プロローグ 白い雪
シチューが食いたい。
踏み固められた雪道を登りながら、骨ばった長身を寒風に丸め、まだ白いもののない無精髭に息の霜をつけて、オズワルドは心の底からそう思った。
黒き母の子にとっては、これも立派な祈りのうちだ。
北の山奥の冬は、シチューの季節だった。
黒麦酒に、干し肉と根菜。真っ黒になるまで焦がした玉ねぎと、仕上げにひと匙の蜂蜜。煮えたら火から下ろし、蓋をして、朝まで放っておく。
――シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。
村の年寄りは、みなそう言う。だからこの季節、あの谷の村では、どこの家の竈の上でも、ゆうべ仕込んだ鍋が、蓋の下で昼寝をしている。
冬が来るたびに、オズワルドはその谷へ帰る。兄貴の竈の前で、ひと冬を越すために。
腰のあたりで、縄を編んだ網に入れた壺が、歩くたびにことことと鳴った。
麓の町で、なけなしの銭をはたいて買ってきた蜂蜜だ。
兄貴の娘――ヘルミの好物だった。正確に言えば、蜂蜜を垂らしたシチューが、だ。ひと匙じゃ足りないと泣き、ふた匙目で、ようやく泣きやむ。五つになっても、あの子はそういう子だった。
――泣き虫なんだよ。誰に似たんだろうね。
そう言って目尻を下げる兄貴の顔を思い出して、オズワルドは、霜のついた口もとをゆるめた。
兄弟子だった。
黒き母をひそかに信じてきた、北の山奥の隠れ里。ふたりはそこで生まれ、同じ師匠のもとで、同じ鍋をつついて育った。オズワルドが村を出て、あちこちを渡り歩くようになってからも、兄貴は村に残った。たったひとりの闇司祭として、赤子に名をつけ、死人を送り、子供たちに字を教えてきた。村の者は、みな兄貴を「先生」と呼ぶ。
女房に先立たれてからは、泣き虫の娘を、男手ひとつで育てている。
夜ごと、兄貴は娘を抱いて、村の子守唄を歌う。
――これはね、泣きやませる歌じゃないんだ。泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌なんだよ。
いつだったか、兄貴はそう言っていた。
気づけば、オズワルドも鼻歌で、その節をなぞっていた。四十半ばの男が、雪道で子守唄だ。兄貴に聞かれたら、腹を抱えて笑われる。
パイプをくわえ、指を鳴らす。
ぽっ、と。
藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火が灯った。
煙を吐きながら、ふと、去年の冬のことを思い出した。
竈に火を入れる兄貴の指先に灯った火が、やけに白っぽく見えたのだ。昔は、蜂蜜を灯にかざしたような、とろりとした金色だったのに。
――色が抜けてるぜ、兄貴。
からかうと、兄貴は困ったように笑った。
――あの子が泣くとね。胸が、潰れそうになるんだよ。
それだけだった。
欲が深まれば、火の色も変わる。あのときは、親馬鹿の火だと笑って、それきりにした。
今になって、なぜか、そのことが胸に引っかかった。
冬の日は短い。昼を過ぎたばかりだというのに、陽はもう、西の尾根へ傾きかけていた。
尾根の上に出たところで、雪がちらつきはじめた。
眼下の谷から、煙が上がっていた。
一本ではなかった。二本、三本――数えるのを、やめた。
竈の煙なら、あんなに黒くはない。
谷の入り口で、旗がはためいていた。
白い旗に縫いとられた、白銀の太陽。
聖光教会の――神殿騎士団の、旗だった。
オズワルドは、雪を蹴った。
斜面を駆け下りる。膝まで沈む雪に足を取られ、転がり、また駆ける。網の中で、蜂蜜の壺が暴れた。
村はずれの柵が見えたとき、風を裂く音がした。
