一 第三〇四日
夜明けの街は、洗濯物の匂いがした。
丘を下りきったところで、最初の家並みが始まった。煤けた煉瓦の、二階建ての長屋だった。その壁のあちこちに、白い斑点が散っている。近づいてみて、それが銃痕を塞いだ新しいモルタルなのだとわかった。古い壁の上で、塞がれた穴だけが、真新しく白かった。
長屋と長屋のあいだに紐が渡され、シーツが干してあった。朝の風を孕んで、ゆっくりとふくらみ、しぼむ。窓辺では、寝間着の女が欠伸をしながら、鉢植えに水をやっていた。どこかの台所で、鍋が火にかけられる音がした。
街に入って最初に聞こえたのは、銃声でも、砲声でもなく、子どもの笑い声だった。
空き缶を蹴りながら、三人の子どもが路地を駆けていく。そのうちのひとりの右脚は、膝から下が、磨かれた金属の棒だった。棒の先についたゴムの足で、少年は誰よりも速く缶を追いかけ、転び、笑いながら立ち上がった。
身体は、窓を数えていた。
通りに面した窓が、四十二。そのうち、この路地を見下ろせる角度にあるものが、十一。屋根の上に、人が伏せられる場所が三つ。狙撃手がいるとすれば、ここと、ここと、あそこ。身体はそれを一瞬で数え終え、洗濯物の陰から陰へ、射線を横切る時間がもっとも短くなるように、わたしの歩く道筋を選んでいた。
狙う者など、どこにもいないのに。
鍋の音と、子どもの笑い声のあいだを、わたしは、戦場を歩くように歩いた。
陽が昇るにつれて、空気が熱を帯びてきた。
街路樹で、蝉が鳴きはじめた。すれ違う人々は、みな半袖だった。軍用のジャケットを着こんだわたしの背中を、汗が伝っていく。
おかしい、と思った。
昨日の雨は、冷たかった。
硝子の天蓋から吹きこむ雨は、頬を打つたびに、冬の手前の冷たさで肌を刺した。吐く息は、白かった――気がする。それなのに、この朝の空気は、どう嗅いでも、夏の終わりの匂いがしていた。
大通りに出ると、人が増えた。
通りの真ん中では、路面電車の線路が敷き直されているところだった。掘り返された石畳の脇に、新しいレールが銀色の束になって積まれ、作業員たちが掛け声をかけながら、それを一本ずつ運んでいる。黄色いクレーンの腕が、朝日の中を、ゆっくりと旋回していた。
義肢が、多かった。
レールを担ぐ作業員の中に、肘から先が黒い樹脂の義手になっている男がいた。荷車を押す老人の片脚は、蛇腹の関節を持つ機械だった。母親の手を握って歩く小さな女の子の、その握っているほうの手が、白い、簡素な義手だった。誰も、それを気にとめていない。この街では、欠けた身体を機械で補うことが、もう、ありふれた風景になっているのだった。
それだけ多くの身体が、欠けたのだ。
わたしは、自分の手を見た。
夜明け前に、人の首を折った手。機械のケーブルを、紙のように裂いた手。見た目は、ただの華奢な、女の手だった。けれど、この手の中にも、何かが入っているのかもしれない。あの子の白い手や、あの男の黒い腕と同じものが、目に見えないところに――。
大通りの突き当たりが、広場になっていた。
正面に、屋根の半分が崩れ落ちたままの、古い石造りの建物がある。かつては市庁舎か何かだったのだろう。足場に囲われたその正面に、巨大な電光掲示板が掲げられていた。枠の上には、あの紋章があった。開いた本と、そこから伸びる一本の若芽。
人々は、掲示板の前を足早に通り過ぎていく。見上げる者は、ほとんどいない。
わたしは、立ち止まった。
『停戦協定発効より 第三〇四日
停戦記念式典(中央記録塔 戦時記録一括消去)まで あと十四日
記録を閉じ、明日をひらく
旧軍の未登録義体・装備をお持ちの方は、最寄りの戦後復興局窓口へ届け出てください』
停戦。
その二文字の意味を、わたしはしばらく、うまく飲みこめなかった。
掲示板の下の段を、白い文字が右から左へ流れていく。停戦から十か月。わたしたちの街は、ここまで戻りました――。
十か月。
戦争は、十か月前に、終わっていた。
嘘だ、と思った。
昨日だ。昨日の夜まで、確かに戦争だった。わたしは、ロクマルと、ロクイチと、ロクニと、あの狭い部屋で眠った。雨の降る駅で、四人で並んで――。
