六 罪を負える者
何も、見えなかった。
白い闇の中で、雨の音だけが、していた。そして、何万人もの人々の、声にならない、ざわめき。
細い通路が、閉じていった。
網の中心で、誰かが、慌てて、道を断ち切っているのがわかった。けれど、もう、遅かった。あの夜の十三分も、今夜の命令も、照合の結果も、認証者の名前も、塔の網を通って、街じゅうの画面と拡声器へ、流れ出してしまったあとだった。
身体の中の、命令を実行する層が、網から、引き剥がされた。見えない目の奥で、何かが、ぶつりと、音を立てて切れた。広場のざわめきが、一瞬、遠くなり、また、戻ってきた。
命令が、消えた。
身体の時間が、一瞬、止まり、それから、ばらばらに、崩れはじめた。
そして、崩れかけた身体は、最後に、ひとつの脅威を、量った。
すぐそばに、ひとりの男がいた。
今夜の命令を、自分の声で中継した男。命令のための受話器を、まだ、手に持っている男。
身体の左腕が、跳ねた。
見えない目のまま、身体は、男の喉を、正確に、掴んでいた。
指の下に、高い襟の、固い布の感触があった。その奥に、温かいものが、脈打っていた。一分間に、百十二。速い。人間の、怯えた脈だった。
ヴァルの喉だった。
身体の親指が、首の骨の位置を、探り当てた。
この身体は、ほんの一瞬で、人間の首を折ることができた。兵舎の、あの笑う男の首を、そうしたように。
命令は、もう、なかった。
身体は、ただ、脅威を、取り除こうとしていた。わたしの左手の指に、力が、こもりはじめていた。
わたしは、やめろ、とは、言わなかった。
動くな、とも、言わなかった。
これまで、わたしは、何度も、身体に向かって、そう言ってきた。手術台の上で、刃が肩に入ったとき。北丘の観測所で、ユノの銃口の前に立ったとき。わたしは、動くな、と言った。そのどれもが、命令だった。わたしが、身体に、命じていた。身体は、ときどき、それに従い、ときどき、従わなかった。
今、わたしは、命じなかった。
ただ、選んだ。
この男を、殺さない、ということを。
この男が、罪を負えるのは人間だけだと言ったことを。今夜、この男が、自分の声で、殲滅を開始せよと言ったことを。その声が、今、街じゅうの拡声器から、流れていることを。この男が、ここで死ねば、あの声は、死んだ男の声になる。問いただすことのできない、ただの記録になる。
わたしは、それを、選ばなかった。
わたしは、手を、開いた。
指が、ヴァルの喉から、ほどけていった。ひとさし指。中指。薬指。ひとつずつ。指の腹の下で、ヴァルの脈が、遠ざかっていった。一分間に、百十二。人間の、生きている脈。
それは、身体が、わたしの命令に従った動きではなかった。わたしの手が、わたしの手として、開いたのだった。
ヴァルが、膝から、崩れ落ちる気配がした。外套の裾が、濡れた演壇の床に、重く広がる音がした。
受話器が、演壇の床に、落ちる音がした。
荒い息の音。一分間に、百十二の、人間の、心臓の音。
「……なぜ」
ヴァルの声が、した。
低くなかった。落ち着いてもいなかった。はじめて、それは、ひび割れて、高くなっていた。
「なぜ、殺さないのです」
わたしは、見えない目で、声のするほうを向いた。
「あなたは、人間だから」
わたしの声は、自分でも驚くほど、静かだった。
「罪を負えるのは、人間だけだと、あなたは言った。……だから、負って。あなたの声で、あなたが言ったことを」
ヴァルは、何も言わなかった。
雨の音の中で、ヴァルの荒い息だけが、長いこと、続いていた。
やがて、ヴァルが、ほとんど聞き取れないほどの声で、つぶやいた。
「……あの一秒は」
声が、震えていた。
「これだったのですか」
わたしは、答えなかった。
あの一秒の空白の中にあったのは、ロクマルの声だった。名前が決まったら、と。けれど、今、わたしの手を開かせたのは、命令でも、誰かの声でもなかった。わたしだった。
広場の、何万人ものざわめきが、少しずつ、形を変えていった。声にならない声が、声になっていく。ひとつ、ふたつ。それが、やがて、塔を揺らすほどの、ひとつの大きな声になった。
屋上の射手たちは、もう、撃っていなかった。
演壇の下で、誰かが、小銃を、雨の中に、投げ捨てる音がした。ひとつ。また、ひとつ。
遠くで、塔の拡声器が、壊れたように、同じ言葉を繰り返していた。
『消去作業、中断。回線占有。消去作業、中断。回線占有』
塔の底の白い環は、今夜、何ひとつ、消さなかった。三百人の名前も。ユノの書庫も。あの夜の命令も。




