六 名前
それから、何日が過ぎたのか、わたしには、よくわからなかった。
修理室には、朝も夜もなかった。わたしの目にも、もう、朝も夜もなかった。わかるのは、ユノが発電機の把手を回す音と、雨漏りのしずくの音と、ときおり扉を叩く、老人の、三度続けて短く叩く合図だけだった。
わたしは、金属の台の上に、横たわっていた。
右腕は、肩から先が、重く、冷たく、動かなかった。ユノは、それを外そうとはしなかった。わたしも、外してほしいとは言わなかった。あの夜、引き金を絞った腕だった。そして、あの夜、焼き切れた腕だった。
胸の奥で、新しいポンプが、一分間に六十を、刻みつづけていた。
三度、扉が叩かれた。
老人が、入ってきた。重いものを、床に置く音がした。
「上は、ひっくり返ったままだ」
しわがれた声が、言った。
「中央司令部の総司令は、あの夜のうちに、自分の部下に捕まった。……画面で、自分の名前を見た兵隊たちが、司令部の扉を開けなかったそうだ。政府は、昨日、全員、辞めた。塔の消去は、取りやめだ。記録は、遺族に、全部、開くことになった」
「塔のてっぺんの、光の輪は、あの夜から、止まったままだ。誰も、動かそうとしない」
ユノが、息を吐く音がした。
「……ヴァルは」
「自分から、出てきた」
老人は、少し、黙った。
「あの男は、聴聞を、自分で申し出たそうだ。今度は、聴聞する側じゃなく、される側でな。……自分の声で、自分がしたことを、ひとつずつ、証言している。罪を負う、と言ったらしい」
老人は、鼻を、小さく鳴らした。
「ラジオで、あの男の声を聞いた。……罪を負えるのは人間だけだと、自分は、ずっと言ってきた。だから、今度は、自分が負う、とさ。一度も、声を高くしなかった」
わたしは、見えない目を、天井に向けていた。
罪を負えるのは、人間だけです。
あの男は、今、それを、自分の声で、確かめているのだろうか。
「それから、これだ」
老人が、床に置いた重いものを、ユノのほうへ、押しやった。
紙の擦れる音がした。箱の蓋を開ける音。
ユノが、息を呑んだ。
「復興局の建物の地下に、積まれてた。遺族会の若いのが、昨日、みんなで取り返してきた。……あんたの字だろう」
ユノの手が、紙の束を、ゆっくりと、めくっていた。一枚。また一枚。書庫の壁の名簿。家族の証言。遺品の写し。ユノが、九か月、ひとりで書き写しつづけたもの。
ユノは、長いこと、何も言わなかった。
やがて、老人が、扉のほうへ歩きかけて、立ち止まった。
「……わしの孫の名前も、その中にある」
老人の声が、少しだけ、揺れた。
「セツ。九つだった」
式典の夜、雨の中で、ユノが読み上げた名前。演壇の下で、わたしの腕を支えていた老人の息が、ときおり詰まった、その名前。
老人は、それだけ言うと、扉の向こうへ、出ていった。
ユノは、箱のそばに、座りこんでいた。
それから、立ち上がって、わたしのそばへ来た。
わたしの左の手のひらに、何か、軽いものを、載せた。
乾いた、紙の手触り。尖ったくちばし。左右で同じ大きさの翼。
ロクニの、紙の鳥だった。
次に、ひびの入った硝子の、冷たい手触り。すり切れた革の帯。二十三時十七分で止まった、ロクマルの時計。
そして、薄い、少しざらついた紙が、一枚。
「海の写真」
ユノが、言った。
「……裏に、何か、書いてある。雑誌の、印刷の字」
ユノが、紙を、裏返す音がした。
「凪の朝、南の海」
ユノは、ゆっくりと、読んだ。
「……表の写真の、説明なんだと思う。この写真の海の名前」
「なぎ」
わたしは、繰り返した。
「どういう、意味」
ユノは、少し、考えていた。
「風が、止まって、海が、静かになること」
ユノの声は、ひどく、静かだった。
「嵐のあとに、来る」
わたしは、見えない目を、閉じた。
閉じたのかどうか、わからなかったけれど、閉じた。
ロクマルが、胸のポケットから、得意げに取り出した紙。四人で、戦争が終わったら、海を見に行こう、と言った。見たことないけど、と、鼻の頭に皺を寄せて。
名前は、戦争が終わってから。
