第一章 だあれ?
膝をついた人垣のなかで、立っているのは、レオニスひとりだった。
その足が、勝手に動いた。
祈りの形に丸まった背中を、掻き分ける。押しのけるたびに、誰かの肘が脇腹に当たり、誰かの舌打ちが耳をかすめた。構っていられなかった。
「シエル!」
声が、白い石畳に跳ね返った。
十二年ぶりに、その名前を呼んだ。
最後の背中を押しのけたところで、目の前を、銀色が走った。
がしゃん、と。
二本の槍が、鼻先で交差していた。
白い外套の騎士がふたり、槍の柄越しに、こちらを睨んでいる。聖女の護衛だろう。
「下がれ」
レオニスは、槍を見なかった。
その向こうを、見ていた。
白い馬車の前。白い衣の聖女の、すぐ隣。
少女が、振り向いた。
肩で揺れる、亜麻色の髪。冬の陽に透けて、淡く光っている。十二年前は、白い枕の上に、くしゃくしゃに広がっていた髪だ。
少女は、笑っていた。
知らない男に名前を叫ばれて、目の前で槍が交差して、広場じゅうの目がこちらに集まっているのに。少しも怯えずに、穏やかに、どこまでも優しく。
それから、首をかしげた。
少しだけ、右に。
「……だあれ?」
音が、消えた。
広場のざわめきも。槍の穂先が触れあう音も。自分の心臓の音さえも。
同じ声だった。
同じ角度だった。
十二年前、白い部屋の、白い寝台の上で。お母さんのこと、覚えてるか――そう訊いたときに返ってきたのと、そっくり同じ。
母親を忘れたときと、同じ顔で。
あいつは今、隣の寝台にいた男の子を見ていた。
いつの間にか、白い衣の聖女が、槍のすぐ向こうに立っていた。
「シエルのお知り合いの方?」
やわらかな声だった。
陽を透かしたような白金の髪。胸で揺れる、ひときわ大きな白銀の太陽。淡い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
答えられなかった。
知り合いだ、と言えばいいのか。友達だった、と言えばいいのか。
――置いていった、と言えばいいのか。
目の奥が、焼けるように熱かった。
聖女が、少しだけ目を細めた。
「……泣きそうなお顔」
白い手が、槍と槍のあいだから、すっと伸びてきた。
「もう、泣かなくて――」
胸の底で、何かが、応えるように疼いた。
レオニスは、一歩、下がった。
「触んな」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
背後の人垣で、誰かが息を呑んだ。聖女さまに、なんて口を――と、囁く声がした。
護衛の騎士たちの後ろで、白い髭の騎士が、剣の柄に手をかけた。岩を削ったような顎の、大柄な男だった。髭の奥で、灰色の目が鋭く光る。
聖女が、振り向きもせずに言った。
「いいのです」
騎士の手が、柄から離れた。
聖女は、伸ばしかけた手を、そっと胸もとへ引いた。咎めるふうでもなく、ただ少し不思議そうに、レオニスの顔を見つめている。
それから小さく会釈をして、背を向けた。
馬車の扉が、開かれた。
聖女が先に乗りこみ、少女が、そのあとに続く。
踏み台に片足をかけたところで、少女の唇が、ふとほころんだ。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
小さな、歌だった。
鼻歌のように、何の気なしに口ずさむ声。
レオニスは、息を止めた。
知っている。
修道院跡の、狭い厨房。黒麦酒の鍋をゆっくりとかき回しながら、師匠が、いつも鼻でなぞっていた節だった。
何の歌だ、と訊いたことがある。
――さあな。忘れちまった。
そう言って、師匠はまた、同じ節をなぞった。言葉を乗せたことは、一度もなかった。
その節に――言葉が、ついていた。
ねんね、と。
