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光の闇司祭② 白陽の聖女  作者: parupuntist


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1/10

プロローグ 白い雪

 シチューが食いたい。


 踏み固められた雪道を登りながら、骨ばった長身を寒風に丸め、まだ白いもののない無精髭に息の霜をつけて、オズワルドは心の底からそう思った。


 黒き母の子にとっては、これも立派な祈りのうちだ。


 北の山奥の冬は、シチューの季節だった。


 黒麦酒(ビール)に、干し肉と根菜。真っ黒になるまで焦がした玉ねぎと、仕上げにひと匙(さじ)の蜂蜜。煮えたら火から下ろし、蓋をして、朝まで放っておく。


 ――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。


 村の年寄りは、みなそう言う。だからこの季節、あの谷の村では、どこの家の竈(かまど)の上でも、ゆうべ仕込んだ鍋が、蓋の下で昼寝をしている。


 冬が来るたびに、オズワルドはその谷へ帰る。兄貴の竈の前で、ひと冬を越すために。


 腰のあたりで、縄を編んだ網に入れた壺が、歩くたびにことことと鳴った。


 麓の町で、なけなしの銭をはたいて買ってきた蜂蜜だ。


 兄貴の娘――ヘルミの好物だった。正確に言えば、蜂蜜を垂らしたシチューが、だ。ひと匙じゃ足りないと泣き、ふた匙目で、ようやく泣きやむ。五つになっても、あの子はそういう子だった。


 ――泣き虫なんだよ。誰に似たんだろうね。


 そう言って目尻を下げる兄貴の顔を思い出して、オズワルドは、霜のついた口もとをゆるめた。


 兄弟子だった。


 黒き母をひそかに信じてきた、北の山奥の隠れ里。ふたりはそこで生まれ、同じ師匠のもとで、同じ鍋をつついて育った。オズワルドが村を出て、あちこちを渡り歩くようになってからも、兄貴は村に残った。たったひとりの闇司祭として、赤子に名をつけ、死人を送り、子供たちに字を教えてきた。村の者は、みな兄貴を「先生」と呼ぶ。


 女房に先立たれてからは、泣き虫の娘を、男手ひとつで育てている。


 夜ごと、兄貴は娘を抱いて、村の子守唄を歌う。


 ――これはね、泣きやませる歌じゃないんだ。泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌なんだよ。


