↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第二章 白陽の聖女

 白い礼拝堂の中では、泣き声が、順番を待っていた。


 長椅子を片づけた身廊に、人々が一列に並んでいる。すすり泣く女。唇を噛んで、床の一点を見つめている男。母親の裾にしがみついて、しゃくりあげている子供。押し殺した泣き声が、白い壁に吸いこまれては、また生まれてくる。


 列の先頭で、ひとつ、泣き声が消えた。


 またひとつ。


 ミレイアは、その列の中ほどに立っていた。


 夜明け前の仕込みを終えてから、ここへ来た。屋根裏からは、珍しく寝息が聞こえていた。ゆうべ屋根の上で夜を明かした人は、朝になって、ようやく眠ったらしい。


 自分の目で、見るために来たのだ。


 昨日は、確かめられなかったものを。


 前に並んだ女が、赤い目で振り返った。


「お嬢さんも、どなたかを亡くしたのかい」


 ミレイアは、少し考えてから答えた。


「……はい。ずっと、前に」


 女は、そう、とだけ言って、また前を向いた。


 祭壇の前に、白い衣の聖女が立っていた。


 陽を透かしたような白金の髪が、高窓から差しこむ冬の光を受けて、淡く光っている。進み出た者の手を、両手でそっと包む。何ごとか短く囁く。


 白い光が、灯る。


 そのたびに、礼拝堂の中から影が消えた。床の影も、並んだ人々の足もとの影も、柱の影も。ほんの束の間、白い壁の内側が、真昼よりも白く染まる。


 光が引くと、祈りを受けた者は、笑っていた。


 そして、脇の小さな扉から、軽い足取りで出ていく。


 聖女さまは朝から一度もお休みになっていないのだ、と、列のどこかで誰かが囁いていた。見れば、白い額に、うっすらと汗が浮いている。それでも、次の者に向ける微笑みは、少しも翳(かげ)らなかった。


