七 体温
ユノは、台のそばの丸椅子で、眠っていた。
わたしには、ユノの寝息が、聞こえていた。寝息の下で打つ、ユノの心臓の音も。
一分間に、六十八。七十一。六十四。
不揃いな、人間の鼓動だった。ときどき、何かに躓くように乱れ、また、走り出す。
ユノの手が、台の縁から滑り落ちて、わたしの左の手の甲に、触れていた。眠ったまま。
温かい手だった。
わたしは、眠くならなかった。
眠る前に、わたしは、ユノに、ひとつだけ、頼みごとをしていた。
ロクマルの時計を、わたしの左の手首に、巻いてほしい、と。
ユノは、何も訊かずに、すり切れた革の帯を、わたしの手首に、巻いてくれた。ひびの入った硝子。二十三時十七分で止まったままの針。
止まってても、腕に巻いてると、ちゃんと時間が進んでる気がするんだよ。
ロクマルは、そう言った。止まってるなら、進んでない、と、俺は言った。
今、わたしの手首の上で、止まった時計は、確かに、止まったままだった。けれど、わたしの時間は、もう、あの兵舎の、最後に目を覚ました瞬間には、留め置かれていなかった。昨日は、昨日になった。十か月前は、十か月前になった。
わたしには、もう、海は見えない。
ロクマルと、四人で見に行くはずだった、凪の海を、わたしは、この目で見ることは、できない。
けれど、いつか、ユノに頼めば、南の海まで、連れていってもらえるかもしれない。そして、波の音を、聞くことは、できるかもしれない。風が止んで、海が静かになる、その朝の音を。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない闇の中で、わたしは、わたしの胸の奥の音を、聞いていた。
一分間に、六十。
次の一分も、六十。その次の一分も。
ひとつの乱れもなく、ひとつの躓きもなく、それは、時計のように、打っていた。数を数えるように。
心臓の音ではなかった。
この身体に、冷却の液を巡らせるための、ポンプの音だった。わたしの中の、どこか平らな場所で、何かが、一秒ごとに、打て、と命じている。その命令のとおりに、打っているだけの、機械の音だった。
汗は、冷却の液だった。寒気は、再現された感覚だった。ユノの手のひらが温かいと感じる、この感覚も、きっと、そうなのだろう。わたしの肌の温かさも。人間らしく見せるために、この身体に、はじめから与えられていた、体温。
ユノは、安置所の氷の広間で、わたしの手首を掴んで、言った。
生きてる手だ。
毎日、死んだ人の手ばかり触っているから、わかる、と。
ユノは、間違えていた。
わたしの手は、生きている人間の手ではなかった。
けれど、今、眠ったままのユノの手は、わたしの手の甲の上から、離れようとしなかった。
わたしは、左の手を、ほんの少しだけ、動かした。
ユノの指を、そっと、握った。
命令ではなかった。わたしが、握った。
ユノが、眠ったまま、小さく、何かをつぶやいた。
「……あったかい」
ユノは、わたしを、許さない。これから先も、ずっと。それでも、ユノの手は、眠ったまま、わたしの手の中にあった。許さないことと、この手を離さないこととが、ユノの中で、どう並んでいるのか、わたしには、わからなかった。わからないまま、わたしは、その手の温かさを、聞いていた。
わたしは、闇の中で、その声を聞いていた。
この温かさが、与えられたものなのか、わたしのものなのか、わたしには、わからなかった。わからなくても、いい、と思った。
人間の身体を持つことと、自分の意思で選ぶことが、同じなのかどうか。わたしには、まだ、わからない。わたしには、人間の身体は、なかった。はじめから。
ロクマルも、ロクイチも、ロクニも、名前を選べないまま、いなくなった。選ぶことを、許されないまま。わたしだけが、残った。
けれど、わたしは、選んだ。
ヴァルの喉から、手を開くことを。差し出された名前を、受け取らないことを。ナギ、という名前を。空けたまま歌うことを。ユノの指を、握ることを。
胸の奥で、冷却のポンプが、一定の音を、刻んでいた。
一分間に、六十。
それは、命令によって動く、機械の音だった。
明日も、明後日も、この身体が壊れるまで、同じ速さで、同じ音を、刻みつづけるのだろう。
左の手首で、ロクマルの止まった時計の、すり切れた革の帯が、その音に合わせて、かすかに、揺れていた。
わたしは、その音に、耳を澄ました。
修理室の闇の中で、雨漏りのしずくが、ひとつ、落ちた。ユノの寝息が、ひとつ、深くなった。遠い地上のどこかで、路面電車の鐘が、かすかに鳴った。夜が明けようとしているのかもしれなかった。わたしには、もう、それを見ることはできない。けれど、聞くことは、できた。
そして、はじめて、思った。
これは、わたしの鼓動だ、と。
誰かに、そう決められたのではなく。
わたしが、そう、選んだ。