 いつだったか、兄貴はそう言っていた。


 気づけば、オズワルドも鼻歌で、その節をなぞっていた。四十半ばの男が、雪道で子守唄だ。兄貴に聞かれたら、腹を抱えて笑われる。


 パイプをくわえ、指を鳴らす。


 ぽっ、と。


 藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火が灯った。


 煙を吐きながら、ふと、去年の冬のことを思い出した。


 竈に火を入れる兄貴の指先に灯った火が、やけに白っぽく見えたのだ。昔は、蜂蜜を灯(ひ)にかざしたような、とろりとした金色だったのに。


 ――色が抜けてるぜ、兄貴。


 からかうと、兄貴は困ったように笑った。


 ――あの子が泣くとね。胸が、潰れそうになるんだよ。


 それだけだった。


 欲が深まれば、火の色も変わる。あのときは、親馬鹿の火だと笑って、それきりにした。


 今になって、なぜか、そのことが胸に引っかかった。


 冬の日は短い。昼を過ぎたばかりだというのに、陽はもう、西の尾根へ傾きかけていた。


 尾根の上に出たところで、雪がちらつきはじめた。


 眼下の谷から、煙が上がっていた。


 一本ではなかった。二本、三本――数えるのを、やめた。


 竈の煙なら、あんなに黒くはない。


 谷の入り口で、旗がはためいていた。


 白い旗に縫いとられた、白銀の太陽。


 聖光教会の――神殿騎士団の、旗だった。


 オズワルドは、雪を蹴った。


 斜面を駆け下りる。膝まで沈む雪に足を取られ、転がり、また駆ける。網の中で、蜂蜜の壺が暴れた。


 村はずれの柵が見えたとき、風を裂く音がした。


 左の肩に、焼けた鉄を押しつけられたような衝撃が走った。


 矢だった。


 柵の陰で、白い外套(がいとう)の騎士が、次の矢をつがえている。オズワルドは歯を食いしばり、肩から突き出た矢柄(やがら)を、右手でへし折った。


 二の矢が、耳もとをかすめていった。


 止まらなかった。止まれるはずがなかった。


 村の広場は、火の輪の中にあった。


 茅葺(かやぶ)きの屋根が、ひとつ、またひとつと火を噴いている。黒い煙が、ちらつく雪を呑みこんでいく。


 広場の真ん中に、村の者たちが追い立てられていた。子供を抱えた母親。腰の曲がった年寄り。誰もかれもが、泣いていた。その人垣を、白い外套の騎士たちが、抜き身の剣で取り囲んでいる。


 馬上の、年かさの騎士が、声を張り上げた。


「聖なる光の名において、この村を浄める!」


 騎士たちと村の者たちのあいだに、ひとりの男が立っていた。


 痩せた男だった。古い綿入れの袖口が、いつものように、白墨の粉で白くなっている。


 兄貴だった。


 その腕の中で、小さな女の子が泣き叫んでいた。


 麦わらよりも淡い色の髪。涙でいっぱいの、淡い金色の瞳。死んだ母親の肩掛けを仕立て直した、小さな綿入れ。


 ヘルミだった。


 火の粉が降るたびに、ヘルミは身をよじって泣いた。梁(はり)の焼け落ちる音がするたびに、喉が裂けそうな声を上げた。


 兄貴は娘の背を撫でながら、低い声で歌いはじめた。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 火の爆ぜる音の中で、その歌だけが、不思議とはっきり聞こえた。


「よるの かあさま ひを だいて」


 ヘルミは、泣きやまなかった。


 すぐそばで、家がひとつ、轟音とともに崩れ落ちた。降りかかる火の粉に、泣き声が、ひときわ高く跳ね上がる。


 それでも、兄貴は歌いつづけた。


「ないても――」


 歌が、止まった。


 続きなら、知っている。この村の子なら、誰でも知っている。


 ――ないても いいよ よるの なか


 兄貴の唇は、その先を、歌わなかった。


 泣き叫ぶ娘を、見下ろしていた。兄貴の頬を、涙がひと筋、伝っていた。


 それから、燃える家を、剣を構えた騎士たちを、泣いている村の者たちを、ゆっくりと見渡した。


 兄貴の指先に、白いものが灯っていた。


 蜂蜜の色は、もう、ひとしずくも残っていなかった。


「兄貴――」


 オズワルドは、叫んだ。


「よせ、兄貴!」


 届かなかった。


 兄貴が、口を開いた。静かな声だった。


「我、欲(ほっ)す――」


 娘の頭を、そっと胸に抱き寄せる。


「――ヘルミが、もう、泣かなくていいことを」


 白が、爆ぜた。


 音もなく、熱もなく。


 兄貴の胸もとから溢れ出した白が、広場を呑み、燃える家々を呑み、谷じゅうへ広がっていった。暮れかけていた冬の谷が、真昼よりも白く染まっていく。


 影が、消えた。


 燃える家の影も。逃げまどう人々の影も。騎士たちの影も。兄貴の足もとに落ちていた影さえも。ひとつ残らず、白の中に溶けて消えた。


 そして――泣き声が、止みはじめた。


 ひとつ。


 またひとつ。


 子供を抱えた母親が、泣くのをやめた。雪に膝をついていた年寄りが、顔を上げた。


 笑っていた。


 燃える家の前で、村の者たちが、笑っていた。


 穏やかに、どこまでも優しく。


 柵のほうへ逃げかけていた者たちの足が、止まった。火の粉が髪に降りかかっても、誰も払おうとしない。燃え落ちる梁を見上げたまま、春の陽だまりにでもいるように、目を細めて笑っている。


 人の笑い顔に総毛立ったのは、生まれて初めてだった。


 騎士たちが、剣を下ろしていた。


 年かさの騎士が、よろめくように鞍(くら)から降り、雪の上に膝をついた。


「光だ……」


 白に照らされた顔が、震えていた。


「神の、光だ」


 ひとり、またひとりと、白い外套の騎士たちが膝をついていく。


 その中に、若い男がひとりいた。岩を削ったような顎に、灰色の目。膝をついたまま、胸の白銀の太陽を、片手で握りしめている。祈るように――あるいは、何かをこらえるように。