左の肩に、焼けた鉄を押しつけられたような衝撃が走った。
矢だった。
柵の陰で、白い外套の騎士が、次の矢をつがえている。オズワルドは歯を食いしばり、肩から突き出た矢柄を、右手でへし折った。
二の矢が、耳もとをかすめていった。
止まらなかった。止まれるはずがなかった。
村の広場は、火の輪の中にあった。
茅葺きの屋根が、ひとつ、またひとつと火を噴いている。黒い煙が、ちらつく雪を呑みこんでいく。
広場の真ん中に、村の者たちが追い立てられていた。子供を抱えた母親。腰の曲がった年寄り。誰もかれもが、泣いていた。その人垣を、白い外套の騎士たちが、抜き身の剣で取り囲んでいる。
馬上の、年かさの騎士が、声を張り上げた。
「聖なる光の名において、この村を浄める!」
騎士たちと村の者たちのあいだに、ひとりの男が立っていた。
痩せた男だった。古い綿入れの袖口が、いつものように、白墨の粉で白くなっている。
兄貴だった。
その腕の中で、小さな女の子が泣き叫んでいた。
麦わらよりも淡い色の髪。涙でいっぱいの、淡い金色の瞳。死んだ母親の肩掛けを仕立て直した、小さな綿入れ。
ヘルミだった。
火の粉が降るたびに、ヘルミは身をよじって泣いた。梁の焼け落ちる音がするたびに、喉が裂けそうな声を上げた。
兄貴は娘の背を撫でながら、低い声で歌いはじめた。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
火の爆ぜる音の中で、その歌だけが、不思議とはっきり聞こえた。
「よるの かあさま ひを だいて」
ヘルミは、泣きやまなかった。
すぐそばで、家がひとつ、轟音とともに崩れ落ちた。降りかかる火の粉に、泣き声が、ひときわ高く跳ね上がる。
それでも、兄貴は歌いつづけた。
「ないても――」
歌が、止まった。
続きなら、知っている。この村の子なら、誰でも知っている。
――ないても いいよ よるの なか
兄貴の唇は、その先を、歌わなかった。
泣き叫ぶ娘を、見下ろしていた。兄貴の頬を、涙がひと筋、伝っていた。
それから、燃える家を、剣を構えた騎士たちを、泣いている村の者たちを、ゆっくりと見渡した。
兄貴の指先に、白いものが灯っていた。
蜂蜜の色は、もう、ひとしずくも残っていなかった。
「兄貴――」
オズワルドは、叫んだ。
「よせ、兄貴!」
届かなかった。
兄貴が、口を開いた。静かな声だった。
「我、欲す――」
娘の頭を、そっと胸に抱き寄せる。
「――ヘルミが、もう、泣かなくていいことを」
白が、爆ぜた。
音もなく、熱もなく。
兄貴の胸もとから溢れ出した白が、広場を呑み、燃える家々を呑み、谷じゅうへ広がっていった。暮れかけていた冬の谷が、真昼よりも白く染まっていく。
影が、消えた。
燃える家の影も。逃げまどう人々の影も。騎士たちの影も。兄貴の足もとに落ちていた影さえも。ひとつ残らず、白の中に溶けて消えた。
そして――泣き声が、止みはじめた。
ひとつ。
またひとつ。
子供を抱えた母親が、泣くのをやめた。雪に膝をついていた年寄りが、顔を上げた。
笑っていた。
燃える家の前で、村の者たちが、笑っていた。
穏やかに、どこまでも優しく。
柵のほうへ逃げかけていた者たちの足が、止まった。火の粉が髪に降りかかっても、誰も払おうとしない。燃え落ちる梁を見上げたまま、春の陽だまりにでもいるように、目を細めて笑っている。
人の笑い顔に総毛立ったのは、生まれて初めてだった。
騎士たちが、剣を下ろしていた。
年かさの騎士が、よろめくように鞍から降り、雪の上に膝をついた。
「光だ……」
白に照らされた顔が、震えていた。
「神の、光だ」
ひとり、またひとりと、白い外套の騎士たちが膝をついていく。
