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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第八章 五二八六三の体温

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二 胸の中

 冷たい刃が、胸の真ん中に、当てられた。


 痛みは、あった。


 白く、鋭い痛みが、胸骨の上を、まっすぐに走った。わたしは、奥歯を噛みしめた。身体は、もう、跳ねなかった。跳ねる力が、残っていなかった。


 皮膚が、開かれていく。


 ユノの手が、そこで、止まった。


 開かれた胸の中に、冷たい空気が、ひやりと触れた。その冷たさを、わたしは、胸の内側で、感じた。そして、自分の胸の奥から、何かが、かすかに、かち、かち、と鳴る音を、わたしの耳は、はじめて、外から聞いた。


 長い、沈黙だった。


 発電機の唸りと、雨漏りのしずくの音だけが、修理室の中に、続いていた。


「……ユノ」


 ユノは、答えなかった。


 ユノの呼吸が、止まっていた。


「何が、見える」


 わたしは、訊いた。


 ユノの息が、ようやく、戻ってきた。浅く、速く。一分間に、百三十。百五十。


「……骨が」


 ユノの声が、かすれた。


「白い。……骨じゃない。金属。白い、金属の板が、肋骨の形に、並んでる」


 器具が、盆に置かれる音がした。


 それから、ユノは、何かを、確かめるように、指先で、叩いた。


 こつ、と、硬く、澄んだ音がした。


 わたしの胸の中から。


「……軍の、義体化手術」


 ユノが、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。


「骨まで、置き換えることがあるって。……全身の半分以上を、義体にした兵士。ミラ・ハルトの、あの嘘の記録にだって、そう書いてあった。……だから」


 だから、とユノは言った。


 その先を、ユノは、言わなかった。


 わたしも、その先を、訊かなかった。


 訊けば、何かが、決まってしまう気がした。書庫でも、診療所でも、橋の下でも、わたしは、そう思って、黙ってきた。けれど、今は、黙っていても、決まってしまうのだと、わかっていた。ユノの手が、胸の中の、白い板の留め具に、かけられていたから。


 重い工具が、持ち上げられる音がした。


「中の、人工心臓を見る。……白い板を、外す」


 金属と金属の、噛み合う音。留め具が、ひとつ、またひとつと、外されていく。胸の奥で、何かが、ゆっくりと、持ち上げられていく感覚があった。冷たい空気が、胸の中に、流れこんできた。


 ユノの手から、工具が、落ちた。


 床の上で、重い音が、跳ねた。


 わたしは、見えない目を、見開いていた。


「ユノ」


 ユノは、答えなかった。


 ユノの足音が、一歩、後ずさった。もう一歩。台の縁を掴んでいた手が、離れた。


「……ユノ。何が、見える」


 長い、長い時間のあとで、ユノの声がした。


 遠かった。部屋の、ずっと隅のほうから、聞こえてくるようだった。


「……心臓が」


 声が、途切れた。


「心臓が、ない」


 ユノの手が、台の縁から、滑り落ちた。ユノが、背中から、棚にぶつかる音がした。棚の中の金属の部品が、いっせいに、鳴った。


 ユノの心臓の音が、聞こえた。一分間に、百八十。


 わたしは、見えない目で、天井を見上げていた。


 心臓が、ない。


 その言葉の意味を、わたしは、しばらく、うまく飲みこめなかった。兵舎の掲示板の前で、停戦、という二文字を、うまく飲みこめなかったときのように。


 わたしは、動かなかった。


 ユノの足音が、ゆっくりと、戻ってきた。台のそばに。ユノの手が、台の縁を、ふたたび掴んだ。


 そして、ユノは、話しはじめた。


 安置所の台帳に、身元のわからない遺体の特徴を、一行ずつ書きつけていくときの、平らな声で。平らでなければ、話せないというように。


「心臓が、ない。……肺も、ない。血管も、ない」


 ユノの声は、震えていなかった。震えないように、全身で、押さえつけていた。


「白い骨組みの中に、細い繊維の束が、何百本も、走ってる。診療所で、あなたの肩の中に見たのと、同じ繊維。……それが、胸の中を、全部、埋めてる。そのあいだを、細い管が、何本も、通ってる。管の中を、薄い赤い水が、流れてる。……あなたの血だと、わたしが思ってたもの」


 ユノの指が、わたしの胸の中の、どこかを、そっと、指し示している気配がした。


「真ん中に、小さな、ポンプがある。拳くらいの。……それが、動いてる。すごく、ゆっくり。止まりそうに」


 胸の奥で、わたしの鼓動が、十四を刻んだ。


 鼓動。


 わたしが、ずっと、そう呼んできたもの。


「その、すぐ上に」


 ユノの声が、はじめて、揺れた。


「……小さな、白い、卵みたいなものがある。手のひらに、隠れるくらいの。すごく、かすかに、光ってる。温かい。……触ってないのに、温かいのが、わかる」


 ユノは、そこで、言葉を切った。


「……頭も」


 ユノは、ほとんど、ささやくように言った。


「さっき、冠の針の痕を、診たときに。……頭の中も、たぶん、同じ」


 ユノは、そこで、長いこと、黙っていた。


「……生きてる手だって」


 ユノが、ほとんど、声にならない声で、言った。


「安置所で、わたし、あなたに、そう言った。毎日、死んだ人の手ばかり触ってるから、わかるって」


 わたしは、何も、答えられなかった。


 胸の奥で、止まりかけたポンプが、ひとつ、打った。その音を、ユノも、聞いていた。

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