 ただひとつ、止まない泣き声があった。


 ヘルミだった。


 兄貴の腕の中で、ヘルミだけが、まだ泣いていた。


 その兄貴の背から、白が立ち上がっていた。


 膨れ上がり、うねり、形を取っていく。家々の屋根より高く。燃える火の手より高く。四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもあった。


 その頭には、顔がなかった。


 目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる。


 ――《欲獣》。


 欲を人に押しつけた闇司祭は、己の欲に喰い破られ、獣に堕ちる。闇司祭なら、誰でも知っている言い伝えだった。


 見るのは、初めてだった。


 兄貴の顔から、目が、鼻が、白に溶けていく。頬を伝っていた涙の跡ごと。


 顔だけではなかった。娘を抱く腕も、白く透けていく。


 小さな体が、その腕から滑り落ちた。雪の上に、ヘルミが転がる。兄貴の姿は、湯に落とした雪のようにほどけて、白い獣の足もとへ吸いこまれていった。


 ヘルミが、雪の上から、両手を伸ばした。


「おとうさん」


 しゃくりあげながら。


「おとうさん、いかないで」


 白い獣が、ゆっくりと身をかがめた。顔のない頭が、泣きじゃくる娘のほうへ降りてくる。微笑む口もとが、すぐそこまで近づいて――白が、いっそう濃くなった。


 オズワルドには、わかってしまった。


 ヘルミは、父親を呼んで泣いている。その泣き声を消そうとして、白は膨れる。白が膨れるほど、父親は獣の奥へ遠ざかる。遠ざかるほど、娘は泣く。


 終わらない。


 あの子が泣きやむまで、終わらない。


 気づけば、オズワルドは叫んでいた。


「我、欲す――兄貴を、返せ!」


 夕暮れの色の火が、全身から噴き上がった。


 藍と金の炎に身を包み、白の中へ踏みこむ。


 重かった。


 吹雪に向かって歩くように、一歩ごとに、白が体を押し戻してくる。炎の縁(ふち)が、白く削られていく。


 胸の奥に、何かが、そっと触れてきた。


 ――もう、泣かなくていい。


 兄貴の声に、よく似ていた。


 目の奥が熱いことに、オズワルドは初めて気づいた。泣いていたのだ。いつからなのかは、わからない。その涙を、白が、やさしく拭おうとしている。


 オズワルドは、奥歯を噛みしめた。


「……やらねえよ」


 一歩。


「こいつは、俺のだ」


 また一歩。


 獣の足もとまで、あと、ほんの十歩。


 夕暮れは、真昼に勝てなかった。


 白が、うねった。見えない壁に叩きつけられたように、オズワルドの体は宙を舞い、広場の端の雪へ投げ出された。


 雪にまみれたまま、叫ぶ。


「兄貴!」


 獣は、振り向かなかった。顔のない頭は、雪の上で泣く娘にだけ向けられていた。


 背後で、梁の軋(きし)む音がした。


 振り返ると、一軒の家が、火に包まれていた。


 開け放たれた戸口に、若い男が立っていた。熊の仔(こ)みたいに図体のでかい男だ。見覚えがある。昔、兄貴の手習いに来ては、石板を割ってばかりいた洟(はな)垂れだった。


