訊いてはいけない気がしていた。レオニスが、陽だまりの家のことを、師匠に一度も話さなかったように。


 ――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。


 ――俺は一度だけ、見たことがある。……ありゃあ、ひでえもんだ。


 七年前、叙階の儀の夜。シチューの湯気の向こうで、あの人はそう言った。


 何の獣だったのかは、訊かなかった。


 白かったのだ。


 顔のない、口もとだけで笑う、白い獣。兄貴と呼んだ人の、白。


 あの叙階の儀で、あの人は、弟子の鏡が白く燃えるのを見ていた。


 ――よりにもよって、真っ白とはな。


 あのとき、あの人は、どんな顔をしていたのだろう。思い出せるのは、パイプに灯った夕暮れ色の火だけだった。


 あの人のシチューには、欠かさず、ひと匙の蜂蜜が垂らしてあった。


 誰のための、ひと匙だったのか。


 鍋をかき回しながら、いつも鼻でなぞっていた節。


 ――さあな。忘れちまった。


 忘れたわけが、なかった。


「……あの人は、今」


 ボルグが、訊いた。


「もう、いねえよ」


 ボルグは、目を閉じた。


「……礼を、言いそびれた」


 低い声だった。


「あの人に襟首を掴まれなきゃ、俺は、おふくろと一緒に笑ったまま焼けてた。……生き延びちまった」


 生き延びて、それから――


 レオニスは、扉のほうを振り返らなかった。


 そこに立っている人の顔は、見なくても、わかる気がした。


 牢を出ると、冬の日は、もう傾きかけていた。


 ミレイアは、黙って隣を歩いていた。


 川沿いの道に出たところで、レオニスは足を止めた。


「……悪い」


「何が、ですか」


「師匠が、あのおっさんを助けた」


 ミレイアも、足を止めた。


 しばらく、川面(かわも)を見ていた。


「あなたの師匠が助けたのは、燃える家の中で笑っていた、二十歳の人です」


 静かな声だった。


「そのあとのことは、あの人が選んだことです」


 それから、また歩きだした。


 レオニスは、その背中を見ていた。


 許したのではない。それは、わかっていた。


 見たものを、見たとおりに。――この娘は、いつも、そうだった。


◆


 新月から三日たった月は、日が沈むと、すぐに西の屋根の向こうへ落ちていった。


 爪の先で引っかいたような、細い月だった。


 書庫の屋根の上で、レオニスは、それを見送った。


 神殿に忍びこんだ夜のあとも、毎晩、ここに来ていた。宿舎の二階のいちばん端の窓は、日が暮れるとすぐに窓掛けが引かれて、それきり開かなかった。


 今夜も、閉じたままだった。


 瓦から腰を上げかけて――レオニスは、動きを止めた。


 路地に面した、宿舎の低い石塀の上に、白いものが見えた。


 人影だった。


 白い寝間着に、肩掛けを一枚。亜麻色の髪が、夜風に揺れている。塀の上に膝を抱えて座りこんで――


 空を、見上げていた。


 雨樋(あまどい)を伝って降り、路地を渡る。塀の真下に立っても、少女は気づかなかった。


 月の沈んだ空を、右から左へ。高いところから、低いところへ。


「……落ちるぞ」


 声をかけると、少女はようやく、こちらを見下ろした。


 目を瞬く。


「……また、あった」


 五度目だった。


「何してんだ、こんなとこで」


「おねえちゃんが、ねむったから」


 少女は、塀の上で、肩掛けを胸の前にかき寄せた。


「まどかけ、あけると、おねえちゃんが、しめるの。よるは、ひえるからって。……だから、そとに、でてみた」


 聖女に黙って出てきたのは初めてなのだと、少女は言った。どこか、不思議そうに。何をしたのか、まだよくわかっていないような顔で。