四人で、決める。
戦争は、終わった。
ロクマルも、ロクイチも、ロクニも、名前を決めないまま、いなくなった。わたしだけが、残った。四人で決めるはずだったものを、ひとりで決める方法を、わたしは、ずっと、知らなかった。
ヴァルは、机の上で、名前を差し出した。ミラ・ハルト。わたしは、それを、受け取らなかった。
内部診断は、わたしの中の、目ではない場所に、今も、ひとつの番号を、浮かべている。個体番号、五二八六三。それは、わたしに、はじめから、与えられていたものだった。
どれも、わたしが、決めたものではなかった。
けれど、今、わたしの手のひらの上に、三人が残したものがあった。はじめから与えられていたのではなく、あの狭い部屋で、三人が、自分で、選んで、ベッドの下に隠したもの。
わたしは、紙の鳥と、止まった時計と、海の写真を、手のひらの中で、そっと、握った。
「ユノ」
「なに」
「燃えた図書館の地下で。……名前を決めたら、教えてって、言った」
ユノが、息を止めた気配がした。
「決めた」
わたしは、言った。
「ナギ」
修理室の中が、静まり返った。
雨漏りのしずくが、ひとつ、落ちた。
ユノは、何も言わなかった。
しばらくして、紙をめくる音がした。取り返してきた箱の中から、ユノが、新しい台帳を、一冊、取り出したのだとわかった。ちびた鉛筆が、紙の上を、走る音がした。短い音だった。二文字分の。
「……記録した」
鉛筆の音は、それで終わらなかった。もう一行、何かを書く音がした。さっきよりも、ずっと、長い音だった。
「……何を、書いたの」
ユノは、少し、黙っていた。
「第九避難所の、証人。……それから、その下に。この人の手が、イオを撃った、って」
ユノの声は、平らだった。
「どっちも、本当のことだから。どっちも、記録する」
わたしは、頷いた。
それで、いい、と思った。
ユノが、言った。
それから、ユノは、少しのあいだ、黙っていた。
「ナギ」
ユノが、呼んだ。
わたしは、見えない目で、ユノの声のほうを、振り向いた。
呼ばれたら、すぐに振り向けるのがいい、とロクニは言った。
五二八六三。その番号は、わたしの中から、消えることはない。けれど、わたしは、もう、その番号では、振り向かない。
番号は、わたしに、与えられたものだった。名前は、わたしが、選んだものだった。どちらも、わたしの中に、残っていく。ユノの台帳に、証人であることと、イオを撃った手のこととが、並んで記されたように。
ユノが、鞄の中から、布にくるまれた黒い箱を、取り出す音がした。
布が、ほどかれる。欠けた角の手触りを、わたしの左の指先に、触れさせる。
「……聞く?」
わたしは、頷いた。
ユノが、いちばん左の釦を、押した。
『……録ってる?』
『録ってる、録ってる。ほら、歌えよ』
旋律が、始まった。
『きょうの、めしは、まめの、かん』
くすくすと、小さな笑い声。
『……やめろ。録るな』
『消さないよ。これは、記録だから』
『ロクサンも歌えよ』
『俺は、歌わない』
『じゃあ、名前が決まったら歌え』
ロクマルの声が、言った。
『そのときは、ちゃんとした歌詞をつけよう。四人の名前を、全部入れてさ』
旋律が、同じところを、回りはじめた。
わたしは、口を、開いた。
ロクイチの旋律に、声を、重ねた。唇を閉じて、喉の奥で。低く、ゆっくりと。同じところを、ぐるぐると回る、歌詞のない旋律。
そして、その、最初のひと節に、わたしは、言葉を、ひとつだけ、乗せた。
ナギ、と。
それから、残りのところは、旋律だけで、歌った。
ロクマルの名前が入るはずだった場所。ロクイチの名前が入るはずだった場所。ロクニの名前が入るはずだった場所。三人が、自分で決めるはずだった場所を、わたしは、空けたまま、歌った。
修理室の中で、ユノは、それを、黙って、聞いていた。
聞いて、見届けていた。
録音が、かちり、と終わった。
ユノは、しばらくして、小さく、言った。
「……へたくそ」
ユノの声は、泣いていた。
「イオも、へたくそだった。無線で、よく、歌ってた」




