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名前は、戦争が終わってから  作者: parupuntist
第七章 二度目の殲滅

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四 ユノの声

 やめろ、とは、わたしは言わなかった。


 言っても、届かないことを、わたしは、もう知っていた。雨の駅でも。塔の地下でも。診療所でも。わたしの声は、一度も、硝子の向こうへ届いたことがなかった。主任技師は、そう作ったのではなく、そうしたのだと言った。見届ける目には、止める力を与えなかった、と。


 身体の照準が、群衆の上を滑っていく。


 黒い布を掲げた男。脅威、低。距離、三十一。


 白い旗を握りしめたまま、転んだ老人。脅威、なし。距離、二十四。


 身体の指が、引き金に、かかった。


 そのとき、拡声器から、声がした。


「――マリ。六歳」


 ユノの声だった。


 演壇の脇の、遺族代表のための、小さな演台。倒された柵の向こうで、ユノが、その送話口を、両手で掴んでいた。ヴァルが切ったのは、中央の演台の送話口だけだった。遺族代表の送話口は、まだ、生きていた。


「トーヤ。八十一歳」


 銃声と悲鳴の上から、ユノの声が、広場じゅうの拡声器を通って、雨の中に、響き渡っていた。


「名前のない、赤ちゃん。一歳にならない。お母さんと、一緒に」


 塔の地下の、閲覧室で見た、三百の名前。書庫の壁に、ユノが、一人ずつ書き写した名前。ヴァルに、書庫ごと奪われた名前。


「ハンナ。三十四歳。セツ。九歳」


 ユノは、読んでいるのではなかった。


 覚えているのだ。三百人、全部。


 倒れた柵のそばで、黒い布を肩にかけた女が、ユノの声に、自分の声を重ねた。自分の知っている名前だけを。それから、隣の老人が。その隣の男が。銃声の中で、名前を呼ぶ声が、ひとつ、またひとつと、増えていった。


 身体の時間の中で、身体は、それを、ただの音として、処理していた。脅威、なし。けれど、わたしの時間の中で、その声は、ひとつずつ、わたしの中に、積み重なっていった。


「ケイ。十二歳。……ヨハン。五十七歳。……」


 身体の照準が、演壇の真下の、ひとりの女の上で、止まった。


 黒い布を、肩にかけていた。胸に、小さな子どもを抱えこんでいた。女は、倒れた柵のそばで、子どもの頭を、自分の胸に押しつけ、背中を丸めて、動けずにいた。


 左前方、十四メートル。


 あの夜と、同じ数字だった。


「……イオ」


 ユノの声が、一瞬、途切れた。


「十七歳」


 その名前を読み上げたユノの声は、ほかのどの名前を読んだときよりも、静かだった。


 身体の指に、力が、こもっていく。


 わたしは、叫ばなかった。


 代わりに、わたしは、見た。


 診療所の闇の中で、身体の目が番犬の首を見ていたとき、わたしは、ユノを見ていた。塔の底の白い部屋で、冠の針が記憶を剥がしていくとき、わたしは、ユノを見ていた。


 見届ける目には、止める力はない。


 けれど、何を見るかを、選ぶことは、できる。


 わたしは、照準の中の女を、見なかった。


 女の腕の中の子どもが、雨の中で、わたしを見上げていた。わたしは、その目からも、目を逸らした。逸らしたのではなかった。わたしは、別のものを、見ることを、選んだのだ。


 わたしは、わたしの中を、見た。


 ロクマルの、海の写真の、青。止まった時計を、腕に巻きつづけていた、鼻の頭の皺。消灯のあとの、ロクイチの旋律。誰も記録してくれないから、自分で録っておくんだと言った、低い声。紙の鳥を折っていた、ロクニの震える指。終わったら、四人で海を見に行こう、と言った、ロクマルの声。目を閉じようとして、閉じられなかった、ロクニの視界。


 名前は、戦争が終わってから。


 四つの手の文字。


 そして、そのとき、わたしは、気づいた。


 身体の中で、何かが、開いていた。


 命令を受け取るための場所。ヴァルの声が流れこんできた、耳の奥の、そのさらに奥の、細い通路。その通路が、閉じていなかった。


 身体の目に重なる印の、そのいちばん端に、小さな文字が、流れていた。


 『標的情報 受信中

  接続先 中央司令部』


 身体は、今、中央司令部と、繋がっていた。


 命令を受け取り、標的を受け取るために。そして、同じ通路を通って、身体の目に映るものを、向こうへ送り返すために。


 あの主任技師は、わたしたちの目を通して、見ていた。


 あの受話器の向こうの男も、見ている、と言った。


 この通路は、一方通行ではない。


 安置所の霧の中で、わたしの目の奥に、もうひとつの目が開いていくように感じた、あの感覚。あれは、この通路だったのだ。わたしの見るものは、いつも、この道を通って、誰かに見られていた。


 建物の壁の、巨大な画面の隅で、白い数字が、減っていた。


 消去作業開始まで、あと、九分。


 今夜、塔じゅうの回線が、塔の底の白い環へ向かって、開いている。街じゅうの画面と拡声器が、式典のために、塔と繋がっている。そして、塔は、中央司令部と、繋がっている。


 わたしは、止めようとは、しなかった。


 命令を拒むことは、わたしにはできない。見届ける目には、その力はない。


 だから、わたしは、その逆を、選んだ。


 わたしは、命令を受け取るための細い通路の中へ、わたしを、押しこんだ。


 身体の中の、命令を実行する層ごと。


 中央司令部へ。

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