第三章 北の子守唄
向かいに座っているのは、父と母を殺した男だった。
窓のない、石造りの小部屋だった。粗末な木の卓がひとつと、腰掛けがふたつ。卓の上で、短い蝋燭が一本、頼りなく揺れている。
牢番は、欠伸まじりに鍵束を鳴らして、ミレイアをこの部屋に通した。伯爵家の使いの兄さんの連れなら、誰でも同じらしかった。
卓の向こうで、熊のような男が、窮屈そうに背を丸めていた。剃り上げた頭。額から頬へ走る古い傷。鉄の枷は、左の手首にだけはまっている。空っぽの右の袖は、腰紐に留めてあった。
ボルグは、ミレイアの顔を見たまま、長いこと口をきかなかった。
「……嬢ちゃん」
ようやく出てきたのは、かすれた声だった。
「兄ちゃんに、来てもらうつもりだったんだがな」
ミレイアは、背筋を伸ばした。
「話を、聞きに来ただけです」
夜明けのパン屋で、炭で書かれたあの手紙を、ミレイアも読んだ。
聖女は牢でパンを配りながら、子守唄を歌っていたのだと、レオニスは言った。師匠が鍋をかき回しながら、いつも鼻でなぞっていたのと、同じ節の歌だ、と。
外套を掴んで立ち上がったレオニスに、ミレイアは、自分でも驚くほどはっきりと言っていた。
――私が、聞きます。
人づてに聞くのは、嫌だった。
あの人のことは、自分の目で見て、自分の耳で聞く。裁きの間で、見たものを、見たとおりに話したように。
レオニスは何か言いかけて、やめた。扉の外で待ってる、とだけ言った。
胸もとが、かすかにぬるかった。
気のせいではなかった。この部屋には、竈もない。蝋燭一本の火が、服の上から聖印を温めるはずもない。
黒狼の里の炊事場で、この人に鍋の振り方を習っていたころも、胸もとがぬるかった気がする。竈の火のせいだと、気にも留めなかった。
ひと月前の新月の夜、燃える陽だまりの家の前で、この人と背中合わせに立ったときは――冷たかったのに。
ミレイアは、聖印に触れなかった。膝の上で、両手を重ねた。
ボルグは、卓の上に置いた左手を、しばらく見下ろしていた。
「……北の、山奥の村の話だ」
低い声が、ゆっくりと話しはじめた。
「冬になると、どこの家でも、同じシチューを作る村でな。……嬢ちゃんに教えた、あれだ」
黒麦酒に、干し肉と根菜。真っ黒に焦がした玉ねぎと、仕上げにひと匙の蜂蜜。
――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。
「貧しい村だった。それに、黒き母を、こっそり拝んでる村でもあった。坊主に聞かれても平気なように、夜のかあさま、って呼んでな」
ボルグの口の端が、わずかに歪んだ。
「村には、闇司祭がひとりだけいた。赤ん坊に名前をつけて、死んだ奴を送って、ガキどもに字を教えてた。みんな、先生って呼んでた。……俺は、石板を割ってばっかりの洟垂れだったがな」
黒狼の里の、雨の夜。ミレイアが石板に書いた名前を、この人は読んだ。
――ミレイア・セレス。
「先生には、娘がいた。ヘルミって名の、泣き虫でな」
ヘルミ、とボルグはもう一度、口の中で転がした。
「北の言葉で、真珠って意味だ。転んじゃ泣いて、夜が怖いって泣いて、シチューの蜂蜜が足りねえって泣いて。泣くたびに、誰かに両手を伸ばす子だった」
大きな左手が、卓の上で、何かを包むような形になった。
「先生は、かみさんを早くに亡くしてな。毎晩、あの子を抱いて、子守唄を歌ってやってた。村じゅうに、聞こえてたよ」
ボルグは、目を閉じた。
太い喉の奥で、節が鳴った。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
ひどく調子の外れた、かすれた声だった。
「よるの かあさま ひを だいて」
そこで、ボルグは口をつぐんだ。
「……三行目も、ある。村のガキなら、誰でも知ってる」
それきり、続きは歌わなかった。
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
「二十五年前の、冬だ。俺は、二十だった」
ボルグの声が、低くなった。
「神殿騎士団が来た。異端の村だってな。――聖なる光の名において、この村を浄める。そう言って、家に火をつけて回った」
