一 修理室
雨の音が、遠くなっていった。
運ばれていくあいだ、わたしには、何も見えなかった。わかるのは、音と、匂いと、揺れだけだった。石畳を叩く雨。濡れた黒い布の匂い。わたしの右腕の下に差しこまれた、老人の節くれだった手。左腕を肩に回したユノの、荒い息。そして、耳もとで途切れずに続く、名前。
「……ミナ。三十一歳。……オットー。六十六歳。……」
ユノの声は、かすれていた。それでも、止まらなかった。広場を離れ、崩れた家並みのあいだを抜け、雨に打たれる暗い通りを渡るあいだも、ずっと。
「……リオ。十五歳」
そこで、ユノの声が、途切れた。
「……三百人目」
ユノは、そう言って、しばらく、何も言わなかった。老人の足音と、ユノの足音と、雨の音だけが、残った。遠くの通りのどこかで、まだ、壊れた拡声器が、あの夜の雨の音を、繰り返し流していた。
やがて、雨の音が、頭の上から、消えた。
足音が、硬く、反響するようになった。階段を、下りている。黴と、錆と、古い油の匂い。地下だった。
「……線路を、まっすぐ」
ユノの声がした。
「診療所の、もっと奥。医者が、廃棄されるはずだった軍用の義体を、隠してた場所がある。……前に、遺体の引き取りのときに、一度だけ、連れていかれた」
老人は、何も言わずに、歩きつづけた。
どれくらい、線路の上を歩いたのか。わたしの足は、もう、枕木を踏んでいなかった。引きずられていた。
胸の奥で、わたしの鼓動が、二十四を刻んだ。
二十一。
数を数えているのが、わたしなのか、身体なのか、もう、わからなかった。数えることだけが、まだ、止まっていなかった。
鉄の扉が、軋みながら、開く音がした。
わたしは、硬く、冷たい台の上に、横たえられた。金属の台だった。
部屋の奥で、金属の触れ合う、かすかな音がしていた。棚の中の何かが、わたしたちの足音に揺られて、互いにぶつかり合っているのだった。古い油の匂い。湿った錆の匂い。そして、その奥に、焦げた布の匂いがあった。わたしの、焼けた右腕の袖の匂いだった。
手回しの発電機の把手が、回される音。低い唸り。瞼の向こうが、ほんのわずかに、明るくなった気がした。けれど、それが本当に光なのか、わたしにはわからなかった。
「……ここは」
わたしは、訊いた。声が、自分のものではないように、かすれていた。
「修理室」
ユノが言った。
「地下鉄の、昔の車両整備場の奥。棚に、義手と、義足と、部品が、ぎっしり詰まってる。医者が、復興局に廃棄される前に、少しずつ運びこんで、隠してたんだと思う。……工具も、全部ある」
ユノが、錆びた流し台で、手を洗う音がした。蓄えてあった水を、何度も、何度も、手のひらに浴びせている。それから、鍋に水を注ぎ、小さな火を起こし、器具を、ひとつずつ、沈めていく音。安置所で、診療所で、わたしが何度も聞いてきた、ユノの仕事の音だった。
老人の足音が、部屋の入口のほうへ遠ざかっていった。
「わしは、上を見てる」
しわがれた声が、扉の向こうから言った。
「誰か来たら、知らせる」
「……ありがとう」
ユノが、老人の背中に言った。老人は、何も答えなかった。
扉が、閉じた。ひどく、そっと。
ユノが、わたしのそばに、立った。
ユノの指が、わたしの首筋に、触れた。温かい指だった。雨に濡れて冷えているはずなのに、わたしの首筋よりも、ずっと。脈を探しているのだとわかった。死者の手を毎日扱ってきた人の、正確な指。
「……弱い」
ユノの声が、震えた。
「十九。……十八」
わたしにも、わかっていた。
胸の奥の鼓動と鼓動のあいだが、どんどん、広がっていく。次の一打を待つ時間が、長くなっていく。寒かった。汗が、止まらなかった。冷たい汗だった。汗をかくほど、身体は冷えていった。
「軍用の、人工心臓」
ユノが、自分に言い聞かせるように言った。
「安置所で、わたしが言ったでしょう。あなたの胸には、軍用の人工臓器が入ってるって。それが、あの接続のせいで、焼けかけてるんだ。……ここの棚には、義体の部品がある。人工心臓の予備だって、あるかもしれない」
金属の盆に、器具が並べられていく音がした。細い鋏。鉗子。小さな刃。そして、もっと大きな、重い工具。
「開けるよ」
ユノが、言った。
「胸を。……直すために」
わたしは、見えない目で、ユノの声のほうを向いた。
「……縛らなくて、いいの」
ユノは、少しのあいだ、黙っていた。
「身体は、もう、動けないでしょう」
「……うん」
「それに」
ユノの声が、かすかに、低くなった。
「あなたは、あのとき、自分で手を開いた。……わたし、見てた」
ユノの手が、わたしの濡れた肌着の胸もとに、鋏を入れた。