その中に、若い男がひとりいた。岩を削ったような顎に、灰色の目。膝をついたまま、胸の白銀の太陽を、片手で握りしめている。祈るように――あるいは、何かをこらえるように。
ただひとつ、止まない泣き声があった。
ヘルミだった。
兄貴の腕の中で、ヘルミだけが、まだ泣いていた。
その兄貴の背から、白が立ち上がっていた。
膨れ上がり、うねり、形を取っていく。家々の屋根より高く。燃える火の手より高く。四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもあった。
その頭には、顔がなかった。
目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる。
――《欲獣》。
欲を人に押しつけた闇司祭は、己の欲に喰い破られ、獣に堕ちる。闇司祭なら、誰でも知っている言い伝えだった。
見るのは、初めてだった。
兄貴の顔から、目が、鼻が、白に溶けていく。頬を伝っていた涙の跡ごと。
顔だけではなかった。娘を抱く腕も、白く透けていく。
小さな体が、その腕から滑り落ちた。雪の上に、ヘルミが転がる。兄貴の姿は、湯に落とした雪のようにほどけて、白い獣の足もとへ吸いこまれていった。
ヘルミが、雪の上から、両手を伸ばした。
「おとうさん」
しゃくりあげながら。
「おとうさん、いかないで」
白い獣が、ゆっくりと身をかがめた。顔のない頭が、泣きじゃくる娘のほうへ降りてくる。微笑む口もとが、すぐそこまで近づいて――白が、いっそう濃くなった。
オズワルドには、わかってしまった。
ヘルミは、父親を呼んで泣いている。その泣き声を消そうとして、白は膨れる。白が膨れるほど、父親は獣の奥へ遠ざかる。遠ざかるほど、娘は泣く。
終わらない。
あの子が泣きやむまで、終わらない。
気づけば、オズワルドは叫んでいた。
「我、欲す――兄貴を、返せ!」
夕暮れの色の火が、全身から噴き上がった。
藍と金の炎に身を包み、白の中へ踏みこむ。
重かった。
吹雪に向かって歩くように、一歩ごとに、白が体を押し戻してくる。炎の縁が、白く削られていく。
胸の奥に、何かが、そっと触れてきた。
――もう、泣かなくていい。
兄貴の声に、よく似ていた。
目の奥が熱いことに、オズワルドは初めて気づいた。泣いていたのだ。いつからなのかは、わからない。その涙を、白が、やさしく拭おうとしている。
オズワルドは、奥歯を噛みしめた。
「……やらねえよ」
一歩。
「こいつは、俺のだ」
また一歩。
獣の足もとまで、あと、ほんの十歩。
夕暮れは、真昼に勝てなかった。
白が、うねった。見えない壁に叩きつけられたように、オズワルドの体は宙を舞い、広場の端の雪へ投げ出された。
雪にまみれたまま、叫ぶ。
「兄貴!」
獣は、振り向かなかった。顔のない頭は、雪の上で泣く娘にだけ向けられていた。
背後で、梁の軋む音がした。
振り返ると、一軒の家が、火に包まれていた。
開け放たれた戸口に、若い男が立っていた。熊の仔みたいに図体のでかい男だ。見覚えがある。昔、兄貴の手習いに来ては、石板を割ってばかりいた洟垂れだった。
その男が、燃える戸口で、笑っていた。
背中の向こう、火の粉の降る土間では、年のいった女が、竈にかけた鍋の前に座りこんでいた。――あいつの、おふくろだ。
女も、笑っていた。
千切れかけた夕暮れの火をまとったまま、オズワルドは跳ね起きた。
若い男の襟首を掴み、渾身の力で、外へ放り出す。大きな体が、雪の上を転がっていく。
そのまま土間へ飛びこもうとした、そのとき。
屋根が、落ちた。