 その男が、燃える戸口で、笑っていた。


 背中の向こう、火の粉の降る土間では、年のいった女が、竈にかけた鍋の前に座りこんでいた。――あいつの、おふくろだ。


 女も、笑っていた。


 千切れかけた夕暮れの火をまとったまま、オズワルドは跳ね起きた。


 若い男の襟首を掴み、渾身の力で、外へ放り出す。大きな体が、雪の上を転がっていく。


 そのまま土間へ飛びこもうとした、そのとき。


 屋根が、落ちた。


 燃える梁が、目の前に崩れ落ちる。熱風に叩かれ、オズワルドは後ろざまに吹き飛ばされた。


 雪に叩きつけられた腰の下で、何かが、鈍い音を立てて砕けた。


 炎の向こうに、一瞬だけ、女の顔が見えた。


 穏やかに、どこまでも優しく、笑っていた。


 それきり、火が、すべてを覆い隠した。


 雪の上に座りこんで、若い男が、燃える家を見上げていた。


 笑っていた。


 谷に残った泣き声は、ひとつだけだった。


 広場の真ん中。白い獣の足もとで、ヘルミが泣いている。


 その声が、しゃくりあげて――途切れた。


 ヘルミは、泣きやんでいた。


 濡れた頬のまま、ゆっくりと顔を上げる。見上げた先に、顔のない白い獣がいた。微笑む口もとが、すぐそこにあった。


 ヘルミは、笑った。


 穏やかに、どこまでも優しく。


 獣の口もとが、満ち足りたように、いっそう深く微笑んだ。


 そして、白い輪郭が、ほどけた。


 欲が、満たされたのだ。


 家々よりも高かった白い体が、ひとひら、またひとひらと剥がれ落ちていく。音もなく、形を失っていく。


 ――雪に、なった。


 白い雪が、谷に降りそそいだ。


 ヘルミが、小さな両手を、空へ伸ばした。


「……ゆき」


 嬉しそうに、そう言った。


 白い雪がひとひら、倒れたオズワルドの頬に落ちた。


 冷たくなかった。


 兄貴の手のひらのように、あたたかかった。


 ――なのに、溶けなかった。


 兄貴の姿は、どこにもなかった。兄貴が立っていたはずの場所には、足跡さえ残っていなかった。


 白い外套の騎士がひとり、立ち上がった。


 灰色の目をした、あの若い男だった。雪を踏んで広場の真ん中へ歩いていき、笑っている女の子の前に膝をつく。


 そして、その小さな体を、抱き上げた。


「この子は……」


 かすれた声だった。


「この子は、光に選ばれた子だ」


 膝をついたままの騎士たちの口から、祈りの言葉がこぼれた。


 オズワルドは、起き上がろうとした。


 体が、動かなかった。左の肩から、熱いものが流れつづけている。雪に沈んだ手足が、自分のものではないように重い。


「ヘルミ……」


 声は、ひどくかすれていた。


 馬のほうへ歩いていく若い騎士の肩越しに、ヘルミが、こちらを見た。


 泣き虫の子だった。転んでは泣き、夜が怖いと泣き、ひと匙じゃ足りないと泣いた。泣けば、いつも誰かに向かって、両手を伸ばす子だった。


 その子が、手を伸ばさなかった。


 ただ笑って――白い外套の向こうに、見えなくなった。


 見ていることしか、できなかった。


 蹄(ひづめ)の音が、遠ざかっていく。


 雪に投げ出した手のそばに、何かが、じわりと染みていた。


 割れた壺から、蜂蜜が流れ出していたのだ。


 とろりとした金色が、白い雪の上に、ゆっくりと広がっていく。そこへ、白い雪が降りつもっていく。ひとひら、またひとひら。


 金色は、少しずつ、見えなくなっていった。


 日が、落ちた。


 燃えつきた家々から、細い煙が立ちのぼっている。村の者たちは、焼け跡のあちこちに座りこんで、暮れていく空を見上げていた。


 みな、笑っていた。


 谷じゅうで泣いているのは、オズワルドひとりだった。


 夜が、降りてきた。


 暗くて、よかった、と思った。


 兄貴の歌いかけた歌の続きを、歌おうとした。


 ――ないても いいよ


 声には、ならなかった。


 節だけが、喉の奥で、かすかに鳴った。


◆


 二十五年前の冬、北の山奥の谷で起きたことは、聖光教会の記録に、ただ一行だけ残されている。


 ――光の奇跡により、異端の村は浄められた。


 燃えた家の数は、書かれていない。笑ったまま火に呑まれた者たちの名も。光に選ばれたという娘の、ほんとうの名前も。


 娘を泣きやませて、雪になった男のことも。


 顔のない、白い獣のことも。


 それが、オズワルドという男が、一度だけ見た《欲獣》だった。

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