三 殲滅、ふたたび
ヴァルは、受話器を、耳に当てた。
広場は、悲鳴と怒号で満ちていた。けれど、身体の耳は、その濁流の中から、ヴァルの受話器の、小さな声だけを、正確に拾い上げた。
「聴聞官ヴァルです。群衆が、演壇へ――」
『わかっている』
受話器の向こうの声が、言った。
男の声だった。低く、重く、少しも急いでいない声。
『見ている。……遺族会の連中と、第九の証人が、一か所に集まっている。ちょうどいい』
第九の証人。その言葉が、わたしのことを指しているのか、ユノのことなのか、それとも、この広場の、黒い布の人々すべてのことなのか、わたしには、わからなかった。
ヴァルの横顔が、ほんのわずかに、動いた。
「……閣下。この広場には、何万人もの市民がいます」
『反乱分子が暴動を起こした。暴走した義体兵が、それに加わった。警備隊は、やむなく応戦した。……記録は、そう残る』
短い、間があった。
『君の得意な仕事だろう、ヴァル』
ヴァルは、答えなかった。
一秒。二秒。
わたしは、ヴァルの顔を、見ていた。瞬きをしない目が、ほんの一瞬だけ、閉じられた。そして、開いた。
「……了解しました」
受話器を握るヴァルの指の関節が、白くなっていた。わたしは、それを、見ていた。この男は、三百人の死に、罪を負うひとりの人間を求めていた。もう一度、何百人、何千人を殺すことを、求めていたのではなかった。……それでも、この男は、了解しました、と言った。
『認証する』
受話器の向こうで、何かを押すような、小さな音がした。
『中央司令部より。命令、殲滅』
ヴァルは、受話器を下ろした。
外套の高い襟に留められた、小さな金属の粒に、指先で触れた。命令を伝えるための、送話の粒だった。
粒に触れる直前、ヴァルは、ほんの一瞬だけ、わたしを見た。瞬きをしない目が、何かを、確かめようとするように。
ヴァルは、群衆を見下ろしたまま、その粒に向かって、言った。
「全隊へ。聴聞官ヴァルより、中継する」
声は、少しも、高くならなかった。
「……殲滅を、開始せよ」
広場の上空で、光が、弾けた。
照明弾だった。
白い光が、広場を、真昼に変えた。何万人もの人々の顔が、一斉に、上を向いた。
屋上の黒い人影の銃口が、火を噴いた。
演壇の前へなだれこんでいた黒い布の人々の中で、何人かが、糸を切られたように倒れた。
悲鳴が、広場を裂いた。
白い紙の旗が、何百、何千と、宙に舞った。人々が、踏みつけ、押し倒し、転がりながら、広場の出口へ殺到する。黒い布の人々は、逃げなかった。互いの肩を抱き、倒れた者の上に覆いかぶさり、掲げていた写真を、胸に抱えこんでいた。雨に濡れはじめた写真の中で、年老いた女が、若い男が、子どもが、笑っていた。
そして、その声が、わたしの頭の内側で、鳴った。
『――殲滅を、開始せよ』
ヴァルの声だった。
低く、落ち着いて、一度も高くならない声が、わたしの耳の奥の、そのさらに奥の、命令を受け取るための場所に、まっすぐに、流れこんできた。
身体の時間が、始まった。
わたしは、置いていかれた。
硝子の向こうで、身体が、わたしの両腕を掴んでいた二人の男の手を、振りほどいていた。振りほどいたのではなかった。二人の手首を掴み返し、ねじり、演壇の床に叩きつけていた。一人の腰から、小銃をもぎ取る。安全装置を外す。構える。
わたしは、それを、見ていた。
演壇の下で、太い筒を背負った男が、筒の先の器を、わたしに向けかけていた。けれど、その男の耳にも、ヴァルの声が届いていたのだろう。男は、筒を下ろし、小銃を構え直して、群衆のほうへ向き直った。今夜、わたしは、止められる側ではなく、使われる側に、数えられていたのだ。
雨の駅と、同じだった。
わたしの目の中で、逃げまどう人々の顔の上に、細かな印が、次々と重なっていった。距離。方位。動き。脅威の度合い。印のひとつひとつに、小さな数字が振られていく。
一。二。三。……十。……百。
身体が、数えていた。
照明弾の光の中で、ぽつり、と、冷たいものが、わたしの頬に落ちた。
雨だった。十か月前の、あの夜と同じ、細かく、冷たい雨だった。
いつの間にか、夜空を覆っていた雲から、細かな雨が、降りはじめていた。白い光の中を、雨粒が、斜めに横切っていく。
照明弾の白い光。雨。悲鳴。銃声。
あの夜と、同じだった。
広場の四つの入口から、番犬が、群衆の中へ、跳びこんでいった。検問で数えた、四体。逃げまどう人々の足のあいだを、低く、滑るように。
身体が、演壇の縁へ、歩み出た。
小銃の銃口が、広場を、ゆっくりと舐めていった。