子守唄だったのだ。あの煙草くさい、無精髭の師匠が、鍋をかき回しながら、いつもなぞっていたのは。
「……なんで」
声が、かすれた。
「なんで、その歌を」
少女は、振り向かなかった。
扉が閉まって、歌の続きを呑みこんだ。
御者が手綱を鳴らす。白い馬車は、石畳の上を、ゆっくりと遠ざかっていった。白い外套の騎士たちが、そのあとに続く。
目の前で交差していた槍が引かれていったことにも、レオニスは、しばらく気づかなかった。
◆
広場に、ざわめきが戻ってきた。
膝をついていた人々が、ひとり、またひとりと立ち上がる。奇跡だ、と誰かが言った。聖女さまが、と誰かが言った。頬を上気させて手を取りあう女たちがいる。まだ膝をついたまま、胸の前で両手を組んでいる老人がいる。
その人波の中を、喪服の女が歩いていた。
白い花を、胸に抱えている。さっき、少女が拾い集めて手渡した花だ。
昼過ぎ、パン屋の窓から、墓地のほうへ歩いていくのを見た女だった。
今は、墓地へ続く坂に背を向けていた。黒い裾を揺らして、弾むような足取りで、川のほうへ――家路のほうへ。
女は、笑っていた。
「かあちゃん!」
坂の上から、小さな影が駆け下りてきた。
六つくらいの男の子だった。継ぎのあたった上着の袖に、黒い布を巻いている。息を切らして母親の前に回りこむと、喪服の裾を掴んだ。
「かあちゃん、おそいよ! ずっと、まってたのに」
女が、目を瞬いた。
「あら」
男の子は、坂の上を指さした。
「かあちゃん、とうちゃんのとこ、行くんだろ」
女は、きょとんとして、その言葉を繰り返した。
「とうちゃん?」
それから、ころころと笑った。
「おかしな子ね。何のお話?」
男の子の顔から、表情が抜け落ちた。
「……とうちゃん、だよ」
女は、にこにことうなずいた。
「ええ」
男の子が、母親の腕の中を指さした。
「その花、とうちゃんにあげるんだろ。まいにち、あげてるだろ」
女は、腕の中の花を見下ろした。
「このお花? さっき、白い服のお嬢さんにいただいたのよ。きれいでしょう」
嬉しそうに、花を揺らしてみせる。
男の子は、花を見た。
それから、母親の顔を見上げた。
小さな顔が、くしゃりと歪んだ。
男の子は、泣きだした。
喪服の裾を握りしめたまま、立ったまま、声を上げて。
女は、しゃがみこんで、息子の頭を撫でた。
笑ったまま。
「どうして泣いているの?」
やさしい声だった。
心の底から、不思議そうな声だった。
指先が、熱くなった。
見下ろすと、白いものが燻っていた。
――全部、消してしまえ。
胸の底で、声がした。
ひと月前、遠吠えの夜に聞いたのと、同じ声だった。
――泣き声を、ひとつ残らず。
あの子の泣き声なら、消せる。今すぐに。あの小さな頭に手を置いて、我、欲す、とひと言――
レオニスは、拳を握りこんだ。
爪が、手のひらに食いこむほど、強く。
燻る白を拳の中に押しこめたまま、男の子の前にしゃがんだ。
母親の隣に。
泣きじゃくる顔と、同じ高さに。
「……とうちゃんの墓、どっちだ」
男の子が、しゃくりあげながら、坂の上を指さした。
レオニスは、女を見た。
「その花、こいつに持たせてやってくれねえか」
女は、にっこりと笑った。
「ええ、どうぞ」
白い花束を、息子の腕に抱かせる。
それから立ち上がり、喪服の裾を払って、息子の髪をもう一度撫でた。
「暗くなる前に、帰ってくるのよ」
弾むような足取りが、川のほうへ遠ざかっていく。一度だけ振り返って、小さく手を振った。
男の子は、手を振り返さなかった。
花を抱えて、坂を上りはじめた。
レオニスは、その隣を歩いた。
泣き止ませは、しなかった。
坂は、大聖堂の裏手へと続いていた。
途中で、黒く焦げた骨組みの前を通った。