「……よるって、どうして、くらいの?」


「……日が、沈むからだろ」


 ――ねんね ねんね ひが しずむ


 少女は、ふうん、と頷いて、また空を見上げた。


「ほしって、なあに?」


 神殿の地の底で、少女は天井を見上げて「……ほし?」と言った。言葉を知らないわけではない。


 あれは、何なのか。――そう、訊いているのだ。


 ――死んだ奴は、星になるんだってさ。


 喉まで出かかった言葉を、レオニスは呑みこんだ。


 十二年前、泣いている女の子の手を引いて、窓辺でそう言った。お前のかあちゃん、どれかな、と。


 あの言葉を、今、この子に渡したら――


 黙りこんだレオニスを待たずに、少女の目は、もう空へ戻っていた。


 屋根と屋根のあいだに細く切り取られた、小さな夜空だった。


「……もっと、みたい」


 ぽつりと、少女が言った。


 レオニスは、呑みこんだ言葉のかわりに、別の言葉を探した。


「……見に行くか」


「ここじゃ、狭え。川の上なら、空が広い」


 少女は、長いこと、塀の上からレオニスの顔を見ていた。


 それから、こくりと頷いた。


「……いく」


 少女が、自分で決めた声だった。


 塀から飛び降りた少女の足には、薄い室内履きしかなかった。寝間着と肩掛け一枚では、見ているほうが寒い。


 レオニスは外套を脱いで、少女の肩に掛けた。


 少女は襟もとに鼻を寄せて、目を瞬いた。


「……パンの、におい」


「パン屋の屋根裏に、住んでんだよ」


 夜の通りを、並んで歩いた。


 石畳は、しんと冷えきっていた。少女はときどき立ち止まっては、家並みの上の細い空を見上げた。そのたびに、レオニスも足を止めた。


「あなた、なまえは?」


「レオニス」


「……れお、にす」


 少女は、ひと文字ずつ確かめるように、口の中で転がした。


 十二年前、あいつは、この名前を最後までうまく言えなかった。


 レオニスは、何も言わなかった。


 パン屋の裏口を開けると、蝋燭を手にしたミレイアが、階段の途中で固まっていた。寝間着の上に、剣帯だけを締めている。


 外套にくるまった少女と、シャツ一枚のレオニスを、交互に見る。


「……どういうことですか」


 レオニスは、短く答えた。


「星、見せる」


 ミレイアは、何か言おうとして、やめた。


 それから、長い息を吐いた。


「これは、罪状帳には書けませんね」


「なんでだよ」


「書いたら、証拠が残ります」


 澄ました顔で、そう言った。


 見張りは、ミレイアが引き受けた。


 屋根裏の梯子に足をかけたところで、背中に、毛布が一枚飛んできた。


 天窓から、屋根に出た。


 川の上には、何もなかった。


 建物も、塔も、灯りも。黒く流れる水の上に、空だけが、どこまでも広がっていた。


 月は、もうない。


 凍てついた冬の夜空いっぱいに、星が出ていた。


 少女は、瓦の上に立ち尽くしていた。外套の襟を両手で握りしめたまま、口を少しだけ開けたまま。


「……きれい」


 白い息が、夜にほどけていく。


「ずっと、これが、みたかった気がする」


 レオニスは、少女の隣に腰を下ろした。


 天窓の縁では、外套を羽織ったミレイアが、通りのほうを向いて、剣を膝に置いていた。


 少女は、しばらく黙って空を見ていた。


 右から左へ。高いところから、低いところへ。


「……なにか、さがしてる気がする」


 星から目を離さずに、少女が言った。


「なにを、さがしてるのか、わからないけど」


 レオニスは、黙って、同じ空を見上げた。


 やがて、少女は、小さな声で歌いはじめた。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 喉の奥で、何かが鳴った。