ミレイアの指が、膝の上で強張った。
白い外套。白銀の太陽の旗。九年間、仰いできたものだった。
「村の者は、広場に追い立てられて、泣いてた。ヘルミ嬢ちゃんも、先生の腕の中で泣き叫んでた。先生は、あの子を抱いたまま、子守唄を歌ってた。……それから」
ボルグは、言葉を探すように、しばらく黙った。
「白くなった」
「……白く?」
「谷じゅうがだ。昼間より、白く。影って影が、なくなった」
ミレイアは、息を止めた。
白い礼拝堂。聖女の手のひらに灯った光。床の影も、柱の影も、消えた。
「泣き声が、ひとつずつ止んでいった。……それで、みんな、笑いだした」
ボルグの左手が、ゆっくりと握りこまれた。枷の鎖が、卓の上で鳴った。
「笑ってたんだ。村が燃えてるのに」
ボルグは、ミレイアを見なかった。卓の木目の一点を、じっと見つめていた。
「俺んちも、燃えてた。おふくろは、土間の竈の前に座りこんでた。ゆうべ仕込んだシチューの鍋の前でな。屋根に火が回ってるのに、逃げもしねえで――」
声が、途切れた。
「おふくろが燃える家の中で笑ってるのを見ながら――俺も、笑ってた」
ミレイアは、何も言えなかった。
ひと月前、燃える陽だまりの家の前で、子供たちは泣いていた。煤だらけの顔で、互いの手を握りあって。自分たちの涙を、自分たちのものとして。
その子供たちは今、宿舎の中庭で、白い服を着て笑っている。
「戸口に突っ立って笑ってた俺の襟首を、誰かが掴んだ。黄昏みてえな色の火を、ぼろぼろにまとった男だった。そいつが俺を雪の上に放り出して、おふくろのほうへ飛びこもうとして……」
ボルグは、目を伏せた。
「屋根が、落ちた」
しばらく、どちらも口をきかなかった。
蝋燭の火だけが、ふたりのあいだで揺れていた。
「広場のほうじゃ、とっくに、先生の背中から白いもんが立ち上がってた。家よりでかい、四つ足の獣みてえな、背中を丸めた巨人みてえな……顔の、ねえやつだ。口だけが、笑ってた」
ボルグは、どこでもない宙を見ていた。
「泣いてたのは、ヘルミ嬢ちゃんだけだった。おとうさん、おとうさん、ってな。……あの子が泣きやんで、笑ったら、そのでかいのは崩れて、雪になった。あったけえのに、溶けねえ雪だった。先生は、どこにもいなかった」
「騎士たちは」
訊いた声が、自分でも思いがけないほど、かすれていた。
「膝をついて、拝んでたよ。神の光だ、ってな。それから、若いのがひとり、笑ってるあの子を抱き上げて、連れていった。この子は光に選ばれた子だ、とか言ってな」
ボルグは、枷の鳴る手で、額の古傷をなぞった。
「日が暮れても、谷じゅう、笑い声だった。焼け跡のあちこちで、みんな、暮れていく空を見上げて笑ってた。……暗くなってから、どこかで、ひとりだけ泣いてる奴がいたな。誰だったのかは、知らねえ」
低い声が、少しだけ、揺れた。
「俺は、それを聞きながら、笑ってた」
ミレイアは、膝の上の両手を、握りしめた。
「朝になって、腹が減った。だから、谷を出た。おふくろを、置いてな」
淡々とした声だった。
「それから、あちこちを流れて、貴族の戦に駆り出されて、逃げて……あとは、嬢ちゃんも知ってのとおりだ」
街道沿いの宿屋。両手を広げて立っていた父。台所の床に覆いかぶさっていた母。
ボルグは、ようやく顔を上げた。
「悲しいはずなのに、今も、悲しくねえんだ」
ミレイアを、まっすぐに見ていた。
「おふくろのことを思い出しても、胸のどこも痛まねえ。二十五年、ずっとだ。……それが、いちばん恐ろしい」
大きな背中が、少しだけ丸くなった。
「あの聖女さんに、言われたよ。もう、救われていらっしゃるのですね、って。……あれで、わかった。あの日の白は、まだ、俺の中にある。どこにも、行っちゃいねえんだ」
胸もとの聖印が、ぬるかった。
話のあいだじゅう、ずっと。
「……言い訳には、ならねえがな」
ボルグは、ぽつりと付け加えた。
ミレイアは、首を振らなかった。頷きもしなかった。
「あの聖女さんが歌ってたのは、先生がヘルミ嬢ちゃんに歌ってた子守唄だ。村の外で、あの歌を知ってる奴はいねえ」
ボルグは、左手を卓の上で握りしめた。