白かった壁は煤けて崩れ、門の上にあった看板は、焼け落ちて跡形もない。
陽だまりの家だった。
十二年前、この門から、裸足で逃げた。振り返りもせずに。
今日も、振り返らなかった。
前を歩く小さな背中から、目を離せなかったからだ。
墓地は、坂を上りきった先の、風の吹きさらす丘にあった。
苔むした古い石の墓標のあいだに、真新しい木の墓標が、いくつも並んでいる。どれも、まだ削り跡が白い。ひと月前の、新月の夜の墓ばかりだった。
男の子は、そのひとつの前で足を止めた。
花を、そっと置く。
刻まれた名前を、小さな指でなぞる。
それから、墓標にしがみつくようにして、また泣きだした。
「……とうちゃん」
レオニスは、隣の地面に腰を下ろした。
凍てた土の冷たさが、じわじわと這い上がってくる。
指先では、まだ白が燻っていた。拳を開けば、今にも伸びていってしまいそうだった。泣いている、小さな頭のほうへ。
レオニスは、両手を、尻の下に敷いた。
ぎゅっと、体重をかける。
それで、手は動かなくなった。
男の子は、泣いた。
とうちゃん、と呼んで泣いた。かあちゃんが、と言いかけて、泣いた。あの晩、となりの火を消しに行ったきり、とうちゃんは帰ってこなかったのだと、しゃくりあげながら話して、また泣いた。
一度だけ、泣きはらした目で、こちらを見上げた。
「……にいちゃん。なんで、手、おしりの下に、しいてんの」
「……冷えるんだよ」
「へんなの」
そう言って、男の子は、また墓標に顔を押しつけて泣いた。
――全部、消してしまえ。
囁きは、止まなかった。泣き声が高くなるたびに、指先の白が、拳の内側で身じろぎする。
レオニスは、尻の下の手に、いっそう体重をかけた。
それきり、何も言わなかった。
慰めも、しなかった。
ただ、隣に座っていた。
冬の日が傾いて、墓標の影が、長く伸びていった。
やがて、泣き声が途切れ途切れになった。
小さな体が、ぐらりと傾いて、レオニスの腕にもたれかかってきた。
泣き疲れて、眠ったのだ。
頬に、涙の跡が、幾筋も残っていた。
レオニスは、尻の下から片手だけを抜いて、外套を脱いだ。
眠る小さな背中に、掛けてやる。
それから、また、手を尻の下に戻した。
◆
イルザの黒い馬は、パンが好きだった。
パン屋の店先に手綱を結んだ、ほんの一瞬のことだった。長い首がにゅっと伸びて、軒先の籠から丸パンをひとつ、ごっそりと咥えていった。
「てめえっ!」
店の奥から、粉だらけの親父が飛び出してきた。
「騎士の姉ちゃん! その馬、どういう躾してやがる!」
「……申し訳ありません。代金は、お支払いします」
「馬の分まで払う奴があるか」
そう言いながら、粉だらけの手のひらは、しっかりと銅貨を受け取った。
黒い馬は、素知らぬ顔で、口をもぐもぐさせていた。
ミレイアは、店の奥の食堂を覗いた。
卓が三つきりの、小さな食堂。窓際の卓の上に、空の杯がひとつ、置き去りにされている。
椅子の上には、誰もいなかった。
「……あの人は」
竈の前から、ユナが顔を出した。今日も、頬に白い粉がついている。
「鐘が鳴ったら、飛び出してったよ。聖女さまが来たぞって、表を誰かが走ってって。そしたら、外套引っかけて、ばたばたって」
ミレイアは、しばらく空の椅子を見つめていた。
半刻だけ、と言ったのだ。
戻るまでに、支度を済ませておいてください、と。
支度どころか、本人がいない。
「……半刻も、じっとしていられないのですか、あの人は」
ユナが、ちょっとだけ口を尖らせた。
「半分は、寝てたよ」
親父が軒先の籠を残らず店の奥へ引っこめるのを見届けてから、ミレイアは、大聖堂前の広場へ向かった。
宿の厩で黒い馬に鞍を置いているとき、鐘の音は聞こえていた。大聖堂のほうの空が、一瞬、白く光ったような気もした。冬の陽の照り返しだろう、と思った。
