二 胸の中
冷たい刃が、胸の真ん中に、当てられた。
痛みは、あった。
白く、鋭い痛みが、胸骨の上を、まっすぐに走った。わたしは、奥歯を噛みしめた。身体は、もう、跳ねなかった。跳ねる力が、残っていなかった。
皮膚が、開かれていく。
ユノの手が、そこで、止まった。
開かれた胸の中に、冷たい空気が、ひやりと触れた。その冷たさを、わたしは、胸の内側で、感じた。そして、自分の胸の奥から、何かが、かすかに、かち、かち、と鳴る音を、わたしの耳は、はじめて、外から聞いた。
長い、沈黙だった。
発電機の唸りと、雨漏りのしずくの音だけが、修理室の中に、続いていた。
「……ユノ」
ユノは、答えなかった。
ユノの呼吸が、止まっていた。
「何が、見える」
わたしは、訊いた。
ユノの息が、ようやく、戻ってきた。浅く、速く。一分間に、百三十。百五十。
「……骨が」
ユノの声が、かすれた。
「白い。……骨じゃない。金属。白い、金属の板が、肋骨の形に、並んでる」
器具が、盆に置かれる音がした。
それから、ユノは、何かを、確かめるように、指先で、叩いた。
こつ、と、硬く、澄んだ音がした。
わたしの胸の中から。
「……軍の、義体化手術」
ユノが、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
「骨まで、置き換えることがあるって。……全身の半分以上を、義体にした兵士。ミラ・ハルトの、あの嘘の記録にだって、そう書いてあった。……だから」
だから、とユノは言った。
その先を、ユノは、言わなかった。
わたしも、その先を、訊かなかった。
訊けば、何かが、決まってしまう気がした。書庫でも、診療所でも、橋の下でも、わたしは、そう思って、黙ってきた。けれど、今は、黙っていても、決まってしまうのだと、わかっていた。ユノの手が、胸の中の、白い板の留め具に、かけられていたから。
重い工具が、持ち上げられる音がした。
「中の、人工心臓を見る。……白い板を、外す」
金属と金属の、噛み合う音。留め具が、ひとつ、またひとつと、外されていく。胸の奥で、何かが、ゆっくりと、持ち上げられていく感覚があった。冷たい空気が、胸の中に、流れこんできた。
ユノの手から、工具が、落ちた。
床の上で、重い音が、跳ねた。
わたしは、見えない目を、見開いていた。
「ユノ」
ユノは、答えなかった。
ユノの足音が、一歩、後ずさった。もう一歩。台の縁を掴んでいた手が、離れた。
「……ユノ。何が、見える」
長い、長い時間のあとで、ユノの声がした。
遠かった。部屋の、ずっと隅のほうから、聞こえてくるようだった。
「……心臓が」
声が、途切れた。
「心臓が、ない」
ユノの手が、台の縁から、滑り落ちた。ユノが、背中から、棚にぶつかる音がした。棚の中の金属の部品が、いっせいに、鳴った。
ユノの心臓の音が、聞こえた。一分間に、百八十。
わたしは、見えない目で、天井を見上げていた。
心臓が、ない。
その言葉の意味を、わたしは、しばらく、うまく飲みこめなかった。兵舎の掲示板の前で、停戦、という二文字を、うまく飲みこめなかったときのように。
わたしは、動かなかった。
ユノの足音が、ゆっくりと、戻ってきた。台のそばに。ユノの手が、台の縁を、ふたたび掴んだ。
そして、ユノは、話しはじめた。
安置所の台帳に、身元のわからない遺体の特徴を、一行ずつ書きつけていくときの、平らな声で。平らでなければ、話せないというように。
「心臓が、ない。……肺も、ない。血管も、ない」
ユノの声は、震えていなかった。震えないように、全身で、押さえつけていた。
「白い骨組みの中に、細い繊維の束が、何百本も、走ってる。診療所で、あなたの肩の中に見たのと、同じ繊維。……それが、胸の中を、全部、埋めてる。そのあいだを、細い管が、何本も、通ってる。管の中を、薄い赤い水が、流れてる。……あなたの血だと、わたしが思ってたもの」
ユノの指が、わたしの胸の中の、どこかを、そっと、指し示している気配がした。
「真ん中に、小さな、ポンプがある。拳くらいの。……それが、動いてる。すごく、ゆっくり。止まりそうに」
胸の奥で、わたしの鼓動が、十四を刻んだ。
鼓動。
わたしが、ずっと、そう呼んできたもの。
「その、すぐ上に」
ユノの声が、はじめて、揺れた。
「……小さな、白い、卵みたいなものがある。手のひらに、隠れるくらいの。すごく、かすかに、光ってる。温かい。……触ってないのに、温かいのが、わかる」
ユノは、そこで、言葉を切った。
「……頭も」
ユノは、ほとんど、ささやくように言った。
「さっき、冠の針の痕を、診たときに。……頭の中も、たぶん、同じ」
ユノは、そこで、長いこと、黙っていた。
「……生きてる手だって」
ユノが、ほとんど、声にならない声で、言った。
「安置所で、わたし、あなたに、そう言った。毎日、死んだ人の手ばかり触ってるから、わかるって」
わたしは、何も、答えられなかった。
胸の奥で、止まりかけたポンプが、ひとつ、打った。その音を、ユノも、聞いていた。