「年も、合う。生きてりゃ、ちょうど三十だ。……あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ」
泣くたびに、誰かに両手を伸ばした子供。
――いいえ。……覚えているかぎりでは。
神殿の地の底で、泣いたことがあるかと問われて、聖女はそう答えた。
ミレイアは、長いこと、蝋燭の火を見つめていた。
それから、腰掛けを立った。
許すとは、言わなかった。言うつもりもなかった。
けれど、扉に手をかける前に、振り返った。
「……話してくださって、ありがとうございます」
ボルグが、目を見開いた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「礼を言われることは、何も――」
裁きの間で、自分がこの人に返したのと、よく似た言葉だった。
◆
扉は、細く開いたままだった。
石の壁にもたれて、レオニスは、そこから漏れてくる声を、ひとことも聞き漏らさなかった。
――黄昏みてえな色の火を、ぼろぼろにまとった男だった。
その言葉を聞いてから、息の仕方を忘れていた気がする。
扉が開いて、ミレイアが出てきた。
目が合った。ミレイアは何も言わずに、扉の脇へ退いた。
レオニスは、面会室に入った。
腰掛けには、座らなかった。
「……兄ちゃん」
ボルグが、顔を上げた。
「その、黄昏色の火の男ってのは」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
ボルグは、しばらくレオニスの顔を見ていた。
「村を出てった、もうひとりの闇司祭さ。冬になると、ふらっと帰ってきてな。先生んとこの竈の前で、ひと冬、シチューを食ってた。先生のことを、兄貴、って呼んでたよ」
枷の鎖が、小さく鳴った。
「帰ってくるたびに、麓の町で蜂蜜を買ってきてな。ヘルミ嬢ちゃんのシチューに垂らす分だ、って。……オズワルドって、名だった」
蝋燭の火が、揺れた。
「……俺の、師匠だ」
ボルグの目が、ゆっくりと見開かれていった。
「……じゃあ」
かすれた声だった。
「あのシチューは」
黒狼の里の炊事場。湯気の向こうの、焦がし玉ねぎと黒麦酒と、ほんのかすかな蜂蜜の匂い。
「兄ちゃん、あんとき、泣いてたろ」
「……玉ねぎが、目に染みたんだよ」
「玉ねぎは、とっくに煮溶けてたがな」
あの日と、同じやりとりだった。
ボルグは笑おうとして、うまく笑えなかったようだった。
師匠は、生まれた場所の話を、一度もしなかった。
訊かなかった。訊いてはいけない気がしていた。レオニスが、陽だまりの家のことを、師匠に一度も話さなかったように。
――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。
――俺は一度だけ、見たことがある。……ありゃあ、ひでえもんだ。
七年前、叙階の儀の夜。シチューの湯気の向こうで、あの人はそう言った。
何の獣だったのかは、訊かなかった。
白かったのだ。
顔のない、口もとだけで笑う、白い獣。兄貴と呼んだ人の、白。
あの叙階の儀で、あの人は、弟子の鏡が白く燃えるのを見ていた。
――よりにもよって、真っ白とはな。
あのとき、あの人は、どんな顔をしていたのだろう。思い出せるのは、パイプに灯った夕暮れ色の火だけだった。
あの人のシチューには、欠かさず、ひと匙の蜂蜜が垂らしてあった。
誰のための、ひと匙だったのか。
鍋をかき回しながら、いつも鼻でなぞっていた節。
――さあな。忘れちまった。
忘れたわけが、なかった。
「……あの人は、今」
ボルグが、訊いた。
「もう、いねえよ」
ボルグは、目を閉じた。
「……礼を、言いそびれた」
低い声だった。
「あの人に襟首を掴まれなきゃ、俺は、おふくろと一緒に笑ったまま焼けてた。……生き延びちまった」
生き延びて、それから――
レオニスは、扉のほうを振り返らなかった。
そこに立っている人の顔は、見なくても、わかる気がした。
牢を出ると、冬の日は、もう傾きかけていた。
ミレイアは、黙って隣を歩いていた。
川沿いの道に出たところで、レオニスは足を止めた。
「……悪い」