 聖女の斜め後ろに、ひとりの騎士が立っていた。


 白い髭をたくわえた、岩のような男。灰色の目が、進み出る者のひとりひとりを、黙って見据えている。


 神殿騎士団の、騎士団長だった。


 ひと月前、あの執務室の机に、見習いの徽章(きしょう)を置いてきた。その机の向こうにいた人だ。


 列が進むにつれて、胸の聖印に、何度も指が伸びかけた。


 そのたびに、止めた。


 確かめるなら、目の前で。そう決めていた。


 昼の鐘が鳴るころ、ミレイアの番が来た。


 祭壇の前へ進み出たとたん、灰色の目が、こちらを射抜いた。


「……セレス」


 騎士団長の声は、低かった。


「同罪の者が、何の用だ」


 ミレイアは、背筋を伸ばした。


「列に並んでおりました。……順番ですので」


 騎士団長の眉が、ぴくりと動いた。


 その前に、白い衣の袖が、すっと差し出された。


「私のお客さまです」


 聖女だった。


 騎士団長は、なおも何か言いかけた。


「しかし、ソレーヌさま。この者は――」


 ソレーヌ。


 それが、聖女の名前だった。


 聖女は、騎士団長を振り返って、やわらかく首を振った。


「いいのです、ゴドフロワ」


 騎士団長が、口をつぐんだ。


 聖女は、ミレイアに向き直った。淡い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。


「……セレス。では、あなたが、ミレイアさんね」


 ミレイアは、息を呑んだ。


 聖女は、静かに続けた。


「ご両親のこと、聞きました。裁きの間で、あなたが証言なさったことも」


 詮索する色は、少しもなかった。ただ、痛ましいものを見るように、目を細めている。


「その憎しみは、重いでしょう」


 白い手が、そっと差し出された。


 包みこもうとするように。


 ミレイアは、その手を見下ろした。


 細く、白い手だった。朝から、数えきれない人の手を包んできた手。


 重いか、と訊かれれば、重い。


 九年間、ずっと重かった。


 床下の暗闇で聞いた、父の怒鳴り声。母の悲鳴。雨の夜、首を差し出した片腕の男。燃える孤児院の前で、石畳に突き立てた剣。


 一生、許さない。


 あの夜、自分で、そう選んだ。


「これは、私のものです」


 声は、震えなかった。


 聖女の手が、宙で止まった。


 聖女は、淡い金色の瞳を、ゆっくりと瞬いた。咎めるふうでも、傷ついたふうでもない。ただ、ほんの少し不思議そうに、ミレイアの顔を見つめていた。


 それから、手を引いて、微笑んだ。


「いつでも、いらしてくださいね」


 ミレイアが脇へ退(の)くと、次の者が進み出た。


 背の曲がった、痩せた老人だった。


 節くれだった手に、焼け焦げた布の切れ端を握りしめている。子供の上着の、袖だったのかもしれない。


「孫が……あの晩の、火事で……」


 老人は、それだけ言うのがやっとだった。


 聖女は、何も訊かなかった。


 老人の震える両手を、布の切れ端ごと、白い両手で包みこむ。


「もう、泣かなくていいのですよ」


 白い光が、灯った。


 その瞬間――


 胸もとが、熱くなった。


 ミレイアは、とっさに聖印を握りしめた。


 白銀の太陽が、手のひらの中で、火にかざした銅貨のように熱を持っていた。


 邪な術が人の心を縛っていれば、熱を持つ聖印。


 神殿の教本で、そう教わった。トルカ村の広場で、闇司祭を前にして握りしめたときは、ひんやりと冷たいままだった。


 熱くなったのは、一度だけだ。


