七 雨の中の名前
膝が、折れた。
演壇の床に、倒れた。倒れる音を、わたしは、他人の音のように、聞いた。
右腕は、もう、わたしのものではないように、重かった。目を開けているのか、閉じているのかも、わからなかった。白い闇が、どこまでも、続いていた。
寒かった。
ひどく、寒かった。雨のせいではなかった。身体の芯の、いちばん奥から、冷えていくのだった。兵舎で目覚めた朝の、あの寒気と、同じだった。額から、汗が、流れていた。冷たい汗だった。身体の芯から、熱が、栓を抜かれた水のように、引いていった。
胸の奥で、わたしの鼓動が、打っていた。
一分間に、六十。
五十二。
四十一。
正確に時を刻んできた鼓動が、少しずつ、間遠になっていった。
足音が、演壇の階段を、駆け上がってきた。
知っている足音だった。雨の街で、地下の線路で、尾根の斜面で、わたしのすぐ後ろを、ずっと、ついてきた足音。
「……っ」
声にならない声とともに、誰かが、わたしの傍らに、膝をついた。濡れた手が、わたしの顔を、両側から、挟んだ。温かい手だった。震えていた。
「……見える?」
ユノの声だった。
「見えない」
わたしは、言った。
「……でも、聞こえる」
ユノが、わたしの額に、自分の額を、押しつけた。雨に濡れた、温かい額だった。
ユノの手が、わたしの頬の上で、止まった。
それから、ユノは、わたしの見えない目のすぐそばで、ささやくように言った。
「みんな、見てる」
ユノの声は、泣いていた。
「あなたが見せたもの。……広場の画面も、大通りの画面も、全部。イオが、映ってる。こっちを見ろって。みんな、上を見て、見てる」
ユノは、わたしの顔から手を離し、わたしの左腕を、自分の肩に回した。
「塔の数字が、止まってる。……消去作業、中断って。塔の上の、光の輪も、止まった」
見えなかった。
けれど、わたしは、それを、見た気がした。
白い塔の頂で、十か月、回りつづけてきた光の環が、雨の夜空の中で、ぴたりと止まっているのを。
「……弾」
わたしは、言った。
「使った、の」
「使った」
ユノの声が、少しだけ、笑った。泣きながら。
「あなたに使うんじゃなかった。……誰に使うのか、わからないって言ったけど。わかった」
「あの一発は、あなたが見せるものを、最後まで、みんなに見届けさせるために、とっておいたんだ」
ユノが、わたしを、引き起こそうとした。けれど、わたしの身体は、ユノひとりで支えるには、重すぎた。
別の手が、わたしの右側から、差し入れられた。
大きな、節くれだった手だった。雨に濡れた、黒い布の匂いがした。
「……安置所の、記録係さんだね」
しわがれた、年老いた男の声だった。
「わたしの孫も、あの駅にいた」
ユノが、息を呑んだ。
男の手は、わたしの右腕の下に、差し入れられたままだった。わたしの、焼けて動かなくなった右腕の下に。あの夜、あの駅で、引き金を絞った腕の下に。
「この人は」
ユノが、言いかけた。
「見たよ。画面で」
男は、ユノの言葉を遮った。声が、震えていた。
「この人の手が、撃つのを、見た。……命令を出した人間の名前も、見た。どっちも、見た」
男は、長いこと、黙っていた。
「……運ぼう。この人は、証人だ」
ユノと、男に、両側から支えられて、わたしは、演壇の階段を、ひとつずつ、下りていった。
階段の下で、黒い装甲の男たちが、わたしたちの前に、立ちふさがる気配がした。けれど、誰も、銃を向けなかった。しばらくして、足音が、ひとつ、またひとつと、脇へ退いていった。道が、開いた。
雨が、見えない顔を、打っていた。
広場は、ひとつの大きな声で、揺れていた。けれど、その声は、もう、悲鳴ではなかった。人々は、名前を叫んでいた。画面に浮かんだ、あの名前を。アウグスト・レーヴェ。塔に向かって。何万もの声で。
どこかの拡声器が、壊れたまま、あの夜の音を、繰り返し流していた。雨の音。旋律。そして、少年の声。
こっちを見ろ。
あの夜、その声を聞いていたのは、わたしひとりだった。
今夜、この街は、こっちを見た。
わたしには、もう、何も見えなかった。
それで、よかった、とわたしは思った。見るべきものは、見届けた。今度は、この街が、見る番だった。
人の群れのあいだを、運ばれていくあいだ、ユノは、ずっと、小さな声で、何かをつぶやいていた。
はじめは、何を言っているのか、わからなかった。
やがて、わかった。
名前だった。
遺族代表の演台で、イオの名前のところで途切れた、その続きを、ユノは、わたしの耳もとで、ひとつずつ、読み上げていた。
「……ルカ。二十歳。……アンナ。七十三歳。……トマス。四歳」
わたしの右側で、わたしの腕を支える老人の息が、ときおり、詰まった。ユノが読み上げる名前の、どこかに、老人の孫の名前があったのだろう。老人は、それでも、わたしの腕を、離さなかった。
三百人の、名前。
ユノの声を、聞いていた。
胸の奥で、わたしの鼓動が、三十を刻んだ。
二十八。
雨の中で、ユノの声だけが、途切れずに、続いていた。
わたしには、まだ、名前がなかった。