「何が、ですか」
「師匠が、あのおっさんを助けた」
ミレイアも、足を止めた。
しばらく、川面を見ていた。
「あなたの師匠が助けたのは、燃える家の中で笑っていた、二十歳の人です」
静かな声だった。
「そのあとのことは、あの人が選んだことです」
それから、また歩きだした。
レオニスは、その背中を見ていた。
許したのではない。それは、わかっていた。
見たものを、見たとおりに。――この娘は、いつも、そうだった。
◆
新月から三日たった月は、日が沈むと、すぐに西の屋根の向こうへ落ちていった。
爪の先で引っかいたような、細い月だった。
書庫の屋根の上で、レオニスは、それを見送った。
神殿に忍びこんだ夜のあとも、毎晩、ここに来ていた。宿舎の二階のいちばん端の窓は、日が暮れるとすぐに窓掛けが引かれて、それきり開かなかった。
今夜も、閉じたままだった。
瓦から腰を上げかけて――レオニスは、動きを止めた。
路地に面した、宿舎の低い石塀の上に、白いものが見えた。
人影だった。
白い寝間着に、肩掛けを一枚。亜麻色の髪が、夜風に揺れている。塀の上に膝を抱えて座りこんで――
空を、見上げていた。
雨樋を伝って降り、路地を渡る。塀の真下に立っても、少女は気づかなかった。
月の沈んだ空を、右から左へ。高いところから、低いところへ。
「……落ちるぞ」
声をかけると、少女はようやく、こちらを見下ろした。
目を瞬く。
「……また、あった」
五度目だった。
「何してんだ、こんなとこで」
「おねえちゃんが、ねむったから」
少女は、塀の上で、肩掛けを胸の前にかき寄せた。
「まどかけ、あけると、おねえちゃんが、しめるの。よるは、ひえるからって。……だから、そとに、でてみた」
聖女に黙って出てきたのは初めてなのだと、少女は言った。どこか、不思議そうに。何をしたのか、まだよくわかっていないような顔で。
「……よるって、どうして、くらいの?」
「……日が、沈むからだろ」
――ねんね ねんね ひが しずむ
少女は、ふうん、と頷いて、また空を見上げた。
「ほしって、なあに?」
神殿の地の底で、少女は天井を見上げて「……ほし?」と言った。言葉を知らないわけではない。
あれは、何なのか。――そう、訊いているのだ。
――死んだ奴は、星になるんだってさ。
喉まで出かかった言葉を、レオニスは呑みこんだ。
十二年前、泣いている女の子の手を引いて、窓辺でそう言った。お前のかあちゃん、どれかな、と。
あの言葉を、今、この子に渡したら――
黙りこんだレオニスを待たずに、少女の目は、もう空へ戻っていた。
屋根と屋根のあいだに細く切り取られた、小さな夜空だった。
「……もっと、みたい」
ぽつりと、少女が言った。
レオニスは、呑みこんだ言葉のかわりに、別の言葉を探した。
「……見に行くか」
「ここじゃ、狭え。川の上なら、空が広い」
少女は、長いこと、塀の上からレオニスの顔を見ていた。
それから、こくりと頷いた。
「……いく」
少女が、自分で決めた声だった。
塀から飛び降りた少女の足には、薄い室内履きしかなかった。寝間着と肩掛け一枚では、見ているほうが寒い。
レオニスは外套を脱いで、少女の肩に掛けた。
少女は襟もとに鼻を寄せて、目を瞬いた。
「……パンの、におい」
「パン屋の屋根裏に、住んでんだよ」
夜の通りを、並んで歩いた。
石畳は、しんと冷えきっていた。少女はときどき立ち止まっては、家並みの上の細い空を見上げた。そのたびに、レオニスも足を止めた。
「あなた、なまえは?」
「レオニス」
「……れお、にす」
少女は、ひと文字ずつ確かめるように、口の中で転がした。
十二年前、あいつは、この名前を最後までうまく言えなかった。
レオニスは、何も言わなかった。
パン屋の裏口を開けると、蝋燭を手にしたミレイアが、階段の途中で固まっていた。寝間着の上に、剣帯だけを締めている。
外套にくるまった少女と、シャツ一枚のレオニスを、交互に見る。
「……どういうことですか」
レオニスは、短く答えた。
「星、見せる」
ミレイアは、何か言おうとして、やめた。
それから、長い息を吐いた。
「これは、罪状帳には書けませんね」
「なんでだよ」