 ミルテの広場で、黒い石を握った村人たちが、ひとり、またひとりと笑いだしたとき。


 ――同じ、熱さだった。


 光が、引いた。


 老人は、笑っていた。


 握りしめていた焼け焦げの布を、不思議そうに見下ろし、それから、祭壇の端にそっと置いた。もう要らない、とでもいうように。


 軽い足取りで、脇の扉へ歩いていく。


 ミレイアは、動けなかった。


 聖印を握る指の関節が、白くなっていた。


 九年間、この白銀の太陽を胸に、剣を振ってきた。邪なものを見分けるための、聖なる印。聖光教会の騎士であることの、何よりの証。


 その太陽が、聖女の祈りに、熱を持っている。


 黒い石と、同じ熱さで。


 視界の端で、何かが動いた。


 聖女の斜め後ろに立つ、騎士団長の手だった。


 その胸にも、白銀の太陽が揺れている。


 ほんの一瞬――まばたきひとつのあいだだけ、大きな手が、その聖印に触れた。


 灰色の目は、まっすぐ前を向いたままだった。


 手は、すぐに下ろされた。


 何もなかったかのように。


 脇の小さな扉を出ると、宿舎の中庭に沿った小径(こみち)だった。


 鉄の柵の向こうから、子供たちの笑い声が聞こえてくる。


 ミレイアは、足を止めた。


 知っている顔が、いくつもあった。


 ひと月前の夜、燃える陽だまりの家の前で、ミレイアとボルグの背中のあいだに身を寄せあっていた子供たちだった。煤だらけの顔で泣きながら、それでも互いの手を握りあっていた子供たち。夜明けに、片腕の男の大きな体に寄りかかって眠っていた子供たち。


 みんな、真新しい白い服を着ていた。


 そして、そろって、笑っていた。


 柵のすぐそばで、いちばん小さな女の子が、石蹴りをしていた。あの夜、棍棒を振りかぶった男が、うちの娘と同じくらいだ、と呟いた子だった。


 ミレイアは、柵越しにしゃがみこんだ。


「……あの夜は、怖かったでしょう」


 女の子が、顔を上げた。


 にっこりと笑う。知らない大人に向ける、人懐っこい笑顔だった。


「こわい夜?」


 きょとんと、目を丸くする。


「……なあに、それ」


 ミレイアは、何も言えなかった。


 片腕の男の背中に寄りかかって眠っていたことも、この子は、もう覚えていないのだ。


 中庭の奥の長椅子に、白い衣の少女が腰かけていた。


 膝のあいだに座らせた子供の髪を、櫛(くし)で梳(す)いている。ゆっくりと、丁寧に。梳き終えると、次の子が、待ちかねたように膝のあいだへ潜(もぐ)りこむ。


 亜麻色の髪の少女。シエル、とあの人は呼んでいた。


 少女が、ふと顔を上げた。


 目が、合った。


 少女は、目を瞬いて――それから、胸の前で、小さく手を振った。


 ゆうべ、屋根の上に向けたのと、同じ仕草だった。


 ミレイアは、どうしていいかわからずに、小さく頭を下げた。


 胸の聖印は、まだ、ぬるかった。


 白い服の子供たちの笑い声の中で、いつまでも、ぬるいままだった。


 ミレイアは、それを服の上から、握りしめた。


◆


 鉄格子の向こうで、黒狼が字を書いていた。


 昼過ぎに屋根裏で目を覚まして、そのまま牢へ来た。入り口で、牢番の男が、欠伸(あくび)まじりに鍵束を鳴らした。


「また伯爵家の使いの兄さんか。伯爵さまってのは、よっぽど暇なんだな」


 伯爵家の使い、ということにして、この牢に通うようになって、ひと月になる。


 いちばん奥の房で、ガルドは、狭い石の寝台に大きな体を窮屈そうに押しこんでいた。膝の上の石板に、額がつくほど顔を寄せている。太い指につまんだ白墨が、ぎし、ぎし、と石板を鳴らしていた。


