二 尋ね人の壁
東区まで、歩いて半日かかった。
途中、いくつもの水飲み場の前を通り過ぎた。露店の鉄板で焼かれる、薄いパンの匂いも嗅いだ。けれど喉の渇きも、空腹も、なぜか遠かった。最後に何かを口にしたのがいつだったのか、それさえ思い出せないのに。
陽が西に傾きかけたころ、川沿いの道の先に、それが見えてきた。
亀の甲羅のような、なだらかな円屋根の建物だった。屋根の一部は爆風で剥がれたのか、青い防水布で覆われている。正面の壁には「東区市民スケートリンク」という古い看板が残っていたが、文字はいくつも欠け落ちていた。その上から、真新しい白い横断幕が掛けられている。
『東区仮設遺体安置所 身元照会受付 午前九時~午後五時』
建物の脇では、大きな冷却装置の群れが低くうなり、結露した水を、絶え間なく地面に垂らしていた。
風向きが、変わった。
消毒液の匂いがした。その下に、別の匂いが沈んでいた。どれほど消毒液を撒いても消しきれない、甘く、重たい匂い。わたしの鼻は、その濃さから、建物の中にあるものの数を、勝手に見積もろうとした。わたしは、息を止めた。
建物の長い外壁が、紙で埋めつくされていた。
尋ね人の、壁だった。
何千枚あるのか、わからない。写真を貼りつけた紙。子どもが描いたらしい、クレヨンの似顔絵。震える文字でびっしりと書きこまれた便箋。雨に打たれて文字が滲み、日に焼けて写真の色が抜け、それでも剥がされずに、古い紙の上に新しい紙が、魚の鱗のように重なり合っている。
『探しています。母です。第三避難所にいました。
この子を見かけた方は、東区四番街のパン屋まで。
兄さんへ。まだ待っています。』
壁の前には、ぽつりぽつりと人が立っていた。一枚の写真を、指先でそっと撫でている老婆がいた。壁の根元には、しおれた花束と、ブリキの玩具と、ふちの欠けたカップが供えてあった。
わたしも、壁の前に立った。
探そうとして、気づいた。
わたしには、探すものがなかった。
写真がない。名前がない。ロクマルの笑った顔を、ロクイチの口ずさむ横顔を、ロクニの怯えた目を思い浮かべようとしても、磨りガラスの向こうで、輪郭が滲んでいくだけだった。この何千枚の顔の中に三人の顔が紛れていたとしても、わたしには、それを見分けることができない。
壁の前で、わたしだけが、手ぶらだった。
「探してる人がいるなら、紙はそこ」
背後から、声がした。
振り向くと、女がひとり立っていた。
片手に糊の入ったバケツを提げ、もう片方の腕に、真新しい白いカードの束を抱えている。二十代の後半くらいだろうか。短く切った髪を、首の後ろで無造作に束ねていた。袖をまくった腕は細く、分厚いゴムの前掛けをつけ、首から古い写真機を下げている。冷えて赤くなった指先。目の下に、何日分も溜めこんだような、深い隈があった。
前掛けの胸に、手書きの名札が縫いつけてあった。
記録係、ユノ。
「書き方がわからないなら、書いてあげる。字が書けない人も多いから」
女は――ユノは、壁の下のほうの、雨で文字の流れかけた紙を一枚剥がすと、そこに書かれていた内容を、白いカードへ素早く書き写しはじめた。名前。年齢。最後に目撃された場所。服の色。消えかけた文字を、一文字ずつ、新しい紙へ移していく。
「名前は?」
手を止めずに、ユノが訊いた。
「……ない」
「写真は」
「ない」
「じゃあ、特徴。背の高さとか、癖とか」
わたしは、答えられなかった。
「……番号なら、わかる」
ユノの手が、止まった。
「五二八六〇。五二八六一。五二八六二」
ユノが、ゆっくりと顔を上げた。その視線が、わたしの顔から、立てた襟へ、そして肩口の、糸のほつれた跡へと移っていく。広場を離れてすぐ、わたしは徽章を引きちぎって、ポケットの底に押しこんでいた。
「中央軍」
短く、ユノは言った。
「軍の番号だけ? 名前は、ひとつも?」
「わたしたちには、名前がなかった」
ユノはしばらく黙っていた。何かを量るように、わたしの顔を見ていた。
「……変な部隊」
それだけ言うと、ユノは書き終えたカードを壁に貼り、刷毛で糊をなでつけて、バケツを持ち上げた。
「軍の記録は、いまは全部、復興局が持ってる。中の端末で照会できる。……でも、期待はしないで。十か月たっても、見つからない人のほうが多いから」
ほんの一瞬、ユノは口をつぐんだ。
「わたしのも、まだ見つかってない」
ユノは、建物の通用口に向かって歩き出した。ついて来い、とは言わなかった。来るな、とも言わなかった。
通用口をくぐった瞬間、冷気が全身を包んだ。
背中を濡らしていた汗が、一瞬で、冷たい膜に変わった。首筋が粟立つ。夏の街から、いきなり冬の底へ突き落とされたようだった。
そこは、氷の広間だった。
楕円形のリンクいっぱいに、白い氷が張られている。天井の照明は半分しか灯っておらず、薄青い光が、氷の表面にぼんやりと滲んでいた。その氷の上に、木の台が、列をなして並んでいた。
台の上には、白い布をかけられたものが、ひとつずつ横たわっていた。
畑の畝のように、まっすぐに。どの列の端にも、番号を書いた札が立っている。布の下の形は、大きいもの、小さいもの、ひどく短いもの――。
身体が、数えた。
百六十二。
数えたくなど、なかった。数え終わってから、わたしはそれに気づいた。
リンクを囲むフェンスの足もとを、太い管が何本も這っていた。表面に霜をまとい、黄色いペンキで「冷媒管 高圧注意」と書かれている。リンクの奥の、巻き上げ式の鉄の扉の手前には、四角く背の高い車両が一台停められていた。柱には、赤い消火器。天井からは錆びた鎖で四角い得点板が吊り下げられ、消えた電光の枠の中に、白く焼きついた数字が読みとれた。三対二。戦争が始まる前の、最後の試合の点数なのだろう。
身体は、管の位置を覚えた。車両の位置を、消火器の位置を、出入口の数を、天井に空いた穴の数を。
わたしが、覚えようとしたわけではなかった。
ユノは慣れた足取りで、白い台のあいだを歩いていく。途中、一枚の布の端が台からずり落ちかけているのに気づくと、足を止め、眠っている子どもの毛布を直すように、そっと引き上げた。
「寒いでしょ」
振り返らずに、ユノが言った。
「すぐ慣れる。慣れないほうが、いいけど」
それから、わたしの顔を見て、眉を寄せた。
「……汗、かいてる」
額に手をやった。
指先が、ぐっしょりと濡れた。この冷気の中で、わたしのこめかみからは、次から次へと汗が噴き出していた。そして、その汗は、この氷の広間と同じくらい、冷たかった。
「熱でもあるの」
「……わからない」
「倒れるなら、台の上以外にしてね。そこは、もう満員だから」
冗談なのか本気なのか、わからない声だった。