広場に着いたとき、白い馬車は、もうなかった。
人々は、まだ散りきっていなかった。
「見たかい、あの光」
「喪服の奥さんがさ、笑って――」
「聖都の、《白陽の聖女》さまだってよ」
あちこちで、弾んだ声が交わされている。
《白陽の聖女》。
その呼び名なら、神殿にいたころから知っていた。聖都におわす、悲しみを癒やす奇跡の聖女さま。一目でいいからお会いしてみたい、と見習いたちは憧れをこめて噂していた。
悲しみを、癒やす。
――癒やすんじゃねえ。消すんだよ。
ミルテの焚き火の向こうで聞いた声が、耳の奥で鳴った。
ミレイアは、足早に人波を抜けた。
黒い外套の若い男なら、と、焼き栗の屋台の老婆が教えてくれた。
「泣いてる坊主と、墓地のほうへ上ってったよ、兄ちゃんは。坊主は、白い花を抱えてたっけねえ」
墓地への坂を上る途中で、焼け落ちた白い壁の前を通り過ぎた。
陽だまりの家。
ひと月前の夜、この門の前で剣を構えた。背中合わせに、片腕の男が、魚みたいな木剣を握っていた。ふたりの背中のあいだで、煤だらけの子供たちが、身を寄せあっていた。
あの子たちは今、大聖堂の宿舎に移されている、と聞いている。
丘の上の墓地に着いたのは、西の屋根に日が沈みかけたころだった。
真新しい木の墓標が並ぶあたりに、その背中はあった。
外套を、着ていなかった。
シャツ一枚の背中を丸めて、凍てた地面に座りこんでいる。その腕にもたれて、小さな男の子が眠っていた。黒い外套にくるまって、頬に涙の跡をいくつも残したまま。
そして――
ミレイアは、目を瞬いた。
闇司祭は、両手を、自分の尻の下に敷いて座っていた。
何かを、押さえつけるように。
「……何をしているのですか」
声をかけると、レオニスは、振り向かずに答えた。
「……冷えるんだよ」
「外套を脱いでおいて、ですか」
「こいつのほうが、冷えそうだったから」
ミレイアは、何も言わなかった。
眠る男の子の頬の、涙の跡を見た。
それから、尻の下に敷かれた手を見た。
ミルテの麦畑の隅で、夜半に、白い光がひと息だけ灯ったのを、ミレイアは知っている。泣いている少女のそばで、この人の指先が光ったのを。
冷えるから、ではない。
ミレイアは、男の子を挟んだ反対側に、黙って腰を下ろした。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
風が、墓標のあいだを鳴らしていた。
やがて、レオニスが言った。
「……シエルがいた」
ミレイアは、顔を上げた。
「聖女の、隣に。白い服着て、笑ってた」
レオニスは、墓標を見たまま続けた。
「名前、呼んだら、振り向いてさ」
声が、ほんの少しだけ揺れた。
「――だあれ、って言われた」
ミレイアは、息を呑んだ。
覚えていた。
ミルテの焚き火の夜。薪の爆ぜる音の中で、この人が初めて話してくれたこと。隣の寝台の、泣き虫の女の子。白い礼拝堂から戻ってきたら、笑っていた。お母さんのことを訊いたら、笑ったまま首をかしげた――
――だあれ? って。
十二年前、母親に向けられた言葉。
それが今日、この人に向けられたのだ。
何か、言わなければと思った。
言葉は、ひとつも見つからなかった。
黒狼の里の雨の夜、斬れなかった剣を下げて立ち尽くしていた自分の隣に、この人は立っていてくれた。なんも言えねえ、と正直に言って。雨に打たれながら、ただ。
だから、ミレイアも、何も言わなかった。
隣に座って、同じ墓標を見ていた。
日が、沈んだ。
墓地の丘に、青い夕闇が降りてくる。
黒狼の里の、おさげの女の子の顔が浮かんだ。ほどけかけた髪を編み直してやった朝、あの子は訊いたのだ。
――お姉ちゃん。また、来る?