 房の壁は、あいかわらず、子供の描いた絵で埋まっていた。


「……よし」


 ガルドが、石板を格子のほうへ突き出した。


 石板いっぱいに、同じ字が並んでいた。


 ――エルナ。エルナ。エルナ。


 はじめのうちは大きさも傾きもばらばらだった字が、下へいくほど、少しずつ揃っていく。最後のひとつは、見違えるほど、きれいだった。


「どうだ」


「うまくなったな」


 レオニスが言うと、ガルドは鼻を鳴らして、石板を膝に戻した。口の端が、隠しきれずに上がっている。


「次は、これだ」


 白墨が、また石板を鳴らす。


 ぎし、ぎし。


 ガルドはしばらく自分の書いた字を睨んでいたが、やがて、得意げに石板を掲げた。


 ――エナ。


「……誰だよ、エナって」


「ユナだ」


「エになってる」


 ガルドは、石板を見た。


 レオニスを見た。


 もう一度、石板を見た。


「……エルナのエが、手に染みついちまってんだよ」


 ぶつぶつ言いながら、手のひらで字を拭い消す。


「なんでユナなんだ」


「焦げたパンの礼だ」


 ガルドは、石板から目を上げずに言った。


「礼を言うなら、名前くらい書けなきゃ、格好がつかねえだろうが」


 レオニスは、少しだけ笑った。


 笑ってから、自分が、おとといから一度も笑っていなかったことに気づいた。


 ガルドが、白墨を止めた。


「……しけた面(つら)だな」


 鋼色の目が、格子越しに、じっとこちらを見ている。


「何があった」


 レオニスは、しばらく黙っていた。


 字を教えて、差し入れを渡して、他愛のない話をして帰る。この牢で過ごすのは、いつも、それだけの時間だった。


「……白い部屋の、あいつがいた」


 ガルドの眉が、ぴくりと動いた。


 ひと月半ほど前、黒狼の里の崖の上で、この男は訊いたのだ。黒狼砦(とりで)の大広間で、レオニスの胸の奥に手を沈め、いちばん大事なものを掴みかけたときに、見えたもの。


 ――白い部屋で、ずっと笑ってるガキがいた。……あれ、誰だ?