燃える梁が、目の前に崩れ落ちる。熱風に叩かれ、オズワルドは後ろざまに吹き飛ばされた。
雪に叩きつけられた腰の下で、何かが、鈍い音を立てて砕けた。
炎の向こうに、一瞬だけ、女の顔が見えた。
穏やかに、どこまでも優しく、笑っていた。
それきり、火が、すべてを覆い隠した。
雪の上に座りこんで、若い男が、燃える家を見上げていた。
笑っていた。
谷に残った泣き声は、ひとつだけだった。
広場の真ん中。白い獣の足もとで、ヘルミが泣いている。
その声が、しゃくりあげて――途切れた。
ヘルミは、泣きやんでいた。
濡れた頬のまま、ゆっくりと顔を上げる。見上げた先に、顔のない白い獣がいた。微笑む口もとが、すぐそこにあった。
ヘルミは、笑った。
穏やかに、どこまでも優しく。
獣の口もとが、満ち足りたように、いっそう深く微笑んだ。
そして、白い輪郭が、ほどけた。
欲が、満たされたのだ。
家々よりも高かった白い体が、ひとひら、またひとひらと剥がれ落ちていく。音もなく、形を失っていく。
――雪に、なった。
白い雪が、谷に降りそそいだ。
ヘルミが、小さな両手を、空へ伸ばした。
「……ゆき」
嬉しそうに、そう言った。
白い雪がひとひら、倒れたオズワルドの頬に落ちた。
冷たくなかった。
兄貴の手のひらのように、あたたかかった。
――なのに、溶けなかった。
兄貴の姿は、どこにもなかった。兄貴が立っていたはずの場所には、足跡さえ残っていなかった。
白い外套の騎士がひとり、立ち上がった。
灰色の目をした、あの若い男だった。雪を踏んで広場の真ん中へ歩いていき、笑っている女の子の前に膝をつく。
そして、その小さな体を、抱き上げた。
「この子は……」
かすれた声だった。
「この子は、光に選ばれた子だ」
膝をついたままの騎士たちの口から、祈りの言葉がこぼれた。
オズワルドは、起き上がろうとした。
体が、動かなかった。左の肩から、熱いものが流れつづけている。雪に沈んだ手足が、自分のものではないように重い。
「ヘルミ……」
声は、ひどくかすれていた。
馬のほうへ歩いていく若い騎士の肩越しに、ヘルミが、こちらを見た。
泣き虫の子だった。転んでは泣き、夜が怖いと泣き、ひと匙じゃ足りないと泣いた。泣けば、いつも誰かに向かって、両手を伸ばす子だった。
その子が、手を伸ばさなかった。
ただ笑って――白い外套の向こうに、見えなくなった。
見ていることしか、できなかった。
蹄の音が、遠ざかっていく。
雪に投げ出した手のそばに、何かが、じわりと染みていた。
割れた壺から、蜂蜜が流れ出していたのだ。
とろりとした金色が、白い雪の上に、ゆっくりと広がっていく。そこへ、白い雪が降りつもっていく。ひとひら、またひとひら。
金色は、少しずつ、見えなくなっていった。
日が、落ちた。
燃えつきた家々から、細い煙が立ちのぼっている。村の者たちは、焼け跡のあちこちに座りこんで、暮れていく空を見上げていた。
みな、笑っていた。
谷じゅうで泣いているのは、オズワルドひとりだった。
夜が、降りてきた。
暗くて、よかった、と思った。
兄貴の歌いかけた歌の続きを、歌おうとした。
――ないても いいよ
声には、ならなかった。
節だけが、喉の奥で、かすかに鳴った。
◆
二十五年前の冬、北の山奥の谷で起きたことは、聖光教会の記録に、ただ一行だけ残されている。
――光の奇跡により、異端の村は浄められた。
燃えた家の数は、書かれていない。笑ったまま火に呑まれた者たちの名も。光に選ばれたという娘の、ほんとうの名前も。
娘を泣きやませて、雪になった男のことも。
顔のない、白い獣のことも。
それが、オズワルドという男が、一度だけ見た《欲獣》だった。