「書いたら、証拠が残ります」
澄ました顔で、そう言った。
見張りは、ミレイアが引き受けた。
屋根裏の梯子に足をかけたところで、背中に、毛布が一枚飛んできた。
天窓から、屋根に出た。
川の上には、何もなかった。
建物も、塔も、灯りも。黒く流れる水の上に、空だけが、どこまでも広がっていた。
月は、もうない。
凍てついた冬の夜空いっぱいに、星が出ていた。
少女は、瓦の上に立ち尽くしていた。外套の襟を両手で握りしめたまま、口を少しだけ開けたまま。
「……きれい」
白い息が、夜にほどけていく。
「ずっと、これが、みたかった気がする」
レオニスは、少女の隣に腰を下ろした。
天窓の縁では、外套を羽織ったミレイアが、通りのほうを向いて、剣を膝に置いていた。
少女は、しばらく黙って空を見ていた。
右から左へ。高いところから、低いところへ。
「……なにか、さがしてる気がする」
星から目を離さずに、少女が言った。
「なにを、さがしてるのか、わからないけど」
レオニスは、黙って、同じ空を見上げた。
やがて、少女は、小さな声で歌いはじめた。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
喉の奥で、何かが鳴った。
気がつくと、レオニスは、その節をなぞっていた。言葉のない、鼻歌で。
黒麦酒の鍋をかき回しながら、師匠が、いつもそうしていたように。
少女が、ちらりとこちらを見た。
それから、少しだけ笑って、続けた。
「よるの かあさま ひを だいて」
鼻歌と歌声が、重なった。凍てついた屋根の上で、ひとつの節になった。
――三行目も、ある。村のガキなら、誰でも知ってる。
面会室で、ボルグは、ここで歌うのをやめた。
少女は、やめなかった。
「ないても いいよ よるの なか」
鼻歌が、止まった。
ないても、いいよ。
よるの、なか。
泣いても、いい。
夜の、中なら。
師匠は、何年も、この節をなぞっていた。鍋をかき回しながら。パイプをくわえながら。夕暮れ色の火を、指先に灯しながら。
一度も、言葉を乗せなかった。
レオニスは、星を見上げた。
目の奥が、熱かった。
暗くて、よかった、と思った。
「……おねえちゃんの、うた」
少女が、ぽつりと言った。
「どうして、しってるの?」
「……俺の師匠の、歌だ」
声が、かすれた。
「最後まで言葉を聞いたのは、今が初めてだ」
少女は、黙ってレオニスの顔を見ていた。
それから、訊いた。
「わたし、あなたを、しってた?」
首が、少しだけ、右にかしいだ。
十二年前と、同じ角度だった。
――知ってたよ。
お前は、毎晩泣いてた。俺は、隣の寝台にいた。窓掛けを開けて、星を見せた。パンを、半分やった。
全部、喉まで来た。
「……知りたいか」
それだけ、訊いた。
少女は、長いこと黙っていた。
星を見て、レオニスを見て、また星を見た。
「……わからない」
外套の襟に、顎をうずめる。
「でも、ここ、あったかい」
夜半を過ぎたころ、少女は、帰る、と言った。
裏口で、少女は外套を脱いで、レオニスに返した。それから、見張りを終えたミレイアを、じっと見上げた。
「あなたは、あのひとの、なに?」
ミレイアが、固まった。
「か、監視役です」
「……へんなの」
少女は、真面目な顔で頷いた。
送っていく、とレオニスが言うと、少女は首を振った。
「ひとりで、かえれる」
それから、ふと振り返った。
「また、みにきても、いい?」
「決めるのは、お前だ」
少女は、少し考えた。
「……じゃあ、くる」
ぱたぱたと、夜の通りへ駆けていく。
レオニスとミレイアは、顔を見合わせた。
それから、黙って、そのあとをついていった。
少女が塀をよじ登って、宿舎の中へ消えるまで。見えないところから、ずっと。
◆
聖女がパン屋に来たのは、翌日の昼下がりだった。
店の戸口に白い衣が立つと、客のいない食堂の空気が、ぴんと張りつめた。
戸口の外に、白い髭の騎士団長が見えた。中には、入ってこなかった。
厨房から顔を出した親父が、聖女を見て、太い眉をぎゅっと寄せた。
「……聖女さまに出すような上等なもんは、うちにはねえぞ」
聖女は、微笑んだ。