答えに行くのは、もう少しだけ、先になる。
ミレイアは、ようやく口を開いた。
「……旅は、延期します」
レオニスが、初めてこちらを向いた。
「は?」
「監視対象が、この街から動けないようですので」
「……動けねえなんて、言ってねえだろ」
「では、動けるのですか」
レオニスは、口を開けて――閉じた。
ミレイアは、懐から革表紙の帳面を取り出した。
罪状帳。
暮れ残った光を頼りに、ペン先を走らせる。
――本日:約束の半刻を、守らず。
そこまで書いて、ペンを止めた。
眠る男の子の、涙の跡を見た。
尻の下の、両手のことを思った。
それから、今書いたばかりの一行に、まっすぐな線を一本、引いた。
横から覗きこんでいたレオニスが、眉を寄せた。
「……消すのかよ」
「罪状では、ありません」
ミレイアは、帳面を閉じた。
男の子を家まで送り届けたのは、すっかり暗くなってからだった。
レオニスの背中で、小さな体は、一度も目を覚まさなかった。
戸口で迎えた母親は、眠る息子の頬に残る涙の跡を、不思議そうに指でなぞった。
「まあ。この子ったら、どうして泣いていたのかしら」
レオニスは、何も答えなかった。
ミレイアも、答えなかった。
◆
夜明け前のパン屋は、戦場だった。
旅を延ばすと決めたその晩、ミレイアは宿を引き払って、パン屋の二階の物置に移った。屋根裏には、とうに居候がひとり住みついている。監視には、都合がいい。
親父は、太い腕を組んで唸った。
「闇司祭の次は、騎士の姉ちゃんかよ。うちは下宿屋じゃねえぞ」
それから、ぶっきらぼうに付け加えた。
「宿代は、夜明け前の仕込みだ。起きられんのか」
起きられるどころではなかった。九年間、誰よりも早く起きて、剣を振ってきたのだ。
その朝、ミレイアは、竈に火が入るより先に、粉の袋の前に立っていた。
隣から、親父の声が飛んだ。
「おい、力任せに叩くな。生地が泣く」
ミレイアは、手を止めた。
「泣くのですか」
親父が、眉を寄せた。
「泣くんだよ。……いや、そう、そうだ。手のひらの付け根で押して、畳んで、また押す」
しばらく黙って見ていた親父が、ぽかんと口を開けた。
「……姉ちゃん。捏ねるのだけは、うめえな」
ミレイアは、眉ひとつ動かさずに訊き返した。
「だけ、とは」
親父が、天板を顎でしゃくった。
「丸めさせたら、石ころだがな」
天板の上で、ミレイアの丸めた生地が、ひとつだけ妙に角張っていた。
竈の前で、ユナが噴き出した。
屋根裏の寝床は、空っぽだった。
起こしに上がったミレイアは、しばらく、畳まれもしない毛布を見下ろしていた。屋根に抜ける天窓が、開けっぱなしになっている。
あの人が、夜明け前に起きている。
――早起きは、罪状だろうか。
ミルテの朝にも、同じことを考えた気がした。
大聖堂前の広場に布告が出た、と教えてくれたのは、朝いちばんの客だった。
白い石の掲示板に、真新しい紙が貼られていた。白銀の太陽の紋章。
――白陽の聖女による、癒やしの奇跡。
――新月の夜に傷つきし者、悲しみを抱えし者は、白き礼拝堂の門を叩け。
列は、大聖堂の脇に建つ白い礼拝堂の扉から、延びていた。
正面の石段の前を過ぎ、広場を半周して、噴水をめぐり、川へ下る通りの角まで。冬の朝の冷えこみの中で、誰もが白い息を吐きながら、黙って順番を待っている。
ミレイアは、列に沿って歩いた。
焼け焦げた前掛けをしたままの女がいた。腕に巻いた包帯に、まだ血がにじんでいる。家を焼かれたのだと、隣の女に話していた。
小さな革の靴を、片方だけ胸に抱えた老人がいた。何も言わずに、じっと石段の先を見上げていた。
頭巾を目深にかぶった男がいた。拳に巻いた布が、ところどころ黒ずんでいる。前の者に話しかけられても、顔を上げなかった。
「……あの晩、俺がしたことを」
ぼそりと、男が呟くのが聞こえた。
「忘れさせて、もらえるんなら」
それきり、黙った。
礼拝堂の脇の、小さな扉が開いた。
祈りを終えた人々が、ひとりずつ出てくる。
ミレイアは、足を止めた。
誰もが、同じ顔をしていた。
穏やかに、どこまでも優しく、笑っていた。