 気がつくと、レオニスは、その節をなぞっていた。言葉のない、鼻歌で。


 黒麦酒の鍋をかき回しながら、師匠が、いつもそうしていたように。


 少女が、ちらりとこちらを見た。


 それから、少しだけ笑って、続けた。


「よるの かあさま ひを だいて」


 鼻歌と歌声が、重なった。凍てついた屋根の上で、ひとつの節になった。


 ――三行目も、ある。村のガキなら、誰でも知ってる。


 面会室で、ボルグは、ここで歌うのをやめた。


 少女は、やめなかった。


「ないても いいよ よるの なか」


 鼻歌が、止まった。


 ないても、いいよ。


 よるの、なか。


 泣いても、いい。


 夜の、中なら。


 師匠は、何年も、この節をなぞっていた。鍋をかき回しながら。パイプをくわえながら。夕暮れ色の火を、指先に灯しながら。


 一度も、言葉を乗せなかった。


 レオニスは、星を見上げた。


 目の奥が、熱かった。


 暗くて、よかった、と思った。


「……おねえちゃんの、うた」


 少女が、ぽつりと言った。


「どうして、しってるの?」


「……俺の師匠の、歌だ」


 声が、かすれた。


「最後まで言葉を聞いたのは、今が初めてだ」


 少女は、黙ってレオニスの顔を見ていた。


 それから、訊いた。


「わたし、あなたを、しってた?」


 首が、少しだけ、右にかしいだ。


 十二年前と、同じ角度だった。


 ――知ってたよ。


 お前は、毎晩泣いてた。俺は、隣の寝台にいた。窓掛けを開けて、星を見せた。パンを、半分やった。


 全部、喉まで来た。


「……知りたいか」


 それだけ、訊いた。


 少女は、長いこと黙っていた。


 星を見て、レオニスを見て、また星を見た。


「……わからない」


 外套の襟に、顎をうずめる。


「でも、ここ、あったかい」


 夜半を過ぎたころ、少女は、帰る、と言った。


 裏口で、少女は外套を脱いで、レオニスに返した。それから、見張りを終えたミレイアを、じっと見上げた。


「あなたは、あのひとの、なに?」


 ミレイアが、固まった。


「か、監視役です」


「……へんなの」


 少女は、真面目な顔で頷いた。


 送っていく、とレオニスが言うと、少女は首を振った。


「ひとりで、かえれる」


 それから、ふと振り返った。


「また、みにきても、いい?」


「決めるのは、お前だ」


 少女は、少し考えた。


「……じゃあ、くる」


 ぱたぱたと、夜の通りへ駆けていく。


 レオニスとミレイアは、顔を見合わせた。


 それから、黙って、そのあとをついていった。


 少女が塀をよじ登って、宿舎の中へ消えるまで。見えないところから、ずっと。


◆


 聖女がパン屋に来たのは、翌日の昼下がりだった。


 店の戸口に白い衣が立つと、客のいない食堂の空気が、ぴんと張りつめた。


 戸口の外に、白い髭の騎士団長が見えた。中には、入ってこなかった。


 厨房から顔を出した親父が、聖女を見て、太い眉をぎゅっと寄せた。


「……聖女さまに出すような上等なもんは、うちにはねえぞ」


 聖女は、微笑んだ。


「こちらのパンはとてもおいしいと、聞いています」


 お世辞の色は、少しもなかった。


 親父は、ぐう、と唸って引っこんだ。しばらくして、干し葡萄(ぶどう)のパンがひとつ、卓の上にごとりと置かれた。


 聖女は、レオニスの向かいに腰を下ろした。


 陽を透かしたような白金の髪。淡い金色の瞳。


 ――あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ。


 泣き虫で、泣くたびに誰かへ両手を伸ばしていたという子供。その子が、この人なのか。穏やかな顔のどこにも、泣いた跡は見つからなかった。


 ミレイアは、座らなかった。レオニスの斜め後ろに、立ったままでいた。


 聖女が、やわらかく口を開いた。


「今朝、シエルが話してくれました。ゆうべ、パン屋さんの屋根で、星を見たと。……レオニスさん、というお名前も。何度も、何度も」


