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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第八章 五二八六三の体温

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一 修理室

 雨の音が、遠くなっていった。


 運ばれていくあいだ、わたしには、何も見えなかった。わかるのは、音と、匂いと、揺れだけだった。石畳を叩く雨。濡れた黒い布の匂い。わたしの右腕の下に差しこまれた、老人の節くれだった手。左腕を肩に回したユノの、荒い息。そして、耳もとで途切れずに続く、名前。


「……ミナ。三十一歳。……オットー。六十六歳。……」


 ユノの声は、かすれていた。それでも、止まらなかった。広場を離れ、崩れた家並みのあいだを抜け、雨に打たれる暗い通りを渡るあいだも、ずっと。


「……リオ。十五歳」


 そこで、ユノの声が、途切れた。


「……三百人目」


 ユノは、そう言って、しばらく、何も言わなかった。老人の足音と、ユノの足音と、雨の音だけが、残った。遠くの通りのどこかで、まだ、壊れた拡声器が、あの夜の雨の音を、繰り返し流していた。


 やがて、雨の音が、頭の上から、消えた。


 足音が、硬く、反響するようになった。階段を、下りている。黴と、錆と、古い油の匂い。地下だった。


「……線路を、まっすぐ」


 ユノの声がした。


「診療所の、もっと奥。医者が、廃棄されるはずだった軍用の義体を、隠してた場所がある。……前に、遺体の引き取りのときに、一度だけ、連れていかれた」


 老人は、何も言わずに、歩きつづけた。


 どれくらい、線路の上を歩いたのか。わたしの足は、もう、枕木を踏んでいなかった。引きずられていた。


 胸の奥で、わたしの鼓動が、二十四を刻んだ。


 二十一。


 数を数えているのが、わたしなのか、身体なのか、もう、わからなかった。数えることだけが、まだ、止まっていなかった。


 鉄の扉が、軋みながら、開く音がした。


 わたしは、硬く、冷たい台の上に、横たえられた。金属の台だった。


 部屋の奥で、金属の触れ合う、かすかな音がしていた。棚の中の何かが、わたしたちの足音に揺られて、互いにぶつかり合っているのだった。古い油の匂い。湿った錆の匂い。そして、その奥に、焦げた布の匂いがあった。わたしの、焼けた右腕の袖の匂いだった。


 手回しの発電機の把手が、回される音。低い唸り。瞼の向こうが、ほんのわずかに、明るくなった気がした。けれど、それが本当に光なのか、わたしにはわからなかった。


「……ここは」


 わたしは、訊いた。声が、自分のものではないように、かすれていた。


「修理室」


 ユノが言った。


「地下鉄の、昔の車両整備場の奥。棚に、義手と、義足と、部品が、ぎっしり詰まってる。医者が、復興局に廃棄される前に、少しずつ運びこんで、隠してたんだと思う。……工具も、全部ある」


 ユノが、錆びた流し台で、手を洗う音がした。蓄えてあった水を、何度も、何度も、手のひらに浴びせている。それから、鍋に水を注ぎ、小さな火を起こし、器具を、ひとつずつ、沈めていく音。安置所で、診療所で、わたしが何度も聞いてきた、ユノの仕事の音だった。


 老人の足音が、部屋の入口のほうへ遠ざかっていった。


「わしは、上を見てる」


 しわがれた声が、扉の向こうから言った。


「誰か来たら、知らせる」


「……ありがとう」


 ユノが、老人の背中に言った。老人は、何も答えなかった。


 扉が、閉じた。ひどく、そっと。


 ユノが、わたしのそばに、立った。


 ユノの指が、わたしの首筋に、触れた。温かい指だった。雨に濡れて冷えているはずなのに、わたしの首筋よりも、ずっと。脈を探しているのだとわかった。死者の手を毎日扱ってきた人の、正確な指。


「……弱い」


 ユノの声が、震えた。


「十九。……十八」


 わたしにも、わかっていた。


 胸の奥の鼓動と鼓動のあいだが、どんどん、広がっていく。次の一打を待つ時間が、長くなっていく。寒かった。汗が、止まらなかった。冷たい汗だった。汗をかくほど、身体は冷えていった。


「軍用の、人工心臓」


 ユノが、自分に言い聞かせるように言った。


「安置所で、わたしが言ったでしょう。あなたの胸には、軍用の人工臓器が入ってるって。それが、あの接続のせいで、焼けかけてるんだ。……ここの棚には、義体の部品がある。人工心臓の予備だって、あるかもしれない」


 金属の盆に、器具が並べられていく音がした。細い鋏。鉗子。小さな刃。そして、もっと大きな、重い工具。


「開けるよ」


 ユノが、言った。


「胸を。……直すために」


 わたしは、見えない目で、ユノの声のほうを向いた。


「……縛らなくて、いいの」


 ユノは、少しのあいだ、黙っていた。


「身体は、もう、動けないでしょう」


「……うん」


「それに」


 ユノの声が、かすかに、低くなった。


「あなたは、あのとき、自分で手を開いた。……わたし、見てた」


 ユノの手が、わたしの濡れた肌着の胸もとに、鋏を入れた。

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