「こちらのパンはとてもおいしいと、聞いています」
お世辞の色は、少しもなかった。
親父は、ぐう、と唸って引っこんだ。しばらくして、干し葡萄のパンがひとつ、卓の上にごとりと置かれた。
聖女は、レオニスの向かいに腰を下ろした。
陽を透かしたような白金の髪。淡い金色の瞳。
――あの聖女さんは、たぶん、ヘルミ嬢ちゃんだ。
泣き虫で、泣くたびに誰かへ両手を伸ばしていたという子供。その子が、この人なのか。穏やかな顔のどこにも、泣いた跡は見つからなかった。
ミレイアは、座らなかった。レオニスの斜め後ろに、立ったままでいた。
聖女が、やわらかく口を開いた。
「今朝、シエルが話してくれました。ゆうべ、パン屋さんの屋根で、星を見たと。……レオニスさん、というお名前も。何度も、何度も」
咎める声ではなかった。
「夜は、冷えるのに」
「……あいつが、見たいって言ったんだ」
聖女が、目を見開いた。
「シエルが?」
それから、胸の前で、両手をそっと重ねた。
「……あの子が、何かを欲しがったのは、初めてです」
淡い金色の瞳が、干し葡萄のパンに落ちた。
「あの子は、私が初めて救った子なのです」
ひとり言のような声だった。
「十二年前、陽だまりの家の、白い礼拝堂で。毎晩、泣いていた子でした」
指先が、冷たくなった。
白い礼拝堂。司祭たちに手を引かれていった、小さな背中。
あの扉の向こうにいたのは――
聖女の声が、静かに続いた。
「隣の寝台の男の子が、あの子を返せと泣いて暴れたと、あとで司祭さまたちから聞きました」
聖女は、レオニスの顔を見つめた。何かを確かめるように、目を細める。
「シエルを昔から知っている、あなたくらいの年の方なんて、陽だまりの家にいた子のほかには、いませんもの。……あなた、だったのですね」
答えなかった。
答えられなかった。
聖女は、少しだけ目を伏せた。
「その子は、その夜のうちに、いなくなってしまったと聞きました」
声が、ほんの少し、細くなった。
「ずっと、祈っていました。あの男の子も、いつか、泣かなくてすみますように、と」
白い手が、卓の上を、そっとこちらへ伸びてきた。
「……よかった。こうして、お会いできて」
指先が、ちりりと疼いた。
――そうだ。
胸の底で、白が跳ねた。
――泣かなくていい。泣き声なんか、ひとつ残らず――
止める間も、なかった。
卓の上で、レオニスの指先から、白い光が噴き上がった。
背後で、ミレイアが息を呑む気配がした。
聖女の手が、止まった。
淡い金色の瞳が、白い光を映して――見る見るうちに、輝いていった。
「……あなたの光も、白いのですね」
声が、震えていた。喜びに。
「私と、同じ」
レオニスは、拳を握りこんだ。指の隙間から、白が、まだ漏れていた。
聖女は、まっすぐにレオニスを見ていた。
「一緒に、この街の涙を拭いませんか。あなたなら、わかるはずです。泣いている人を見ると、胸が、潰れそうになるでしょう?」
違わなかった。
ミルテの麦畑の隅の墓の前で、声を殺して泣いていたユナ。気づいたときには、その小さな頭へ、白い指先が伸びていた。
泣き声を、聞いていたくなかった。
十二年前の夜も、きっと――
「……違う」
口から出たのは、それだけだった。
聖女は、静かに訊いた。
「何が、違うのでしょう」
答えを、心から知りたがっている顔だった。
レオニスは、口を開いた。
言葉は、出てこなかった。
――なんか、違う。
黒狼の里の崖の上でも、それしか言えなかった。
聖女とレオニスのあいだに、誰かが立った。
ミレイアだった。
剣の柄には、手をかけていない。ただまっすぐに立って、聖女を見下ろしていた。
「……この人は、まだ、答えを探しています」
静かな声だった。
「今日は、お引き取りください」
聖女は、ミレイアを見上げた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「では、答えが見つかったら、教えてくださいね」
少しも、気を悪くしたふうはなかった。
戸口で、聖女は振り返った。
「夜は、冷えますから。……あの子に、風邪をひかせないでくださいね」
白い衣が、冬の光の中へ出ていった。