包帯の女が、軽い足取りで石段を下りていく。隣の女と、今夜のスープの話をしている。
革の靴を抱えていた老人は、もう、何も抱えていなかった。
老人は、ミレイアのそばを通り過ぎるとき、ふと空を仰いで、晴れやかに言った。
「今夜は、眠れそうだ」
誰に言ったのでもなかったのだろう。冬の空に向かって、そう言った。
ミレイアは、何も言えなかった。
眠れなかったのだろう。ひと月、ずっと。
その人が、今夜は、眠れる。
胸の聖印に、指をやりかけて――
やめた。
白銀の太陽が、ひやりと冷たいのか、そうでないのか。
今は、確かめたくなかった。
噴水の縁に、黒い外套が座っていた。
列のほうは、見ていなかった。
大聖堂の隣に建つ、宿舎。白い壁に窓がいくつも並んだ、その二階のあたりを、じっと見上げている。
膝の上に、手つかずのパンがひとつ、載っていた。
ミレイアも、同じ窓を見上げた。
あの白い壁のどこかに、陽だまりの家の子供たちもいるのだろうか。
ミレイアは、声をかけなかった。
かけられなかった、のかもしれない。
昼過ぎ、パン屋の戸口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、常連の老婆だった。
ひと月前の夜に、息子を亡くしたのだと、ユナから聞いていた。毎朝、黒パンをひとつだけ買っていく。いつも、目が赤かった。
その老婆が、笑っていた。
「いい朝だったねえ。……おや、もう昼だったかね」
黒パンではなく、干し葡萄のパンを三つ買った。
「親父さんも、並んでおいでよ。胸がね、すうっと軽くなるんだ」
親父は、生地を捏ねる手を止めなかった。
「並ばねえよ」
老婆が、目を丸くした。
「あんただって、あの晩のことじゃ、いろいろ――」
親父が、遮った。
「並ばねえって、言ってんだ」
低い声だった。
しばらく黙って、生地を捏ねていた。
それから、ぼそりと言った。
「……腹を空かせたガキの顔を見るとな。どうにも、放っとけねえんだ」
老婆が、笑った。
「知ってるよ。だからあの晩、店のパンをぜんぶ配っちまったんだろう」
親父は、首を振った。
「なんで放っとけねえのか。そいつを忘れちまったら――」
太い指が、生地に深く沈んだ。
「あの晩に配ったパンの意味が、なくなっちまう」
老婆は、よくわからない、という顔で首を振った。それでも、にこにこと笑ったまま、竈の前のユナを振り返った。
「ユナちゃんは? お母さんのこと、辛いだろう」
ユナは、顔も上げなかった。
「いらない」
丸めた生地を天板に並べる手は、少しも止まらなかった。
ミレイアは、戸口の脇に立ったまま、その横顔を見ていた。
ミルテの広場で、黒い石を差し出されたときと、同じ声だった。
――いらない。……これは、お母さんの分の痛みだから。
老婆が帰っていったあとで、ユナが、ぽつりと言った。
「レオニス、朝からずっと、大聖堂の前にいるよ。パン、持ってったのに、食べてなかった」
ミレイアは、窓の外を見た。
冬の日は、もう、傾きはじめていた。
◆
月のない夜だった。
大聖堂の宿舎と、路地ひとつ隔てた、古い書庫の屋根の上。雨樋を伝って登ってから、どれくらい経ったのか、もうわからない。
尻の下で、瓦が冷えきっていた。
昼のあいだは、ずっと噴水の縁から見ていた。
白い礼拝堂の扉から、ひとり、またひとりと出てくる顔を。同じ顔を。指先で燻る白を、何度も拳の中に握り潰しながら。
日が暮れて、宿舎の窓に、ひとつずつ灯がともった。
そして、二階のいちばん端の窓に――
白い衣の少女が、立った。
窓掛けを、少しだけ開けて。
夜空を、見上げていた。
レオニスは、息を詰めた。
星を、見ている。
いや――探している。
右から左へ。高いところから、低いところへ。ゆっくりと、ひとつずつ、夜空をなぞっていく目。
知っている、目の動きだった。
陽だまりの家の夜は、白かった。
白い壁。白い寝台。白い寝間着。夕べの祈りが終わると、白い法衣の司祭たちが、部屋から部屋へ、窓掛けを閉めて回った。
――夜は、冷えますからね。
やさしい声で、そう言いながら。
閉めきった白い部屋の中で、隣の寝台の女の子は、毎晩泣いた。