「……ずっと笑ってる、ガキか」


「ああ」


 レオニスは、格子にもたれた。


「今も、笑ってた。……俺のこと、覚えてなかった」


 ガルドは、何も言わなかった。


 慰めもしなかった。


 ただ、もう一度、白墨を石板に当てた。


 ぎし、ぎし。


 しばらくのあいだ、その音だけが、牢の奥に響いていた。


 やがて、廊下に足音がした。


 さっきの牢番が、向かいの壁に紙を一枚、貼りつけていった。白銀の太陽の紋章が、松明(たいまつ)の明かりに光る。


 あちこちの房で、囚人たちが格子に顔を寄せた。


「なんて書いてある」


「読めねえよ、そんなもん」


 ざわめきの中で、ガルドが、ゆっくりと石板を置いた。


 寝台を下り、格子に顔を寄せる。鋼色の目が、廊下の向かいの壁の紙を、じっと見つめた。


 レオニスは、口を開きかけて――閉じた。


 ガルドの唇が、動いていた。


「……しん、げつ、の……よる、の……ざい、にん、に……」


 一文字ずつ。石板をなぞるように。


「……じょう、か、の……ゆる、し」


 ――新月の夜の罪人に、浄化の赦(ゆる)しを。


 ――聖女の光を受けし者は、罪の記憶とともに生まれ変わりし者とみなし、恩赦を与う。


 時間はかかった。それでもガルドは、最後の一文字まで、自分で読み切った。一文字も、飛ばさなかった。


 廊下が、どよめいた。


「恩赦……?」


「忘れりゃ、出られるってのか」


「聖女さまの光を受けりゃ、首を吊られずに済むのか!」


 あちこちの格子が、がたがたと鳴った。


 ガルドは、格子から顔を離した。


 寝台に腰を下ろし、石板を膝に戻す。


「……俺は、要らねえよ」


 ぼそりと、言った。


「俺の二十年だ。誰にもやらねえ」


 白墨が、また石板を鳴らしはじめた。


 ぎし、ぎし。


 廊下の向かいの房で、大きな影が身じろぎした。


 格子の向こうの薄暗がりに、熊のような男が座っていた。剃り上げた頭。空っぽの右の袖。


 ボルグだった。


「……俺もだ」


 低い声だった。


「忘れたら、あの二人に、詫びることもできなくなる」


 あの二人。


 街道沿いの宿屋で、両手を広げて立っていた主人と、台所の床に覆いかぶさっていた女将(おかみ)。


 レオニスは、何も言わなかった。


 日が傾きかけたころ、廊下の入り口が、にわかにざわめいた。


 牢番が、上ずった声で告げた。


「聖女さまの、お成りだ」


 白い衣の聖女が、廊下に入ってきた。


 薄暗い石の廊下に、そこだけ陽が差したようだった。後ろに、大きな籠を抱えた白い衣の少女。その後ろに、白い外套の騎士がふたり。


 聖女は、房のひとつひとつの前で足を止めて、格子越しにパンを手渡していった。


 手渡しながら、小さな声で、歌っていた。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 おととい、馬車の踏み台で、少女が口ずさんでいた歌だった。


 師匠の、鼻歌。


「よるの かあさま ひを だいて」


 二行目が、あった。


 レオニスは、息を詰めた。


 よるの、かあさま。


 夜の、母さま。


 ――小さなランタンを抱いた、顔のない女。


 聖女の唇が、三行目を紡ごうとした。


 その声を、叫びが呑みこんだ。


「聖女さま!」


「俺にも、光を!」


「忘れさせてくれ、頼む、恩赦を――!」


 格子という格子から、手が伸びていた。


 聖女は、少しも怯(ひる)まなかった。


 差し出される手を、ひとつひとつ、格子越しに包んでいく。


「もう、泣かなくていいのですよ」


 白い光が、廊下を満たした。


 松明の影が消える。格子の影も。囚人たちの影も。光が引くたびに、格子の向こうで、ひとり、またひとりと、穏やかな笑い声が上がった。


 斜め向かいの房で、ついさっきまで格子にしがみついていた男が、寝台に腰を下ろしていた。あの晩、人を殺(あや)めて、吊られるのを待っているのだと、牢番から聞いていた男だった。