戸口の外で、騎士団長が、店の中のミレイアをちらりと見た。それから何も言わずに、聖女のあとに続いた。
卓の上で、干し葡萄のパンが、手つかずのまま残っていた。
レオニスは、自分の手を見下ろした。
白は、もう消えていた。
――私と、同じ。
◆
その晩、レオニスは、屋根から降りてこなかった。
次の日も、昼を過ぎても、屋根裏から出てこなかった。寝息は、聞こえなかった。
夕方、ミレイアが厨房の隅を貸してほしいと言うと、親父が眉を吊り上げた。
「シチューだあ? 姉ちゃんが、か」
「……少しだけ、お借りします」
親父はぶつぶつ言いながらも、いちばん小さな竈を空けてくれた。
玉ねぎを、真っ黒になるまで焦がす。黒麦酒を注ぎ、干し肉と根菜を放りこむ。
――火が強すぎる。もっと、ゆっくりだ。こいつは、急かすと拗ねるんだよ。
黒狼の里の炊事場で、何度も聞いた声だった。
この味を教えてくれたのは、父と母を殺した人だった。
その人にこの味を教えたのは、燃える家の中で笑っていた母親だった。
ミレイアは、鍋をかき回しつづけた。
焦がさなかった。
仕上げに、ひと匙の蜂蜜を垂らす。
――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。
知っていた。蓋をして朝まで放っておけば、焦がし玉ねぎの苦みが丸くなる。干し肉に、味が染みる。
ミレイアは、鍋を見下ろした。
それから、天井を見上げた。
朝まで待ったら、あの人は、今夜も屋根の上で夜を明かす。
鍋を、火から下ろした。
蓋は、しなかった。
「……寝かせねえのか」
いつの間にか、親父が厨房の戸口から覗いていた。
「ひと晩寝かせりゃ化けるって、どっかの居候が講釈垂れてたぞ」
「……待てませんので」
親父は、ふん、と鼻を鳴らして、引っこんでいった。
屋根裏の梯子の下から声をかけると、長い沈黙のあとで、寝癖の頭がのぞいた。
食堂の卓に、湯気の立つ椀を置く。
レオニスは、椀を見下ろして、目を瞬いた。
「……お前が作ったのか」
「焦がしていません」
レオニスは、匙を取った。
ひと口、すすった。
しばらく、何も言わなかった。
「……昼寝が、足りねえな」
ミレイアは、懐から罪状帳を取り出した。
「罪状帳に書きます」
「なんでだよ」
「作った者の前で、味に文句をつけました」
ペン先が、紙の上を走った。
――冬至まで二十四日:作った者の前で、シチューに文句。
レオニスは、何か言い返そうとして、やめた。
黙って、ふた口目をすすった。
「……違う、って言ったんだ」
匙を止めて、ぼそりと言う。
「何が違うのか、自分でも、わかんねえ」
「では、寝かせておけばいいのです」
「……シチューかよ」
「昼寝の大切さなら、あなたがいちばん、よく知っているでしょう」
レオニスは、椀の中を見下ろした。
「お前のシチューは、寝かせてねえけどな」
ミレイアは、黙ってペンを走らせた。
――罪状、追加。
レオニスは、三杯おかわりした。
四杯目の椀を空にしたところで、長い息を吐いた。
「……うまかった」
ミレイアは、ペンを止めた。
それから、少しだけ迷って、書き足した。
――シチュー、四杯。
◆
半分に欠けた月が、拳ほどの明かり取りを横切っていった。
牢のいちばん奥の房の、天井近くに開いた、ただひとつの穴だった。
手紙は、いつものように、エルナが置いていった。
子供の絵が三枚と、手紙が一通。
ガルドは、寝台の端に寄って、廊下の松明の明かりに、それをかざした。
大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいる。
ひと文字ずつ、太い指でなぞる。
「……お、じ、さ、ま、へ」
声に出さないと、まだ、読めない。
「お、か、あ、さ、ま、が……ち、い、さ、か、っ、た、と、き……」
指が、進む。
「な、い、て、ば、か、り、い、た、って……ほ、ん、と?」
ガルドは、噴き出した。
喉の奥で、くつくつと笑う。
ほんとだよ。
転んじゃ泣いて、置いていかれちゃ泣いて。泣きながら、俺の後ろばっかり、ついてきやがった。
――ガルドにいちゃん。
笑い声が、止まった。
――ガルドにいちゃん!