 咎める声ではなかった。


「夜は、冷えるのに」


「……あいつが、見たいって言ったんだ」


 聖女が、目を見開いた。


「シエルが?」


 それから、胸の前で、両手をそっと重ねた。


「……あの子が、何かを欲しがったのは、初めてです」


 淡い金色の瞳が、干し葡萄のパンに落ちた。


「あの子は、私が初めて救った子なのです」


 ひとり言のような声だった。


「十二年前、陽だまりの家の、白い礼拝堂で。毎晩、泣いていた子でした」


 指先が、冷たくなった。


 白い礼拝堂。司祭たちに手を引かれていった、小さな背中。


 あの扉の向こうにいたのは――


 聖女の声が、静かに続いた。


「隣の寝台の男の子が、あの子を返せと泣いて暴れたと、あとで司祭さまたちから聞きました」


 聖女は、レオニスの顔を見つめた。何かを確かめるように、目を細める。


「シエルを昔から知っている、あなたくらいの年の方なんて、陽だまりの家にいた子のほかには、いませんもの。……あなた、だったのですね」


 答えなかった。


 答えられなかった。


 聖女は、少しだけ目を伏せた。


「その子は、その夜のうちに、いなくなってしまったと聞きました」


 声が、ほんの少し、細くなった。


「ずっと、祈っていました。あの男の子も、いつか、泣かなくてすみますように、と」


 白い手が、卓の上を、そっとこちらへ伸びてきた。


「……よかった。こうして、お会いできて」


 指先が、ちりりと疼いた。


 ――そうだ。


 胸の底で、白が跳ねた。


 ――泣かなくていい。泣き声なんか、ひとつ残らず――


 止める間も、なかった。


 卓の上で、レオニスの指先から、白い光が噴き上がった。


 背後で、ミレイアが息を呑む気配がした。


 聖女の手が、止まった。


 淡い金色の瞳が、白い光を映して――見る見るうちに、輝いていった。


「……あなたの光も、白いのですね」


 声が、震えていた。喜びに。


「私と、同じ」


 レオニスは、拳を握りこんだ。指の隙間から、白が、まだ漏れていた。


 聖女は、まっすぐにレオニスを見ていた。


「一緒に、この街の涙を拭いませんか。あなたなら、わかるはずです。泣いている人を見ると、胸が、潰れそうになるでしょう?」


 違わなかった。


 ミルテの麦畑の隅の墓の前で、声を殺して泣いていたユナ。気づいたときには、その小さな頭へ、白い指先が伸びていた。


 泣き声を、聞いていたくなかった。


 十二年前の夜も、きっと――


「……違う」


 口から出たのは、それだけだった。


 聖女は、静かに訊いた。


「何が、違うのでしょう」


 答えを、心から知りたがっている顔だった。


 レオニスは、口を開いた。


 言葉は、出てこなかった。


 ――なんか、違う。


 黒狼の里の崖の上でも、それしか言えなかった。


 聖女とレオニスのあいだに、誰かが立った。


 ミレイアだった。


 剣の柄には、手をかけていない。ただまっすぐに立って、聖女を見下ろしていた。


「……この人は、まだ、答えを探しています」


 静かな声だった。


「今日は、お引き取りください」


 聖女は、ミレイアを見上げた。


 それから、ゆっくりと立ち上がった。


「では、答えが見つかったら、教えてくださいね」


 少しも、気を悪くしたふうはなかった。


 戸口で、聖女は振り返った。


「夜は、冷えますから。……あの子に、風邪をひかせないでくださいね」


 白い衣が、冬の光の中へ出ていった。


 戸口の外で、騎士団長が、店の中のミレイアをちらりと見た。それから何も言わずに、聖女のあとに続いた。


 卓の上で、干し葡萄のパンが、手つかずのまま残っていた。


 レオニスは、自分の手を見下ろした。


 白は、もう消えていた。


 ――私と、同じ。


◆


 その晩、レオニスは、屋根から降りてこなかった。


 次の日も、昼を過ぎても、屋根裏から出てこなかった。寝息は、聞こえなかった。