 男は、穏やかに、どこまでも優しく、笑っていた。


 指先が、ちりりと疼いた。


 ――全部、消してしまえ。


 レオニスは、拳を握りこんだ。


 向かいの房で、ボルグが顔を上げていた。


 歌が聞こえてきたときから、ずっと、そうしていたのかもしれない。剃り上げた頭の下で、目が大きく見開かれている。


「……その歌は」


 かすれた声だった。


 聖女が、ボルグの房の前で足を止めた。


 格子越しにパンを差し出そうとして――その手が、止まった。


 淡い金色の瞳が、ボルグの顔を、不思議そうに見つめる。


「あなたは……」


 言いかけて、聖女は、ほんの少し目を細めた。何かを、確かめるように。


「もう、救われていらっしゃるのですね」


 ボルグの顔から、血の気が引いた。


 差し出されたパンに、手を伸ばしもしなかった。凍りついたように、格子の向こうで動かなかった。


 聖女は、パンを格子の内側にそっと置くと、微笑んで、次の房へ移っていった。


 ボルグは、床に置かれたパンを見下ろしたまま、動かなかった。


 残った左手が、空っぽの右の袖を、きつく握りしめていた。


 いちばん奥の房の前で、聖女は、また足を止めた。


「あなたも、おつらいでしょう」


 ガルドは、寝台に座ったまま、顔も上げなかった。


「パンだけ、もらっとく」


 格子の隙間から、太い手が伸びた。パンだけを受け取って、すぐに引っこむ。


 聖女は、気を悪くしたふうもなく、微笑んだ。


「いつでも、お声をかけてくださいね」


 白い衣が、廊下の入り口のほうへ遠ざかっていく。


 ガルドは、受け取ったパンを、しばらく眺めていた。


「……ありゃあ、厄介だな」


 低い声だった。


「悪意がねえ」


 籠を抱えた少女が、聖女のあとを追いかけて――レオニスの前で、立ち止まった。


 亜麻色の髪が、肩で揺れた。


 少女は、まじまじとこちらを見上げていた。


「……また、あった」


 ぽつりと、そう言った。


 広場で。屋根の上で。そして、ここで。


 レオニスは、何も言えなかった。


 少女は、籠の中から丸パンをひとつ取り出した。


 両手で持って、まんなかから、ふたつに割る。


 片方を、レオニスに差し出した。


「はんぶんこ」


 息が、止まった。


 白い部屋の、白い寝台。


 泣いている隣の女の子に、自分のパンを、まんなかから割って差し出したのは――


 ――ほら。はんぶんこ、な。


 レオニスのほうだった。


 女の子は、泣きながら半分のパンを受け取って、泣きながら、少しずつ齧(かじ)っていた。泣きやませることは、できなかった。それでも、毎晩、そうした。


 目の前の少女は、笑っていた。


 なぜ、そうするのか。なぜ、はんぶんこ、なのか。


 知らないまま、笑って、半分のパンを差し出していた。


 レオニスは、手を伸ばした。


 指先が、少しだけ震えた。


「……おう」


 受け取ったパンは、まだ温かかった。


 少女は、満足そうに頷くと、聖女のあとを追って、ぱたぱたと廊下を駆けていった。


 レオニスは、半分のパンを握ったまま、立ち尽くしていた。


 白い衣が見えなくなってから、ガルドが口を開いた。


「今夜は、新月だぞ」


 レオニスは、顔を上げた。


「あの女が来て、最初の新月だ。坊主どもが地下で何かやるなら、今夜だ」


 ひと月前の新月の夜、この男は、大聖堂の地の底にいた。坊主の偉いのから奪った記憶で、あの黒い扉が新月の夜にしか開かないことを、知っていた。


「……行けって、言ってんのか」


「行くなって言っても、行くんだろ」


 ガルドは、パンをひと口かじった。


「俺が行けりゃ、話は早えんだがな」


「裁かれてやるんだろ」


「……ああ」


 ガルドは、にやりと笑った。


 それから、レオニスの手の中のパンを、顎でしゃくった。


「食えよ、それ。……せっかく、半分こしてもらったんだろうが」


 帰りぎわ、レオニスは、向かいの房に声をかけた。


「……おっさん」


 ボルグは、答えなかった。


 薄暗い房の奥で、大きな背中を丸めて、壁のほうを向いていた。床の上のパンは、置かれたときのまま、手もつけられていなかった。


◆


 パン屋に戻ると、ミレイアは、食堂の窓際の卓で、罪状帳を開いたまま座っていた。


 ペンは、止まっていた。


「……聖印が、熱を持ちました」


 レオニスが向かいに腰を下ろすなり、ミレイアは言った。


「聖女さまが、祈ったときに。……ミルテで、黒い石を前にしたときと、同じ熱さでした」


 レオニスは、黙っていた。


「聖女さまの名前は、ソレーヌ。騎士団長が、そばについています。……陽だまりの家の子供たちは、宿舎の中庭にいました」


 ミレイアは、白いままの頁(ページ)に目を落とした。


「みんな、笑っていました。……あの夜のことを、覚えていませんでした」


 レオニスは、懐から、半分のパンを取り出した。


 卓の上に、そっと置く。


「……シエルが、くれた」


 ミレイアが、顔を上げた。


「はんぶんこ、ってさ」


 それきり、ふたりとも、しばらく口をきかなかった。


 窓の外で、冬の日が沈んでいった。


 月は、昇らない。


 新月の夜だった。


 ガルドの言葉を伝えると、ミレイアは、黙って罪状帳を閉じた。


「表の扉には、夜通し見張りが立ちます。……裏から、入りましょう」


「裏?」


「見習いには、夜明けの祈りの前に、祭壇の燭台(しょくだい)に油を注ぎ足す当番があります。その当番だけが使う、聖具室へ抜ける通路が」


 ミレイアは、立ち上がって、剣帯を締め直した。


「九年間、その当番は、ほとんど私でした」


 それから、澄ました顔で付け加えた。


「誰よりも早く起きて剣を振った九年は、こういうときに役に立ちます」


 神殿騎士団の本営の裏手、井戸小屋の奥に、その扉はあった。


 小さな、古い木の扉だった。鍵は、扉の上の梁(はり)にのせてある。見習いなら誰でも知っていることです、とミレイアは言った。


 扉の前に、ランタンの灯がひとつ、揺れていた。


 見張りに立っていたのは、見習いの娘だった。赤い髪を、うなじで短く束ねている。


 娘は、ミレイアの顔を見るなり、ぽかんと口を開けた。


「……また、あんた?」


 ひと月前、騎士団長の執務室の扉を開けてくれた同期なのだと、あとでミレイアが教えてくれた。


 赤毛の娘は、ミレイアの後ろのレオニスを、胡散臭(うさんくさ)そうに眺めた。黒い外套。寝癖の頭。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、くるりと背を向けて、井戸小屋の壁にもたれた。