記憶をたどっても、どこにも継ぎ目がなかった。三人と過ごした最後の夜と、今朝の目覚めとは、一枚の布のように縫い合わされている。十か月分の夜が挟まっているはずの場所に、糸目ひとつ見当たらない。
なのに、この街は、十か月分の時間を確かに生きていた。塞がれた銃痕の白さ。敷き直される線路。子どもの金属の脚についた、すり減ったゴムの足裏。どれも、一晩でできるものではなかった。
わたしの昨日と、この街の今日とのあいだに、三百四の夜が横たわっている。
わたしは、そのひとつも覚えていない。
掲示板の下を通りかかった二人連れの女が、式典の文字を見上げて、言葉を交わしていた。
「ほんとに消しちゃうのかしらね。戦争の記録、全部」
「軍の記録だけでしょ。いつまでも持ってたって恨みが残るだけだって、ラジオで言ってたわよ」
「でも、うちの人が最後にどうなったのか、まだ何も――」
「忘れなさいよ。そのための式典なんだから」
二人は、そのまま人混みに紛れていった。
「その上着」
しゃがれた声がした。
掲示板の足もとの日陰に、男がひとり座りこんでいた。木箱を台にして、ばら売りの煙草を並べている。わたしと同じ、くすんだ緑色の軍用ジャケットを着ていた。ただし、襟の番号も、肩の徽章も、剃刀で削ぎ落としたように剥ぎ取られている。投げ出された左脚は、膝から下が、錆の浮いた金属だった。
「あんたも、どこかで時間を落としてきたくちか」
「……戦争は」
声が、かすれた。
「本当に、終わったの」
「終わったよ。去年の十一月にな」
男は、欠けた前歯を見せて笑った。憐れむような笑いだった。
「珍しかない。目が覚めたら一年たってた、なんて話は、この広場じゃ毎日聞く。頭をやられた連中は、みんな、どこかに自分の昨日を置いてきちまってるのさ」
「探している人がいる」わたしは言った。「五二八六〇。五二八六一。五二八六二」
男の笑いが、消えた。
「番号だけか」
「名前は、なかった」
男はしばらく、わたしの顔を見上げていた。それから煙草を一本抜いて耳に挟み、顎で東の方角をしゃくった。
「死んだ仲間を探してるなら、東区の安置所へ行きな。旧スケートリンクだ。あそこの記録係は、名前のない死人でも、台帳に一人ずつ書きつけるって話だ。変わり者の女だがな」
それから、声を落とした。
「それと、襟の番号は隠しときな。肩の徽章も剥がせ。この街で、中央軍の徽章をつけて歩いてるやつは、もういない」
わたしの左肩で、黒地に白い、ひとつきりの目が、じっと男を見下ろしていた。
頭上で、細い羽音がした。
見上げるより先に、身体が、顔を伏せていた。
広場の上空を、平たい円盤のような機械が、ゆっくりと横切っていくところだった。腹に並んだレンズが、下を行き交う人々の顔を、ひとつずつ舐めていく。
『顔照合を行っています。ご協力をお願いします』
穏やかな女の声が、広場に降ってきた。
人々は、慣れた様子で歩き続けていた。何人かは、わざわざ顔を上げてレンズを見た。後ろめたいことなど何もない、というように。
身体は、そうしなかった。
わたしは男に背を向け、広場を横切る人の流れに紛れこんだ。荷車の陰。背の高い男の肩の陰。レンズがこちらへ回ってくる、その角度とその速度を、身体ははじめから知っているようだった。視野の縁から縁へ、半歩ずつずれながら、わたしは一度も立ち止まらずに歩いた。
背後で、短い警告音が鳴った。
振り返らなかった。けれど耳が、勝手に拾った。
足音。二人分。硬い靴底。『照合不一致。未登録の義体を確認』。男の声が、何かを抗弁している。腕だ、戦争でなくしたんだ、届出の書類なら――声は、途中で途切れた。
わたしは、歩き続けた。
大通りの向こうに、あの白い塔が見えていた。
昼の光の中で見る塔は、夜よりも大きく、そして奇妙に遠かった。窓ひとつない白い円柱の頂で、光の環は陽射しに白く褪せながら、それでも回り続けていた。
交差点の標識に、その名があった。
中央記録塔。
わたしは標識から目を逸らし、東へ向かった。