遠ざかっていく、蹄の音。
井戸の底の、凍えるような水。
上で、何度も、何度も、兄を呼んでいた声。
出ていけなかった。怖くて、声も出せなかった。
ガルドは、手紙を握ったまま、背を丸めた。
左の手首に巻いた、色褪せたリボンに、指が触れた。
声は、出さなかった。
この二十年、ずっとそうしてきたように。奥歯を噛みしめて、肩を震わせて。大きな体を、石の寝台の上で、小さく、小さく折りたたんで。
大の男が、手紙一通の前で、泣いていた。
「……泣いて、いらっしゃるのですね」
格子の向こうに、白い衣があった。
いつから、そこにいたのか。燭台を手にした聖女が、格子の前に膝をついていた。廊下の入り口に、白い外套の大きな影が、ひとつ控えている。
「来るな」
かすれた声が出た。
「あなたは、二十年も、泣いてきたのでしょう」
やわらかな声だった。
「狼谷の村のことも、妹さんのことも、聞きました。……もう、いいのですよ」
白い手が、格子の隙間から、そっと差し入れられた。
光っていた。
頼んでも、いないのに。
廊下の向かいの房で、枷の鎖が鳴った。
「やめろ」
身を引こうとした。狭い房に、引く場所はなかった。
「やめろ――それは、俺の――」
白い指先が、額に触れた。
とっさに、その手首を掴み返していた。
「寄越――」
奪うためでは、なかった。自分の涙を、渡すまいとしただけだった。
掴んだ手の中に、何かが流れこんできた。
雪。
燃える村。
家々よりも大きな、顔のない、白い巨人。
その足もとで、小さな女の子が泣いていた。雪の上に座りこんで、両手を伸ばして。誰かを、呼んで。
――なんだ、こりゃ。
――このガキは――
白が、流れこんできた。
指先から。手のひらから。腕を伝って、胸の奥へ。
あたたかかった。
ひどく、あたたかかった。
井戸の底の水が、ぬるんでいく。蹄の音が遠ざかって、小さな女の子の泣き声も、遠くなって――
最後に見えたのは、寝台の脇に立てかけた石板だった。
白墨の、自分の字。
――エルナ。
朝だった。
明かり取りから差しこむ冬の光が、房の床に、小さな白い四角を落としていた。
ガルドは、寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。
よく、眠った。
こんなによく眠ったのは、いつ以来だろう。胸の中が、妙に軽かった。
床に、紙切れが一枚落ちていた。子供の字が並んでいる。拾い上げて、寝台の脇に置いた。
左の手首に、色褪せた茜色のリボンが巻いてあった。子供の髪に結ぶような、小さなリボンだった。
――なんで、こんなもん、巻いてんだ。
解こうとして、指が止まった。
なぜかは、わからなかった。
それから、石板に目をやった。
白墨の字が、並んでいた。
大きさも傾きもばらばらな字が、下へいくほど、少しずつ揃っていく。最後のひとつは、見違えるほど、きれいだった。
――エルナ。
ガルドは、穏やかに、どこまでも優しく笑って、それを見下ろした。
「……なんだ、こりゃ」
太い指が、白墨の跡をなぞる。
「誰の名前だ?」