「……見なかったことにする」


 ランタンの灯が、ふっと吹き消された。


 細い石の通路を抜け、油の匂いのする聖具室を抜けると、大聖堂の身廊に出た。


 夜の大聖堂は、白くなかった。


 燭台の火は、祭壇の両脇にふたつだけ。高い窓の外には、月のない夜空。白い柱も、白い床も、青黒い闇に沈んでいる。


 祭壇の足もとの床が、黒く裂けていた。


 ひと月前と、同じように。


 裂け目の下から、石の階段が、闇の底へと続いている。


 その奥から、かすかに、人の声がした。


◆


 階段は、ひと月前と同じだけ、長かった。


 一段降りるごとに、空気が冷えていく。壁に手をついて降りながら、ミレイアが、声をひそめた。


「……あの夜、ここを、ひとりで降りたのですね」


「ひとりじゃなかったよ」


 レオニスは、前を向いたまま答えた。


「うるせえのが、ずっと、ついてきてた」


 胸の底の白が、かすかに身じろぎした気がした。


 降りるほどに、声は近くなった。


 階段の底で、黒い扉が、開いていた。


 小さなランタンを抱いた、顔のない女。そのまわりを埋めつくす、びっしりと刻まれた文字。


 ひと月前は、読まずに通り過ぎた扉だった。


 今夜も、読んでいる暇はなかった。扉の内側から、松明の明かりと、人の気配が漏れてくる。


 レオニスとミレイアは、扉の陰に身を寄せた。


 黒い石の柱が並ぶ、円い広間。


 その柱に、梯子が何本も架けられていた。


 白い外套の騎士たちが、梯子の上で、白い布を広げている。丸天井の縁に打ちこんだ鉤(かぎ)から鉤へ、長い布を一枚、また一枚と張り渡していく。


 黒硝子(ガラス)の天井が、少しずつ、白に覆われていく。


 まだ覆われていないところで、黒硝子の奥に、小さな光の粒がいくつも瞬いていた。


 松明の照り返しか。


 それとも――ひと月前の夜の、名残か。


 レオニスは、知っていた。


 あの夜、この天井いっぱいに、星が灯ったことを。王都じゅうの人間の胸から昇った、ひとつとして同じ色のない星が。


 その天井に、ひと筋の亀裂が走っている。あの夜、白が入れた傷だった。


 広間の奥、顔のない女神像の足もとに、人が集まっていた。


 白い衣の聖女。その傍らに、亜麻色の髪の少女。


 白い髭の騎士団長。


 それから――金糸で縁取った法衣の、肥え太った男がひとり。


 法衣の胸で、白銀の太陽が揺れている。凍えるような地の底で、額にびっしりと汗を浮かべていた。


 金糸の法衣を許されるのは、この大聖堂の司教くらいのものだろう。


 ガルドが記憶を奪ったという「坊主の偉いの」も、たぶん、この男だ。


 司教は、手巾(ハンカチ)で額を拭いながら、天井を見上げた。


「急ぎなさい。見苦しいものは、覆ってしまいましょう」


 声が、わずかに上ずっていた。


 少女が、つられたように天井を見上げた。


 まだ白に覆われていない、最後の黒硝子の奥で、光の粒が、ちかちかと瞬いている。


「……ほし?」


 小さな声だった。


 聖女が、少女の肩に手を置いた。


「ただの硝子ですよ」


 やさしい声だった。


 最後の一枚が、張り渡された。


 黒硝子の天井は、白い布の下に、見えなくなった。


 聖女は、少女の肩から手を離して、女神像のほうへ歩いていった。


 聖女が近づくにつれて、女神の胸のランタンで、小さな守り火が、細く、細く、震えはじめた。


 怯えるように。


 ひと月前、白い獣が微笑んだときと、同じ震え方だった。


 聖女は、女神像の前で足を止め、柱の頂よりも高い、顔のない頭を見上げた。


「お顔が、ないのですね」


 白い指が、胸もとで組まれた。


「……かわいそうに」


 司教の合図で、騎士たちが女神像に梯子をかけた。白い布が、顔のない頭の上から、ばさりと被せられる。肩へ、胸へと、布が下ろされていく。


 ランタンのまわりにだけは、誰も布を近づけられなかった。布の裾のあいだから、震える守り火が、小さく覗いていた。


 司教が、祭壇のそばへ寄った。


「聖女さま。あらためて、冬至の祈りのことを」


 手巾で汗を拭い、咳払いをひとつ。


「今年は、一年でいちばん長い夜――冬至の夜が、新月に重なります。そう何度もあることではございません」


 太い指が、黒い石の祭壇を示した。


「その夜、白陽の聖女さまが、この祭壇でお祈りくださいますれば、その祈りは、王都の隅々にまで届きます。白い昼が、王都を覆うのです。そして、二度と沈みません」


 司教の目が、布の裾から覗く守り火を、ちらりと見た。


「あの悪しき火も、消えましょう。――夜は、二度と参りません」


 レオニスは、息を呑んだ。


 夜が、来ない。


 ひと月前、この祭壇から、王都の空へ降りていった夜。王の上にも、乞食の上にも、等しく降りた夜。誰にも顔を見られずに、泣くことのできる暗さ。


 それが――二度と。


 聖女が、両手を胸の前で組んだ。


 淡い金色の瞳が、うっすらと潤んでいた。


「では……」


 声が、喜びに震えていた。


「もう誰も、夜にひとりで泣かなくていいのですね」


 胸の奥で、何かが、応えた。


 ――そうだ。


 白だった。


 ――そうだ。全部、消してしまえ。夜ごと。泣き声ごと。


 聖女の白に呼ばれて、胸の底の白が、身を起こす。指先から、手のひらへ。熱く、眩しく――


 レオニスは、胸を押さえた。


 指の隙間から、白い光が漏れた。


 押さえた拍子に、外套の襟もとから黒鉄(くろがね)の聖印がこぼれ落ちて、その光を弾(はじ)いた。


 ランタンをかたどった、小さな首飾り。


 灰色の目が、こちらを向いた。


「――闇司祭!」


 騎士たちが、梯子から飛び降りた。


 剣が、いっせいに抜き放たれる。


 レオニスは、扉の陰から一歩出た。隣で、ミレイアも剣の柄に手をかけて、並んだ。


 騎士団長が、ミレイアを見た。


「……セレス。貴様――」


 その前に、聖女が、騎士たちの前へすっと進み出た。


「お待ちください、ゴドフロワ」


 剣を構えた騎士たちが、動きを止めた。


 聖女は、白い衣の裾を揺らして、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。騎士たちの輪の、いちばん前まで。


