四 思い出すべき過去
『冷却循環 停止まで 推定二分』
白い文字が、目ではない場所で、ひとつ、書き換わった。
胸の奥で、ポンプが、ひとつ、打った。
長い間。
また、ひとつ。
わたしは、その間のあいだで、考えていた。わたしの時間は、身体の時間よりも、ずっとゆっくりと流れる。その、ゆっくりとした時間の中で、わたしは、わたしの中の引き出しを、ひとつずつ、開けていった。
兵舎のベッドの下で、ユノに、三人の家族のことを訊かれたとき。わたしの記憶の引き出しは、どれも、空っぽだった。
空っぽなのは、はじめから、何も入っていなかったからだった。
雨の駅で、兵舎の闇の中で、俺は誰だ、と問いつづけていた、あの声。その問いの答えを探して、わたしは、十か月分の埃の中を、塔の底を、開かない壁の前を、歩いてきた。答えは、どこにも、なかった。探すべき過去が、はじめから、なかったのだから。
ロクマルは、海を見たことがなかった。見たことないけど、と笑った。故郷の海の写真ではなかった。雑誌の切り抜きだった。ロクマルには、故郷の海など、なかったのだ。ロクイチにも、ロクニにも。わたしにも。
同型個体。
ロクマルも、ロクイチも、ロクニも、わたしと、同じだった。
同じ計画で、同じように、作られた。
鼻の頭に皺を寄せて笑うこと。消灯のあとに、同じ旋律を口ずさむこと。毛布の端を握りしめて、明日を怖がること。俺は歌わない、とぶっきらぼうに言うこと。それも、はじめに、与えられたものだったのだろうか。人格を成立させるための、初期付与データとして。
解体、記憶消去済。
三人は、もう、どこにもいない。部品になって。記憶を、消されて。
わたしは、それを、知っていた気がした。兵舎で目を覚ましたとき、身体の奥で、根元から断ち切られていた、三本の糸。あの糸は、比喩ではなかったのかもしれない。
『冷却循環 停止まで 推定一分四十秒』
けれど、とわたしは思った。
引き出しの、奥の奥を、探った。
与えられたものではないものが、あった。
はじめから入っていたのではなく、あとから、わたしたちが、自分で、そこに入れたもの。
消灯のあとの暗がりで、ロクマルが、四人で何かを決めようと言った夜。ロクニが、珍しく笑った夜。ロクイチが、旋律を止めた夜。わたしが、名前は戦争が終わってからだ、と言った夜。錆びた釘で、四つの違う手で、板の裏に刻んだ文字。
壊れた通信車から拾ってきた黒い箱で、ロクイチが録った、豆の缶の歌。
眠れない夜に、ロクニに教わって折った、首の曲がった紙の鳥。
あれは、はじめから与えられていたものではなかった。わたしたちが、あの狭い部屋で、自分たちで、作ったものだった。
稼働後取得記録。端末は、そう書いていた。
白い聴聞室で、冠の針に剥がされて、戻ってこなかった、兵舎のカップの水の、鉄の味。あれも、きっと、感覚再現だったのだろう。はじめから、この身体が、そう感じるように作られていた、ただの信号。
それでも、あの味を失ったとき、わたしは、悲しかった。
そして、雨の駅も。
貨車の上で、こっちを見ろと叫んだ少年も。照準の中心の、開いた口も。一発の銃声も。
あれも、与えられた過去ではなかった。わたしが、この身体で、この目で、見届けたことだった。わたしの手が、したことだった。
罪を負えるのは、人間だけです。
ヴァルは、そう言った。
わたしには、人間の身体は、なかった。心臓も、肺も、血管も、脳も。
それでも、式典の夜、雨の中で、わたしの焼けた右腕を支えてくれたのは、あの駅で孫を亡くした老人の手だった。この人は、証人だ、と言って。老人は、わたしが何であるかを、知らなかった。わたしも、知らなかった。
けれど、あの夜の一発は、わたしの中から、消えなかった。拒絶反応、計測上限。あれが、再現された感覚にすぎなかったとしても。わたしは、それを、感じた。わたしは、見た。
そして、式典の夜、演壇の上で、わたしは、ヴァルの喉から、手を開いた。
命令ではなく。
あれは、誰にも、与えられていなかった。
初期付与データの中にも、稼働後取得記録の中にも、あの瞬間の、わたしの指がほどけていく感覚は、どこにも、分類されていなかった。それは、わたしが、あのとき、はじめて、この身体の中に、書き加えたものだった。
『冷却循環 停止まで 推定一分』
「……ユノ」
わたしは、言った。声は、もう、ほとんど、息だった。
「直さなくて、いい」
ユノの手が、止まった。
「わたしは、人間じゃなかった。……ヴァルが言ったとおり。兵器だった」
ポンプが、ひとつ、打った。
「証言は、もう、終わった。見せるものは、全部、見せた。……だから」
ユノは、黙っていた。
長い、ポンプの間の、沈黙だった。
それから、ユノの手が、動いた。
器具を、盆から、掴み取る音がした。