ある晩、レオニスは、寝台を抜け出した。
窓掛けを、手のひらひとつぶんだけ、開けた。
その隙間に、星が見えた。
「……なあ。見てみ」
泣いている女の子の手を引いて、窓辺に連れていった。
「死んだ奴は、星になるんだってさ。……お前のかあちゃん、どれかな」
女の子は、しゃくりあげながら、星を見上げた。
右から左へ。高いところから、低いところへ。涙でいっぱいの目で、ひとつずつ。
泣きやみは、しなかった。
泣きながら探して、探しながら泣いて――泣き疲れて、窓辺で眠ってしまうまで、ずっと。
レオニスは、その隣にいた。
次の晩も。その次の晩も。
泣きやませることは、一度もできなかったけれど。
――あれから、十二年。
あいつは、母親を覚えていない。
隣の寝台の男の子のことも、覚えていない。
なのに、まだ、探している。
何を探しているのかも知らないまま、窓辺で、星を。
ひと月前の新月の夜、この都の人間の胸から、数えきれない星が昇った。ひとつとして、同じ色のない星が。
あいつの胸にも、星は、あるのだろうか。
十二年前の白い光に呑まれて、とっくに消えちまったのか。
それとも――
レオニスは、瓦の上で、膝を抱えた。
「……今度は」
声が、夜気に白く滲んだ。
「今度は、逃げねえ」
白い廊下を、裸足で駆け抜けた夜のことを思った。あの窓掛けの内側に、振り返りもせずに、あいつを置いてきた夜のことを。
背後で、瓦が鳴った。
「……こんなところに、いたのですか」
振り向くと、ミレイアが、屋根の縁から這い上がってくるところだった。片腕に、毛布を抱えている。
「よく登ってこれたな」
「あなたに登れるのなら、私にも登れます」
ミレイアは、毛布を、レオニスの頭からばさりと被せた。
「親父さんからです。『凍え死ぬなら、うちの屋根以外にしろ』と」
「……ここ、親父の屋根じゃねえけど」
「ですから、ここでも凍え死なないでください、ということでしょう」
毛布の中に、まだ温かいパンがひとつ、くるまれていた。
ミレイアは、少し離れた瓦の上に、膝を揃えて座った。
レオニスの視線の先を、たどる。
「……あの子ですか」
「ああ」
「星を、見ているのですね」
「探してんだよ」
レオニスは、窓から目を離さなかった。
「母ちゃんの星。……昔、俺が教えたんだ。窓掛け開けて、あれかな、これかなって。あいつ、覚えてもいねえくせに――まだ、探してやがる」
ミレイアは、黙っていた。
レオニスは、ぽつりと言った。
「あそこから、連れ出して――」
言いかけて、口をつぐんだ。
連れ出して、どうする。
お前は俺の友達だった、と言うのか。お前の母ちゃんは流行り病で死んだんだ、と教えるのか。お前は毎晩、泣いてたんだ、と。
それで、あいつは――
「あの子に、何を選ばせるんですか」
静かな声だった。
レオニスは、振り向いた。
ミレイアは、窓を見たままだった。
「あなたは、いつも言います。選ぶのは、その人だと。……では、あの子には、何を選ばせるんですか」
答えは、喉まで来て、どこにもなかった。
「……わかんねえ」
正直に、そう言った。
ミレイアは、それ以上、何も訊かなかった。
レオニスは、毛布の中のパンを、ひと口かじった。朝から、何も食っていなかった。
パンは、まだ温かかった。
窓辺の少女の目が、止まった。
星をなぞっていた視線が、ゆっくりと下りてきて――屋根の上で、止まった。
星空を背にした、ふたつの影の上で。
少女は、目を瞬いた。
それから、胸の前で、小さく手を振った。
レオニスは、手を上げかけた。
その前に――
少女の背後から、白い衣の腕が伸びてきた。
少女の肩を、そっと抱き寄せる。
指先が、ちりりと疼いた。
窓が、細く開いた。
聖女だった。
灯りを背にした顔は、影になって見えなかった。白金の髪だけが、灯りに透けて、淡く光っている。
それでも、まっすぐにこちらを見上げているのが、わかった。
「夜は、冷えますよ」
やわらかな声だった。
路地ひとつ隔てた屋根の上まで、ひとことも欠けずに届いた。
――夜は、冷えますからね。
十二年前、白い部屋の窓掛けを閉めて回った声と、同じ言葉だった。
窓掛けが、閉じた。