 淡い金色の瞳が、レオニスの胸で揺れる黒鉄の聖印を見て、それから、顔を見た。


「あなたは……シエルのお知り合いの」


 少しだけ、目を見開く。


「闇司祭さまだったのですね」


 責める声ではなかった。ただ、驚いているだけの声だった。


 レオニスは、胸を押さえたまま、聖女を見返した。


 指の隙間で、白が、まだ燻っていた。


「その火を消したら、どうなるか、わかってんのか」


 聖女は、布の裾から覗く守り火を振り返った。


 それから、静かに答えた。


「夜が、来なくなります」


 レオニスは、奥歯を噛んだ。


「夜にしか、見えねえもんがある」


 聖女は、少しも迷わなかった。


「見えなくても、困らないものです」


 レオニスの声が、かすれた。


「泣きたい奴は、どこで泣けばいい」


 聖女は、微笑んだ。


「泣かなくて、いいのです」


 心の底から、そう信じている顔だった。


 隣で、ミレイアが、胸の聖印を握りしめていた。


 レオニスは、言葉を探した。


 探して、探して――ひとつだけ、見つけた。


「……あんた、泣いたこと、あるか」


 聖女は、少しだけ首をかしげた。


 考えるように。思い出そうとするように。


 長い、沈黙があった。


「いいえ」


 それから、付け加えた。


「……覚えているかぎりでは」


 覚えているかぎり。


 レオニスは、聖女の傍らの少女を見た。


 亜麻色の髪の少女は、笑って、こちらを見ていた。


 ――あいつも、きっと、同じことを言う。


 騎士団長が、剣を振りかぶった。


「問答は、そこまでだ!」


 白い外套が、聖女の脇をすり抜けて、レオニスへ――


 がきん、と。


 鋼と鋼の噛みあう音が、地の底に響いた。


 ミレイアの剣が、騎士団長の剣を、真正面から受け止めていた。


 騎士団長の灰色の目が、見開かれた。


「セレス……!」


 ミレイアが、剣を噛みあわせたまま、低く応えた。


「失礼いたします、団長」


 その横顔が、歪んでいた。


 二の太刀を、身を沈めて外す。三の太刀を、剣の腹で逸らす。受けるたびに、ミレイアの踵(かかと)が、石の床を滑った。押し返せてはいない。


 けれど、一歩も、退(ひ)いていなかった。


 騎士団長の剣が次にどこから来るのか、来るより先に、ミレイアの剣がそこにある。


 この男の剣を、何百回、何千回と見上げてきた者の、受け方だった。


「レオニス!」


 レオニスは、指を振った。


 宣誓のいらない、小さな光の板。


 夕暮れの色をした足場が、宙に灯った。ひとつ、またひとつ。騎士たちの頭上を越えて、扉の向こうの階段へと続いていく。


 ミレイアが、騎士団長の剣を弾いて、跳んだ。


 一枚目を蹴る。二枚目を蹴る。一度も、足もとを確かめなかった。


 レオニスも、跳んだ。


 背後で、剣が空を切る音がした。


 足場を蹴りながら、振り返らずに、もう一度指を振る。扉の内側に、夕暮れ色の壁が、すっと立ち上がった。追いすがった騎士たちが、壁にぶつかって、たたらを踏む。


 その壁の向こうで、小さな声がした。


「……ゆうやけ?」


 少女の声だった。


 レオニスは、振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる気がした。


 黒い扉の前を、駆け抜ける。


 扉を埋めつくす文字のなかに、ちょうど目の高さで、ひときわ深く刻まれた一行があった。その書き出しだけが、目に飛びこんできた。


 ――白く燃ゆる子らよ。汝らが――


 続きを読む暇は、なかった。


 足場を蹴り、階段を駆け上がる。十段を、ひと跳びに。夕暮れ色の足場が、闇の中に点々と灯っては、消えていく。


 はるか下で、夕暮れ色の壁が、まだ騎士たちを押しとどめていた。


 裂け目から身廊へ転がり出て、聖具室を抜け、井戸小屋の扉をくぐる。


 暗がりの中で、赤毛の娘が、壁にもたれて目を閉じていた。息が弾んでいるふたりのほうを、見もしなかった。


「……今夜は、ずっと、居眠りしてた」


 それだけ言って、また黙った。


 夜の通りを、走った。


 石畳を蹴りながら、レオニスは、空を見上げた。


 月のない空いっぱいに、星が出ていた。


 凍てついた冬の夜空に、数えきれない光が、ひとつひとつ、違う色で瞬いている。


 あの白い布の下の天井にも、ひと月前、こんな空があった。


 ――この空が、二度と、来なくなる。


 レオニスは、走りながら、奥歯を噛みしめた。


◆


 夜明け前のパン屋では、竈に火が入ったばかりだった。


 親父は、裏口から転がりこんできたふたりをひと目見ると、何も訊かずに、湯気の立つ山羊(やぎ)の乳を二杯、卓に置いた。


 それから、生地を捏ねに戻っていった。


 ミレイアは、しばらく両手で椀(わん)を包んでいた。


 それから、懐から革表紙の帳面を取り出した。


 ペン先が、紙の上を走る。


 レオニスは、首を伸ばして覗きこんだ。


 ――冬至まで二十九日:大聖堂に侵入。


 ミレイアは少しだけ考えて、書き足した。


 ――共犯。


「……共犯って」


 レオニスは、眉を寄せた。


「お前、監視役だろ」


「監視役が、監視対象と同じことをしたら、共犯です」


 ミレイアは、澄ました顔で帳面を閉じた。


「日付の数え方も、今日から変えます。……数えておかないと、いけない気がするので」


 レオニスは、椀の中の白い乳を見下ろした。


「……あと、二十九日か」


 冬至の、新月の夜。


 あの白い布の下で、聖女が祈る。夜が、二度と来なくなる。


 白に覆われた黒硝子の天井が、まぶたの裏に浮かんだ。それから、扉に刻まれた一行の、書き出し。


 ――白く燃ゆる子らよ。汝らが――


 その先には、何と書いてあったのだろう。


 ミレイアが、窓の外に目をやった。


「騎士団は、追ってくるでしょうか」


「……表立っては、来ねえよ」


 レオニスは、椀に口をつけた。


「大聖堂の地下に神殿がありますなんて、坊主どもが言えるわけねえだろ。俺たちを捕まえたら、なんで捕まえたのか、言わなきゃなんねえ」


「……少なくとも、今は」


 ミレイアが、小さく付け加えた。


 空が白みはじめたころ、店の戸を叩く音がした。


 朝いちばんの客は、牢番の男だった。


 眠そうな顔で黒パンを三つ買うと、代金を払いながら、レオニスのほうを振り返った。


「ああ、伯爵家の使いの兄さん。ちょうどよかった」


 牢番は、欠伸を噛み殺しながら、懐から紙切れを一枚、取り出した。


「片腕の大男から、預かってるんだ。夜中に、紙と炭をくれってうるさくてな。あんたが来たら渡してくれ、だとさ」


 小さく畳まれた、粗末な紙だった。


 レオニスは、椀を置いて、それを開いた。


 炭のかけらで書いたらしい、大きさのばらばらな、ぎこちない字が並んでいた。一文字ずつ、力をこめて書いたのだろう。ところどころ、紙が破れかけている。


 片腕の料理番が字を書けることを、レオニスは、初めて知った。


 ――話しておかなきゃならねえことがある。


 ――あの聖女さんの、歌のことだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。