 夕方、ミレイアが厨房の隅を貸してほしいと言うと、親父が眉を吊り上げた。


「シチューだあ? 姉ちゃんが、か」


「……少しだけ、お借りします」


 親父はぶつぶつ言いながらも、いちばん小さな竈を空けてくれた。


 玉ねぎを、真っ黒になるまで焦がす。黒麦酒を注ぎ、干し肉と根菜を放りこむ。


 ――火が強すぎる。もっと、ゆっくりだ。こいつは、急かすと拗(す)ねるんだよ。


 黒狼の里の炊事場で、何度も聞いた声だった。


 この味を教えてくれたのは、父と母を殺した人だった。


 その人にこの味を教えたのは、燃える家の中で笑っていた母親だった。


 ミレイアは、鍋をかき回しつづけた。


 焦がさなかった。


 仕上げに、ひと匙の蜂蜜を垂らす。


 ――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。


 知っていた。蓋をして朝まで放っておけば、焦がし玉ねぎの苦みが丸くなる。干し肉に、味が染みる。


 ミレイアは、鍋を見下ろした。


 それから、天井を見上げた。


 朝まで待ったら、あの人は、今夜も屋根の上で夜を明かす。


 鍋を、火から下ろした。


 蓋は、しなかった。


「……寝かせねえのか」


 いつの間にか、親父が厨房の戸口から覗いていた。


「ひと晩寝かせりゃ化けるって、どっかの居候が講釈垂れてたぞ」


「……待てませんので」


 親父は、ふん、と鼻を鳴らして、引っこんでいった。


 屋根裏の梯子の下から声をかけると、長い沈黙のあとで、寝癖の頭がのぞいた。


 食堂の卓に、湯気の立つ椀を置く。


 レオニスは、椀を見下ろして、目を瞬いた。


「……お前が作ったのか」


「焦がしていません」


 レオニスは、匙を取った。


 ひと口、すすった。


 しばらく、何も言わなかった。


「……昼寝が、足りねえな」


 ミレイアは、懐から罪状帳を取り出した。


「罪状帳に書きます」


「なんでだよ」


「作った者の前で、味に文句をつけました」


 ペン先が、紙の上を走った。


 ――冬至まで二十四日:作った者の前で、シチューに文句。


 レオニスは、何か言い返そうとして、やめた。


 黙って、ふた口目をすすった。


「……違う、って言ったんだ」


 匙を止めて、ぼそりと言う。


「何が違うのか、自分でも、わかんねえ」


「では、寝かせておけばいいのです」


「……シチューかよ」


「昼寝の大切さなら、あなたがいちばん、よく知っているでしょう」


 レオニスは、椀の中を見下ろした。


「お前のシチューは、寝かせてねえけどな」


 ミレイアは、黙ってペンを走らせた。


 ――罪状、追加。


 レオニスは、三杯おかわりした。


 四杯目の椀を空(から)にしたところで、長い息を吐いた。


「……うまかった」


 ミレイアは、ペンを止めた。


 それから、少しだけ迷って、書き足した。


 ――シチュー、四杯。


◆


 半分に欠けた月が、拳ほどの明かり取りを横切っていった。


 牢のいちばん奥の房の、天井近くに開いた、ただひとつの穴だった。


 手紙は、いつものように、エルナが置いていった。


 子供の絵が三枚と、手紙が一通。


 ガルドは、寝台の端に寄って、廊下の松明の明かりに、それをかざした。


 大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいる。


 ひと文字ずつ、太い指でなぞる。


「……お、じ、さ、ま、へ」


 声に出さないと、まだ、読めない。


「お、か、あ、さ、ま、が……ち、い、さ、か、っ、た、と、き……」


 指が、進む。


「な、い、て、ば、か、り、い、た、って……ほ、ん、と?」


 ガルドは、噴き出した。


 喉の奥で、くつくつと笑う。


 ほんとだよ。


 転んじゃ泣いて、置いていかれちゃ泣いて。泣きながら、俺の後ろばっかり、ついてきやがった。


 ――ガルドにいちゃん。


 笑い声が、止まった。


 ――ガルドにいちゃん!


 遠ざかっていく、蹄(ひづめ)の音。


 井戸の底の、凍えるような水。


 上で、何度も、何度も、兄を呼んでいた声。


 出ていけなかった。怖くて、声も出せなかった。


 ガルドは、手紙を握ったまま、背を丸めた。


 左の手首に巻いた、色褪(あ)せたリボンに、指が触れた。


 声は、出さなかった。


 この二十年、ずっとそうしてきたように。奥歯を噛みしめて、肩を震わせて。大きな体を、石の寝台の上で、小さく、小さく折りたたんで。


 大の男が、手紙一通の前で、泣いていた。


「……泣いて、いらっしゃるのですね」


 格子の向こうに、白い衣があった。


 いつから、そこにいたのか。燭台を手にした聖女が、格子の前に膝をついていた。廊下の入り口に、白い外套の大きな影が、ひとつ控えている。


「来るな」


 かすれた声が出た。


「あなたは、二十年も、泣いてきたのでしょう」


 やわらかな声だった。


「狼谷(おおかみだに)の村のことも、妹さんのことも、聞きました。……もう、いいのですよ」


 白い手が、格子の隙間から、そっと差し入れられた。


 光っていた。


 頼んでも、いないのに。


 廊下の向かいの房で、枷の鎖が鳴った。


「やめろ」


 身を引こうとした。狭い房に、引く場所はなかった。


「やめろ――それは、俺の――」


 白い指先が、額に触れた。


 とっさに、その手首を掴み返していた。


「寄越――」


 奪うためでは、なかった。自分の涙を、渡すまいとしただけだった。


 掴んだ手の中に、何かが流れこんできた。


 雪。


 燃える村。


 家々よりも大きな、顔のない、白い巨人。


 その足もとで、小さな女の子が泣いていた。雪の上に座りこんで、両手を伸ばして。誰かを、呼んで。


 ――なんだ、こりゃ。


 ――このガキは――


 白が、流れこんできた。


 指先から。手のひらから。腕を伝って、胸の奥へ。


 あたたかかった。


 ひどく、あたたかかった。


 井戸の底の水が、ぬるんでいく。蹄の音が遠ざかって、小さな女の子の泣き声も、遠くなって――


 最後に見えたのは、寝台の脇に立てかけた石板だった。


 白墨の、自分の字。


 ――エルナ。


 朝だった。


 明かり取りから差しこむ冬の光が、房の床に、小さな白い四角を落としていた。


 ガルドは、寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。


 よく、眠った。


 こんなによく眠ったのは、いつ以来だろう。胸の中が、妙に軽かった。


 床に、紙切れが一枚落ちていた。子供の字が並んでいる。拾い上げて、寝台の脇に置いた。


 左の手首に、色褪せた茜(あかね)色のリボンが巻いてあった。子供の髪に結ぶような、小さなリボンだった。


 ――なんで、こんなもん、巻いてんだ。


 解(ほど)こうとして、指が止まった。


 なぜかは、わからなかった。


 それから、石板に目をやった。


 白墨の字が、並んでいた。


 大きさも傾きもばらばらな字が、下へいくほど、少しずつ揃っていく。最後のひとつは、見違えるほど、きれいだった。


 ――エルナ。


 ガルドは、穏やかに、どこまでも優しく笑って、それを見下ろした。


「……なんだ、こりゃ」


 太い指が、白墨の跡をなぞる。


「誰の名前だ?」

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